私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

人種差別(racism)(3)

2020-10-14 21:47:29 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 

 米国にロン・ウンツ(RON UNZ)という異色の実業家(1961年生まれ)がいます。この人と私の共通点は、大学の学部と大学院で勉強したのが物理学であったことです。私はウンツさんのウェブサイトThe Unz Review を毎日のように覗いています。見出しの全体は

The Unz Review: An Alternative Media Selection

A Collection of Interesting, Important, and Controversial Perspectives Largely Excluded from the American Mainstream Media

となっています。イスラエルを大胆に批判する記事を掲載することもあります。ポール・クレイグ・ロバートやノーマン・フィンケルシュタインが書いた記事も出ました。この10月5日付で、ロン・ウンツその人の筆になる

White Racialism in America, Then and Now

と題する24,900語の極めて長い記事が掲載され、今までに(10月14日)850に及ぶコメントが寄せられています。言葉として racialism とracism とは違うのか、同じなのか? 重くて不便なので今では殆ど誰も使わない『ランダムハウス英和大辞典』を開いてみると、簡単にracialism = racism とありますが、そうとも言い切れず、racialism という言葉は、人種差別についての科学的理論の形をとったあれこれの論議一般を指しているようです。

https://www.unz.com/runz/white-racialism-in-america-then-and-now/

このロン・ウンツの長い論考は、現在の米国の人種問題をめぐる論争に関連して、極めて刺激的な総合的書評社会批評として読めます。

 今から40年ほど前の昔に、私は、米国の高名な進化生物学者Stephen Jay Gouldの『The Mismeasure of Man』 (1981) という本のことを、拙著『老いぼれ犬と新しい芸』(岩波現代選書、1984年)の第11章「人間を測りそこねる」で、取り上げました。このグールドの本は人種差別の是非の論議として大きな話題になり、ロン・ウンツの論考の本文には含まれていないものの、コメント欄には顔を出しています。

 アングロサクソン系白人勢力は北米大陸先住民排除虐殺と黒人奴隷酷使という二本立ての犯罪的基本手段で米帝国を樹立しましたが、その原罪的意識のマグマは、自らの人種的優越性を“数値的”に実証しようとする学者たちを何人も生み出しました。頭蓋骨のサイズやIQ(いわゆる知能指数)に基づいて展開された差別論が“数値的”に全く信用出来ないことをグールドの本は示したのです。この本の趣旨に私は賛同しますが、しかし、私が強調したいのは、人種について明らかな“数値的”区別が確認確立されても、それを根拠に人種差別を正当化するのは宜しくないということです。上掲の拙著から少し引用します:

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 20年ほど前のことになる。私はアメリカ東部への旅行の途次にカリフォルニアのサンホゼの旧友のイタリア人C氏の家に一泊した。あいにく急用が持ち上がってC氏は外出しなければならなくなり、「先に寝ていてくれ。話は翌朝」ということになった。広い家の中で、若い奥さんと私の二人きりになってしまった。奥さんは東洋人の私を前にして、努めて話題を探している様子だったが、白人と東洋人では体格に差異があるようだが、これは食物その他の環境的条件の差異によるものだ、といいだした。やはり、もともと差異があると思う、と私がこたえると、彼女は次のような話を始めた。現在のアメリカの十種競技のチャンピオンはUCLAの中国人学生である。十種競技こそ人間の肉体的総合能力を最も適切に測る競技だから、アメリカで育ったこの中国人がその第一人者であるという事実は、黄色人種でも白色人種に追いつき凌駕できるということの何よりの証拠だ。したがって人種偏見というものは全くまちがっている・・・・。彼女が、熱をこめて人種差別反対を強調すればするほど、私の気持ちは沈みっぱなしになるのをどうすることもできなかった。もし、どうしても差があるということになれば、現在の人間の社会にみちみちている残酷な差別は許されることになるのか。「サルにも、チンパンジーとかゴリラとかオランウータンとか手長ザルとか、いろいろいます。どう育ててみたってチンパンジーはチンパンジー、ゴリラはゴリラ。人間にも、いろいろ毛色の違ったのがいたっていいじゃありませんか」。私はそう言ってソファから身をおこし風呂を使わせてもらうことにした。

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 私が住んでいる老人ホームには「健康マージャン」という催しがあります(今はコロナでお休み)。頭と指先の迅速な運動が要求されるので老人の健康に良いという事のようです。私は参加したことがありません。若い頃、「お前が入ると反応が鈍いからダメ」と言われて、マージャン仲間に入れてもらえなかった覚えがあるからです。上でお話ししたサンホゼのC氏のお宅で、時折、IBM研究所の連中が集まって「ブリッジ」というトランプゲームを楽しむことがありましたが、ここでも、「お前が入るとゲームの間が伸びて面白くない」と言われて、仲間外れにされるのが普通でした。頭の回転も指先の動きも鈍い私ですが、読んだり、考えたり、書いたりするのに、速くなければ駄目だということもないので、これまで何とか人生をこなして参りました。

 人間の知的あるいは身体的能力は全く千差万別です。「月とスッポン」の違いはザラにあります。赤ん坊と老人を考えるだけでもよく分かることです。歳を取って緑内障が進み、耳の聞こえも日々に覚束なくなってくると、視覚障害、聴覚障害の人々のことを思うことしきりです。赤ん坊は私たちの未来を託す存在ですから、人間の社会集団の中で大事にされるのは自然なことでしょうが、自分が老人になって、老人の中で毎日暮らしていると、老人が低能力人間であり、社会にとっての負担であるという否定の余地のない事実が心に重くのしかかってきます。

 しかし、ここに、もう一つ、私の長い一生の経験からの結論として、これまた否定の余地のない事実があります。この世の大抵の人間社会では、個々の構成員の人間としての能力に多大の差異があっても、何とか折り合って生活していて、個々の人間の人間的関係に於いては能力的、人種的差別が強い支配力を持つことはないという事実です。いささか飛躍的な言葉遣いを許していただけるならば、これは人と人との間の愛の存在という事実です。

 1960年の春、私は、シカゴ大学の少し北のアパートに、妻と4歳と2歳の息子を連れて入居しました。あたりは古い建物が並ぶ地域で、以前は白人の住宅地だったのですが、建物の老朽化が進んで、白人達が郊外などの新しい住宅地区に移住した後に黒人や他の有色人種が流入する現象が起こっていました。当時は、よくある事でした。今では、その逆流現象が起こっています。いわゆる“ゼントリフィケーション、gentrification”、嫌な言葉です。

 私たちが入ったアパートの裏庭は割合に広く、子供達のよい遊び場になっていて、遊んでいる子供たちの様子はアパートの部屋からよく見下ろせるようになっていました。英語の分からない4歳と2歳の息子たちがうまく遊びの仲間に入れて貰えるかどうか心配しましたが、子供の世界はどこでも同じ、その上、やや年上と見える黒人の少年が、結構、私の息子たちに気を配ってくれているのが、上からでもはっきりと見て取れたので、妻と私はすっかり安心して、息子たちを裏庭で遊ばせていました。ところが、ある日の夕方、私が大学から帰宅してドアを開けると、一枚の紙切れがドアの下に差し込んであり、それには、鉛筆書きで「CHINESE STINK」と書いてありました。妻には見せましたが、息子たちには何も言わず、裏庭で子供たちが遊ぶ様子を注意して観察することにしました。嬉しいことに、子供たちの遊びの様子には何の変化も見つけることが出来ませんでした。大学の研究室の同僚にこの話をしたら、「黒人たちは自分たちより下の人間たちが欲しいのだろう」という意見が返ってきました。「書いたのは多分大人だろう」という意見もありました。

 この事件の記憶は今も鮮やかに蘇ります。人間と人間の、自然で本物の人間らしい触れ合いは、racism を易々として超越する――これが私の信念です。この信念を強く支持する人生体験を、裏庭の黒人の坊や達の記憶の他にも、私は幸運にも幾つか持つことが出来ました。いつの日か、そのお話を致しましょう。

藤永茂(2020年10月14日)