私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ハイチは我々にとって何か?(3)

2010-03-03 08:42:48 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
 ローラン・デュボアの『ハイチ革命物語(Laurent Dubois : Avengers of the New World, 2004 )』によれば(原書298頁)、1804年1月1日ハイチ独立が宣言される前日、デサリーヌは、学のある黒人に起草を依頼していた独立宣言を手にしました。この黒人学者は、1776年のアメリカ独立宣言をお手本にしてハイチの独立宣言を書いたのでしたが、デサリーヌはその内容が手ぬるすぎると考え、パリで教育を受けた別の黒人に、もっと激烈な宣言に書き直させたのでした。
 アメリカ独立宣言の執筆者であるジェファソンは1801年第三代のアメリカ大統領になりましたが、1799年の末、フランスで政権を奪取したナポレオン・ボナパルトは、トゥサン・ルーヴェルチュールによって事実上掌握されたハイチ植民地を奪回すべく、大軍を送って、1802年、一旦、反乱は抑圧されたかに見えました。ナポレオンにしてみれば、ハイチを失うことは、フランスの海外収入の半分ほどを失うことを意味していたのです。しかし、ルーヴェルチュールの衣鉢を継いだデサリーヌがナポレオン軍を打ち負かし、財政難に追い込まれたフランスは、1803年、北米大陸に領有していたルイジアナ領地を1500万ドルという飛び切りの安値でジェファソンに売ってしまいました。いわゆる「ルイジアナ購入」です。ルイジアナ領地はメキシコ湾からカナダに到る広大な土地で、その購入によって、当時のアメリカの領土面積は一挙に2倍になりました。ハイチ共和国の誕生で、ジェファソンは棚からぼた餅の大儲けをしたわけですが、彼の対ハイチ政策は、あくまでアメリカの利益と安全のみを金科玉条とする冷酷なもので、トゥサン・ルーヴェルチュール風の奴隷反乱が北アメリカに伝染して、その奴隷制を揺るがすことを最もおそれ、ハイチ共和国の承認を拒否し、それをアメリカ、フランス、イギリスのコントロールの下に留めることを試みました。この基本政策はその後の200年間続いていて、2004年のアリスティド大統領の国外追放も、今回の大地震災害にあたっての軍事介入も、カナダがイギリスに取って代っただけで、アメリカ、フランス、カナダ三国の強引な政治的介入の継続に他なりません。この事は、1776年のアメリカ独立宣言なるものが、あくまで政治的文書であって、その思想的主張が、如何に偽善に満ちたものであるかを、容赦なく暴露しています。
 1804年独立したハイチ共和国は、フランス植民地時代から受け継いだ負の遺産としての内紛に苦しみ、1806年、デサリーヌは白黒混血者(ムラート)によって暗殺されます。フランスとアメリカによる貿易封鎖で、ハイチは財政的に追いつめられて行きました。コーヒー、砂糖、綿花などの輸出が出来ず、弱体化するハイチの弱みにつけこんで、1824年、フランスは艦隊をカリブ海に送って威嚇しながら、ハイチ独立革命によってフランス人大農園主たちが蒙った財産的損害を賠償する義務をハイチ共和国に押し付けます。賠償に同意すれば ハイチ共和国の独立を認めてやると言ったのです。ハイチは、何とルイジアナ領地のアメリカへの売値の2倍にあたる賠償金をフランスに支払う約束をしました。フランスとアメリカの民間銀行から借金をし、国家収入の大半を注ぎ込みながら、1947年に、やっとその支払いをすませました。こんな無茶苦茶な話があるでしょうか!植民地の宗主国こそ、元植民地で苦しんだ人々に賠償金を払う責務を負うべきです。話が全く逆ではありませんか。
 ジェファソン以来ハイチ共和国の承認を拒み続けたアメリカは、やっと1862年になって、リンカーン大統領の下で、承認に踏み切ります。しかし、これも単純な美談ではありません。同じ1862年、リンカーンはアフリカ西岸の国リベリアの独立も承認します。その頃、リンカーンはアメリカ国内の開放奴隷問題の解決方法として、彼等をアメリカ国外の何処かに送り出してしまうという棄民のアイディアに取り憑かれていました。ハイチもリベリアもその候補地でした。
 ハイチに対する、アメリカの公然たる内政干渉と支配は、1915年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって始められ、アメリカ海兵隊は1934年まで占領を続けます。アメリカは、それまで国外白人がハイチの土地を取得することを禁じていたハイチの憲法に代る新しい憲法を押しつけ、アメリカ人の実業家がハイチの土地を所有できるようにしました。この憲法を書いたのは、ウィルソン政権の海軍副長官であったフランクリン・ルーズベルトです。後年、彼は、“私自身がハイチの憲法を書いた。言わせてもらえば、それはなかなか良い小憲法だったよ”と自慢しています。嫌な話です。アメリカ史では、ルーズベルトは進歩的な精神を持った偉大な大統領、ウィルソンは熱心な平和主義者のインテリ大統領ということになっています。所詮、政治、あるいは、政治家というものは、こんなものかも知れません。
 勿論、ハイチの人たちはアメリカの暴虐に反抗しました。1917年に始まった、シャルルマーニュ・ペラルトという30歳の黒人青年の率いた農民達のゲリラ軍団の抵抗は有名です。しかし、1919年11月、アメリカ軍に通じる裏切り者があらわれて、ペラルトはアメリカ海兵隊に捕えられ、殺されてしまいます。彼の遺体は、木の板に磔にされ、見せしめのため、公衆の目に曝されました。写真が残っています。それを見ると、ペラルトの顔は、十字架上のキリストを思わずにはいられないような、美しい面立ちです。
 最近の研究(Patrick Bellegarde-Smith, Haiti, 2004)によると、1915年からの1934年までの米国によるハイチ占領の約20年間に、占領に反抗して殺されたハイチ人の数は1万5千から3万と見積もられています。1929年、海兵隊は石と手斧しか持たない民衆のデモ隊に銃撃を浴びせて、12人を殺し、23人に負傷を与えました。この暴挙は、さすがに国際的な批判を浴び、1934年の海兵隊の撤退という結果を招いたものと思われます。
 しかし、こうして、飛び飛びに歴史のエピソードを拾って進むのは、この200年間、切れ目なしに苦しみ続けて来たハイチの人々に対してフェアではない事を確認して置かねばなりません。ハイチの一般大衆を痛め続けて来たのは、フランスとアメリカだけではありません。スペイン、イギリス、ドイツのヨーロッパ諸国に加えて、諸外国に支えられたハイチ国内の富裕支配階級、その軍隊、カトリック教会もその責めを負わなければなりません。
 アメリカ人の大多数はハイチの悲劇的歴史について殆ど何も知らないようです。典型的な南米旅行案内書には、「ハイチは、人のあまり知らない珍しい経験を追い求める旅行者にとって、うってつけの国だ」といった紹介が見られます。その住民はヴードウー教というアフリカ起源の原始宗教を未だに信じ、民主主義政府など、自分の手では、とても設立できない駄目な黒人たちだと、アメリカ人は考えていますが、それは大変な偏見です。生まれた時から、体質に恵まれず、しかも、周りのあらゆる大人たちに痛めつけられながら、年を重ねる人を想像して下さい。ハイチのメタファーとして、決して的外れではありません。
 上に、ハイチの歴史のエピソードを飛び飛びに拾うのは、良くないし、礼儀を失すると言いながら、私の力の不足とスペースの都合から、『ハイチは我々にとって何か?(1)』で提出したクイズの一つ「2004年の政変で追放されたアリスティド大統領とは何者か?」に、次回は、話を飛ばすことにします。ご了承下さい。

藤永 茂 (2010年3月3日)



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