2009.07.31
民族問題解決のために――プンツォク=ワンギェルの提案
―チベット高原の一隅にて(50)―
チベット人プンツォク=ワンギェル(プンワン)は、いまどきの中国ではもちろん、日本でもめずらしくなったマルクス主義者で弁証法哲学者である。この人物は1950年代末に「地方民族主義者」として失脚、18年を秦城監獄で過ごし、のちに国家民族委員会副主任という閣僚級の地位を経歴した。
退職後は江沢民・胡錦濤両政権に民族政策とりわけチベット問題解決策をたびたび提案してきた。
わたしがおもうに、彼の提案が中共中央によって慎重に検討され、重要部分が採用されていれば、2008年3月のラサ事件(3・14)や、今年7月のラクイラ8ヵ国サミット直前のウルムチ事件(7・5)は起こらなかっただろう。したがってサミットを目前に胡錦濤主席が突然帰国するという不名誉なことはありえなかった(帰国は暴動そのものが原因ではなく、中央指導部のあいだに事件をめぐって重大な意見の相違が生れたからではないか)。
そこで以前紹介した彼の提案内容をあえてもう一度紹介したい。以下は、主に2004年から2006年にわたる胡錦濤主席への手紙の要約である。(おもにBaba Phuntsok Wangyal WITNESS TO TIBET’S HISTORY Paljor Publications Pvt.Ltd. 2007 による。カッコ内は阿部の補充)
阿部治平 (中国青海省在住、日本語教師)
チベット人プンツォク=ワンギェル(プンワン)は、いまどきの中国ではもちろん、日本でもめずらしくなったマルクス主義者で弁証法哲学者である。この人物は1950年代末に「地方民族主義者」として失脚、18年を秦城監獄で過ごし、のちに国家民族委員会副主任という閣僚級の地位を経歴した。
退職後は江沢民・胡錦濤両政権に民族政策とりわけチベット問題解決策をたびたび提案してきた。
わたしがおもうに、彼の提案が中共中央によって慎重に検討され、重要部分が採用されていれば、2008年3月のラサ事件(3・14)や、今年7月のラクイラ8ヵ国サミット直前のウルムチ事件(7・5)は起こらなかっただろう。したがってサミットを目前に胡錦濤主席が突然帰国するという不名誉なことはありえなかった(帰国は暴動そのものが原因ではなく、中央指導部のあいだに事件をめぐって重大な意見の相違が生れたからではないか)。
そこで以前紹介した彼の提案内容をあえてもう一度紹介したい。以下は、主に2004年から2006年にわたる胡錦濤主席への手紙の要約である。(おもにBaba Phuntsok Wangyal WITNESS TO TIBET’S HISTORY Paljor Publications Pvt.Ltd. 2007 による。カッコ内は阿部の補充)
ダライ=ラマ存命中にことを解決せよ
チベット問題解決のカギはダライ=ラマを中心とする仏教各派の指導者と亡命政府、それとともにある10万チベット人同胞がチベットに帰るのがいいか、それとも外国に残るのがいいかということである。
いまはチベット政策を転換すべきときである。
ダライ=ラマの帰国を働きかけることは、ことを受動的なものから能動的なものに、敵対的関係から平和的関係に(さらには国際問題から国内問題に)変えるものである。
(ダライ=ラマのラサ帰還はチベット人がみな願っていることだから)仏教徒の心が平和で安息であるか否か、これを無視することは問題を避けようとするものである。
率直にいえば、中央統一戦線部指導者によるわたしの胡錦濤主席への手紙に対するコメント(現在のところ不明)は、中央政府のスローガンである「調和と安定」(「和諧穏定」)の精神に反している。中央は国家政策として「友好」の重要性を強調しているのだから。
統一戦線部は、台湾政策については、ひとつの中国の前提とすればその過去は問題にしないという原則であるのに、「チベット問題」に対しては過去にとらわれ、「極左的闘争」路線をもちいて「闘争」する。国外チベット人同胞に対する政策も中央のいう「調和と安定」の原則にもとづくものにすべきである。
統一戦線部の「闘争」のかたちはダライ=ラマの逝去を待つという「引延ばし戦術」である。(プンワンは、国民党蒋慶国政権が台湾を支配していた時期に、国共合作交渉を適時速やかに展開しなかったために途中で蒋慶国が急逝して交渉が頓挫し、陳水平などが出たと指摘している)
かつて適切な忠告を無視したために「二人のパンチェン」というトラブルに落ち込み、また中央が細心の注意を払って面倒を見ていたあの有名な二人の仏教指導者――17世カルマパと塔爾寺(クンブム、西寧近郊の大僧院)寺主アジャ(一般にはアジャ=ゲゲンと尊称される)が国外に逃亡して世界の耳目を集めたと人はうわさする。
今日ことを引延ばし、明日「二人のダライ=ラマ」が生まれるようなことがあったら、国内外でさらに大きなスキャンダルになることは目に見えている。
ダライ=ラマ後継について人々はもっと踏み込んだコメントをしている。後継者には17世カルマパがふさわしい、あるいはそうなるのではないかと。
もちろん、こうした路線上の間違いをすべて(胡錦濤指導下の)新しい統一戦線部のせいにすることはできない。問題は党の路線に関連するのであって個人ではない。漢とチベットの友好と国家の安泰と民衆の幸福のためには、今日極左主義はいい加減に終わりにすべきである。
小平はダライ=ラマ2兄のジャラ=トンジュプと面会したとき「独立以外は何でも話してよい」といった。また胡耀邦党書記(1986年失脚)も「1959年のラサ反乱は問題にせず、前向きに行こう」といったことがある。かつて中央指導者はこうした精神でダライ=ラマ方面と交渉したではないか。
「中間路線」が正しい
80年代末ダライ=ラマのEUストラスブール議会での演説は内外の注目を集めた。それはダライ=ラマが「チベット人は独立は求めない、ただ名実ともなった自治を求めるのみ」といい、またチベット人地域に統一された民主的自治政府が成立したとき、ダライ=ラマの政教合一のチベット旧体制は正式に終末を迎えるとし、亡命政府も解散するときであると宣言したからだ。そのとき彼本人もまた「政治を離れ、僧侶として仏教に専念する」と言った。
この提案は独立をもとめるダライ=ラマの兄やチベット人の過激分子の反対にあった。
また中国の関係当局にも彼の「中間路線」に異議と疑問を表明したものがいた。
西側反中国勢力もこれに賛成せずダライ=ラマと中央の関係改善努力に反対した。彼らは「チベットカード」としてダライ=ラマと亡命政府を国外に置こうとしている。(彼らを外国に残すことは、将来に禍根を残す近視眼的措置であって敵を利するだけである)
だがダライ=ラマはずっと「中間路線」を堅持し、国外チベット人の多数はダライ=ラマの提唱を尊重し1997年亡命政府議会はチベットの前途を決定する権限をダライ=ラマに与えた。
これだと、中央とダライ=ラマのあいだにはいかなる原則的実質的な意見の相違はないと考える。中央は国家を統一したい、ダライ=ラマは民族自治をやりたい。これはわが国憲法と自治法の精神に符合している。
80年代初め、小平など中共中央の指導者はチベット工作に重大な間違いがあったことを認め、「西蔵31号文献・新疆46号文献」を公布して、マルクス主義に基づく民族工作を決定した。
「46号文件」は漢人幹部が多すぎるからこれを減らすこと、中央の政策が民族地域に不適切なときは変更して実行してもよい。また、今後中央は国防と外交それに部分的拒否権を持つだけで、その他は新疆・西蔵・内蒙など自治区に与える。少数民族地域の漢人幹部は「参謀」「顧問」というだけである。漢人幹部は民族語を学習しまた民族幹部を尊重しなければならないなどとうたった。
その中心的精神は真実の民族自治・自主権をチベットなど自治区に与えることである。
この、党にも国家にも国民にも有利な原則的政策は少数民族に対する極左的政策のために、また(1986年の胡耀邦の失脚など)さまざまな要因によって現実のものとならなかった。
だから少数民族の自治を論じるのが当然で「敏感な問題」だからといって言及を避けることは間違っている。(以上要約終り)
若干のつけたし
もちろんプンワンに対する風当りは強烈である。漢人のチベット通指導者のなかにはダライ=ラマと親しいなどと攻撃するものがいる。中国ではダライ=ラマは国家分裂の頭目だ。プンワンは1950年代の半ばに失脚するまでのダライ=ラマとの親密な関係を隠さないし、むしろ積極的に彼の主張を紹介し民族問題解決の原則を主張する。
彼は「民族独立」ではなく、全チベット人居住地域(「大蔵区」)を網羅した高度の自治である。ところが中国ではいわゆる「大蔵区自治」は、国外のチベット人が提起した観点で、チベット独立(「蔵独」)に通じる反中国の危険思想だとされる。
「独立」は国家を分裂転覆する重大犯罪である。当然1980年代の中共中央の「西蔵31号文献・新疆46号文献」は間違いだったという前提である。
民族自治区の現状を変えようとする議論は、独立=国家分裂として長年宣伝された。その結果、中国の92%を占める漢民族をはじめとする多数は、独立だの「高度の自治」だのを犯罪視するようになった。3・14事件でも7・5事件でもこの世論はびくともしなかった。
だが圧迫感があるから不満が蓄積する。このままでは少数民族の不満は数年毎に爆発する。
かりに胡温政権が「大蔵区」の「高度の自治」を認めようとすれば、この世論を変えなければならない。敢えて行えば政権の存亡にかかわる。だから3・14事件のあと、オリンピックを控えて中国政府は亡命政府との交渉に同意したが実質的交渉になっていない。
ところが87歳のプンワンは勇を鼓してこれに挑む。
彼は全チベット人地域の「高度の自治」は、現在その条件があるかないか、(情勢が)成熟しているか否かの問題であって、かつてはこれを自由に議論したし、ここに「後退と反動」などといった要素は存在しないという。
もとより彼は「大物」だから「高度の自治」を時の政権に主張できる。少数民族の知識人だの僧侶だのにはできないことである。彼もそれを承知だからこそ敢えて彼らを代表して発言するのである。
チベット問題解決のカギはダライ=ラマを中心とする仏教各派の指導者と亡命政府、それとともにある10万チベット人同胞がチベットに帰るのがいいか、それとも外国に残るのがいいかということである。
いまはチベット政策を転換すべきときである。
ダライ=ラマの帰国を働きかけることは、ことを受動的なものから能動的なものに、敵対的関係から平和的関係に(さらには国際問題から国内問題に)変えるものである。
(ダライ=ラマのラサ帰還はチベット人がみな願っていることだから)仏教徒の心が平和で安息であるか否か、これを無視することは問題を避けようとするものである。
率直にいえば、中央統一戦線部指導者によるわたしの胡錦濤主席への手紙に対するコメント(現在のところ不明)は、中央政府のスローガンである「調和と安定」(「和諧穏定」)の精神に反している。中央は国家政策として「友好」の重要性を強調しているのだから。
統一戦線部は、台湾政策については、ひとつの中国の前提とすればその過去は問題にしないという原則であるのに、「チベット問題」に対しては過去にとらわれ、「極左的闘争」路線をもちいて「闘争」する。国外チベット人同胞に対する政策も中央のいう「調和と安定」の原則にもとづくものにすべきである。
統一戦線部の「闘争」のかたちはダライ=ラマの逝去を待つという「引延ばし戦術」である。(プンワンは、国民党蒋慶国政権が台湾を支配していた時期に、国共合作交渉を適時速やかに展開しなかったために途中で蒋慶国が急逝して交渉が頓挫し、陳水平などが出たと指摘している)
かつて適切な忠告を無視したために「二人のパンチェン」というトラブルに落ち込み、また中央が細心の注意を払って面倒を見ていたあの有名な二人の仏教指導者――17世カルマパと塔爾寺(クンブム、西寧近郊の大僧院)寺主アジャ(一般にはアジャ=ゲゲンと尊称される)が国外に逃亡して世界の耳目を集めたと人はうわさする。
今日ことを引延ばし、明日「二人のダライ=ラマ」が生まれるようなことがあったら、国内外でさらに大きなスキャンダルになることは目に見えている。
ダライ=ラマ後継について人々はもっと踏み込んだコメントをしている。後継者には17世カルマパがふさわしい、あるいはそうなるのではないかと。
もちろん、こうした路線上の間違いをすべて(胡錦濤指導下の)新しい統一戦線部のせいにすることはできない。問題は党の路線に関連するのであって個人ではない。漢とチベットの友好と国家の安泰と民衆の幸福のためには、今日極左主義はいい加減に終わりにすべきである。
小平はダライ=ラマ2兄のジャラ=トンジュプと面会したとき「独立以外は何でも話してよい」といった。また胡耀邦党書記(1986年失脚)も「1959年のラサ反乱は問題にせず、前向きに行こう」といったことがある。かつて中央指導者はこうした精神でダライ=ラマ方面と交渉したではないか。
「中間路線」が正しい
80年代末ダライ=ラマのEUストラスブール議会での演説は内外の注目を集めた。それはダライ=ラマが「チベット人は独立は求めない、ただ名実ともなった自治を求めるのみ」といい、またチベット人地域に統一された民主的自治政府が成立したとき、ダライ=ラマの政教合一のチベット旧体制は正式に終末を迎えるとし、亡命政府も解散するときであると宣言したからだ。そのとき彼本人もまた「政治を離れ、僧侶として仏教に専念する」と言った。
この提案は独立をもとめるダライ=ラマの兄やチベット人の過激分子の反対にあった。
また中国の関係当局にも彼の「中間路線」に異議と疑問を表明したものがいた。
西側反中国勢力もこれに賛成せずダライ=ラマと中央の関係改善努力に反対した。彼らは「チベットカード」としてダライ=ラマと亡命政府を国外に置こうとしている。(彼らを外国に残すことは、将来に禍根を残す近視眼的措置であって敵を利するだけである)
だがダライ=ラマはずっと「中間路線」を堅持し、国外チベット人の多数はダライ=ラマの提唱を尊重し1997年亡命政府議会はチベットの前途を決定する権限をダライ=ラマに与えた。
これだと、中央とダライ=ラマのあいだにはいかなる原則的実質的な意見の相違はないと考える。中央は国家を統一したい、ダライ=ラマは民族自治をやりたい。これはわが国憲法と自治法の精神に符合している。
80年代初め、小平など中共中央の指導者はチベット工作に重大な間違いがあったことを認め、「西蔵31号文献・新疆46号文献」を公布して、マルクス主義に基づく民族工作を決定した。
「46号文件」は漢人幹部が多すぎるからこれを減らすこと、中央の政策が民族地域に不適切なときは変更して実行してもよい。また、今後中央は国防と外交それに部分的拒否権を持つだけで、その他は新疆・西蔵・内蒙など自治区に与える。少数民族地域の漢人幹部は「参謀」「顧問」というだけである。漢人幹部は民族語を学習しまた民族幹部を尊重しなければならないなどとうたった。
その中心的精神は真実の民族自治・自主権をチベットなど自治区に与えることである。
この、党にも国家にも国民にも有利な原則的政策は少数民族に対する極左的政策のために、また(1986年の胡耀邦の失脚など)さまざまな要因によって現実のものとならなかった。
だから少数民族の自治を論じるのが当然で「敏感な問題」だからといって言及を避けることは間違っている。(以上要約終り)
若干のつけたし
もちろんプンワンに対する風当りは強烈である。漢人のチベット通指導者のなかにはダライ=ラマと親しいなどと攻撃するものがいる。中国ではダライ=ラマは国家分裂の頭目だ。プンワンは1950年代の半ばに失脚するまでのダライ=ラマとの親密な関係を隠さないし、むしろ積極的に彼の主張を紹介し民族問題解決の原則を主張する。
彼は「民族独立」ではなく、全チベット人居住地域(「大蔵区」)を網羅した高度の自治である。ところが中国ではいわゆる「大蔵区自治」は、国外のチベット人が提起した観点で、チベット独立(「蔵独」)に通じる反中国の危険思想だとされる。
「独立」は国家を分裂転覆する重大犯罪である。当然1980年代の中共中央の「西蔵31号文献・新疆46号文献」は間違いだったという前提である。
民族自治区の現状を変えようとする議論は、独立=国家分裂として長年宣伝された。その結果、中国の92%を占める漢民族をはじめとする多数は、独立だの「高度の自治」だのを犯罪視するようになった。3・14事件でも7・5事件でもこの世論はびくともしなかった。
だが圧迫感があるから不満が蓄積する。このままでは少数民族の不満は数年毎に爆発する。
かりに胡温政権が「大蔵区」の「高度の自治」を認めようとすれば、この世論を変えなければならない。敢えて行えば政権の存亡にかかわる。だから3・14事件のあと、オリンピックを控えて中国政府は亡命政府との交渉に同意したが実質的交渉になっていない。
ところが87歳のプンワンは勇を鼓してこれに挑む。
彼は全チベット人地域の「高度の自治」は、現在その条件があるかないか、(情勢が)成熟しているか否かの問題であって、かつてはこれを自由に議論したし、ここに「後退と反動」などといった要素は存在しないという。
もとより彼は「大物」だから「高度の自治」を時の政権に主張できる。少数民族の知識人だの僧侶だのにはできないことである。彼もそれを承知だからこそ敢えて彼らを代表して発言するのである。
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