沖縄県民の拒絶反応
「こら、いらないわ」
受け取ったチラシを一瞥(いちべつ)すると、そう言ってすぐに突き返されたという。
特攻隊員を題材にした演劇舞台の沖縄公演。プロデューサーを務める石神隆弘さん(57)は「公演の支援
を求め沖縄の経営者を回ったが、4割くらいの人が拒絶反応を示し、チラシも受け取ってくれなかった」と
述懐する。
資料・撮影協力の欄に、靖国神社や鹿児島県の知覧特攻平和会館と記載されていたのが理由ではないかと、
石神さんはみる。
演劇舞台「未来へつむぐ~今をありがとう」は、知覧特攻平和会館の初代館長を務め、平成27年に90歳で
亡くなった板津忠正さんをモデルにしたオリジナル作品だ。板津さんは元陸軍特攻隊員の生き残りで、戦後
は特攻隊員の遺影や遺品を集めて回った。
日本文化を広めている一般社団法人「つむぎジャパン」(東京)代表の野田憲晴(けんせつ)さん(59)が
、板津さんの長男、昌利さん(67)に取材し、脚本を書いた。
いじめを受けていた現代の女子学生が元特攻隊員の曽祖父から靖国神社に行くよう勧められ、靖国神社で79
年前の知覧飛行場(鹿児島県)にタイムスリップ。出撃を待つ若かりし日の曽祖父と出会い、特攻隊員らの
身の回りの世話をしていた「なでしこ隊」の一員として過ごし、命の尊さや人を思いやる大切さを知る-と
いうストーリーである。
※
1943年に日本陸軍の台湾花蓮港飛行場に転属となる。中国から台湾に向かう途中、「用久元気 台湾花蓮港ニ居ルコトニナリマシタ」と書いた手紙を入れ、自宅目がけて投下、その通信筒は今も地元に残されている。また結婚を約束した女性に「海山遠く離れておりましても、お母様、恵子さまのことを思う心は何時も変わりありません」と書き綴った手紙も残されている。
1945年には郷里石垣島の陸軍石垣島飛行場(白保飛行場)に誠第17飛行隊(99襲)の隊長として赴任した[1]。同年3月26日、慶良間諸島沖で機動部隊に突入して戦死[3][4]。享年24。死後二階級特進により陸軍中佐となる。
2013年3月、三木巌 (石垣島自衛隊配備推進協議会・八重山防衛協会会長) らが中心となり顕彰碑建立期成会を結成、石垣市南ぬ浜に「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」を建立した。
*
1945年3月26日、沖縄戦の特攻第1号として部下とともに石垣島から10機で出撃、慶良間諸島沖で米空母に体当たり攻撃した伊舍堂用久中佐(いしゃどう・ようきゅう、当時24歳)だ。
自らの運命を予見するかのように空を仰ぐ姿は、当時の新聞に掲載されたものだという。打ちひしがれていた当時の国民に、沖縄の軍人が敢行した特攻は強いインパクトを与えた。
伊舍堂中佐は小学校まで石垣島で過ごした。陸軍士官学校を卒業後、航空隊で中国戦線を転戦し、45年、「誠第17飛行隊」の隊長として石垣島の基地に配属された。「自分の故郷は自分で守る」と意気込んでいたと伝えられる。
関係者の回想によると、まれに見る部下思い。地元に住む家族が手作りのごちそうを持参して会いに来ても、「部下の手前、忍び難い」と拒み通したという。
家族思いの一面もあった。自らが指揮する編隊が台湾に向かうため石垣島上空を通過した際、航空機を生家の上空で旋回させ、通信筒を投下。中には父宛てに「お元気で」と記した手紙があった。
特攻を前にした中佐の辞世の句を紹介する。
「指折りつ 待ちに待ちたる機ぞ来(きた)る 千尋(ちひろ)の海に散るぞ楽しき」
典型的な日本の武人として、故郷を守るため従容として死地に赴いた。戦死時の階級は大尉。特攻後、2階級特進した。
現在の石垣島、さらには沖縄で、中佐はほとんど忘れ去られている。
中佐のおい、伊舍堂用八さん(75)は「沖縄ではみんな『軍人は悪』というイメージしか持たない。沖縄戦の特攻を知らない人も多い」と話す。
沖縄戦が終結した6月前後に石垣島の各学校で行われる「平和教育」は「戦争の悲惨さ」を強調するだけだ。
米国同時多発テロの当時、用八さんは居酒屋で「特攻隊はテロリストだ」と観光客が話すのを聞き、「そうではない」と口論になった。戦争や軍事に関係するものをすべて否定する風潮が、日本人から魂を奪い去りつつある。
しかし、石垣島では有志を中心に、終戦記念日をめどに中佐の顕彰碑を建立する動きが始まった。近く募金活動が始まる。尖閣諸島を抱え、安全保障の意識が高まっているのだ。
尖閣の地名は中佐の出身地と同じ「石垣市登野城(とのしろ)」だ。故郷を守るために身をささげた中佐も、天から尖閣問題を憂えているに違いない。(2013.5.16 ZAKZAK仲新城誠)