「それでも、大学が必要だ」ろうか?(続き)
まず、エクセレンスについて考えてみたい。エクセレンス(卓越性)は、我が国でも大学や大学共同利用機関に関して、世界水準の優れた研究拠点を価値づけるために用いられている概念である。政策的には、始めは学術研究の分野で重点化すべき対象拠点の価値基準を表すものとして用いられたが、次第に、高等教育の分野でも用いられるようになり、例えば、GCOE(Global Center of Excellence)は、優れた学術研究成果を創出している大学院研究科(関連する専攻群)が対象になっているが、施策自体の狙いは大学院の教育改革にあるとされる。文部科学省の政策としては、エクセレンスを基準にして世界の大学との対比を論じ、これに依拠して公正に資源配分することが、基本的に正しい重点化の在り方であると認識されているといっても過言ではない。
その重要な価値基準を相対化する議論が、レディングズ教授の「廃墟の中の大学」を引用する形で著者から紹介されていることに、いささかのショックを受けた関係者も多いことだろう。エクセレンスに訴えることは、大学の理念がもはや存在しない、あるいは、大学の理念がすべての内容を失ってしまっているという事実(大学=廃墟)を示しているというレディングズ教授の主張は過激に響くが、一面の真理を突いているように思えてならない。本来の大学の未来は、エクセレンスの探求にはないのではないかという問題提起は、国の大学政策の方向づけに非常に大きな意味を持つはずである。
次に、未来の大学の財務面に目を向けてみたい。吉見教授は、国民国家が退潮した後の大学の財務面に関しては、明確な見通しを述べていないが、エクセレンスという概念を持ち出して重点化しながら予算を措置して行くという手法に限界があるとすれば、ポスト中世的大学モデルでリベラルな知の創出を可能とする空間を維持するための財源をどこに求めるのだろうか。印刷技術の発達で一度死んだとされる大学が、歴史的に第二の死を迎えるとすれば、社会に有用な特定の専門知の習得には専門学校のような受け皿が発達し、大半の学生が大学から流出してしまい、リベラルな知の創出には公財政からの財務的パトロネッジがなくなる時かもしれない。
著者のように「それでも、大学が必要だ」というならば、経費をどのように賄いうるのか、大学の理念と経費の負担をどう論理的に整理するのかが、問われなければならない。夢物語かもしれないが、プロサッカーの有力チームのように地域に根差しながら、世界のスポンサーがつくような大学(研究者集団)が現れる可能性はないだろうか。そうした大学=知のスター軍団が、知のライブ・パフォーマンスを行い、世界からの学生がリアル、バーチャルさまざまな形で参加できれば、会場での盛り上がりはもちろんのこと、活動を通じて新たな知の発酵が起こりそうな予感さえする。
やや古臭くなった大学というメディアは、そこまで大変身できるだろうか?「それでも、必要」とされるためには、大学は、サンデル教授のみならず、Lady Gagaさえもお手本に、知的なプロデュースの技法を模索しておいた方が良さそうである。こんな未来について、私は、教授の方々からは意外に多くの賛同が得られるのではないかとひそかに思っている。いかがだろうか?
最近のコメント