私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ポットラッチ

2021-06-16 14:58:05 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 

 ポットラッチという言葉をご存知ですか? この言葉(Potlatch)は北米大陸の太平洋沿岸の先住民の一部族チヌーク(Chinook)の「与える(to give)」ことを意味する言葉から出ています。良い説明がカナダ百科事典などにありますから、後ほど紹介することにして、まずは私の心の中にあるポットラッチの祝祭的な愉快なイメージをお話しします。

 ポットラッチは昔北米大陸の太平洋岸の北から南にわたる広大な地域に住んでいた先住民たちの多数の異なる部族がその間で血を血で洗う様なひどい争いもなく生活をしていた時代によく見られた社会習慣としての儀式であり、彼らが人間集団として育んできた精神文化の一つの現れであったと言えます。

 一人一人の人間は、富や権力を獲得する能力においてどうしても差が出来ますから個人(あるいはその一族)に権力や富が集積する事が社会的に起こります。有力者(一族)の出現です。有力者たちへの権力と冨の集中が野放しに進めば碌なことにはならない事を、おそらく過去の長い経験から先住民たちは学んだのでしょう。有力者(一族)たちは、それぞれの内輪の出産、結婚、相続、葬式、などの機会に、広く人々を招いて大盤振舞いの大パーティーを開いて、その富がどれほど大きいか、それをパーティーにやってきた人々に如何に気前よく与えるかを、競い合ったのでした。大盤振舞いのプレゼントとしては、衣類、毛布、食料品、家具、カヌー、鉄砲、などなど。「偉ぶっているくせに、案外しみったれてやがるな」などと言われたくないばかりに、せっかく積み上げた身代をすっかり潰してしまう有力者もあった様です。ポットラッチでは先住民伝統の自然崇拝的宗教の儀式も行われましたが、一方、1960年台のアメリカでのヒッピーたちの自由集会にも似た乱交パーティー的な要素も含まれることがあったとされています。賑やかなお祭り騒ぎでした。

 ポットラッチの本質は、誠に痛快な(と言っては礼を失する事になりますが)富の再分配の方法であったのです。これぞ、人間社会の持つべき智恵と申せましょう。もし現代の世界の大富豪たちが、虚栄的に気前の良さを競って、それぞれにポットラッチ大パーティをやってくれたら、コロナ禍による不景気など立ち所に霧散解消するでしょうし、もし、今もなお世界金融界に君臨する「モルガン家」が、第一次世界大戦後に、敗戦国ドイツから過酷に金を巻き上げる代わりに大ポットラッチ・パーティを開催してくれていたら、ヒトラーの台頭を阻止し、世界の数千万の人たちが無残な死傷を免れたことでしょう。

 現実に、北米の先住民たちのポットラッチの儀式はどうなったか? 米国の太平洋沿岸の先住民たちは事実上皆殺しにされて居なくなりました。カナダでは西部海岸に到着したアングロサクソン系白人の入植者、キリスト教宣教師、政府役人たちは、未開人間集団と見做した先住民たちの社会習慣であるポットラッチの行事を、先住民の未開後進性の象徴と考え、先住民の同化政策のトップ項目の一つとして、その開催禁止を1885年1月1日付けで法制化ました。禁止規制が解かれたのは1951年です。

 今年(2021年)の5月末、カナダ西岸のブリティッシュコロンビア州の内陸の都市カムループスにあった先住民寄宿学校の跡地で215体の先住民児童の遺骨が発見されました。その中には3歳の幼児の遺骨も含まれていましたが埋葬の詳細はまだ分かっていません。カナダの先住民寄宿学校制度(Canadian Indian residential school system)は先住民を同化するカナダ政府の政策の下で、カナダ全域にわたり、キリスト教教会によって実際の運営管理が行われていました。その数は総数130に及んでいます。1831年から1996年まで運営は続きました。先住民文化の影響受ける前の頭脳的に未発達の4歳から5歳の幼児たちが、親兄弟から強制的に引き離されてされて各地の寄宿学校に収容されて洗脳教育を受けたのです。寄宿舎での生活環境は劣悪で、精神的、身体的苦悩から多数の子供たちが死にました。その正確な数は確立されていませんが、1割以上に達していた可能性が十分あります。管理の責任を担っていたキリスト教教会のメンバーによる未成年者の性的虐待の事実も確かめられていますし、近頃の出版物ではゼノサイドという言葉が普通に使われるようにさえなっています。

 北米先住民の智恵が生んだポットラッチという人間味あふれる祝祭の消滅の歴史を想うにつれ、西欧の人々の自己の思考形態、文化伝統、文明に対する過剰な優越観念がどのようにして育まれてきたかを突き止めたい気持ちにますます駆られます。これこそHUBRISという彼らが昔から知る言葉に値します。過去500年の人類の歴史を省みるに、これこそがルシファーからサタンへの墜落でしょう。

 さて参考文献ですが、一般向けの無難な説明はカナダ百科事典で見る事ができます:

https://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/potlatch

https://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/potlatch-to-give-feature

Wikipedia にも詳しい解説があります:

https://en.wikipedia.org/wiki/Potlatch

今回ニュースになった先住民児童たちの遺骨の発見については多数の報道記事がありますが、ここでは2つだけ挙げておきます:

https://www.presstv.com/Detail/2021/06/03/658138/Canada-indigenous-children-residential-schools-graves-survivors

https://libya360.wordpress.com/2021/06/11/215children-indigenous-peoples-grieve-after-mass-grave-found-at-residential-school/

 

藤永茂(2021年6月16日)


東洋の平和を守る

2021-06-03 23:14:17 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 

 前回のブログ記事に対して頂いた二つのコメントに答えようとしている内に、その一つの「睡る葦」さんからのコメントの原文をうっかり削除してしまいました。全く私の耄碌の致すところですが、このついでに報告したいことがあります。半年ほど前から、この私のブログに毎日20から30ほどの嫌がらせのコメントが送られてきます。自動的なプログラムが作動しているに違いありませんが、私の方はスパムと認知するメーセージをつけて一つ一つ削除する手作業を続けています。日課です。自動的なプログラムの仕業にこうして対抗するのは馬鹿げたことですが、私の方が手仕事で立ち向かっていたら、結局どういう事になるかに些かの興味があって、根気よくこの日課を続けています。 それにしても嫌な話です。私のブログの様な少数の読者にしか読まれていない、取るに足らない発言に対して、これだけ執拗な邪魔攻撃を仕掛けてくる権力システムの存在に私は心の底からの嫌悪感を抱きます。

 前回で紹介した『歳月』の他に岩波文庫版の『茨木のり子詩集』も手元に持っています。選者は谷川俊太郎です。その中に朝鮮や中国の人々に対する親愛、敬愛の情を綴った詩が幾つかあります。その一つである「七夕」の前半を引用させてもらいます;

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夜更けて

遠い櫟林のもとに

小さな灯りのまたたくのは

安達が原の栖のように魅力的だ

武蔵野の名の残る草ぼうぼうの道

このあたりではまだ沢山の星に会うことができる

天の川はさざなみをたて

岸辺ではヴェガとアルタイ

今宵もなにやら深く息をひそめている

 

「アンタラ! ワシノ跡 ツケテキタノ?」

不意に草むらからぬっと出て赤金いろの裸身がすごむ

焼酎の匂いをぷんぷんさせながら

わたしはキッと身がまえる

キッと身がまえてしまうのはとても悪い癖なのだ

 

「今夜は七夕でしょう

だから星を眺めにきたんですよ」

夫の声がばかにのんびりと闇に流れ

「タナバタ?

 たなばた・・・・・アアソウナノ

 ワシハマタ・・・・ワシノ跡ツケテキタカ思ッテ・・・・

 トモ・・・・失礼シマシタ」 

・・・・・・・・

 

――――――――――

この先の一軒家に朝鮮人家族がすんでいたのです。詩人は、遠い昔、中国と朝鮮半島から如何に多くのものを日本の国は受け取ってきたかに想いを馳せ、

「たなばたの一言で急におとなしく背を見せて/帰って行ったステテコ氏/わたしの心はわけのわからぬ悲しみでいっぱいだ」

と詩を続けます。

 次の詩「りゅうりぇんれんの物語」は中国に侵攻していた日本軍にさらわれた一人の中国人男性が門司に連れて来られて強制労働に服し、14年後に故郷に帰ったという実話に基づいた38頁に及ぶ長編詩です。もう一つの別の詩「あのひとの棲む国」は、親しくなった韓国人の女性への語りかけで、次の様に始まります:

――――――――――

雪崩のような報道も ありきたりの統計も

鵜呑みにしない

じぶんなりの調整が可能である

地球のあちらこちらでこういうことは起こっているだろう

それぞれの硬直した政府なんか置き去りにして

一人と一人のつきあいが

小さなつむじ風となって

・・・・・・・・

――――――――――

 こうした茨木のり子の詩を読みながら、私はカナダで出来た韓国人とスペイン人の友人のことをしきりに思い出していました。チョイさんという韓国人夫妻については以前書いたことがありますので、今日はセラフィン・フラガというスペイン人男性のことをお話ししましょう。

 フラガとは、1959年から1961年にかけて、シカゴ大学物理教室のマリケン教授の研究グループに私が属していた時、友人になりました。量子化学の大きな研究グループで、米国人、オランダ人、ポーランド人、イタリア人、スペイン人、インド人、日本人(わたしを含めて4人)からなる総勢30人近くの賑やかさでした。初めて米国での生活を始めた私は、知り合って間もない他人がお互いにファーストネームで呼び合う習慣に戸惑いました。研究室の学生が教授にファーストネームで呼びかけるし、私の妻も呼び捨てにします。驚きました。セラフィン・フラガも新緑かおる5月生まれの私の名「茂」の意味を聞いた後、私を「シゲル」と呼ぶようになりましたが、自分の方は「フラガ」と呼べというのです。「セラフィン」は天使の名前なのでそう呼ばれたくないというのが理由でした。彼はもともと日本文化に興味を持ち、色々の事を知っていましたが、お互いに気ごころが通じるようになってからは、「日本人は何もかも中国と朝鮮から貰った」と私をからかうことがよくありました。中国出身の天才棋士「呉清源」のことも知っていて「今でも日本人は頭が上がらない」と言ったりしました。また、映画俳優の仲代達矢の大ファンになって「あんないい顔立ちの男は日本人には居ない。外国人だろう」などと言ったこともありました。ほかの人が言えば人種偏見とも思える発言でも私には「ほんとだなあ」と思えるだけで何の不快感も覚えませんでした。ではフラガは人種差別に無感覚だったのか? そんなことはありません。1968年に私がカナダに移住したのは、研究上の利点(大型コンピューターの使用)について、アルバータ大学の教授になったフラガがしきりに私を誘い、招聘の手筈を整えてくれたのが理由の一つでしたが、カナダ社会に存在する厳然たる人種差別についても事細かに私に心構えをさせてくれました。私より年下だったのに、とっくの昔に亡くなってしまいましたが、彼ほど人種偏見皆無の、暖かくてしかも蒼天のように爽やかな心を持った人間はちょっと稀でしょう。本当に天使だったかもしれません。

いや、話が脇道に逸れ過ぎました。閑話休題。

 最近、寺田隆信著『世界航海史上の先駆者  鄭和』という本を読みました。普通、大航海時代といえば、15世紀末に西インド諸島に到達したクリストファー・コロンブスの事がすぐ(私の)頭に浮かびますが、実はその遥か以前、1400年台(15世紀)の前半に、明国の永楽帝の命を受けた鄭和という人物が、コロンブスの船とは比較にならないような巨船の船団を組んで、今の東南アジアの諸国から、インド洋、ペルシャ湾、紅海の沿岸をへて、アフリカまで航海し、遠くは現在のケニアにまで到着したと書いてあり、すっかり驚きました。不勉強の至りです。

 私が最も注目するのは、中国人の大航海とヨーロッパ人の大航海の違いです。ヨーロッパ人の大航海は南北アメリカ大陸原住民数千万人の虐殺とアフリカ大陸からの数千万人の奴隷移送の惨禍をもたらしました。一方、中国(明)の大航海時代には、その様な言語に絶する人間大虐殺は生起しませんでした。勿論、この時代の中国が道徳的に西欧より断然優れていたなどと言うつもりはありせん。ただ、精神文化の質的な違いがこの瞠目すべき相違をもたらしたのだと私は信じたいのです。ヨーロッパ人の大航海時代以来の世界が地球上の人間・人間社会が取ることの出来る唯一の展開の道だと考えなければならない理由はないと考えるのです。“Another world is possible.”と言いたいのです。 

 現代の中国は、共産主義的社会統制のもとで、西欧モデルの進歩発展を目覚ましく押し進めてきました。科学技術の振興において黄色人種は白色人種と同等の能力を発揮しうることも充分に立証しています。米国が恐れるように、このまま進めば、軍事的にも経済的にも、中国が米国を凌駕する日が来るかも知れません。しかし、中国はもう一つの“米国”になっては絶対にいけません。米国を含むヨーロッパが辿って来たのと同じ道を選んではなりません。それは、私たちの文化に大きな富を与えてくれた中国の精神文化の伝統からの許し難き逸脱です。朝鮮人と日本人は、力を合わせて、そうならない様に中国人に働き掛けなければなければなりません。

私は、ここで、上に引いた茨木のり子の詩「あのひとの棲む国」の三行、

――――――――――

それぞれの硬直した政府なんか置き去りにして

一人と一人のつきあいが

小さなつむじ風となって

――――――――――

を思い出します。また、個人的には、我が友セラフィン・フラガとの付き合いを追憶します。人と人との連帯は、誰とであれ、不可能ではありません。「小さなつむじ風」を、大きくすることも、決して不可能ではないはずです。

 私は中野重治という詩人も大好きです。彼の絶唱の一つに「雨の降る品川駅」があります。思想的理由から日本を追われて故国朝鮮に帰る友人たちを品川駅で見送る詩です。90年ほど昔のことですから、今の人々には何のことだか分からないかもしれません。幸いに伊藤信吉著『現代詩の観賞(下)』(新潮文庫)に優れた解説がありますので、興味のある方は読んでください。

藤永茂(2021年6月3日)