2024.03.18 韓国の友(チング)へ        
韓国通信NO739

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

<桜咲く春の選挙>
 能登半島地震のお見舞ありがとうございました。およそ300キロ離れたわが家が揺れるほどの大地震でした。大勢の人が亡くなり、住む家を失った多くの人たちがいまだに避難生活を余儀なくされています。都会の繁栄から取り残された人たちです。
 今、わが家の近くにある木蓮が白い蕾をつけています。この土曜日あたりには咲く気配です。手賀沼公園の「河津桜」はすでに満開です。

 総選挙を来月に控えた韓国は選挙一色の状況と拝察します。
 日本と共通する所得格差、男女差別、少子化問題にくわえて、北朝鮮問題が関心事になっていることでしょう。尹大統領の発言は文字通り受け止めると今にも戦争が始まりそうです。南北の対立は日本人にとって決して「対岸の火事」ではありません。
 尹政権の与党である「国民の力」が優勢というニュースには目も耳も疑うほどです。発足以来、不人気な大統領の与党が勝利するならまさに「青天の霹靂」です。野党である「ともに民主党」の相次ぐ議員と党員の脱退、候補者選びによる混乱が伝えられていますが、史上最も危険な大統領を前に野党が内輪もめとは本当に情けなく見えます。
 争点は「戦争か平和か」「民主主義か独裁か」のはずです。
日本の主張を丸呑みして日韓間の懸案はすべて解決とした大統領。アメリカに急がされた1965年の日韓条約の二の舞。これでは日韓の真の相互理解は遠のくばかりです。韓国発の歴史改ざんが続くと考えるだけでもウンザリです。

<徐京植さんのこと>
 昨年末に急死された在日の作家徐京植さんの著書『私の西洋音楽巡礼』を読み終えたところです。朝鮮にルーツを持ち日本で疎外されながら離散者(ディアスポラ)として生きた彼の音楽エッセーです。かつてないユニークな視点から生まれた西洋音楽への理解と彼の人生観が語られています。類まれな音楽に対する感性には脱帽するばかりです。人間は人との強い絆で素晴らしい人生を送れるが、「誰でも死を前にすれば孤独なディアスポラ」というのが私なりの結論です。死を強く意識しながら、突然の死を迎えた徐京植さんの印象が強かったせいかも知れません。来日の折に京植さんについてゆっくり語り合いたいものです。手元にあるもう一冊の著書『過ぎ去らない人々』を再読の予定です。

<あらためて原発を問う―眠れない夜のために>
 不安が溢れる社会で不眠を訴える人が多い。私もその一人だ。死ぬことは絶対に避けられないので死ぬことを心配しても仕方ない。だから不眠の原因となる不安は「生きるという日常」から生まれると自己判断をしている。病気、貧困、地震や原発事故。想像すれば不安だらけだが、それは「生きている」証拠だ。不眠にはストレス解消に限ると昨夕3.11、日本原電本社前で「東海第二原発ヤメロ!」と仲間とともに叫んできました。薬を飲まずにゆっくり眠れた!     
 お元気にお過ごしください。             2024/3/12   小原 紘

2022.12.26 イマジン
韓国通信NO711

小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)

 最近、ジョン・レノンの『イマジン』のメロディがしきりに浮かんでくる。メロディばかりで歌詞がわからない。詩をなおざりにしてきたのはうかつだった。
 オノ・ヨーコの詩に由来する歌詞は、発表された1971年当時のアメリカ社会、なかでもベトナム反戦と黒人差別社会に対する怒りが投影された作品と言われる。
 中学生でもわかるやさしい歌詞。
 「この世には天国はない」から始まり、国があるから人々は殺し合い、国のために死んでいく。平和を邪魔する国と宗教ならいらないという主張が権力者たちから危険視されることもあった。だが社会に抗議して平和と平等、そのために団結を呼びかける歌は世界中から支持され広がった。

 Imagine no possessionsはこの曲の肝とも言うべき部分で、no possessions(所有のない社会)は資本主義社会への挑戦と読める。甘く切ない曲のなかに婉曲な表現ながら、飽くなき「所有への貪欲が人々を飢えさせる。だから世界の兄弟たちよ、分かち合おう!」と訴える。(https://www.youtube.com/watch?v=wARpk54fv8U これはイマジンの決定版)

 資本主義の終焉、脱成長論が多くの人の心をとらえ始めている。岸田首相でさえ「新しい資本主義」を主張するくらいだ。資本主義は人々を不幸にするシステムだということが次第に明らかになってきた。『資本論』から約100年後『イマジン』は私的所有社会の弊害を歌に、それから半世紀にわたって世界の人たちの心をとらえ愛唱されてきた。

 レノンは歌の中で二回繰り返す。
 「ボクを夢想家と思う?」「君も仲間になってくれたら、世界は一つになるんだ」と。このメロディも心に響く。
imagine.jpg
 40才で亡くなったジョン・レノンが生きていれば今年で82才。『イマジン』発表後、ベトナム戦争は終わったものの中東戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻、イラン・イラク戦争。死後も湾岸戦争、コソボ紛争、同時多発テロ、アメリカのアフガン侵攻、イラク戦争、ロシアのウクライナ侵攻と戦禍は続いた。『イマジン』が恐れたように今世界には9億人を超す人たちが飢餓で苦しんでいる。レノンの夢は悪夢となった感さえある。

 イマジン 
 想像して欲しい。地球温暖化、飽くなき軍備拡張、不平等社会のなかで、夢想し、希望を持ち続ける人が大勢いることを。イマジン! 
 平和のために先制攻撃も辞せず、脱炭素化を口実に原発を増やそうとする。命より経済を優先させる発想は一体どこから生まれ何を意味するのか。人々が助け合って平和に生きることができればそれに勝るものはない。You may say I`m a dreamer。
 私たちは決して一人ではないと歌ったジョン・レノンの夢は生き続けている。

2022.09.17 コロナ禍のなか、チベットの教え子たちと
――八ヶ岳山麓から(394)――
                          
阿部治平 (もと高校教師)

 この夏、かつて留学を援助したチベット人の元学生が一人、二人とカラマツ林の中の我が家を訪ねてくれた。いつもだと家族ぐるみで来るのもいるのだが、今は新型コロナ感染が終息しない中だから仕方がない。
 いずれも20年くらい前にわたしが中国青海省の大学の外国語学部で日本語を教えた学生である。留学後日本で就職したものも、帰国して教職に就き再留学したものもいる。
 元学生らのその後の話を聞いて、わたしは笑ったりおどろいたりしたが、そのなかから印象深かったものをここに紹介したい。

 わたしは「トン」がいまもあるか聞きたかった。
 私がかの地にいたころ、伝統的なチベット人社会では、殺人・傷害などの刑事事件も、金銭トラブル・男女間のもつれ・馬のしっぽ切り(侮辱行為)などの民事事件も、すべて「トン」という民事賠償で解決していた。
 もめごとといえば、冬虫夏草の採取地や放牧地をめぐる集落間の境界争いがその典型であり、死傷者を出すことも珍しくはなかった。集団抗争では双方が加害者であり被害者になることがあったが、そういうときは双方が損賠賠償をした。
 「トン」では、現金はもちろんだが、羊やヤク(高寒環境に適した毛の長い大型の牛)、馬などの家畜、衣類、金銀、さらにはチベット大蔵経のような仏典も賠償にあてられた。
 青海省司法当局はこの慣習法と、1970年代末に施行されたばかりの現行刑法の相克に悩んでいた。集団抗争に現行刑法を適用しようすると、特定の個人を加害者と特定しなくてはならない。そうすると、「あいつばかりがやったんじゃない」という不満が生まれた。また慣習をある程度認め、「トン」と懲役を重ねると刑が重すぎるという不満が生まれた。これが昂じると抗争した双方の集落が役所に押しかけたりした。

 牧民出身の学生が「『トン』?……あることはあります。しかし、集落間の争いは減って交通事故が増えています。いずれも基本的に現行刑法で処罰されます」といった。そして「あることはある」という例を話した。
 ――60年前、1958年の春節(旧暦正月)が近づいた頃、黄河最上流部の草原で、行方不明になっていたA氏の遺体が発見された。狼に食いちらされていたものの腐敗していなかったので鉄砲で撃たれ荷物を奪われたことがわかった。1958年前後は、チベット人地域各地は叛乱と鎮圧で混乱し、強盗・略奪はどこにでもあった。
 時は過ぎて60年後の2018年のある日、ユガニンのB氏は村長からチョガルゴンパから人が来たと告げられた。その人は60年前に殺されたA氏の娘婿のC氏であった。C氏はB氏に、義父Aを殺したのはお前の父親だと告げた。
 B氏はすこしも驚かず、60年前の父親の犯罪を率直に認めた。というのは、B氏の父親は95歳で死ぬ直前、自分は銃でA氏を殺し、馬と食料を奪ったとうちあけ、「もしこのことでA氏側のものが尋ねてきたら、必ず罪を認めてほしい」と再三懇願していたからである。
 C氏はB氏に「トン」20万元(1元15円として300万円)を要求した。個人では到底支払うことはできない額である。そこで「スワ」という集落のもめごと調停人が進み出て、その要求額を17万元と馬2頭の「トン」 にまけさせた。さらにB氏の集落全体でこの「トン」を負担するようにした。

 「カネを出すのを嫌がる人はいなかったかのかね?」
 「いません。それぞれの経済状態に応じて出しました。馬を盗めば『トン』を共に負担し、人が死ぬと共に喪に服するという諺どおり、集落全体が『共に』負担しました」
 むかしは、放牧地の境界争いが勃発すると、集落の長が檄を飛ばし、牧民はみな武装して出陣し流血の争いになった。ところが彼らが学生の時代には、すでに動員を嫌がる人が生まれていた。
 80年代に入って人民公社の解散に引き続き、家畜と集落の放牧地が家族ごとに分割され、牧野の共同管理がなくなったために、トラブルが生まれても「当人同士で始末してくれ」と考えるようになったのである。
 だが、ところによっては、こんな風に慣習の力が法を超えて、まだ「トン」が生きていたのである。
 
 クラスメイトのその後の極めつきは、ダンジンの消息だった。
 「ダンジンを覚えていますか。先生、絶対びっくりしますよ」と再留学組の一人が言った。
 わたしはダンジンを思い出せなかった。「じゃあ」といって一人がLINEで中国にいるダンジンを呼び出した。
 スマートフォンに現れたにこやかな顔をみて、わたしもようやく彼を思い出した。彼は、「先生ひさしぶりです。先生のおかげサマで、僕は日本語教師の仕事に就くことができました」といった。
 ダンジンは貧しい牧民の出身だった。「白酒(焼酎)」を飲んでは酔っ払った。街頭で喧嘩をやるのはしばしばだった。学生寮は1,2階が男子、3,4階が女子になっていたが、彼は窓伝いに3階まで這い上がり、「開けろ」と女子寮の窓を叩いた。一口で言うと不良学生だった。
 授業に出てこないので、心配して迎えに行ったこともある。声をかけても、棚ベッドに丸くなって眠ったふりをしていた。いま思えば卒業後の前途を悲観してふてくされていたのだろう。

 大学の外国語学部は、彼の貧困への同情もあり低成績の困惑もあって、卒業証書は与えるが学士号は与えないという措置を取った。4年間在学したものを卒業させないわけにはいかないという妙な理屈だった。
 ところが彼は、数年後一念発起して日本の関西の私学に留学し学位を修得した。帰国後、故郷近くの大学にうまく就職できて、いま日本語の教師だという。わたしは驚きと同時に、「君、大丈夫かね?勤まるかね?」という言葉が出そうになるのをようやくこらえた。
 彼が「外国語教育の学会のためにドイツに行った時、列車の中で先生の友達に会いましたよ。お互い先生の話をしました」といったので、わたしは仰天した。
 というのは数年前、高校教員時代の同僚夫妻から、「ドイツへ旅行したとき、列車のなかに日本人らしい人が一人でいるので、こちらへ来ませんかと誘ったら、チベット人の若手学者で、あなたの元学生だった」という話を聞いたことがあったからだ。
 これを聞いたときは、チベット人学者がだれだかわからなかった。それがダンジンだったとは。しかも学会に出席するまでになっていたとは。

 わたしも思い出話をした。
 1990年代の初め、モンゴル人の友人とともに、チベット人地域の中のモンゴル人の民族島とでもいうべき地域をめざしたことがあった。行ってみると、通じるはずのモンゴル語がまったく通じなかった。わたしたちは高地障害もあって道端にへたりこんだ。
 そのとき幸いにも「どこから来たか。アメリカ人か」とモンゴル語で声をかけてくれた人がいた。あとで、この集落の言語はみなチベット語に変り、この人ともう一人だけがチベット語とモンゴル語のバイリンガルだとわかった。
 モンゴル人の友人は彼の問いに「モンゴルと日本だ」と答えた。
 「へえ、日本人をはじめてみた。日本はどこにあるか。フホホトのこっちか向こうか」
 「フホホトよりずっと東の方ですよ」
 「遠いところだね。馬で来たのか、ラクダかね。何日くらいかかった?」
 「日本からは北京まで飛行機できました。それからは汽車やバスやトラック」
 「飛行機?あの空を飛ぶやつだね。じゃあ、金持だな。羊やヤクをたくさん持っているんだろう。3000頭か、いや5000頭か?」
 「自分の飛行機じゃありません。バスのように客が一緒に乗るんですよ」
 この人は「日本人は東のモンゴルだ」といって2晩もただで泊めてくれた。朝晩ジンギスカンの画像に向かって、チベット語のお経をあげていた。

 元学生らは、わたしの話に笑った。
 テレビがあるから、いまはもう馬やラクダで日本から来るなどというひとはいない、出稼ぎだって道路工事から建築や町のレストランの服務員に変わったという。
 「ぼくの兄貴は建設労働者をやめて中古タイヤの販売をやっていますよ」と言ったのもいた。
 だが、当時は学生らの知識もそうたいしたものではなかった。彼らが卒業してから、わたしは黄海沿岸の大学に移ったのだが、そこへ数人が留学の相談に来た。そのとき黄海を見て、この海はツォ・ゴンポ(青海湖、ココノール)より大きいかと聞いたのがいたくらいだった。
 ところが彼らは日本へ留学すると、数年で宗教学や人類学、工学、農学などの学位を取り、あるものは帰国して大学の教師になり、何人かは日本で就職し研究者や技術者になった。
 彼らとともに中国の焼酎を飲み、特別注文の羊肉を食いながら、わたしは教師冥利に尽きると思った。
                        (2022・09・05)

2022.06.18  日本が武力をふやせば、まわりの国も武力ふやして悪循環に
        「いのみら通信」No.115号から
               
水野スウ (「紅茶の時間」主宰・エッセイスト)

<編集委員会から>
 石川県津幡町在住の水野スウさんは、40年近くにわたって「紅茶の時間」という名で毎水曜午後、自宅を開放し、誰でも気軽に社会のことを話しあえる場を開いているほか、2005年ごろからは、日本国憲法をもっと身近に感じてもらうため、頼まれれば全国どこへでも出かけて「出前紅茶けんぽうかふぇ」をおこなっています。そんな「出前紅茶」はすでに350カ所に及びます。
 その一方で、水野さんは、手書きの「いのみら通信」の発行を続けています。「いのみら」とは「いのちの未来がよりよいものでありますように」という願いを込めたネーミングとのことです。最新号は今年の5月13日発行ですが、その一部を水野さんの了解を得て紹介します。「いのみら通信」に関する問い合わせ先は[email protected]

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 ■9.11が世界をかえていったように、ロシア軍によるウクライナ侵攻もまた、世界を変えていくと思います。ロシアのお隣フィンランドはこれまで中立国だったけれど、大きな枠組みのNATOに入ろうとしている。スウェーデンも。ウクライナからの映像見ている人たちの中にも、ウクライナみたいになったらどうしよう、自国の平和のためには戦争もしかたない、ってそれまでとは違う気持ちになる人、ふえているかもしれません。
 
 ■日本でも、自分の国がいま攻撃されているわけじゃないのに、9条かえよう、軍事費倍にしよう、テキキチコウゲキノウリョク(っていい方やめたそうです、かわりに反撃能力)持とう、って声が前より大きくなってきています。それが日本を守るためだ、もっと強いものに守られなきゃ、って不安な気持ちは、うん、よくわかる。だけどね、こうも思うんです。日本が武力をふやせば、まわりの国もさらに武力ふやして、それなら日本ももっとふやして、って悪循環ループがぐるぐるぐるしてって、それはもうきりないんじゃないだろうか、って。
 
 ■たとえば、アメリカの核を日本に置いたら日本が強くなったように思えるかもしれない。でももしも唯一の被爆国だってこれまでずっと世界に言ってきた日本がそんなこと決めたら、まわりの国々どう思うだろう。どうやら日本は態度をガラっとかえるみたいだぞ、危険だ、って警戒されるんじゃない? それに、核を実際使うにはアメリカの許可が要って、日本だけの決定権は全くないよ。日本の平和のための選択のはずが、未来は全然、平和になりそうじゃない……

 ■世界の中には、ヒロシマ、ナガサキの被害を知らず、原爆落としたのは正しかったと思ってた人たちもいっぱいいた。だけど、ヒバクシャの方たちが、必死の想いでずっと伝えて伝えて、そうだったのか、知らなかった、そんなにも非人道的な武器だつたんだね、と気づいた人たちや国々が協力して、やっとやっと国連で核兵器禁止条約ができて、2021年1月からは核をもつことも使うことも禁止になったばかりだよ。それがよりにもよって「あの日本ですら核を」となったら、それは世界が未来に、平和に、向かう方向を決定的にかえることだと私は思います。だって世界はひとつながりで、お互いに影響しあってるのだから。

 ■悲惨な状況に頭が混乱している時ほど、立ち止まって考えるためのよりどころがきっと必要。焦る気持ちに押される前に、ちょっと待って、これは世界が平和に近づく方向だろうか? それとも遠ざかる方向だろうか? と、私は掌に握りしめた羅針盤にじっと目を凝らします。

 ■戦争をはじめるのは国ではなくていつも、ひと。こう書いてふいに、バーバラ・リーさんの名前を想い出したよ。
 9.11のたった3日後、アメリカ議会で「テロを実行した国や組織などに対して大統領が武力行使することを認める決議」が出されたんです。その時、反対したのは上院下院通してリー議員ただ一人。星条旗のもと一丸となったアメリカの人々から、リーさんは当時どれだけ激しくバッシングされ叩かれたことだろう。

 ■その時のアメリカがそうだったように、いま自分の国が危ない!と思うと、あっという間にたやすく国と自分が一つになっちゃう性質が、人間にはあると思う。たとえ国の命令やあからさまな圧力がなくても、自分を国に委ねようとしたり、自分を国に差し出そうとしたり、そうしない人を責めたりして、全体が一色に染まっていく。人々の内側から沸いてくるそんなうねりは、同じ色になろうとしないものを呑みこんで消そうとする。その中で自らの個を消さないで自分の意見を貫く、って並大抵のことじゃないだ。

 ■リーさんが2001年9.11テロ直後にとった行動。どれだけ多くの人にバッシングされようと、目の前で行われようとしている決議がどうしても正しいと思えないリーさんは、その個人としての意見を手放さなかった。大きな全体に流されずにちゃんと個のひととしてあり続けた。これって日本国憲法の13条なんじゃないの? って私は思いました。

 ■え、どういうこと? 13条って何だっけ。「すべて国民は、個人として尊重される」と書いてあるのが13条です。かつて、国のためにいのちを投げ出すのが当たり前の時代があって、その深い反省から生まれた日本国憲法(原案を書いたのはGHQだけど、その下地には憲法研究会の草案があったよ)。その13番目で、それまでは何をおいても一番の価値とされてきた「公」から「個」へと、もっとも大切なものが180度、大転換。

 ■この13条は、あなたはほかの誰ともとりかえのきかない唯一無二の存在、と言っているだけじゃない。国が間違ったことを言ったり、していると思った時は、個を消して黙るあなたではなく、自分の考えを持つ個人として行動する、そういうあなたでありなさい、と「わたし」に求めている13条でもあるんじゃないだろうか。
2020.07.03  私の「コロナ自粛」報告(2)
          ―森本薫「女の一生」初稿版の衝撃―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 「女の一生」の初稿版の台本と公演録画を見る機会があった。
その経験は私の「女の一生」観に大きな見直しを迫った。

「女の一生」とはなにか。その概要を事典はこう書いている。
■森本薫(もりもとかおる)の戯曲。5幕7場。1945(昭和20)年4月文学座により初演。明治から大正,昭和にわたる「布引(ぬのびき)けい」の半生の歩みを,日本の敗戦までの激動の歴史のうちにとらえる。日露戦争の旅順陥落にわきかえる新年に,一代で産をなした富裕な貿易商「堤(つつみ)」家の屋敷に迷いこんだ孤児の少女けいが,女中に入りやがて求められて長男と結婚,女実業家として一家の支柱となり献身する。〈誰が選んでくれたのでもない,自分で選んで歩きだした道ですもの〉というよく知られたせりふに象徴されるけいの境遇,堤家の衰運は,そのまま敗戦にひた走る近代日本の姿でもある。(平凡社世界大百科事典 第2版)■ 

《初稿版台本 堤家の屋敷・1942年1月》
 初稿版と戦後版はどこがどう違うのか。初稿版の台本を見ていく。
幕開きである。1942(昭17)年正月、舞台は堤家の座敷。
大東亜戦争緒戦の勝利に湧く提灯行列の軍歌と万歳の響きが聞こえてくる。
登場人物はけいと和子。家出した少女布引けいは05(明38)年に、堤家に女中として住み込み、09(明42)年に堤家の前当主未亡人しずに請われて温和な長男伸太郎と結婚する。けいはそのときに次男栄二へ愛情を諦めたのであった。和子は中国在住の栄二と中国人女性との間に生まれた娘3人の一人。3人はけいの誕生祝いに来日していた。けいのつぶやきは、彼女が05年新年に、この屋敷に迷い込んだ晩の回想である。

けい 今度のいくさばかりではありませんよ。私はこれ迄何度か此処に立って、今と同じやうな気持で、あゝして出てゆく人々を見送ってきました。日支事変の時、満州事変の時、世界戦争の時、日露戦争の時…何時、どの戦の時もあの人達は、あゝやつて出て行ったのです。
和子 でも、今度の戦さは今迄のどの戦さより大きいのですね。あの人達のお父様やお祖父さまが出てらした何んな戦場よりも、あの人達を待つてゐる戦場は激しく、血腥いものですわ。
けい 必ず一度は巡ってくる日だつたのですよ。昭和十六年十二月八日……今はもう去年になってしまひましたがね。明治の日清戦争からこちら、数々の戦争のすべての元に突き当る日だつたのです。私達は、もう長い間、この避けられない日の近づいてくる足音に耳をすまして来たのです。

(和子が退場してけい一人)
けい どうしたといふのだらう。あの時とそつくりだ。この部屋も、この椅子も、この机も、……何も彼も昔のまゝだ。遠い……遠い昔。もう薄れてしまつた古い絵の色のやうな数々の出来事。長い間すつかり忘れてしまってゐたのに、なんだつて今突然こんな風に思出してしまつたのだらう。明治、大正、昭和……私も随分長い間を生きて来たものだ。(軍歌)軍歌が聞える。なつかしい……明治の歌だ……万才の声、あの声にも憶えがある。丁度今日のやうにお正月の寒い夜だつた。あの時も、あんな風に、軍歌が聞え、あんな風に万才の声が聞えてゐた…… 溶暗

《戦後版台本 堤家の焼け跡・1945(昭20)年10月》
 これは戦後版の最終幕である。栄二は、中国に渡り色々な仕事をしていたが、義姉けいにも詳しいことを語らなかった。1928(昭3)年に帰国したとき、栄二は堤家から特高警察に連行される。左翼運動に従事していたのである。戦争が終わり出獄した。そして初めてこの焼け跡を訪ねたのである。けいは一人でそこの防空壕に暮らしている。

栄二 (マッチを受取って火をつける様にしゃがみ込んでけいの顔をさけながら)兄貴が亡くなったと言う事は聞いたけれど、別居のままですか。
けい ……はあ。でもどう言うものですか最後の時(42年)になって突然此の家へ訪ねて来てくれまして息を引き取る時は私の手を持ってそのままでした。
栄二 (顔を上げて)そうですか、それはよかったですね。兄貴もやっぱり貴女と仲なおりがしたかったのですよ。それが夫婦です。其の話を聞いただけで、わたしはあの死物狂いの汽車に揺られてやって来た甲斐があると思います。
けい ええ。でも私此の頃になって時々考えるんです。私の一生ってものは一体何だったんだろう。子供の時分から唯もう他人様の為に働いて他人様がああしろと言われればその様にし、今度はそれがいけないと言って、身近の人からそむいて行かれ、やっとみんなが帰って来たと思ったら、何も彼もめちゃめちゃにされてしまい、自分て言う者が一体どこにあるんだか……。
栄二 今までの日本の女の人にはそう言う生活が多すぎたのです。しかしこれからの女は又違った一生を送る様になるでしょう。
けい そうでしょうか。そうでしょうね。そうあってほしいと思います。

《上演までの一年と私の幻視》
 森本は44年6月公開の劇映画「歓呼の町」(松竹・木下恵介監督)の脚本を書いた。東京下町の建築撤去疎開を描いた愛惜すべき小品である。企画だけに終わったが、木下作品「神風特別攻撃隊」の脚本も書いた。実際に10月下旬から比島沖海戦で航空特攻が開始されている。戦局は急速に悪化していった。年表風に記せば次の通りである。

1943(昭18)年
日本軍ガダルカナルから「転進」 連合艦隊司令長官山本五十六戦死(国葬)
アッツ島日本軍「玉砕」 学徒出陣壮行式
1944(昭19)年
サイパン島陥落 東条内閣総辞職(小磯内閣へ) 比島沖海戦で神風特攻開始
B29の東京初空襲
1945(昭20)年
東京大空襲 米軍沖縄本島上陸・戦闘終了 戦艦大和米機攻撃で沈没  

「女の一生」初演は、沖縄戦の最中・大和沈没の直後、4月11日から6日間12回公演されたと記録されている。関係者の回想や証言を読んで私は、公演が日本演劇界による最後の抵抗だっと感じた。いつ死ぬか分からぬ状況下で、演者も観客も最後の知的空間の形成に命を賭けたのだと思った。

森本は初稿版で、堤けいに前述のセリフに続けてこう言わせている。
■この戦さは私達の国が興るか亡ぶかの岐れ道になるかもしれません。けれどまた、このいくさで私達が死んで、生きるための浄めの火にもなるでせう。私達の国、日本だけではありません。あなたの生まれた中国だけでもありません。私達と同じ皮膚の色をし、同じ目の色をした人達の住んでいるすべての国にとつてさうなのですよ。■

《舞台は静寂に包まれたであろう》
 この台詞を杉村春子が発したとき東横映画劇場の館内は異様な静寂に包まれたであろう。それは大日本帝国の敗北を表現していた。演劇空間は近代日本の挽歌を詠ったのである。読者はそれはお前の感傷だと問うだろう。敗北の詩が、なぜ抵抗なのかと難ずるだろう。
しかし私は幻視したのである。森本薫が記し杉村春子が発声したとき、居合わせた者たちは、近い将来生起する事態のもたらす、悲しみの深さ、先行きへの不安、敗北の恥辱、を感じた。作者は人びとの心情をよく表現してくれたと感じた。

私は、これまで初稿版を見たことがなかった。戦後版の焼け跡場面の追加は、「戦後民主主義的」言説の追加としてプラスに評価してきた。戦後の女性観客の支持もそれによるところが大きかろうと考えてきた。その気持の基本は変わらない。
しかし、初稿版のけいの台詞に大きな衝撃を受けたことも確かである。なぜそう感じたのかこれから考えていきたい。

2019年秋に初稿版の上演をしたのは、川田典茂(かわだのりしげ)という青年の率いる演劇集団「ドナルカ・パッカーン」である。「女の一生」の前にも、彼らは注目すべき作品を三本も上演している。この組織に触れる紙数がないが、彼らの問題意識は今日の世界変動に鋭く反応していると記して「コロナ自粛報告(2)」を終わる。(20/06/23・沖縄慰霊の日に
2020.06.17  COVID-19のせいで…
          韓国通信NO640

小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)

 家にひきこもりの生活。食事したと思ったら、また食事? 一日中、食事ばかりしている感じ。読書と韓国語の勉強、NHKの「らじるらじる」でクラシック音楽を聴く毎日。日本語教室がオンライン授業になった。運動不足で体重計に乗るのがコワイ。
 NHKの報道のひどさには涙も涸れはてた。テレビ朝日の「報道ステーション」も元気がない。政権に忖度した経営トップによる締めつけのウワサが聞こえてくる。「ニユース23」は、まともに見ることができる。日曜の朝の「サンデーモーニング」は欠かさず見る。一週間がなんとなく過ぎ去る。こんな毎日、早く出口を見つけなければいけない。
 人の名前が覚えられない。『水滸伝』(北方謙三)を読みだしたが、登場人物の多いことに驚く。全11巻読み切れるか心配だ。梁山泊に集い、腐敗した社会を変革する群像は魅力的だ。
 運転免許の更新のために認知機能検査を受けた。辛うじて合格。胃と大腸の内視鏡検査、こちらも辛うじてバス。辛うじて生きている感じがする。
 書きたいことがあるのに書けない。コロナに負けているのかも知れない。パソコンに向かう。

<韓国を知る>
 韓国を知りたいと思い続けて40年になる。長い航海だが、自分を知る旅でもある。「近くて遠い国」は、近づいたと思うと非情にも遠ざかる存在だ。歴史書を読み、言葉を学び、旅もたくさんした。韓国人の友だちがたくさんできた。
 「韓国通」という言葉が嫌いだ。韓国通といわれる人たちには、もの知り顔で語り、韓国を不当に貶めてきた人たちが多い。歴史改ざん勢力と韓国通には重なるところがある。知ることと、語ることに謙虚でありたいと思う。
 私とほぼ同年配で韓国語を勉強して、韓国の日本大使をつとめた人がいる。彼は毎週水曜日の大使館前の抗議集会を見続けてきた。得意とする韓国語で、彼は誰とどのような話をしてきたのか。韓国で何を見、何を学んだのか。外務省を退職後、現在は反韓、嫌韓の先頭に立ってテレビや新聞、雑誌で活躍している。彼は徴用工訴訟で韓国大法院が損害賠償を命じた三菱重工の顧問だったことで知られる。あきれてコメントもしたくない。
 最近、ソウル以外の地方を旅することが多くなった。地方の人たちと話ができるのは楽しい。子どもやお年寄りと話をするのを目標にしているが、子どもはともかく、地方のお年寄りの言葉は分かりにくいので敬遠気味だが、地方には新しい発見があり刺激に満ちている。
 ソウルには国旗(太極旗)を掲げて「文在寅はアカだ!」と叫ぶ集団がいる。政権の批判勢力の主張をせっせと日本に送り続ける特派員と私は違う世界に住む。
 韓国の空気を吸ってみたいと思うのだが、コロナで出入国が制限されて当分行けそうもない。

<注目の韓国ドラマ『ハンムラビ法廷』>
 韓国映画の国際的評価は高まる一方だ。『パラサイト- 半地下の家族』は日本でも多くの人が鑑賞し、現在も上映続行中だ。深刻な貧困問題をコミカルに描き国際的にも高い評価を得た。
 外出が思うようにできないこの時期、異色の韓国ドラマの鑑賞を提案したい。
 ドラマ『ハンムラビ法廷』である。BS211で毎週土曜・日曜午前10時から放映される。青春ドラマと紹介されるが、内容の濃さは、見進めていくうちに、ただものではないことに気づくはず。ご覧になるなら韓国の「風」が感じられるので、吹き替えなしの字幕付きをおすすめしたい。
 COVID-19のせいで…  COVID-19のせいで… 舞台はソ ウルの中央地方裁判所。主人公はチャ・オルム判事(写真左)とイム・バルン判事(写真右)。ともに民事44部に所属。実はふたりは高校時代の先輩、後輩の関係だ。女性判事のチャ・オルムは音大から裁判官の道に進んだという変わりダネ。何故裁判官の道を選んだかはドラマのなかで追々語られるが、感受性が強く理想に燃える裁判官の卵だ。一方のイム・バルンはソウル大卒のエリート裁判官。現実的でやや体制内的だが将来を嘱望されるエリートだ。
 一回ごとにほぼ内容が完結するので途中から見ても、理解ができる。全20話。テレビ局は恋愛ドラマとしてコメディ性を強調するが、韓国の司法組織、さまざまな事件をとおして韓国の現実が見えてくる社会性のあるドラマといってよい。貧困の問題、社会正義、裁判所に蔓延する体制擁護の風潮、上司の裁判官によるパワハラ、韓国が抱えている社会問題がドラマに投影され、興味深い。判事役の二人の俳優は見ての通り。ミスキャストではないかと思われるほどの美男美女だが、回を追うごとにふたりの熱演には目が離せなくなる。
 映画にしてもドラマにしても時代の大きな流れの変化の中で名作が生まれてきたという印象が強い。韓国の民主化闘争を描いたドラマ『砂時計』(1995)、朴景利の長編小説『大地』のドラマ化 『名家の娘 ソヒ」』(2004)と比べると、軽い内容に見えるが、韓国社会をありのままに描いている点で、「ローソクデモ」の余韻、社会の変化を感じさせる。裁判所の体質、社会問題を率直に描いた後世に残る名作ドラマになるかも知れない。
 日本では刑事もの、検事ものドラマが実に多いが、司法の問題を社会問題、政治問題にまで結び付ける姿勢はとぼしく、「正義もの」「ミステリー」「人情もの」作品が定番だ。その点、『ハンムラビ法廷』は裁判所に対する忖度、タブーはなく、司法制度に挑戦的でもあり、現実を活写したような リアリティ感がある。
 現在、韓国で進められている検察改革。このドラマの舞台は裁判所だが、難しい司法の問題が一般の視聴者に受け入れられたというのも興味深い。二人の裁判官の葛藤とそこから生まれる友情。二人を指揮する破天荒で正義感に溢れ、部下思いの部長判事と、謎めいた女性事務官の存在も魅力的だ。

<辺野古に基地は作らせない>
沖縄県民の意志を無視して辺野古基地建設を続ける政府。我孫子市議会に政府に対して意見書の提出を求める請願の審議が10日行われ、全会一致で承認された。請願者は620人にのぼった。沖縄を孤立させない思いが実現するまであともう一歩。18日の本会議で正式に採択が決定する。千葉県では初となる沖縄へのエールを全国に広めたい。これまでの運動のねらいと経過と成果については後日報告したい。
2020.06.15  私の「コロナ自粛」報告(1)
          ―座して見て読んで考えたこと―

半澤健市 (元金融機関勤務)

 本稿は私の「コロナ自粛」報告である。気取っていえば「知的生活」の報告である。
 私の「コロナ自粛」は、2020年4月から6月中旬まで2ヶ月半。あっという間に終わった。時間感覚がおかしくなった。身体を動かさなかったので、「エコノミー・クラス症候群」を発症した。右下肢に血栓がたまり、心肺へ飛ぶ危険があった。1ヶ月後に再度エコーを撮ることになっている。気分はよくない。
 長編書物を読む計画は挫折した。結局、テレビやパソコンによって動画系の情報を見ることになった。何しろコロナ感染と米国危機が刻々と変化、展開したからである。そして少しだけ読書した。そのなかで考えたこと書き留めておく。

《テレビとYouTube・SNS・CNN》
 見聞したのは、「テレビ番組・TVやYouTubeの映画・SNS」。こうしてみると今時の情報源のカテゴリー分類は難しい。様々なソースの「ごった煮」が、様々な媒体の中に不完全な目次に沿って格納されている。

 テレビ地上波で観るべきものは殆どない。TBS「報道特集」、同「サンデーモーニング」が辛うじて水準である。「NHKスペシャル」を高評価する人が多いし優れた番組があることは私も同感である。ただすべて「スペシャル」を自称するのはどうか。殆どは「標準」である。BSやCS(これらを束ねたCATV)には良いものがある。

 私のCATV有料バックには「CNNj」が入っている。
 今まで熱心な視聴者でなかったが、年初から意識してずいぶん見た。大統領予備選代議員選びや立会演説会をよく見た。米国大統領選は確かに凄い。プロンプター安倍なら一回戦で敗退するのは間違いない。最近は米国のコロナ被害騒動、白人警官による黒人男性(George Floyd 氏)絞殺。この報道にかぶり付きであった。「黒人の命大事」デモとトランプの強硬姿勢を見ていると「内戦」や「革命」の現実化を予感する。
 CNNは報道現場と事実の重視、忖度のない取材手法にすぐれており日本のTV報道と雲泥の差があると感じた。米国の若者が人種を問わず期間を問わず蝟集するのを見て感動する。空中写真も印象が強い。2015年の日本で「安保法制反対」デモがあのように報道されたら戦況は変わったと思う。しかし日本の現状は、「一億総反知性化」の全開である。オモテは壮大な井戸端会議であり、ウラは壮大な夜店屋台である。それでもみんな見てしまうから劣化の悪循環が加速するのである。

《映画はテレビとYouTubeで》
 YouTubeの無料映画やテレビ録画を見るからDVDを借りることはなかった。印象に残った映画は次の通り。

 チャプリン監督の「街の灯」(1931)、「チャップリンの独裁者」(1940)、「ライムライト」(1952)(1950)の三本、山下耕作の「緋牡丹博徒」(1968)、五所平之助の「大阪の宿」(1954).マービン・ルロイの「若草物語」(1949)、杉江敏男の「愛情の都」(1958)。
 「街の灯」の最後数場面。花売り娘が浮浪者に小銭を握らせる。その感触で事情を察した娘が、You?(あなたでしたの)と聞く。You can see now?(見えるんですね?)、Yes, I can see now(はい 見えます)と短い会話が続く。手術代の出し手はその浮浪者であり、大金は悪いカネであった。この残酷なハッピーエンドは無声映画史最高の映像である。私は今度も泣いた。

 「ライムライト」で、若いバレリーナのテリー(クレア・ブルーム)のソロを見ながらチャプリンが死んでゆくと記憶していた。だが舞台の袖まで運ばれた彼はすぐに死んだ。テリーが踊り続ける遠景でエンドマークが出る。音楽は監督作曲の「テリーのテーマ」だ。
緋牡丹お竜に22歳の藤純子(現・富司純子)が扮し高倉健を相手に実に美しい。カラー保存が邦画では例外的に見事である。このシリーズは72年までに8作が作られた。
 「大阪の宿」の原作者の水上滝太郎は米欧に学んで帰国後、大手生保の経営者と文学者を両立させた。この作品は大阪勤務時の経験を背景にしている。映画では時代を大正前期から太平洋戦争直後に変えている。水上が常宿にした小旅館に集う庶民の群像劇である。エリート意識が出がちな主人公と貧困と戦う庶民の対立と和解を描く佳品だ。佐野周二、乙羽信子、川崎弘子、左幸子に藤原鎌足らのベテランを配する。
 「若草物語」は初めて見た。この49年版は、長姉が新人エリザベス・テーラーだが次女ジューン・アリスンが明るい演技で圧勝。真面目なカトリック映画である。
 「愛情の都」を見たのは偶然。YouTube映像の解像力が良かったからである。宝田明、司葉子コンビを中心に草笛光子、団令子、淡路恵子、小泉博、河津清三郎ら共演。経営者の不良息子宝田が女遊びの果てに司と結ばれる話。ある誤解から司が一時「転落」して汚れ役をやるのが見所である。高度成長助走期のエンタメ作品である。

《蟄居した文学者はなにをどう書いたか》
 横光利一の短編「夜の靴」と保田与重郎の「明治維新とアジアの革命」を読んだ。
 「夜の靴」は敗戦直前、横光一家四人が山形県の田舎に引っこんだ記録である。寺の一隅を借り四ヶ月ほど滞在した。仕事を作家と知らせぬ主人公が、農民たちと打ち解けるさま、自らの緊張も次第に解かれるさま、住民の知恵ある生活のさま、が淡々と書かれる。私は横光のリアリズムと清廉な気持ちに感服した。河上徹太郎は解説で「作者の人間性が練れて重厚さを加えている点で、例えば『夜の靴』を氏の最大傑作に挙げても敢えて不服はない位に評価している」とまで書いている。横光利一が表現しようとした日本人とは何だったのか。「生涯土の落ちぬ璞(あらたま)」(川端康成による弔辞の一語)の作品を読んでいきたい。
 保田与重郎は、1949年頃から執筆を再開し定期出版物を配布した。忘れられた思想家として1981年まで生存した。「明治維新とアジアの革命」は1955年の著作である。アジア唯一の独立国による明治維新がアジア諸国に自立への希望を与えたこと、徳川慶喜の先駆的言動が維新成功に大きく寄与したこと、大東亜戦争は不平等条約改正闘争に淵源していること、その敗戦はアジア諸国の独立をもたらしたこと、を挙げる。そして最後は次のように結ばれる。
 「大東亜戦争によって独立したアジアの諸国が、みな真の自主独立の国となることは日本の願いであるし又その目的である。我々の無数の同胞は、まだ十年以前に、そういう目的のため、生命を捨てて悔いなかったのである。そしてわが明治維新以来の一貫する祈念だったのである」。
 保田論文は「大東亜戦争肯定論」(林房雄)など戦後右翼の大東亜戦争の正当化論の原型を示している。一方で保田は新憲法の戦力不保持と戦争放棄を認める「絶対平和論」を主張している。それが保田の対米屈服または転向の表明なのか。偽装なのか。

《「旅愁」と「日本の橋」の作者》
 戦時に多くの知識人を捉えた「旅愁」と「日本の橋」の、二人の文学者はおのれの軌跡をどう見ていたのか。考えがまとまれば、この報告の最終回に記すつもりである。
(2020/06/08)
2020.04.04 私が出会った忘れ得ぬ人々(19)
木内幸男さん――「野放図なようで集中心が強い」

横田 喬 (作家)

 いま世間を騒がせている新型コロナウイルスのせいで、楽しみな春の選抜高校野球大会が中止になった。高校野球といえば、取手二高~常総学院のかつての名監督・木内幸男さんの面差しが想い浮かぶ。茨城出身の朴訥で飄々としている、御年八十八歳の御仁だ。

 もう三十六年も以前の一九八四(昭和五九)年十月の『朝日新聞』紙面に、私の記事がこうある。
 ――この夏、甲子園をわかせ、県民を歓喜させた取手二高球児たちの全国制覇。その伸び伸び野球を演出した前監督木内幸男(五三)は土浦市生まれ。同校監督として苦節二十八年、最後の夏を飾る劇的な栄光だった。決勝戦九回裏の窮地をしのいだ大胆的確な投手交代の采配は、「監督のプロ」の手練のほどを実証した。

 現役当時の巨人・長島の大きな写真を自宅に飾り、「野放図なようで集中心が強いところは私も同じ」。土浦市の新設私立高、常総学院に三顧の礼で迎えられ、今秋から新監督に。「五年以内にまた甲子園へ行きます」――
 実は、木内さんとは差しで二時間余もやりとりし、この分量の優に十倍は書ける中身の濃いお話を伺っている。ユーモアたっぷりで、こくがあり、当世の高校生論としても考えさせられる節が多々あった。企画上の制約に捉われず、なぜもっと突っ込んで書かなかったのか、と未だに悔やまれる。

 この折の取手二の優勝は、誰もが「まさか」と思うほど予想外で劇的だった。決勝戦の相手は、後に共にプロ入りする全国屈指の好投手・桑田真澄と強打の四番打者・清原和博のKKコンビを擁する強豪私立のPL学園。取手二は公立校のハンデもあり、とても敵いそうにない、というのが事前の大方の感触だった。
 が、いざ試合が始まってみると、名門PLの都会ふうで緻密な組織野球に対し、茨城の泥くさく野性的な球児たちは「のびのび野球」で善戦敢闘。なんと4対3と一点リードのまま、土壇場のPL九回裏の攻撃を迎える。

 取手二のエース石田は硬くなって腕が縮んだか、PLの先頭打者にいきなり本塁打を見舞われ、あっという間に4対4の同点。動揺するまま、石田は次打者に死球をぶつけてしまう。(こりゃまずい)。テレビの実況中継を見守る私は十中八九PLのサヨナラ勝ちだろう、と踏んだ。ここで木内監督が放った手練の勝負手が後に「木内マジック」と称えられる奇策である。

 うなだれる石田をライトへ下げ、控え投手の柏葉を急遽リリーフに送る。その柏葉が一死をとるや、一呼吸ついた石田を再びマウンドへ。気合のこもった投球で石田は四番・清原を三振に、五番・桑田を三塁ゴロに仕留め、同点のまま試合は延長戦へ。取手二は十回表に五番の捕手・中島の3ラン・ホーマーなどで8対4の劇的勝利を収め、甲子園球場をうずめた大観衆を沸かす。
 急場での控え投手起用は、今で言うワンポイント・リリーフ。当時はプロ野球でも珍しく、ましてや高校野球では見られぬ変則的な采配だった。が、木内監督の脳裏には石田や柏葉の正念場での心理状態や力量発揮に対する的確な見極めがちゃんとあり、成算が十分あっての一手だったのだ。

 木内さんは、こう振り返る。
 ――試合で勝つにはチームプレーが肝心。ランナーが出たら、打者は鋭くゴロを転がすのが鉄則で、大振りして凡フライでは駄目。が、いつ頃からか、言う通りせん子に「こら!」と叱っても一向に怖がらず、効き目がなくなった。何か手はないか、と頭をひねりました。

 で、一計を案じる。子供らは小遣い銭が減るのを何より嫌がる。監督の指示に違反したら罰金を取る仕組みとし、違反一回に付き罰金十円と取り決める。一回百円ではまずいが、十円なら許容範囲ではと考えてのこと。たかが十円と言うなかれ、少年たちは懐が寒くなるのを案じる。目の色が変わり、口で言い聞かすより、よっぽど効きめがあった。

 ――練習も、単純な反復ばかりでは飽きがくる。控え選手を含め二手に分け、実戦形式の紅白試合を数多くやらす。試合の運び方を考えさすため、全員に順番で主将役をやらせ、打順の編成や投手交代なんかも一切任す。こっちはネット裏で腕組みしとればいいんだから気楽やし、あははは。
 高校野球にありがちな、しごき抜く猛練習とは対極の行き方、とも言える。交代で主将役をやらせると、指揮ぶりから度胸の有無や勝負勘の良し悪しが知れる。ネット裏で観察を重ね、個々の性格の特徴を洗い出して全員の「査定表」をこしらえ、ここぞという場面での采配に存分に生かした。

 試合形式の紅白戦もマンネリ化してはだめ。勝負に真剣になるよう、褒美と罰則を用意。前述のミス一回に付き十円の罰金が「ちりも積もれば山」、一シーズンにン千円位はたまる。勝った方は各人ジュース一本をもらって喉を潤し、負けた側は全員何㌔かのランニングを課される決まりに。
 自主性といえば、木内監督は選手たちの男女交際を公認。彼らは好きな女の子の名前をバットに記し、そのご利益もあってかヒットを連発したという伝説も生んだ。木内野球は管理野球の真逆を行く「のびのび野球」だったのは確かなようだ。

 公立の取手二高での木内さんは教員身分でなく用務員扱いのため、月給は六万二千円という薄給。糟糠の妻・千代子さんは質屋通いや新聞配達をしたり、キリンビール取手工場へ働きに出て家計を支えた。暗い話を好まぬ木内さんはからりと明るく、こう笑い飛ばした。
 ――二十何年も監督をやれば、野球部の教え子たちが取手の街中にわんさといる。居酒屋で飲んでも、八百屋や魚屋で買い物をしても、「(懐の怪しい)監督から金が取れるかい」と全部ただ。だから、素寒貧でも何とかかんとか、やってこれたんですわい。

 郷里の土浦に誕生~開校三年目の私立高・常総学院から三顧の礼で迎えられ、取手二の全国優勝を置き土産に八四年秋、同学院野球部新監督へ。金銭には恬淡としていて、自伝によると学校側の「契約金二百万円、月給三十五万円」という条件を自身の申し出で「契約金百万円、月給二十五万円」に下げてもらった、という。「最初から沢山もらわん方が気が楽で、伸び伸びやれるから」。

 公約通り、就任三年目の八七年春の選抜で甲子園初出場を達成。同年夏の選手権大会で甲子園準優勝。以来、常総学院を甲子園常連の野球名門校として着実に定着させていく。七十代を迎えた今世紀に入り、二〇〇一年の選抜では強豪校を相手に次々と接戦をものにし、決勝で仙台育英を七対六で降し初の全国優勝。〇三年夏の大会決勝では現在米大リーグで活躍中のダルビッシュ投手を擁する東北高と対戦。バントを使わない強攻策で打ち崩し四対二で快勝し、見事優勝している。

 取手二高~常総学院と二十代から八十歳の高齢になるまで高校野球の監督一筋に五十一年間、まさしく空前絶後の野球人生と言っていい。甲子園出場は春七回で優勝・準優勝が各一回、夏十五回で優勝二回・準優勝一回。

 常総学院で教えを受けた仁志敏久氏(元巨人・現「侍ジャパン」コーチ)は言う。
 ――言動の一つ一つにちゃんと理由があった。選手自身がしっかりと自分の意見を持つ、そんな自主性のある野球を教えてもらった。黙ってついて来い式で選手を型にはめがちな日本の高校野球界では珍しいタイプの指導者です。
 プロ野球でも活躍した松沼兄弟(取手二高出身)や仁志氏ら数々の名選手をはじめ、教え子からは高校野球や社会人野球の監督が五人も誕生している。「木内野球」のDNAは着実に拡大再生産を遂げつつある。

2020.03.27 ヤマアラシに見習い猫に学ぶ
           私たちに本当に必要なものは何?

杜 海樹(フリーライター)

  心理学の方面で使われることも多い“ヤマアラシのジレンマ”という有名な寓話がある。ヤマアラシとは、体の大部分を鋭い針毛で覆われた小動物で、大概の動物園に行けば目にすることができる動物だ。そのヤマアラシは、冬の寒さを凌ぐ時、他の動物同様に仲間同士が身を寄せ合って暖を取るというのだが、体毛が針毛であることから、近づきすぎるとお互いを針で刺し合う結果となってしまい暖を取るどころではなくなってしまう。そうかといって離れていては寒さは防げない。ヤマアラシは近づけば痛いし遠ざかれば寒いという葛藤に悩まされることになる訳だが、次第に中間点というか双方が許容できる距離を見つけて安定していくという話だ。現在のヤマアラシはというと、お互い争うことなく針毛を折り畳んで皆仲良く並んで温々と暖まっているという。人間社会にもこうした芸当が当たり前の様にほしいところだ。
 
 かつて、宮城県石巻市沖の田代島という小さな島に“垂れ耳ジャック”という名の人気者の猫がいた。片耳がペコンと垂れていたことからそう呼ばれていた猫で、人間のアイドル歌手顔負けの人気があり、猫好きの間ではかなり名の通った猫であった。人気者の猫というと、丸々と太っていて可愛らしいとか、子猫の様に甘えてくる等のイメージで想像されるかと思うが、ジャックの場合は全く違っていた。その風貌は人気という言葉から連想するには余りにもかけ離れていて、常にオドオド、毛はボサボサ、隅っこ暮らしの毎日・・・といったとても残念な雰囲気満々の猫であった。だが、そんなジャックを人々は次々と応援したのであった。ジャックの姿は、どこか公園の片隅に佇むホームレスの様でもあり会社の隅に追い込まれた窓際族の様でもありで、存在し続けていること自体が人気の源泉であったという珍しい猫であった。人間にもジャックのような魅力がほしいところだ。

 そのジャックの棲んでいた田代島は別名“猫の楽園”とも呼ばれている猫島だ。元々は養蚕のネズミよけとして猫が飼われていたというが、次第に半野生化し、現在は漁業の守護神的存在として島の地域猫として暮らしているという。その田代島に、2011年3月11日、大津波が襲った。島は10メートル程の波にのまれたという。震災当時、島の猫たちはどうなった…という心配の声が飛び交った訳だが、何と猫たちは真っ先に高台へと走って逃げ、ほとんどの猫たちが無事だったという。断っておくが、島の猫たちに大津波の経験があるわけもなく、ましてや避難訓練など受けたことは当然ない。地震の後には津波が来るとか、高台が安全だとか誰かに教えられた訳ではない。それにもかかわらず高台へ一目散に逃げたというのだから驚きだ。人間にも猫の様な基本性能がほしいところだ。
2019.12.16 『ぼくはイェローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んだ
―平成おうなつれづれ草(11)―

鎌倉矩子 (元大学教員)

ブレイディみかこ著『ぼくはイェローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社、2019)を読んだ。新潮社の月刊情報誌『波』に連載されていたものだが、最初の16回分が単行本化されたと知り、もう一度読みたくなったのである。
本書は私に、私の知らなかった英国を運んできた。それは、「えっ、今の英国はそうなっているの!」という驚きを私にもたらした。
舞台となるブライトンは、白人労働者が多いまちである。「白人労働者が多い」とは、「貧しい与太者が多い」の代名詞であるらしい。しかも、アフリカからの、中東からの、東欧その他からの移民が、それに混じって暮らしている。公営住宅を購入・改装してお洒落に暮らすミドルクラスも混じるようになった。LGBTが多く、ママが二人の家庭、パパが二人の家庭の子も稀ではない。
多様性の見本市のようなところ、それがブライトンだ。その中で息子が育ち・育てられていく様子が、たくさんのエピソードによって綴られている。話は中学校に入るときに始まる。

「元・底辺中学校」という選択
英国ではこどもが通う小中学校を、公立校であっても保護者が選ぶのだという。
みかこさんの夫はアイルランド人である。二人はともにカトリック家庭の出身であるところから、息子の小学校にはカトリック校を選んだ。そこは市のランキングで常にトップを占める名門校で、富裕な家庭の子が多く、みんなが仲良しで、息子はそこで幸せに過ごした。そのまま中学もカトリック系へ進むと誰もが思っていたが、ある日近隣の公立中学校から見学会への招待状が届いたことで、思わぬなりゆきとなる。
その中学校は、以前は「底辺中学校」にランクされていたが、いまは中ほどに上昇しているので、みかこさんが勝手に「元・底辺中学校」と呼んでいるところだ。見学会に行ってみると、校長も教師もフレンドリーで教育熱心。音楽教室の装備もイケているし、生徒たちは楽しそうだ。カトリック中学の見学で、教師が怠けものを見放している光景を見たことがあるみかこさんは、「元・底辺中学校」をすっかり気に入ってしまうが、しかし息子に、そこに行けとは言わなかった。
夫は、息子が本当にそこに行きたければ行っていいが、俺は反対だと言った。理由の第一は、「あそこは白人だらけだから(お前はそうではない)」。この裏には、むしろ中富裕層社会のほうが人種的多様性に富んでおり、ポリティカル・コレクトネス(=弱者の不当差別をしない)が守られているという事情がある。第二は、「誰もが行きたがるカトリック校への入学特権をわざわざ捨てることはない(わざわざ階級を下がることはない)」である。
最後に息子が、「元・底辺中学校」を選んだ。

子どもとレイシズム(人種差別)
中学校に通い始めた息子は、はじめてレイシズムの現実を味わう。
ある日は街で、知らない車が彼の前に止まり、男がわざわざ窓をあけて、「ファッキン・チンク!」の言葉を投げつけてくる(チンクは中国系東洋人種に対する侮蔑言葉)。
ある日は学校で、一緒にミュージカルの練習をしている友人ダニエルが、黒人の女の子に侮蔑的な陰口を叩くのを聞いてしまう。「ブラックのくせにダンスが下手なジャングルのモンキー。バナナをやったら踊るかも」と笑っていたのだ。
帰宅してからも憤りがおさまらない息子に、みかこさんがかける言葉が印象深い。
「無知なんだよ。誰かがそう言っているのを聞いて、大人はそういうことを言うんだと思って真似しているだけ」
「つまり、バカなの?」
「いや、頭が悪いってことと無知ってことは違う。知らないことは、知るときが来れば、その人は無知でなくなる」
ダニエルは頑固で、二人はなかなか仲直りできない。変声期を迎えたダニエルを息子が助けようとしても、「そんな春巻きを喉につまらせたような東洋人の声は嫌だ」と言い放つ始末だ。
そういう二人の距離が一挙に縮まるシーンも印象的だ。ミュージカル本番の日、ダニエルは舞台で失声してしまう。危機を救ったのは息子だ。とっさに舞台裏から大声で歌い、ダニエルは口パクでその場をしのいだ。舞台を終えたダニエルは息子に「サンクス」と言い、携帯番号をたずねる。「お前教えたのか?」と聞く父親に息子は答える。
「うん。教えない理由はないから。それに無知な人には、知らせなきゃいけないことがたくさんある」

貧しい友だち
息子のバンド仲間のティムは貧しい。「どんな夏休みだった?」と聞いたら、「ずっとお腹が空いていた」と答えたほどに貧しい。母親はシングルマザーで、一家は公営の低所得者用団地に住んでいる。ティムは自分の制服が擦り切れ、兄のお古を着ているが、それを仲間にからかわれている。
息子とみかこさんは何とかしたいと思う。そこで、みかこさんが関わっている「制服リサイクル活動」の中の一着を彼に融通しようと決める。でも、「あげる」と言えばティムは傷つくだろう。妙案が浮かばないうちにティムが家にやって来る。
息子が紙袋を差し出して「これ持って帰る?」と言ったとき、ティムは一度は「いいの?」と応じたが、やはり「お金払うよ。こんどくるとき持ってくる」などと言い始め、三人の会話はもつれてしまう。ややあってティムと息子との間に交わされた会話が深い。
「でもどうして僕にくれるの?」
「友だちだから。君は僕の友達だからだよ」。
ティムは「サンクス」と言い、息子とハイタッチをして玄関を出て行った。団地へと坂道を上がって行き、立ち止まり、右手で両目をこする仕草をするのが見えた、とみかこさんは書いている。

エンパシーの時代
「ライフ・スキル教育」という教科があるそうだ。息子はこの教科が好きで成績もよい。期末試験には「エンパシーとは何か」という問題が出た(エンパシーは通常、「感情移入」「共感的理解」などと邦訳される)。
難しいなあ、という父親に息子は言った。
「簡単だよ。“自分で誰かの靴をはいてみること”(=“他人の立場に立ってみること”)って僕は書いた」
息子によれば、授業で先生が、これからは“エンパシーの時代”だと言って、ホワイトボードに大書したのだという。息子は言う。「EU離脱や、テロリズムの問題や、いろんな混乱を僕らが乗り越えていくには、自分と立場の違う人や、自分と違う意見を持っている人の気持ちを想像してみることが大事なんだって」
みかこさんは考える。シンパシーsympathyとはある種の感情(たとえば同情)のことだが、エンパシーempathyとは、もし自分がその人だったらと想像してみる力、つまり知的作業のことであると(下線筆者)。ありとあらゆる分断と対立が深刻化しているこの英国で、11歳の子どもが、いまエンパシーについて学んでいるのは、特筆に値することであると。
私の心に、最も深く刻まれた箇所である。

ぼくはたぶんヘテロ(異性愛者)
現在の英国の中学では、「ライフ・スキル」の授業の一環として、LGBTQのことが教えられる(Qはクエスチョニング)。ダニエルの父親は激怒するが、間に合いはしない。
その授業があった日、帰り道で子どもたちが、自分の性的志向についてあっけらかんと語り合う場面がおもしろい。息子とティムは「ぼくはたぶんヘテロ(異性愛者)だ」と言い、ダニエルは「僕はヘテロ以外にはありえない」とむきになる。しかしオリバーは「自分はまだわからない(Q)」と言った。彼は仲間うちでも最もマッチョな少年だというのに。そんなオリバーにダニエルはショックを受けるが、やがてこう言う。「時間をかけて決めればいいよ」
ダニエルはこれまで、差別発言が激しいので、だんだん仲間から疎んじられ、逆にいじめられるようになっていた。しかし彼は彼なりに、少しずつ変わっているようなのだ。

ぼくはどっちかというとグリーン
息子は中学2年目の半ばにさしかかった。2月、ブライトンでは、学生の多くが地球温暖化対策を訴えるデモに参加した。中学校は、優秀校の多くが子どもたちの参加を許したが、「元・底辺中学校」は許さなかった。
息子は参加できない悔しさを「仲間外れにされている感じ」だと嘆き、みかこさんは「そういう気分をマージナライズド(周縁化されている)って呼ぶんだよ」と教える。
息子はさっそくこの言葉を折り込んで自作のラップを歌い上げた。「……♪気分はマージナライズド/♪感じてるんだマージナライズド/♪いつもそうさマージナライズド」。
「ははははは」とみかこさんが笑い、「やっぱ、バンド名はグリーン・イディオット(緑のバカ)がいいんじゃない?」と言ったとき、息子にある連想が走った。
それは彼が中学校に入学したころ、ノートの端に書きつけた「ぼくはイェローでホワイトで、ちょっとブルー」の落書きである。それは母親のエッセイのタイトルにもなった。
「あれさ。いま考えると、ちょっと暗いよね。あの頃は新しい学校に不安があったし、レイシズムみたいなことも経験して陰気な気持ちになっていた。でも、もうそんなことないもん」
「ブルーじゃなくなったの」
「いまはどっちかっていうとグリーン。グリーンには『未熟』とか『経験がたりない』とかっていう意味があるでしょ。今僕はそのカラーだと思う」。
まったく子どもというやつは止まらない。ずんずん進んで変わり続ける。と、みかこさんは書く。
たしかに、たった1年半の間に、少年たちはずいぶん変わったのだ。

いまこの時代に
分断、貧困、対立、憎悪。これらは決して英国だけの現象ではない。ここ日本にも、すでにそれらは存在する。しかも年々悪化していると思われ、私はときどき、暗澹たる気持ちになる。
しかし本書は、「希望」という言葉を私に思い出させてくれた。たとえ厳しい環境であっても、たくましく、健やかに、前進する人が育ちつつあると知るとき、こころに灯るのは希望である。私が本書に惹きつけられた理由は、まさにこの点にある。
本書は息子の成長記録であるが、しかし同時に母親みかこさんの生き方の記録でもある。この純でやさしく、力に満ちた少年は、みかこさんの作品だとさえ思えるのだ。
みかこさんって何者? そう思う人は多いに違いない。1965年福岡市生まれ。保育士・ライター・コラムニスト。音楽好きが高じてアルバイトと渡英をくり返し、1996年よりブライトン在住、と本書カバー裏にはある。みかこさんがいかにしてみかこさんになったか。これについては、彼女のもうひとつの著書『子どもたちの階級闘争―ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(みすず書房、2017)を併せ読むことをおすすめしたい。
(2019/12/8記)