私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ハイチのコレラ禍(1)

2011-09-28 10:48:04 | ã‚¤ãƒ³ãƒãƒ¼ãƒˆ
 2010年10月18日、大震災後のハイチの困窮民医療事業のためにキューバから派遣されていた医師団がコレラ患者の大量発生に気が付きました。それから一年弱の間に、感染患者40万、死者は6千人を超えています。フランスのエクス-マルセーユ大学教授ルノー・ピアルー(Renaud Piarroux) によると、2011年9月の時点でも、月間1万人のコレラ患者が発生し、毎日死人が続出しています。ピアルー博士は、2010年11月コレラ発生のすぐ後、ハイチ政府の要請でハイチにやって来て現地人の伝染病専門医の協力のもとにコレラの発生と伝染状況についての調査を開始して、その発生源がMINUSTAH(United Nation Stabilization Mission in Haiti, 国連ハイチ安定化ミッション) に参加しているネパールからの要員たちであることを突き止めました。
  ハイチの現状を考えるためには、2004年春からハイチに駐留しているこのMINUSTAH という治安維持軍の性格を理解する必要があります。ハイチの一般大衆は国連ハイチ占領軍と呼んでいるようですが、まさに本質を衝いています。現在約1万1千人の武装要員と約2千人の非武装要員からなっています。以前このブログで説明したことがありますが、ごく大まかに言えば、1804年、世界最初の黒人共和国として独立したハイチは、この約100年間、実質的にはアメリカの武力的政治的支配下にあります。MINUSTAHの駐留はアメリカによる占領の現在の形態です。この黒人共和国は、普通の意味での社会的治安が元々悪い国ではありません。殺人犯罪の統計で言えば、現在でもアメリカ本国の方がハイチより5倍も多いのです。MINUSTAHの駐留(占領)はアメリカの言いなりになる傀儡政権を通してハイチの支配を維持するのがその役割です。この占領軍の睨みがなければ、2010年11月から2011年3月にかけて強行された完全なインチキ大統領選挙で、ハイチの一般大衆が圧倒的に支持する最大政党を除外するという暴挙は決して押し通すことは出来なかったでしょう。
  そのMINUSTAHがコレラをハイチに持ち込んだというので、「MINUSTAHは出て行け」と叫ぶ民衆のデモが頻発するようになったのは当然です。ところが、国連当局は言を左右にしてなかなか責任を取ろうとはしませんでした。その一つの理由はネパール政府の抵抗であったとされています。MINUSTAHは,勿論、UNからの出費で賄われています。その人員を提供した国は一人当たり月約一千米ドルの報償が得られ、MINUSTAH要員の30%以上を派遣担当しているネパールにとってその収入は失うことの出来ない金額であるようです。
  ピアルー博士のチームは早くからコレラの発生源が国連軍にあることがほぼ確実であると判断して国連自体による早急な調査と対応を要請していたのですが、コレラの世界的権威であるをハーバード大学医学部のJohn Mekalanos教授を含むと考えられる国連自体の調査の反応は遅く、発生から約10ヶ月後の2011年9月になってやっとMINUSTAHのネパール要員がハイチに持ち込んだことを認めたようです。ピアルー博士のチームの他にも二つの独立グループが発生から数週間で確信するに到った発生源の特定にハーバード系の最高権威者たちがこんなにも長く手間取った理由は追求に値しますが、すべてが政治と金に支配されている世界、特にアメリカでは理由解明は始めからほぼ絶望でしょう。
  日本版もあるScience Watch というウェブサイトで極めて興味深いインタビュー記事を読むことが出来ました。時は2011年2月、話題の中心はハイチのコレラ騒ぎ、John Mekalanos という学者がどんな人物であるかが読み取れます。長いインタビュー記事の最後の部分だけ下に引用。:

â–  The estimate is that there might be 200,000 doses of the vaccine in existence. So the idea of immunizing Haiti seems out of the question for now. But why was it out of the question before Haiti happened? Why wasn't it stockpiled? You'll never stockpile this vaccine without a few global health organizations saying it makes sense to do so. And the obvious organization, the one which stands right in the cross hairs, is the WHO. It takes courage to make that statement and stand by it.
By way of full disclosure, I have been involved in developing cholera vaccines so you might say I'm conflicted. However, others have made cholera vaccines too. The problem has not been as much making a safe and effective vaccine. It is getting agencies to say they are willing to use it as part of public policy. After that I'm sure we can figure out how to get that global stockpile made.
But without WHO saying we need it, we want it, if it gets made we will use it, then it will be pretty hard to get somebody to write the check to pay for the program's success. They're the experts the world looks to, yes?but they're making a lot of mistakes in my opinion in setting policies that are basically anti-vaccine when addressing the cholera threat. Let's clean up the water too, but pro-vaccination policy is not anti-water sanitation policy. They are compatible and should be both embraced.
「見積もりとしては、現在、20万人分ほどの(コレラの)ワクチンがあるのじゃないかな。だから(人口一千万の)ハイチをワクチン免疫するという考えは、今のところ、問題外です。しかし、それは一大震災の前になぜ問題にならなかったのか? なぜコレラワクチンが備蓄されなかったのか? このワクチンはいくつかの世界の保健機関が有意義だと言わないかぎり、決して備蓄されることはないでしょう。そして問題の焦点に位置するのは,誰が見たって、WHO(世界保健機関)です。ワクチン備蓄の必要ありと言明してその立場を貫くのは勇気を要します。
何も隠す気はないから言いますが、私はこれまでコレラワクチンの開発にたずさわって来ましたから、お前には公私利害の衝突があると言う人があるかもしれないが、コレラワクチンを作って来た人間は他にもいます。問題は、安全で良く効くワクチンを作るかどうかよりも、政府機関に、公共政策の一環としてワクチンを使用しようと言わせることにあるのです。そうなれば、グローバルな備蓄を達成する方法を考え出すことは必ずると出来ると、私は考えます。
しかし、WHO が、ワクチンは必要だし、ぜひ欲しいし、製造されたら使用すると言ってくれなければ,免疫プログラムの成功のために誰かに出費させることは極めてむつかしいでしょう。WHO の人々は世界中が頼りにしているエキスパートだが、コレラの脅威に立ち向かうのに、基本的に反ワクチンの政策を採用することで大変な誤りを犯しつつあると、私は考えます。もちろん、水もクリーンにすべきだが、ワクチン免疫政策をるのは、上下水道衛生政策に反対することではありません。二つの政策は両立するもので、両方とも採用すべきなのです。」■
これは何とはなしに胡散臭い語り口、英語で言えば, It smells とか Something’s fishy といったところでしょうか。Mekalanos 教授の説明するワクチン開発製造とWHO との関係を聞いていると、2010年から2011年にかけての新型インフルエンザと「タミフル」や「ワクチン」をめぐる大騒ぎを思い出しませんか?
  最後の所でワクチン免疫政策と上下水道衛生政策は互いに排除する関係にあるのではなく、両方とも採用すべしという意見は確かに正論です。しかし、物の判断は目の前の現実をよく見て下さなければなりません。Mekalanos教授自らが認めるように、今入手できそうなコレラワクチンの量は絶対的に不足しているのですから、免疫政策は、全く問題にならないとすれば、毎日コレラで数人が死亡している現実を前にしての唯一喫緊の対策は、コレラ菌による汚染をハイチ国民の、とりわけ、いまだに少なくとも二十万を数える震災難民のキャンプや貧困地域の生活水から出来るだけ排除することでなければなりません。ところが、この上下水道衛生政策には、実質的に植民地宗主国であるアメリカ(とその手先と化した国連と多くの大型NGOs)は全く熱心ではないのです。私はここでもアメリカというシステムの本質的な残忍さを再確認せざるを得ません。アメリカは国外にしろ、国内にしろ、名も無い人間たちの命を大切にする気など全くありません。ハイチについてこの事を激しく告発し続けている二人のハイチ女性がいます。そうした話はまた次回で致します。

藤永 茂 (2011年9月28日);



ショック・ドクトリン

2011-09-21 11:50:53 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
  1970年カナダ生まれの女性ジャーナリスト、評論家、実践運動家でもあるナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(幾島幸子・村上由見子 訳,上巻下巻、岩波書店、2011年9月)が出版されました。多数の人々に読んでもらいたい本です。原著は
Naomi Klein, THE SHOCK DOCTRINE : THE RISE OF DISASTER CAPITALISM (2007)
で、いま1200円ほどで買えます。
  訳書は、第10章「鎖に繋がれた民主主義の誕生─南アフリカの束縛された自由─」を読んだところですが、よく注意の行き届いた訳業のようで、原書を辞書片手に読むより随分と楽です。Disaster Capitarismの訳語を「災害資本主義」から「惨事便乗型資本主義」に変えたあたりにも読者の理解を容易にしようとする工夫が見られます。しかし disaster という言葉をいつも「惨事便乗」と訳すわけにも行きませんから、定着しかけていたと思われる「災害資本主義」という訳語のままでもよかったかも知れません。
  私も以前このブログの記事で第19章「一掃された海辺」の一部(原書)を利用させてもらったことがありますが、今回のリビア侵略戦争の顛末を思うにつけても、アフリカの国々を白人勢力が如何に狡猾に引き回しているかを理解する絶好の読み物として、上掲の第10章「鎖に繋がれた民主主義の誕生─南アフリカの束縛された自由─」をお薦めします。苦心して南アの独立を達成したマンデラ、ムベキ、ズマの第一,第二、第三代の大統領たちがこぞってNATO に支持されたリビア新政権をなかなか承認しようとしない理由が、この第10章を読めば、よく分かります。ナオミ・クラインほど筆鋒鋭く解剖するのではなくとも、サッカーの世界大会で南アに日本のジャーナリズムの目が集まった時、治安状況の悪さばかりが強調されて、ナオミ・クラインの本から得られるような「成る程そう言うことなのか」と納得できるような南アの政治経済状況の解説がなされなかったのは残念です。隣国ジンバブエのムガベ大統領の経済政策の大失敗で超天文学的インフレが発生して困窮層が南アに難民として雪崩れ込んでいることもしきりに報じられましたが、南アについてもジンバブエについても、本当に肝心な白人勢力干渉の問題は殆ど取り上げられませんでした。
  リビアには国内に盤居する白人勢力の問題はないような外観を示していますが、本質的には変わりません。国際金融勢力が既存の権益を温存あるいはその拡張を試みるか(南ア)、農地解放を実行した現地政権を痛めつけてその転覆を試みるか(ジンバブエ)、米欧の利権を損なう政策を放棄しようとしない現地政権を武力で破壊してショック・ドクトリンの適用を試みるか(リビア)、ここに作動している原理は同じです。米欧の中東/アフリカ政策の驚くべき一貫性といえば、私は、カダフィの失墜を、1967年にイスラエルとの戦争で惨敗してアラブ社会主義の夢破れ、1970年、心臓発作で急死したエジプトのナセル大統領になぞらえたい気持すらあります。ナセルを継いだサダト大統領は、クラインの新語を使えば、ディザスター・キャピタリズムの線に沿って国有産業の私有化、IMF の求める貿易自由化を進め、エジプトの産業経済構造のネオリベラル化を実行に移しました。その必然的結果がムバラクのエジプトであり、権力層の腐敗汚職であり、貧富の差の巨大化であり、そして、タヒール広場の大デモンストレーションだったのだと私は考えます。つまり、リビアは、不幸なことに、今から、サダトとムバラクの段階(phase)を経過して、その先でやっと本物の若者たちの反乱が到来するのだというのが、マスコミとは全然違う私のfantastic な予想です。リビアは本当に気の毒なことになりました。
  カダフィとナセルには、しかし、一つ大きな違いがあります。ナセルは汎アラブ主義でしたが、カダフィは汎アフリカ主義でした。この事実は、カダフィが抹殺された後も、しっかりとアフリカの全黒人国の記憶に残ることでしょう。黒人の記憶に残るといえば、NATO の暴力に頼ってリビアの政権奪取に成功した反カダフィ勢力がトリポリの東に位置する人口約2万の小都市Tawergha(タワルガ)で実行した民族浄化(ethnic cleasing)も消え去ることはありますまい。この町はもともと黒人住民が大部分を占め、そのためサハラ以南から低賃金労働者としてリビアに移住した黒人が集中した一拠点でもあり、汎アフリカ主義政策をとったカダフィのペット地区でもありました。大部分のアラブ人は褐色というか可成り皮膚の色の薄い人々が多く、黒人に対する人種差別蔑視が存在します。タワルガの住民が反カダフィ軍に果敢に抵抗したことも加わって、多数が殺され、追放されて、黒人の町は、事実上、消滅してしまったようです。アフリカでもアメリカ国内でも、黒人知識層の間で、これは明確な戦争犯罪でありハーグの国際法廷に提訴すべきだという声がしきりです。リビアの新政権によるこの民族浄化(ethnic cleansing)の犠牲者の数の方が、狂人独裁者カダイフィが殺したリビア国民の数を遥かにうわまっているのはほぼ確実です。
  リビア国民が今度の完全に人為的な災害のショックの中で足元が定まらない間(やれ民主憲法とか民主選挙とかの笑劇で)に、ショックを着想し実行した米欧の金融資本、多国籍企業たちは、ショック・ドクトリンにしたがって、リビアの新植民地化をやり遂げてしまうでしょう。
  ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』の訳書について、一つ、残念なことがあります。原書巻末の謝辞(ACKNOWLEDMENTS) が訳出されていないことです。これを省いた訳者と編集者の判断は十分推察できます。詳しすぎるし、長過ぎる。日本の一般読者に親しみのない名前が多すぎる─といった理由からでしょう。しかし、私見では、この数頁から著者ナオミ・クラインという女性の真性のイメージが見事に浮かび上がってきます。他人の紹介の到底及ぶところではありません。日本人読者にも親しい名前も沢山出て来ます。一つだけ選びましょう。
■ When I read and reread the work of Eduardo Galeano I feel as if everything has been said. (エドウアルド・ガレアーノの著作を読み返す度に、すでにすべてのことが言われてしまっているかのような想いがする。)■
ガレアーノの『ラテンアメリカの切り開かれた血脈』をチャベス大統領がオバマ大統領に歩み寄って手渡した事件を記憶している方々も多いでしょう。

藤永 茂 (2011年9月21日)



絶望と希望

2011-09-14 10:23:33 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
  希望の希は「こいねがう」という意味ですが、希望は稀望「まれなるのぞみ」とも読めます。過去五百年間、とりわけ、私の個人的記憶と殆ど重なるこの百年間の歴史を振り返ると、そこに希望を見出すことはとても困難になります。
  今、私は『トーマス・クーン解体新書』と題する本を書く努力をしていますが、クーンの『科学革命の構造』という本の中に、20世紀はじめのバルカン紛争がローカルな小政治革命の例として擧げてあるのに引っかかって、少し調べていたら、次のような文章に行き当たりました。いまさら、トロツキーが昔に書いたものなど読めるか!、などと言わないでとにかく目を通して下さい。
  この論考が書かれた直後に1914年6月のサラエボ事件が発端となって第一次世界戦争(1914-1918)が勃発します。死者総数は2千万以上と推定されます。その20年後には第2次世界大戦(1939-1945)、死者総数は6千万人を超えました。30年間に1億人、かくもお互いに殺戮しあう人間とは何という動物でしょうか!しかも、この二つの大戦は、否定の余地なく、フランツ・ファノンの言う「ヨーロッパの心」が生んだ惨劇であったのです。

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バルカン戦争と社会民主主義

トロツキー/訳 西島栄

【解説】トロツキーは、1912~13年のバルカン戦争時に、戦時特派員としてバルカン入りし、そこで多くの論文とルポルタージュを執筆し、ロシアの急進的民主主義者の新聞『キエフスカヤ・ムイスリ』に発表した。これらの諸論文・ルポルタージュはロシア革命後、分厚い1冊としてモスクワで出版される。トロツキーはバルカン戦争をつぶさに観察することを通じて、民族問題や戦争の問題、およびヨーロッパ戦争の可能性について深い知見を得ることができた。ここでの経験は、第1次世界大戦が勃発したときに、トロツキーが『戦争とインターナショナル』という著作として即座にこの帝国主義戦争に対する包括的な見解を披瀝し、社会主義者のオルタナティヴを提示することを可能にしたのみならず、10月革命後、トロツキーが軍事人民委員として軍事問題にたずさわる上でも大いに役立った。
 この論文はもともと、メンシェヴィキの機関紙『ルーチ』に「彼らの事業」「プロレタリアートの事業」という題名で別々に発表されたものである。しかし、内容的には一続きのものであるので、「バルカン戦争と社会民主主義」という表題でまとめておいた。
Л.Троцкий, Балканая войа и социализм, Сочинения, Том.6-Балканы Балканская война, Мос-Лен, 1926.
Translated by Trotsky Institute of Japan (解説終り)

彼らの事業
 現在よりも健全な状況のもとで生活することになるであろうわれわれの子孫は、資本主義的諸国民が自らの係争問題を解決するのにどのような手段を使ったかを歴史の本から学んだなら、ぞっとして両手を左右に広げることだろう。世界の最も文明化された部分であるヨーロッパはまったくの軍事キャンプと化した。各国政府はもっぱら、できるだけ多くの人々を、できるだけ残酷な絶滅兵器でもって武装させることに関心を寄せている。議会のブルジョア諸政党は、陸海軍の必需品を買う巨額の金を次から次へと政府に引き渡している。すべての国のブルジョア・マスコミは、不安の種をまき、国民意識を排外主義で毒している。
 バルカン半島で人間の血が流されるようになってすでに半年がたつ。バルカンのミニ王朝の頭には抑えがたい欲望がつのり、いずれもヨーロッパ・トルコからできるだけ多くの部分を奪おうと躍起になっている。アドリアノープルとスクタリ(1)のために、次々と何千人ものトルコ、ブルガリア、モンテネグロの農民、労働者、牧夫が死んでいっている。それと同時に、バルカン同盟諸国間の関係もとことん緊迫したものとなっている。そして、同盟諸国とトルコとの戦争の終わりが――戦利品の分け前をめぐって――ブルガリアとギリシャないしセルビアとの戦争の始まりになる、ということはけっして有りえない話ではないのである。
 バルカンの6番目の「列強」ルーマニアは、戦争には参加しなかったが、盗みやすそうなものを強奪する必要性を強く感じ、周知のように、ブルガリアに「不干渉」の見返りを請求した。そして、今のところ、両国がこの請求書に何でもってサインするのか誰も知らない――普通のインクでか、それとも再び血でもってか。
 しかし、バルカン戦争はバルカンの旧国境を破壊しただけでなく、バルカンのミニ「列強」の憎悪と羨望とをとことん焚きつけただけでもない――それに加えて、バルカン戦争は、ヨーロッパの資本主義諸国を均衡からたたき出した。
 ヨーロッパの6大列強は敵対する2つのグループに分かれる。一つは三国同盟(ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリア)、もう一つは三国協商(イギリス、フランス、ロシア)である。この2つのグループは、侵略者の昔からの規則にのっとってバルカン諸国に働きかけた。すなわち、「分割して統治せよ」! ドイツとオーストリア・ハンガリーは、トルコとルーマニアを「援助」した。すなわち、この地に軍事顧問を派遣し、自国の商品、とりわけ大砲と銃を高価格で売りさばいた。三国協商もまったく同じやり方でバルカンのブルガリア、セルビア、ギリシャを「援助」した。
 トルコの軍事的破産と、トルコを犠牲にしてのバルカン同盟諸国の強化とは、したがって、三国協商の水車小屋に、大量の血で染め上げられた水を送ったのである。
 「スラブ民族」の勝利で有頂天になったわがロシアの盲目的愛国主義者たちは、勝利したバルカンの「兄弟」国を助けて、にっくきオーストリア・ハンガリーと決着をつける絶好の機会がついに訪れたと考えている。フランスの排外主義者たちは、まったく同じ理由から、1870年の敗北――この時フランスは2つの地域、アルザス・ロレーヌを失った――の借りをドイツに返すべき時がきたと考えている。
 他方では、オーストリア・ハンガリーは、失いかけているバルカン市場に再び影響力を及ぼそうと闘争する中で、頭のてっぺんから足の先まで武装し、予備軍を動員し、武力で威嚇している。一言でいえば、ペテルブルクの政治家とそのセルビア追従者の脅しの前に一歩も引き下がるつもりはないことを示している。オーストリアの背後に強力な軍隊をもって立っているドイツも、生じた変化を自分なりに評価し、独自の結論を引き出した。軍備を強化せよ!
 ヨーロッパの均衡は、以前からはなはだ頼りないものであったが、今や完全に破壊された。ヨーロッパの運命の支配者たちは、今回、全ヨーロッパ戦争にまで事態をもっていく決心をするであろうか――このことを予言することは難しい。しかし、排外主義的な努力がもたらす一つの結果だけはすでに明白である。ヨーロッパ全土で軍国主義がすさまじい勢いで成長し、戦艦、大砲、銃、火薬を売買している商人たちの国際ギャング団が途方もないもうけを上げている。
 オーストリア・ハンガリーの戦時動員――現時点では一時中断されているが、けっして取り止められたわけではない――は、すでに数億ルーブルを使い果し、国の経済全体を混乱におとしいれ、労働者大衆を失業と飢えの脅威にさらした。ドイツは、自国の軍隊を強化するために、経済から5億ルーブルを吸い上げ、それに加えて、年に1億ルーブルづつ軍事予算を増大させるつもりでいる。
 フランスは、自国の軍隊を量的にドイツに匹敵させようと、2年の兵役義務を3年に延長することによって、後方への反動的飛躍を成し遂げようとし、同時に、軍事予算を増大させている。最後に、ロシアは、軍事定員(毎年の兵士の徴集数)を著しく拡大し、陸海軍への支出を前年と比べて1億4400万ルーブルも増大させた。1913年度のわが国の軍事予算は――口にするのも恐ろしいが――8億6600万ルーブルであり、これは教育予算の6倍にものぼる。
 これが、各国の資本主義政府、ブルジョア政党、職業的外交官がやった事業の結果である。すなわち、すでに手に負えなくなっている軍国主義の重荷の増大、文化的発展の停滞、排外主義の苛烈さの増大、そしてそれらすべての帰結としての、近い将来にヨーロッパ諸国民が流血の大乱闘を繰り広げる絶え間ない危険性!

http://www.marxists.org/nihon/trotsky/1910-1/bk-war.htm から取った。

プロレタリアートの事業
 バルカン半島における流血のカオスと全般的な貧困化、ヨーロッパ中にのさばる帝国主義、軍備の熱病的成長、頭上に絶えずぶらさがっている国際戦争の危険性――これが、現時点におけるいわゆる文明的人間の社会的・政治的状況である。そして、自己の魂を排外主義の悪魔に売り渡さなかったすべての思考する人々は、次のように自問しなければならない。このような恥ずべき結果のために人類は何世紀にもわたって努力し戦ってきたのか、われわれの技術の主要な任務はますます改良されていく殺人機械をつくることなのか、人類には、相互の絶滅と損傷と破壊という方法以外に、地上の問題を解決するすべはないのか、と。
 そして、以上のような流血の狂気を前にして、それらと並んで理性と人間性の偉大な事業が行なわれていないとしたら、たしかに絶望に陥るのも無理はない。だが、そのような事業は行なわれている。それは、国際社会民主主義の事業である。司令官たちが傷病兵たちで戦場を埋め、外交官たちが新しい陰謀をでっちあげ、取引所の札つきの愛国者たちが大砲と戦艦を売買し、大蔵大臣たちが陸海軍のために10億もの金を国民経済から吸い上げ、ブルジョア政党とその新聞ができるだけ民族的憎悪の麻薬をまき散らしているその一方で、社会主義の理念はすべての国の勤労大衆を連帯と国際的友愛の精神で教育することによって、彼らの心をとらえつつある。戦艦の数は増大し、ダイナマイトの軍事備蓄は増大しているが、それと同時に、自覚したプロレタリアートの勢力も増大している。彼らは世界中で、平和と諸国民の友愛のために、帝国主義の全欲望、外交的策略と陰謀、国際的冒険、破滅的な軍国主義に対して、たゆまず容赦なく闘争している。
 すべてのブルジョア政党がバルカンにおいて好戦的な激情のとりこになっていたバルカン戦争前夜、バルカンの若き社会民主党は勇敢にも警告と抵抗の声を上げた。セルビアのスクプーシチナ(国会)において、きたる戦争のための公債に対する点呼投票が行なわれた時のことである。次々と愛国的な「賛成」が発せられる中、一つの力強い「反対」の声が鳴り響いた。これが、セルビア・プロレタリアートの指導者、わが友ラプチェヴィッチ(2)の声である。ブルガリア国民議会においては、ブルジョア愛国者の結束した隊列に抗して、わが友サカゾフは、鉄と血の政策に反対する社会主義的抗議の大胆不敵な声を発した。そして、バルカンにおける大砲の死の銃口を通じてではなく、ラプチェヴィッチとサカゾフの口を通じて、バルカン諸国民の最良の未来が語られたのである。
 ドイツとフランスの社会主義プロレタリアートの代表者たちは、憂欝な軍国主義の狂気に反対する共同宣言を発した。国境はわれわれを分断しはしないと彼らは宣言している。フランスの労働者は現在、労働組合、大衆的政治集会、労働者新聞、議会の演壇といった諸力を結集して、軍事費の増大と、2年の兵役義務を3年にしようとする政府の企みとに対し、断固たる闘争を遂行している。ドイツ社会民主党は、現在、その主要な力を軍備拡大に反対する闘争に集中している。ドイツでは86種の社会民主党日刊紙が発行され、数百万を数える読者がおり、日々、排外主義的バーバリズムの攻撃に反対して、文化と平和の事業を擁護している。オーストリアの社会民主党は、バルカン半島の運命に介入しようとする政府の企図の一歩一歩を暴露し、オーストリア・ハンガリー帝国主義の反人民的性格をあばきだし、人民にとって破滅的で流血の結末をはらんだ戦時動員をやめるよう要求している。
 大砲の轟音や愛国主義者のうなり声ではなく、まさにこの国際プロレタリアートの啓蒙的事業にこそ、暗黒と野蛮の時代から自由な発展の道へ脱出しようとこれまで続けられてきた人類の努力の、最良の成果がある。
 帝国主義に反対する闘争において、ロシアの自覚せるプロレタリアートは自らを労働者国際主義の不可分の一部であると感じている。平和と友愛の事業こそ彼らにとってかけがえのない事業である。ロシア社会民主党の国会議員団は、疑いもなく、この事業を擁護する声を発するだろう。そして、この声は、労働者の間に熱狂的な反響を見出すことであろう。

『ルーチ』第61、62号 1913年3月14日、15日
ロシア語版『トロツキー著作集』第6巻『バルカンとバルカン戦争』所収『トロツキー研究』第12号より
 
訳注
(1)スクタリ……トルコ北西部、コンスタンチノープル東部の地区で、ボスポラス海峡を挟んで、コンスタンチノープルに対している。
(2)ラプチェヴィッチ……セルビア社会民主党の指導者で、第1次世界大戦のときも戦時公債に反対投票した。しかし、ロシア革命後、コミンテルンには属さず、第2半インターナショナルに入った。

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  上の引用文の中ほどに、我々には絶望を退ける理由があると書いてあります。:
■ そして、以上のような流血の狂気を前にして、それらと並んで理性と人間性の偉大な事業が行なわれていないとしたら、たしかに絶望に陥るのも無理はない。だが、そのような事業は行なわれている。それは、国際社会民主主義の事業である。■
残念ながら、歴史はトロツキーが希望をかけた国際社会民主主義の営為が全く空しかったことを告げています。しかも、トロツキーが百年前の語彙で語っている世界の状況は、現在の世界情勢に不気味なほどに重なっているのに、国際的な労働者の連帯などは影も形もありません。フランスの二つの社会主義的(と考えられている)政党は揃ってサルコジ大統領の対リビア政策を褒めたたえ、アメリカ共産党は早々と来年の大統領選挙でのオバマ支持を表明しています。今の我々には絶望以外の選択肢は残っていないように思われます。
  しかし、歴史がフクヤマが言うように終ったとはどうしても見えません。マルクスの名もレーニンもトロツキーも知らない南アメリカやアフリカの若者たちが人間の世界を救ってくれる可能性が、希望が、まだ残っているのだと是非信じたいものです。去る9月2日、ボリビア大統領エボ・モラレスは、祖国キューバから遠く離れたボリビアの地にやってきて眼科手術を貧しい人たちに無償で施して、50万人の視力(おそらく大部分は白内障)を回復してくれた若い医師たちに感謝の意を表しました。ボリビア国民だけではなく、アルゼンチン、ブラジル、ペルー、パラグアイなどの近隣の国からもその手術を求めてやって来る人々が絶えず、恩恵を受けた人々の総数は60万人に及んでいるそうです。こうした医療団の外国派遣を、キューバの社会主義的独裁者カストロ兄弟の巧みな外交政策に過ぎないと評する人は沢山います。その通りでしょう。しかし、これはNATO空軍による空襲より無限にベターな外交攻勢です。モラレス大統領は異国で奉仕医療に励むキューバの若い医師たちの無私の行為に最大の賛辞を捧げています。

藤永 茂 (2011年9月14日)



気楽に英文記事を読む習慣

2011-09-07 11:09:19 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 
  前回の終りに掲げた英文記事の翻訳紹介を怠りましたら、桜井元さんが、前回のブログへのコメントの形で、その内容をまことに的確適切にまとめて紹介して下さいました。桜井さんはその中で「英和辞書を引きながら、わからない単語や表現は読み飛ばしつつ、なんとか大意はつかめたと思います」と申しておられますが、これは謙遜のお言葉でしょう。しかし、ここには私たちが英文記事を気楽に読むためのコツが述べられています。あとは慣れの問題です。とにかく、うるさがらず、好奇心を持って、ネット上に溢れる英文記事に目を通してみる習慣を身につけようではありませんか。すこし努力しながら続けているうちに、頭の中の英語の語彙は殆ど増大していないのに、いつの間にか、英文記事の内容が以前より随分と楽に読み取れるようになります。言葉というものに備わっている不思議さです。
  そうなると、何でもない場所で、「この情報は多分ありのままに近いのだろうな」という感じのする情報源に行き当たることがあります。犬も歩けば棒に当たるというやつです。リビアのトリポリの風景がNATO空爆以前にどんな具合だったかを教えてくれる記事にひょいと出会いましたので、紹介します。気楽に読んで下さい。クリスチャン・サイエンス・モニター(The Christian Science Monitor)はアメリカのオンライン新聞で、その2010年7月12日号の”Libya’s Path From Desert to Modern Country-Complete With Ice Rink” by Sarah A. Topol: という記事の一部です。ice rink は屋内スケート場、sanction は制裁、alleviate は苦痛などを和らげること、sleek はカッコいい、the place to be は居るべき場所、なかなか良い所、という意味でしょう。
■ "There's now on the economic side a pretty unstoppable momentum…. It’s the place to be,” says Dalton, now an analyst at Chatham House in London.
Libya’s nominal gross domestic product (GDP) rose from 16.7 billion dinars ($12.8 billion) in 1999 to 114 billion in 2008, according to the International Monetary Fund (IMF). The year after the US lifted sanctions, the country’s economy surged 10.3 percent in 2005. Foreign direct investment increased more than 50 percent from $1.5 billion in 2000 to $2.3 billion in 2007, according to the World Bank.
In Tripoli, the capital, cement skeletons along the city’s airport road will soon be sleek luxury high-rises as Libya tackles a 500,000 unit housing shortage. Known as the Bab Tripoli complex, the government-funded plush Turkish development is valued at some $1.3 billion and is set to be completed in November 2011. It boasts 115 buildings with 2,018 apartments as well as office spaces, and a giant mall complete with a 22-lane bowling alley, a movie theater, a five-star hotel. The changes aren’t just limited to Tripoli. In Benghazi, Libya’s second-largest city, two government-funded housing projects consisting of 20,000 units, costing approximately $4.8 billion, are half way to completion. To combat income disparity and alleviate the growing pains of privatization, the Libyan government has set up social fund to provide 222,000 families approximately $377 dollars per month from investment funds financed by oil profits. ■
2010年7月といえば、ベンガジで反政府勢力が突然旗揚げをした2011年4月の僅か半年ほど前のこと、私が判断する限り、この記事はその時点でのトリポリやベンガジの様子を伝えるごく日常的なinnocentな新聞記事です。残忍悪逆な独裁者にしては、結構、一般庶民のための出費を惜しまない国内政治をしていたように見えます。
  2011年5月25日付けのブログ『Win-Winの賭け事?』で、私が表現したかったことは、リビアやハイチやコンゴの近未来についての私の暗い予想は、実は、当ってほしくないという私の気持でした。今、私は、リビアに関する多数の英文記事をインターネットのあらゆるソースから取ってきて、せっせとストアしています。この頃のコンピューター・メモリーの信じ難い(特に私のような初期の磁気コア記憶装置の時代を知る者にとって)巨大さをつくづく有難く思っているところです。いくらでも貯められるからです。何故こんなにも貯め込むのか? 現在圧倒的多数の人々が「リビアでは事がうまくいった。人道主義と民主主義が勝利した」と言祝いでいます。それも、イラクやアフガニスタンの侵略戦争に反対する多くの論客が「The Libya Model(リビア方式)」は成功だったと評価しているのには、全く驚かされます。しかし、今こうして彼らの発言とマスメディアの報道を蒐集保存しておけば、 3年も経たない内に、彼らが正しかったか、それとも、私の悲観的見方が正しかったか、がはっきり分かると思うからです。
  「それが分かって何になる」という声が聞こえてくるような気がします。その通りです。あと3年、生きているかどうかも全くあやしい私にとっては、尚更のことと言えましょう。けれども、やはり、私は真実を知りたい。生半可な絶望の中に没するよりも、絶望を確認してから死ぬほうが、日本人らしい選択だとは言えませんか?

藤永 茂 (2011年9月7日)