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2011年8月

2011年8月31日 (水)

「それでも、大学が必要だ」ろうか?(続き)

まず、エクセレンスについて考えてみたい。エクセレンス(卓越性)は、我が国でも大学や大学共同利用機関に関して、世界水準の優れた研究拠点を価値づけるために用いられている概念である。政策的には、始めは学術研究の分野で重点化すべき対象拠点の価値基準を表すものとして用いられたが、次第に、高等教育の分野でも用いられるようになり、例えば、GCOEGlobal Center of Excellence)は、優れた学術研究成果を創出している大学院研究科(関連する専攻群)が対象になっているが、施策自体の狙いは大学院の教育改革にあるとされる。文部科学省の政策としては、エクセレンスを基準にして世界の大学との対比を論じ、これに依拠して公正に資源配分することが、基本的に正しい重点化の在り方であると認識されているといっても過言ではない。

その重要な価値基準を相対化する議論が、レディングズ教授の「廃墟の中の大学」を引用する形で著者から紹介されていることに、いささかのショックを受けた関係者も多いことだろう。エクセレンスに訴えることは、大学の理念がもはや存在しない、あるいは、大学の理念がすべての内容を失ってしまっているという事実(大学=廃墟)を示しているというレディングズ教授の主張は過激に響くが、一面の真理を突いているように思えてならない。本来の大学の未来は、エクセレンスの探求にはないのではないかという問題提起は、国の大学政策の方向づけに非常に大きな意味を持つはずである。

次に、未来の大学の財務面に目を向けてみたい。吉見教授は、国民国家が退潮した後の大学の財務面に関しては、明確な見通しを述べていないが、エクセレンスという概念を持ち出して重点化しながら予算を措置して行くという手法に限界があるとすれば、ポスト中世的大学モデルでリベラルな知の創出を可能とする空間を維持するための財源をどこに求めるのだろうか。印刷技術の発達で一度死んだとされる大学が、歴史的に第二の死を迎えるとすれば、社会に有用な特定の専門知の習得には専門学校のような受け皿が発達し、大半の学生が大学から流出してしまい、リベラルな知の創出には公財政からの財務的パトロネッジがなくなる時かもしれない。

著者のように「それでも、大学が必要だ」というならば、経費をどのように賄いうるのか、大学の理念と経費の負担をどう論理的に整理するのかが、問われなければならない。夢物語かもしれないが、プロサッカーの有力チームのように地域に根差しながら、世界のスポンサーがつくような大学(研究者集団)が現れる可能性はないだろうか。そうした大学=知のスター軍団が、知のライブ・パフォーマンスを行い、世界からの学生がリアル、バーチャルさまざまな形で参加できれば、会場での盛り上がりはもちろんのこと、活動を通じて新たな知の発酵が起こりそうな予感さえする。

やや古臭くなった大学というメディアは、そこまで大変身できるだろうか?「それでも、必要」とされるためには、大学は、サンデル教授のみならず、Lady Gagaさえもお手本に、知的なプロデュースの技法を模索しておいた方が良さそうである。こんな未来について、私は、教授の方々からは意外に多くの賛同が得られるのではないかとひそかに思っている。いかがだろうか?

「それでも、大学が必要だ」ろうか?

このブログを読んでくれている方の多くは、「大学とは何か」(吉見俊哉・岩波新書)を興味深く読んでいると思う。NPO法人大学プロスタッフ・ネットワークの8月の勉強会でも、これを取り上げてみた。以下は、その終章「それでも、大学は必要だ」を読んで考えたことである。

吉見教授が終章で提起している問題は、国民国家の退潮という歴史的変化の中で、大学概念をどのように構想しうるかということである。それを考えるための論点が、概ね次のように提示されている。

1に、現在、私たちが直面している地球規模の諸課題に対応するために、中世の「自由学芸」に近い新たな横断的な知の再構造化が要請されており、中世的な大学モデルが一つのヒントを提供する。

2に、すべての知識が瞬時に検索可能となる未来には、科学による付加価値=エクセレンス(卓越性)に依拠している今日の大学において、リベラルな知の組織化に必要な「自由」な空間を確保していくことが必要である。

3に、21世紀半ばまでに、大学はグローバルな知の体制へと変貌していく。ネット空間が巨大化する中で、大学には、新たな知を編集し、革新的なプラットフォームを創出する人材を生み出す役割が期待される。

単純化に過ぎるかもしれないが、私なりに著者の主張を翻案すれば、次のようになる。未来社会の抱える諸課題の解決のために、科学技術の先端的研究を進めることは重要だが、それは大学以外の研究機関でも可能である。しかし、新たな学問分野を創出する自由が制度的に担保されうるのは、大学という場以外にはありえない。国民国家の退潮で、近代における大学の役割は終焉に近づいているものの、新たな知を再構造化するという役割を未来に向けて担えるのは大学である。そのような役割を担うがゆえに、「それでも、大学が必要」なのである。せっかくの生息地=職場を奪われたくないというような、学者エゴで言っているのではないことは、よく理解できる。

2011年8月24日 (水)

基礎研究という神話の終焉?(続き)

しかも、昨今、我が国は、技術一流、ビジネス二流であるゆえに、経済成長に必要なイノベーションが生まれにくいと言われるくらいなので、基礎研究への投資よりも、社会的な重要課題の解決に結びつく研究への投資を優先させるべきという声が強まるのは、ある意味では当然のことである。そもそも、研究現場においては基礎研究と応用研究の境界も曖昧化しており、戦後の米国で生まれた基礎・応用二元論の神話は、既に大学等における先端的研究の実態から懸け離れているのである。819日に閣議決定された第4期科学技術基本計画でも、基礎研究や人材育成を重視する一方、これまでの特定の科学技術分野・領域の振興から離れ、我が国が直面する重要課題への対応という観点から、府省の枠を超えて持てる科学技術を総動員するスタイルに大きく転換している。

我が国の置かれている地理的・歴史的環境に鑑み、国による基礎分野を含む科学技術への投資は教育と並んで最も重視すべき課題であると思うが、上山氏が指摘するように、いつまでも過去に米国で作られた「神話」に寄りかかって、我が国の納税者に対して基礎研究へのパトロネッジを求めることは不可能である。科学者は特異な才能・能力を持つ人々であり、可能な限り彼らが社会に貢献する機会を与えるために、特に基礎分野の学問に対して公的資金を投入する意義は依然として高いが、そのためには、科学者は王様、納税者(大衆)は奉仕者というような科学者エリート主義、自然科学至上主義に陥らないように、関係者は気を配っていく必要がある。

民主党政権下の仕分けの際の騒動は、起こるべくして起こった「大衆の反逆」のようでもあり、基礎研究に従事する者は将来のために教訓をメモしておく必要があろう。3.11以降、心の余裕を持ちにくくなっているところだが、科学技術や教育のような社会の発展を支える分野が、気づかぬうちに変質し崩壊していかないように、見守り取り組んでいかなければなるまい。国家財政の悪化に歯止めがかからない中で、基礎研究という神話が終焉しつつあることに、我が国の大学関係者は大いなる危機感を持たなければならないのではないか。

基礎研究という神話の終焉?

今年、第12回読売・吉野作造賞を受賞した「アカデミック・キャピタリズムを超えて」と題する上山隆大教授の著書には、科学技術政策に携わる人間にとって括目すべき指摘がある。特に、第5章「基礎科学/応用科学という神話」では、これまでの基礎研究への国による投資の前提となってきた論理は、永遠の真理ではなく、米国の科学技術政策の歴史の中で形作られた神話であることを明らかにしているのである。上山氏の著書は専ら学問的な成果をまとめたもので、神話に過ぎないという暴露には、基礎研究への公的資金投入を抑制して差し支えないというような政策的な意図はまったくないにせよ、科学技術政策の前提が覆されれば、将来的に、我が国の基礎研究が資金面で窮地に陥ることもありうると考える。

上山氏によれば、第2次大戦後に、ローズベルト大統領から科学の将来構想への答申を求められたバニバー・ブッシュ氏らがまとめた「科学~果てしなきフロンティア」には、次のような論旨が展開されている。第1に、科学研究は公共財であり、公的な知識を作り出すためには、公的な資金が必要である。第2に、このような資金の受け皿は、公共財としての基礎研究を行うにふさわしい場所としての大学(特にエリート研究大学)である。こうした公的な資金投入を正当化する論理は、後に「イノベーションのリニアモデル」と呼ばれた理論で、基礎研究から最終的な工業生産まで知識は直線的に流れていくので、基礎研究を支援することは、新たな製品開発と付加価値を生み出すことによって社会に貢献できるというものである。

我が国において、基礎研究への投資については、一般論として、比較的好意的な支持が得られてきていると思う。数々のノーベル賞の受賞や小惑星探査機「はやぶさ」の成功などへの国民的熱狂を見るとき、そんなに基礎研究の将来を心配することはないのではないかとも感じるが、一方で、世界一の性能を目指すスパコンのために巨額の投資を行う必要性に関して疑問が呈され、国の無駄な歳出を削減するという観点からは、科学者の自由にはさせられないという政治的な意志が示されたことは、記憶に新しい。

2011年8月17日 (水)

育てなくても構わない?(続き)

2に、ロールモデルを意識することである。他方で、大学事務局において、若手・中堅のロールモデルとなる人を作っていくことも必要になる。若手リーダーシップ研修、種々の表彰制度、プロジェクトチームによる企画提案などの機会は、ロールモデルとなる人を作ることにも役に立つ。さらに、他大学等との交流で、大学の枠を超えてより高次元のロールモデルを持つことも、大学職員としての成長には欠かせない。先に行く意欲のある人は極力応援して、続く人のロールモデルになってもらえばよい。そうした人が出てきているのは頼もしい。

3に、問題意識を持ち、自分で調べられることである。私の印象では、これができる人が非常に少ないことが、大学事務局の弱点であると感じる。この点が、教員から事務職員の能力が不十分だから法人としてのポテンシャルが生かされていないと批判される最大の要因ではないかと思う。もちろん、経営に関しては事務職員だけの責任ではないが、このことが解決すべき課題であるのは事実だと思う。公知の事実を収集してまとめることは誰でも努力すればできる。公知でない情報は、個人的なネットワークを日ごろから作っておくことで時とともに入手するチャンスを拡大すればよい。組織なのだから、1人ですべてを把握する必要はない。NPO法人大学プロスタッフ・ネットワークの設立趣旨の一つは、情報のネットワーク作りである。個人の自由な立場を使って、組織としては壁ができてしまうところを乗り越えられれば社会の役に立つと思う。

酒井氏によれば、このほかに、失敗は自分のせい成功は運のおかげと考えるクセがあること、人を見る目を持ち他人の力を活用すること、明るく社交的であること、孤独に耐えられることなどが挙げられているが、私自身に照らし合わせても、この中で一つでも取り柄があればよいとするならばともかく、すべてを求めたら育成すべき人材がいなくなりそうな気がする。ただ、非常に優れた能力に恵まれた人は、他人にツッコミを入れてもらえる能力(つっこまびりてい)を大事にすべきだという指摘は、人生訓としてなかなかの至言である。普通の人は完璧すぎる人(おそらく同性の場合)を好ましいとは思わないものだからである。凡人としては、こんなことに注意を払うべき人物に一度くらいなってみたいものである。

育てなくても構わない?

酒井穣氏の「『日本で最も人材を育成する会社』のテキスト」(光文社新書)という本のタイトルは、定価(本体740円+税)と相まって、書店で本をあさっている人を思わず買う気にさせる巧みさを感じさせる。今回は、その本の中で、「誰を育てるのか」という章を参照しながら考えてみたい。マネジメントの立場からは、育成ターゲットの選定ということだが、本当に人間の将来性を見定める正しい方法があるのか、組織としての正しい育成戦略はどう形成すればよいのか、考えれば考えるほど難しい。

酒井氏によれば、一般的に組織の構成員の内訳は、学ぶことに喜びを感じる積極的学習者10%、学びは個人的な目的達成手段と考える消極的学習者60%、言われたことだけを過去の習慣通りにこなしたい学習拒否者30%であるという。マネジメントの課題としては、消極的学習者から積極的学習者に転換する人を増やす、学習拒否者を減らすということになる。前者の課題には組織の資源を投入する意義があるが、後者については疑問が呈されている。実際、大多数の経営者は、伸びる可能性が高い人間にこそ金をかけるべきと判断するだろう。ただ、私の経験では、大学事務局は30%以上の学習拒否者を抱え続けているように感じる。もちろん、定年による入れ替えで徐々にその割合は変化しているだろうが、求められている変化のスピードには遠く及ばないだろう。したがって、大学事務局に関しては、これまで学習拒否者だったから仕方ないと割り切らずに、行動による学習者への意識改革を仕掛けていくしかなかろう。さもなければ、事務職員が二極化して、非常に風通しの悪い嫌な職場になりそうで危険が一杯だと思う。

人材のポテンシャルを見抜くポイントとして、酒井氏が挙げているものの中で、私が大学事務局の現場に適合すると思うものは、次のとおりである。

まず、顧客志向の信念である。事務職員に最も期待されるのは、正確な情報の把握とそれを基にした的確な行動であるが、常に相手の意図を読むこと、先の状況を読むことが必要である。顧客といっても、学生諸君やご父母にとどまらず、教員から政府機関まで含めて、経営体としての大学を取り巻く関係機関・関係者を想定することになる。自分から頭を働かせ、先を見越して体を動かす人は、他人よりも遠くまで行くことができる人である。

2011年8月 5日 (金)

学習教材5.人事評価制度を有効に使う(続き)

3.    ポイント

(1)管理職の責務

① 人事評価制度の目的は何か→業務における成果目標の達成、人材育成。

② 目標設定、自己評価への適切な介入→組織全体の方針の確立と徹底。

③ 職員とのコミュニケーション→方針の伝達、情報収集、言行一致。

④ しっかり事実確認、その場でほめる、その場で指導し問題解決、同じミスを重ねないようフォローアップ。自己評価の甘い人には言うべきことを言って聞かせる。

(2)運用の進化

 ① 最初から完璧な評価制度はできない。満足度が高いシステムにするには、組織の構成員全体の協力なしには不可能。

 ② 処遇に反映させない評価はあり得ない。しかし、評価の質が伴わないままに処遇に相当な差をつけると組織全体に運用への不信感が生じる。逆に、いつまでも質が向上しないために処遇への反映に踏み切れないと、制度自体の存在価値がないと批判が高まる。

 ③ 高い目標を達成して組織に貢献してくれた者に対して、組織としてどのように感謝の意を表現すること適当か?

④ どう処遇に反映すれば、組織の人材育成という面でもプラスの効果を生むことができるか?

(3)運用の統率

 ① 大学事務局では、一般的に制度運用上の統率が行き届きにくい。部局・部署ごとに、自己流の運用をしがちである。ここに、運用不統一=失敗の最大要因がある。

 ② 統率には、評価者=管理職の意識統一を地道に進めるしかない。目標の立て方、指導の在り方、評価の付け方などで、自己流を排して統一を図るには、評価者が基本的姿勢で一致すること、基本的な技能を身につけることの2点が重要である。

 ③ 手がかりは、管理職自身の職業人生の振り返り、評価者としての各自の経験交流によって、それぞれの座標軸を組織が目指す方向に修正していくところにある。

(4)コミュニケーション

 ① 従来の大学事務局は、管理職と一般職員の心理的な距離感があり過ぎたので、Aさんのように、人事評価制度で始めて一般職員と直接仕事の話をする機会を得た管理職も少なくない。最近の若手職員はコミュニケーションの能力が低いなどと嘆く向きもあるが、管理職については能力が高いと胸を張れるだろうか?手本を示してやるくらいのつもりで自ら取り組むことが望ましい。

 ② 管理職はコミュニケーションの訓練を受けていないので、不得手な人も多い。しかし、これは、既に必須科目であり、不得手な人は世の中に手本を探して真似をするところからでも努力しなければならない。

 ③ 基本は見ること(堂々と見る=見ていることが相手に分かる方が良い)→声をかけること(ほめる、注意する、相手の問題を察知する)→フォローアップすること(モチベーションは上がっているか、ミス等の問題は解決しているか)ということである。以上は、ディズニーランドで実践されている手法である。

 ④ コーチング、カウンセリングの基本的な技術を学べば、より効果的にコミュニケーションが取れる。

学習教材5.人事評価制度を有効に使う

1.    ケース

(1)  Aさんは、大学事務局の課長である。人事評価制度が導入されて数年たっている。期首と期末に職員と面談する機会ができたことは良かったが、どうすれば制度の趣旨を生かすことができるのか思い悩んでいる。特に、職員の中に、他人からの評価に比べて自己評価が高過ぎる者がいるので、手を焼いている。

(2)  Bさんは、評価を行う以上客観的な基準で各人の業務成績を測定して、私心を挟まず成績に差をつけて、結果を処遇に反映してほしいと思っている。Aさんが、どのような方針で評価しているのか明らかにしないので、不満に感じている。自分の目標は、できるだけ高く設定してアピールしているつもりである。

(3)  Cさんは、どんなに客観的な基準を設定しても、評価には個人的に好き嫌いの要素が入り込むと不公平があると感じている。結果的に処遇に大きな差が付くと組織の和が乱れるので、反映もほどほどで良いと感じている。自分の目標も、決して高く設定しようと思わない。

(4)  Dさんは、別の課から異動してきて、制度の運用がかなり違っているので戸惑っている。以前の課では、目標に関して上から様々な注文がつき、自己評価についても具体的な根拠を示すように言われて書き直したりしたが、ここでは先輩から「適当に書いておけば何も言われないからいいよ」と教えられて、こんなに課ごとに運用に違いがあって事務職員全体の評価が適切に行われるはずがないと、制度自体に不信感を感じて始めている。

(5)  Eさんは、期首と期末の面談でAさんと話すくらいで、日ごろから自分の仕事ぶりをAさんがどう評価しているのか、良くわからないと感じている。自分では勤務時間内に仕事をミスなく仕上げて成果を上げているつもりだが、不要な残業を毎日のようにして忙しくみせかけている同僚の方を、Aさんが高く評価しているのではないかと不安に感じている。

2.    設問

(1)  Aさんの人事評価制度の運用については、どのような問題があるか。改善策としては、どのようなことが考えられるか。Aさんが特に問題だと感じている職員への対処法はどのようにすればよいだろうか。

(2)  Bさんの意見に対してどのように考えるか。また、Cさんの意見に対してどのように考えるか。さらに、BさんとCさんの考え方は相反するところがあるが、組織として人事評価制度を発展させるヒントとして、両者の意見をどのように活用できるだろうか。

(3)  Dさんの指摘する問題への解決策として、どのようなことをすればよいだろうか。また、Dさんとしては、どのような行動をすべきだろうか。

(4)  Eさんの指摘する問題への解決策として、どのようなことをすればよいだろうか。また、Eさんとしては、どのような行動をすべきだろうか。

2011年8月 3日 (水)

Academic Rhapsody~過去を清算しよう(続き)

どこの大学においても、学長選考のプロセスでは、かなりの怪情報が飛び交うものである。もちろん、金銭や男女関係にまつわるスキャンダルは昔からあるが、最近では、種々のハラスメント、研究活動や研究費使用の不正に関する疑惑も、候補者にダメージを与える効果的な手法になりつつある。これらは、事実の把握・検証までにかなりの時間を要することから、かりに調査の結果、疑いが晴れても、その時までには候補者の選考が終わっている。学長選考には、学内の資格者による選挙の形式を取り入れている大学が大半であるために、対立候補に疑惑をかけることで選挙結果に影響を与えることができれば、「成功」なのである。しかも、今回の朝日新聞の報道の結果、学長選考委員会での選考が終わっても、不正の疑惑が生じた候補者は文部科学大臣から国立大学長として任命されない=本人から学長就任を辞退せざるを得ないという事実上の前例ができてしまった。考えてみれば、このことは、国立大学法人のトップの選考に大きな影響を与える重大な出来事である。選考結果を面白く思わない人間にとっては、結果が覆せるチャンスができたとも言えるのである。今後も、過去の研究費不正使用の事実が、国立大学長任命に影響し続けることになるので、自然科学系の有力な研究者の多くは学長になることが難しくなるかもしれない。また、学長選考委員会では、そうした事実がなかったか、十分に確認することが不可避になったのである。これは文字通り困難な作業である。

最後に、もう一度、申し上げたい。過去の研究費使用のルール違反を早く清算して、我が国の優れた研究者を守らなければ、学問の世界全体の秩序が混乱してしまう。不正を告発することも、自由に報道することも、事実に基づき処分することも、すべてに何ら異存はないが、それぞれが良かれと思って行動した結果、大学の中に無用な疑心暗鬼や深刻な対立が生じたり、悪意のない力量ある研究者が排除されたり、学長選考プロセスに大きな混乱が生じたりしてはならない。今回の一連の出来事には、何かこれまでとは違った嫌な感じを持っている。もう十分である。問題の本質的な解決に向かわなくてはならない。Nothing really matter to meとは言っていられない。

Academic Rhapsody~過去を清算しよう

2011年は、科学研究費補助金の一部が基金化されて、会計年度を超えた研究資金の使用が可能になった画期的な年として記憶されるだろう。数年前に、財務省の協力で、繰り越し明許という手続きを踏むことで、年度を超えた執行を事実上拡大にする手法が導入されたのだが、今回、科学研究費の一部とはいえ、法改正によって、大学の研究者が年度内に研究資金を使い切る必要がなくなったのは、民主党政権による大きな改革成果であったと思う。世の中の進歩を実感するが、かつて大学の研究者には、年度内執行の制約が課せられていたために、業者に架空の発注をして資金を預かってもらう「預け金」という不適当な慣習があったそうである。私自身は研究者ではないので、そうした実態があったことを伝聞で把握しているに過ぎないが、かなり高額の研究資金を獲得している有力な研究者には、業者がこうした便宜を図ることは珍しくなかったようである。不心得な研究者の場合は、この預け金を私的目的に流用することもあったようだが、大半の研究者は真面目で、研究室の活動に必要なものを、後から「購入」していたのである。年度を超えた執行への制約が厳しい我が国で、世界との競争に勝つための、会計ルールの一種の抜け道のようなものと認識され、さほどの罪悪感なしに、預け金システムは普及していたようである。

しかし、昨今は、こうした行為は一般的に研究費の不正使用に該当するとされるようになった。該当すれば、資金の返還はもちろん、競争的資金への応募制限などの罰則や所属機関における人事上の処分も受けることになる。私は、こうした取扱いへの転換について検討に携わったこともあるので、研究費の私的流用などの不正使用に対する国民からの非常に厳しい批判は十分に理解できる。ただ、今になって思うと、過去の預け金の清算を同時に制度化するに至らなかったことに、個人的には悔いが残るところである。なぜならば、2011年の今、過去の清算が完了していないがゆえの問題が表面化しているからである。具体的には、国立大学の学長選考プロセスでの候補者の辞退や現役私立大学学長の責任問題の形で、研究費不正の問題が大きな影を落としているのである。

関係府省の政策転換によって、既に現在においては、預け金が容易にはできない仕組みが各研究機関に整備されている。したがって、専ら過去の負の遺産を社会的にどのように処理するかがポイントであると考えてよい。私は、一定の期間を限定して、研究者が過去のすべての事実を明るみに出し、私的流用がなかった限りにおいて、残金を返還すればいかなる罰則にも問わないという徳政令のようなものを行うしかないと思う。なぜ、そのような特別扱いが必要かと言えば、このまま放置することで、大学を中心とする我が国の学問の世界が大きな脅威にさらされるからである。研究者からこのような主張をすることは、我田引水のようで憚られるところもあろうから、大学職員を始めとする研究者以外の関係者から声を上げて行くしか適当な方法がなさそうである。

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