2025.04.11 21世紀ノーベル文学賞作品を読む(9-上)
                                            
     D・レッシング(イギリス、1930~2008)の『草は歌っている』
       ――懐疑と激情、予見力を以て、対立する文明を吟味


                     
横田 喬 (作家)


 ドリス・レッシングは2007年度のノーベル文学賞を受けた。受賞理由は「女性の経験を描く叙事詩人であり、懐疑と激情、予見力を以て、対立する文明を吟味した」。その代表作の一つ『草は歌っている』(晶文社、山崎勉・酒井格:訳)の一部を紹介しよう。

 メアリは農場を外から、金儲けのための機械として見ていた。それが彼女の農場に対する考え方であった。一貫してこの観点から、彼女は手厳しい批評を下した。しかし彼女は多くのことを全く無視していた。土壌を大切に管理する彼のやり方や、例の何百エーカーにもわたる植林についても、メアリは彼の功を認めようとはしなかった。
 ディックは彼女のように農場を見ることはできなかった。彼は農場を愛し、その一部となっていた。彼は、緩やかな季節の移り変わりと、メアリが役に立たないと軽蔑し続けている「あの細々した作物」の複雑なリズムを愛していた。

 彼女が話し終わると、ディックは矛盾する様々な感情の中で、言うべき言葉を捜しながら、黙っていた。そしてやっと例の彼独特の敗者の笑みをちょっと浮かべて、「そうだね、それでどうしたらいいんだろう?」と言った。
 メアリはその微笑を見て、わざとつれなくした。これは私たち二人のためだ、そうして自分は勝ったのだ! ディックは私の批判を受け入れた。彼女は二人がすべきことは何かと、詳しく説明し始めた。彼女はタバコの栽培を提案した。周りでみんながタバコを栽培して儲けている。私たちがやっていけない理由がどこにあろう? 
 メアリが話すことにはどれにも、どんな声の抑揚にも、一つの含みがあった。タバコを栽培し、借金返済の金をつくり、できるだけ早く農場を去ろうということであった。
 メアリの計画していることがやっと判ると、ディックはあっけにとられて応答に窮した。彼は淋しそうに言った。「それで、そういう金をすっかり儲けたら、何をするんだい?」

 初めてメアリは自信がないような顔で、ちらっとテーブルに目をやり、彼と視線を合わせるのを避けた。実際、彼女はそういうことについては考えてみたことがなかった。ただ彼女に判っていることは、彼に成功してもらいたいということ、金を儲けてもらいたいということであった。
 そうすれば望むことは何でもできるし、農場を去り、再び文化的な暮らしをすることもできるようになるだろう。現在のこの切り詰めた貧乏生活は耐え難かった。これでは二人とも破滅しそうだった。それは食い物が十分でないというようなことではなかった。金はどんなはした金でもよく使い先を考え、洋服の新調を見合わせ、娯楽を放棄し、休日をとることは永久に先へ延ばさなくてはならないというのが問題なのであった。
 消費の余裕を少々は残しながら、良心のようにちくちく責め続ける借金の重みを絶えず背中に感じているといった貧乏は、飢餓そのものより悪いものだ。メアリはそんなふうに感じるようになっていた。それにこれはディックが自ら好んでしている貧乏だけに、やりきれなかった。ディックの誇り高き自己満足を理解できる者は、本人以外にはいなかったであろう。

 この地方には、事実、国中至る処に同じように貧乏な農民は数多くいたが、そういう連中は借金に借金を重ね、いつかは思いがけない幸運が舞い込んできて助けてくれるのを願いながら、気の済むように暮らしていた。(ちなみに、彼らの陽気な無策ぶりが結局間違っていなかったことを認めなくてはならないだろう。戦争が起こり、タバコの景気が良くなると、彼らは一、二年のうちに財産をつくり上げてしまったのだ――そのため、ディック・ターナーの家は前より一層間抜けに見えた)
 そしてもしターナーが、誇りを捨て、休日をとって金をかけて遊び、新しい車でも買おうと決心したなら、そういう農民に慣れている貸主の方でも賛意を表したであろう。だがディックはそういうことをしようとはしなかった。

 それがためにメアリはディックを嫌い、彼を馬鹿だと思っていたが、しかしこれこそ彼女が未だに尊敬している彼のたった一つの点でもあった。なるほど彼は落伍者で弱虫かも知れなかった。しかし彼はこの誇りの最後の砦に立てこもって、動ずる気配を見せなかった。
 こういうわけで彼女は彼に道義心を緩めて、みんなのする通りにやってほしいと頼むようなことはしなかった。現在でもタバコは大いに儲かる仕事であった。それはいとも簡単そうに思われた。テーブル越しにディックの疲れた不幸な顔を見ている今でも、それはいとも簡単なことのように思われた。彼が決心をするだけでよかった。で、その次は? これがディックの訊ねていることであった――二人の将来はそれからどうなるのだ?

 二人が好むがままに暮らせるぼおっと霞む美しい未来について思いを馳せる時、メアリがいつも心に描くのは、昔のように町に戻って、若い女性のためのクラブに寝起きしていたあの当時の友達と付き合っている自分の姿であった。この画面にはディックは似つかわしくなかった。メアリが彼の目を見ずに、あいまいな態度で長い間、黙り込んでいると、ディックはまた同じことを質問したが、二人の要求していることが無情なほどばらばらであるために、メアリはものも言えなかった。
 彼女は考えたくないことを払いのけるかのように、目にかかる髪をまた振り払って、論点を巧みに避けるようにして言った。
「そうね、私たち、こんな暮らしはやってゆける訳がないでしょう?」
2025.03.19  二十一世紀ノーベル文学賞作品を読む(8―下)
O・パムク(1952~)の人となり――(東西)文化の衝突と交錯を表現する新たな境地を見出す
横田 喬 (作家)

 2006年にノーベル文学賞を受けた際、オルハン・パムクは「故郷の街のメランコリックな魂を探求する中で、文明の衝突と混交との新たな象徴を見出した」と評された。
 パムクは1952年にトルコの古都イスタンブールの裕福な家に生まれ、現在までの生涯のほとんどをこの地で過ごした。子供時代のこの地は、華やかな観光地ではなく、かつてのオスマン・トルコの栄光が瓦礫となった処を野犬の群れが徘徊。瀟洒な木造建築の屋敷は次々に火事に逢って焼け落ち、その後から醜いコンクリートの建物が生え出す。そして西欧化を目指す人々は過去を忘れることが近代化だと考えている。そのような処であった。

 彼は物心がついてから成人するまで画家を志していた。イスタンブール工大で建築学を学んでいたが、執筆業志望に転じ、イスタンブール大ジャーナリズム科を卒業する。1982年、初めて書いた小説『ジュウベット・ベイと息子たち』で文壇デビュー。同作はトルコの文学賞の最高権威とされるオルハン・ケマル賞を受賞した。
 翌1983年の次作『静かな家』ではマダラル賞を受賞。85年の『白い城』はほとんどの西欧語に訳され、『ニューヨーク・タイムズ』で絶賛されるなど、国際的知名度を高めた。1998年、『わたしの名は紅』は国内外各紙の書評で大きく取り上げられ、国際的ベストセラーとなり、フランスの最優秀海外文学賞など諸外国の文学賞を受けた。
 2002年の『雪』はトルコ北東、アルメニアとの国境付近の町カルスを舞台にした政治小説。前作『わたしの名は紅』をしのぐベストセラーとなった。2005年にはスイス紙へのインタビューで国内でタブー視されているアルメニア人虐殺問題に関して直言し、国家侮辱罪に問われている。

 バムクはこの作品『雪』を「最初で最後の政治小説」と規定。作品の冒頭に、「文学作品の中で政治とは、コンサートの最中に発射された拳銃のようなもので、耳障りで忌まわしく、しかも無視することもできないものだ。いま、我々はこの醜いものに触れることになる。」とスタンダールの『パルムの僧院』から引用している。この「醜いが無視することもできないもの」即ち「政治的な事柄」を題材にして、しかも芸術や詩や恋を語り、(さらにミステリーもある)素晴らしい文学作品となっている。
 この『雪』は、英訳版(2004年)が英国・オランダ・米国でベストセラーに入った。折からのイスラム過激派のテロリストの動向やイラク戦争なども同書への関心を煽ったとも言われる。

 バムクは『雪』の後、『イスタンブール――街と思い出』(2003)を出版した。二十二歳までの自伝と、文学者フロベール、ゴーティエ、ネルヴァルその他によって書かれたものや十八世紀の銅版画(エッチング)などを通して、自分の育った町イスタンブールについて語っている。
 評者である私も、2011年に、トルコ国内を十日間ほど旅行している。重宝したのは、店舗の看板がローマ字表記だったこと。アラビア文字からの切り替えは「トルコの父」と仰がれるケマル・アタチュルクの決断による。彼は全国民にローマ字の学習を強制し、自ら街頭に出て大衆の教化に努めた。トルコ人のイスラム信仰はケマルの世俗化政策によってかなり様変わりし、礼拝や禁酒などの戒律遵守は中東アラブ諸国などと比べかなり緩い。そして、その世俗化こそが現代トルコの一定の繁栄を支えている。

 バムクに戻る。彼は絶えず実験的で新しいことを作品で試みてきた。インタビューで「新しいものを試さずには、変わったことをせずにはいられない。小説は西洋の伝統だけれども、西洋のしたことを盲目的にコピーするのではなくて、自分にふさわしい、実験的な、誰もがしなかったことを今まで計画してきた。だからノーベル文学賞授賞の理由の一つが『小説芸術を変えたこと』と言われて、とても嬉しかった」と語っている。

 2005年、スイス紙へのインタビューで国内でタブー視されているアルメニア人虐殺問題に言及。国家侮辱罪に問われ、世界のメディアから注視された。翌年1月に不起訴となるが、国際的に認知された有名作家の発言はトルコの欧州連合(EU)加盟問題にも関わるトルコの人権問題に波及した。バムク自身は「長年タブー扱いされてきた問題にも触れられるべきだという意図で行った発言が歪曲された」としている。

 2006年、フランクフルト・ブックフェアで平和大賞を受賞。翌年、「故郷の街のメランコリックな魂を探求する中で、文明の衝突と混交との新たな象徴を見出した」としてノーベル文学賞を受賞。トルコ人のノーベル文学賞受賞は史上初だった。2008年、受賞第一作『無垢の博物館』を発表。近代化の波が押し寄せるイスタンブールを舞台にした恋愛小説で、2012年春には作品世界とリンクした同名の博物館がイスタンブールに造られた。

 パムクは当初から小説と現実の博物館を一体のものとして構想。同博物館は小説の内容に沿って展示が行われると同時に、1950年代から半世紀にわたるイスタンブールの市民の生活を再現するものとなっている。ノーベル賞の賞金は同博物館の設立のためにつぎ込まれたという。
 コロンビア大客員教授(1985~1988)を経て、2006年に同大の中東言語文化学科教授に就任した。バムクは日本の作家も英訳を通してよく読んでいて、特に谷崎潤一郎に「西欧に耽溺しながら、後に失望し、自国の古典に回帰したところ」に共鳴する、としている。

2025.03.17  二十一世紀ノーベル文学賞作品を読む(8-中)
オルハン・バムク(1952~)の『雪』――「9.11」以降のイスラム過激派をめぐる情勢を予見したベストセラー話題作(後)
横田 喬 (作家)

  ドアが叩かれた。Kaは台所から誰かが来たと思った。しかし、飛び出してドアを開けた。暗闇の中にイペッキがいるのを感じた。
 「どうしてこんなに遅くなったんだ?」
 「遅かったかしら?」
 しかし、Kaはその言葉を聞かなかったようだった。

 すぐしっかり抱き締めた。頭を彼女のうなじの髪に埋めた。そのまま動かなかった。自分をこの上なく幸せに感じて、待つことの苦しみを馬鹿らしく感じた。それでも、その苦しみで疲れ果ててしまっていて十分には喜べなかった。だから、間違えているとわかっているのに、遅くなったと言ってイペッキを責めて文句を言ったのだった。
 しかしイペッキは、父親が出かけるや否や来たと言った。そう、そう、台所に下りていって、ザーヒデに夕食のために一つか二つ何か言いつけたと言った。

 でもそれは一分もかからなかった。だからKaを待たせたとは全く思っていなかった。こうしてKaは二人の付き合いのごく最初に、自分の方がより夢中になっていて、傷つきやすいことを示して、力関係で自分が下にいると感じた。
 この弱さを怖れて、待つことの苦しみを隠すことは彼を不誠実にすることになるのだ。実際のところ、全てを打ち明けて、恋をしたと思っているのではなかったのか? 恋とは、もともと、全てを打ち明けることができることを求めることではないのか? 一瞬にしてこの思考の鎖をイペッキに告白するかのように夢中になって話した。

 「そんなことは皆忘れてしまってね」とイペッキは言った。
 「ここにあなたと愛し合うために来たのよ。」
 口づけした。Kaの気に入ったやわらかさの中でベッドに倒れこんだ。この四年間誰とも関係をもたなかったKaにとってこれは奇蹟的な幸せな瞬間だった。そのせいで、この生きている瞬間の肌の悦びにわれを忘れるよりも、むしろその瞬間がいかに美しいかについての思いで一杯だった。

 若い頃や初期の性的体験のように頭にあったものは、行為そのものよりもその行為をしていることだった。このことは、まず、Kaを過度の興奮から守った。それと同時に、フランクフルトで中毒状態のポルノ映画のいくつかの詳細や、なぞが解けなかった詩的論理が、目の前を通り過ぎていった。
 しかし、自分を興奮させるためにポルノの場面を思い浮かべるのではなかった。以前、頭の中に絶えず幻想としてあったいくつかのポルノの場面を思い浮かべるのではなかった。以前、頭の中に絶えず幻想としてあった幾つかのポルノの場面のその場面のその一部に、ついになれる可能性を祝っているかのようだった。

 そのために深い興奮が、イペッキに対してではなく、幻想の中のポルノの女に対して、その女がこのベッドにいることの奇跡に対してであった。服を引っ張って脱がせて、いささか激しく乱暴に、粗野に、不器用に彼女を脱がせると、やっとイペッキであることに気がついた。胸がひどく大きかった。
 肩と首の辺りの肌はとても柔らかで、妙な、知らない香りがしていた。外から来る雪明かりで、彼女を眺めた。時々きらりと光る目を怖れた。彼女の目は自信に溢れていた。イペッキがあまり脆く弱々しくないと知ることも彼は恐れていた。

 そのために彼女の髪をわざと引っ張った。それを彼女が喜ぶと、ますますやった。頭の中にあるポルノ映画の映像にあったことをやらせてみた。予期しなかった本能の音楽に導かれて乱暴に振る舞った。それも彼女の気に入ったと感じると、心の中の勝利感は同胞愛に変わった。
 カルスの町の惨めさから、自分だけでなく、イペッキをも守りたいかのように、力一杯彼女を抱きしめた。しかし思ったほど反応がなかったと感じてそれはやめた。この間、頭の片隅では、性的アクロバットの調和と進展が自分でも思ってもみないバランスで進んでいった。こうしてイペッキから遠ざかった冷静な瞬間に、彼女に暴力で近づいて痛めつけたいと思った。

 Kaが書いたメモとそして読者に伝えなければならないと私が信じる、この愛戯についてKaが書いたノートによれば、このあと互いに暴力を用い、この世の他のことは全て忘れたのだった。さらにKaのメモによれば、その愛戯の最後にイペッキが敗北を認める声で叫んだ。彼の偏執狂と恐怖に向けられていた頭の中の部分が、ホテルの一番端のこの部屋をこのために最初から自分に与えられたと考えて、互いを苛んだ苦痛に対して、悦びを感じたことを孤独感で理解した。
 と同時に、ホテルの一番遠い廊下と部屋が、頭の中でホテルから切り離されて、誰も居ないカルスの町の遠く離れた地区に置かれた。最後の審判の後の静けさを思わせる、あの誰もいない町で雪は降っていた。
 長い間一緒にベッドで横になって、降る雪を、何も話さずに見ていた。Kaは時々降る雪をイペッキの目にも見ていた。

2025.03.15  二十一世紀ノーベル文学賞作品を読む(8-上)

オルハン・バムク(1952~)の『雪』――「9.11」以降のイスラム過激派をめぐる情勢を予見したベストセラー話題作(前)
横田 喬 (作家)


 オルハン・バムクは2006年、トルコの作家として初のノーベル文学賞を受賞した。受賞理由は「生まれ故郷の街に漂う憂いを帯びた魂を追い求めた末、文化の衝突と交錯を表現するための新たな境地を見出した」。2002年に発表された小説『雪』は、世界40か国語に翻訳され、「9.11」以降のイスラム過激派をめぐる情勢を見事に予見したとして、アメリカをはじめ各国でベストセラー入りした超話題作。和久井路子訳・藤原書店刊。その肝の部分を私なりに紹介しよう。

 舞台は1990年代初頭、トルコ北東部のアルメニア国境に程近い地方都市カルス。往年の栄華も消え去り貧困にあえぐこの都市では、イスラム主義と欧化主義の対立が激化し、市長殺害事件、少女たちの謎の連続自殺事件が相次ぐ。例年にない大雪で交通が遮断され、陸の孤島と化したカルス。雇われ記者として事件を取材に訪れていた無神論者の詩人Kaは、学生時代の憧れの女性イぺッキと遭遇し情愛の炎を再燃させる。折しも発生したイスラム過激派に対抗するクーデタ事件にも遭遇し、宗教と暴力の渦中に巻き込まれてゆく・・・・・。

 だが、イぺッキはすぐ来なかった。このこともKaの一生で最大の拷問の一つとなった。待つことの死ぬような苦しみのせいで、彼は恋するのを怖れていたことを思い出した。部屋に戻るや否や、先ずベッドの上に体を投げ出した。すぐ起き上がってきちんと身なりを整え、手を洗った。手や腕や唇の端から血の気がなくなったのを感じた。震える手で、髪を梳かし、鏡に映った顔を見てもう一度くしゃくしゃにした。全てこれらのことをするのに、ごく僅かしか時間がたっていないのを見て恐怖に駆られて、窓の外に目をやった。

 窓から最初にトゥルグット氏とカディフェが出かけるのを見る必要があった。もしかしたら、Kaがトイレに行った間に彼らは行ってしまったかも知れなかった。もしその間に行ったのだったら、イペッキは今までにここに来る筈だった。もしかしたら、昨日見た部屋で香水を付けたり、化粧品を塗ってゆっくり支度をしているのかも知れなかった。一緒に過ごすことのできる時間をそのようなことに費やすとは何という間違いだ!

 彼が彼女をどんなに愛しているか知っているのだろうか? そんなことは、待っているこの瞬間の耐え難い苦痛には値しないことを彼女が来たら言おう。しかし来るのだろうか? イぺッキが最後の瞬間に心変わりして来ないだろうとの思いが、時間が経つに連れてますます確かに思え始めた。

 一台の馬車がホテルに近づいたのと、カディフェに寄りかかって進むトゥルグット氏が、ザーヒデとレセプションのジャーヴィトの手助けによって馬車に乗せられて、車の横を覆うナイロンの覆いを引いたのが見えた。しかし車は動かなかった。街灯の灯りで、その一片一片が前よりも大きく見える雪が雨除けの覆いにたちまちにして溜まった。Kaには時が止まったかのように思えた。気が狂いそうだった。すると、その時、ザーヒデが小走りにやって来て車の中に、Kaからは見えない何かを差し出した。車が動き出すと、Kaの鼓動が速まった。

 しかし、それでもイペッキは来なかった。
 待つことの苦しみと恋との違いは何か? 恋と同じく待つことの苦しみも、Kaの胃の上部と腹の筋肉の間のどこかで始まる。この中心から、胸や脚の上部と頭を占拠して拡がって行き、体中を麻痺させる。ホテルの内部の物音を聞きながら、イペッキがこの瞬間に何をしているかを考えようとして、道を通る、彼女には似ても似つかない女をイペッキだと思った。雪はなんと美しく見えることだろう!

 一瞬でも待っていることを忘れることはなんといいことか!子供の頃、予防注射を受けるために、学校の食堂に集められた時、ヨードチンキと揚げ物の臭いの中で、腕を捲り上げて、行列をして待っている時も、腹はこんなふうに痛むのだった。死んだ方がいいと思った。うちへ帰って、自分独りで居たらよかったと思った。フランクフルトの惨めな部屋にいたいとさえ思った。ここに来たことで何と大きな過ちをしたことか!
 今や詩すら思い浮かばない。誰もいない通りに降る雪をさえ、苦しくて見えなかった。それでも、雪が降っている時、この暖かい窓の前に立っているのはいい気持ちだった。これは少なくとも死ぬよりも良かった。イペッキが来なければ、死ぬかも知れないのだから。
 
 停電した。
 これは自分に送られた標だと見做した。イペッキは停電になるのを知っていたから、来なかったのかも知れない。彼の目は雪の下の暗い通りで、イペッキがいないことを説明するものを探した。イペッキが未だ来ないことを説明する何かを。トラックが一台見えた。軍用トラックだったのだろうか? 否、勘違いだった。今度は階段の方から聞こえた物音もそうだった。

 誰も来るはずがない。窓の傍を離れた。仰向けにベッドに体を投げた。腹の痛みは、深く強い苦痛と後悔に満ちた絶望感に変わった。自分の人生が無駄であったこと、ここで不幸せと孤独の中で死ぬと怖れた。フランクフルトであの鼠の穴に再び入る力はなかった。心の中を苦しめる慙愧の念は、これほど不幸せであることではなくて、本当は、もう少し賢く振る舞っていたら、人生をずっと幸せに過ごすことができただろうと判ったことだった。もっと恐ろしいことは彼の不幸せと孤独を誰も気がつかないことだった。
 イペッキが気がついていたら、待たせることなく、上がって来ただろうに! 母がこの状態を見たら、この世で唯一人彼女が憂えて、彼の髪を撫でて慰めてくれただろう。縁に氷が付いた窓から、カルスの微かな灯りと家の中の橙色っぽい色が見えた。雪がこの速度で何日も、何か月も降り続いて、カルスの街を誰も二度と見られないほど覆ってしまったら、今横になっているこのベッドで眠り込んでしまって、目が覚めたら、日の照ってる朝に母親と一緒にいたら、などと望んだ。


2025.02.21  21世紀ノーベル文学賞作品を読む(7-下)

ハロルド・ピンター(イギリス、2005年度受賞者)の人となり――劇作によって、日常の対話の中に潜在する危機を晒し出し、抑圧された密室に突破口を開いたこと
                        
横田 喬 (作家)

 H・ピンターの主著『何も起こりはしなかった――劇の言葉、政治の言葉』(集英社、2007年刊)の訳者・喜志哲雄氏(京大名誉教授、英米演劇学)は巻末の解説にその人なりや業績についてこう記す。
 ――ピンターは1930年10月10日にロンドン東部のユダヤ人の家庭に生まれた。父親は仕立て屋だった。戦中(第二次大戦を指す)は空襲を避けるために地方へ疎開することが何度もあったが、やがてロンドンに落ち着いた彼は熱心な読書家となった。彼が愛読した作家は、ジェイムズ・ジョイス、D・H・ロレンス、ドストエフスキー、ヘミングウェイ、ヴァージニア・ウルフ、ランボー、イェイツ、カフカ、ヘンリー・ミラー、サミュエル・ベケットなどだった。

 彼は映画好きでもあり、ありとあらゆる映画を見たが、ルイス・ヴニュエルなどのシュール・レアリスム(超現実主義)映画から強い印象を受けた。エイゼンシュテイン(注:ソ連の映画監督。『戦艦ポチョムキン』など初期の映画製作の中で、大きな技術革新となる 
 「モンタージュ技法」を完成させた)の作品もごく若い時に見た。
 文学趣味においても映画趣味においても、この十代の少年が異常に早熟だったことが判る。他方、彼は詩作にも熱中した。この頃に彼が書いた詩の幾つかは活字になっているが、それらは全て素朴でも平易でもない作品ばかりである。

 彼が十八歳になった時、ある決定的な事件が起こった。当時のイギリスには未だ徴兵制度があったが、彼は徴兵を忌避したのである。宗教的な理由で徴兵を忌避することは認められていたが、彼は「自分は戦争の恐ろしさに気付いているから、戦争に手を貸すことは拒否する」と述べ、裁判にかけられて罰金刑に処された。後年のピンターは政治的発言を盛んにするようになるが、そういう在り方の萌芽は既にこの頃に認められる。

 これより早く、彼は自分が通っていたグラマー・スクールへ赴任してきたJ・ブリアリーという教師によって演劇への興味をかき立てられていた。ブリアリーは生徒たちによる『マクベス』の上演を計画し、ピンターを主役に指名したのである。
 この学校を卒業したピンターは演劇学校へ進み、プロの俳優となった。そして1956年、ある劇団の仕事で知り合った女優のヴィヴィアン・マーチャントと結婚した。彼女はピンターの初期から中期にかけての作品で重要な役を演じるようになる。

 無名の俳優だったピンターは相変わらず詩作を続ける一方、『こびとたち』という自伝的な小説を執筆する仕事にも力を注いでいた(この小説は後に劇化されるが、小説自体、会話を大量に含んだものである)。1957年、ピンターは少年時代からの親友で、ブリストル大学の演劇科で学んでいたヘンリー・ウルフという人物の求めに応じ、初めて戯曲を書いた。
 『部屋』というこの作品はブリストル大学で上演され、好評だった。こうしてピンターは劇作を続ける決意を固めた、

 しかし、彼が劇作家として本格的に出発するための作品となる筈だった『誕生日のパーティ』(1958年初演)は興行的には大失敗だった。この劇の主人公は、どこかの海辺の町の下宿屋で暮らしているスタンリーという三十男である。彼はかつてはピアニストだったと称しているが、どういうわけか酷く脅えている。 彼の許へユダヤ人とアイルランド人という、奇妙な組み合わせの二人の男がやって来る。
 下宿屋の女主人は、スタンリー自身は知らないが、今日はスタンリーの誕生日であり、パーティを開くから、二人も参加してくれと言う。二人はスタンリーが組織を裏切ったと言って激しく非難し、彼を一種の拷問にかける。そして、無気力状態になったスタンリーを連れ去る。

 古風な演劇観を捨て切れない劇評家たちは、こぞってこの作品を批判した。スタンリーがピアニストだったというのは本当なのか。二人組の男はどんな組織から派遣されて来たのか。スタンリーが自分の誕生日に気付かないというのは、事実なのか。そもそも彼は正常なのか。こうしたことは一切説明されていない。劇評家たちには、この劇の<判らなさ>が気に入らなかったのだ。しかし、事情が判らないからこそ、この劇は恐ろしいのであり、今では『誕生日のパーティ』は傑作として広く認められている。
 1960年に上演された『管理人』によって、ようやくピンターは劇作家としての地位を確立した。これは二人の兄弟と浮浪者という三人の男が、ある場所の占有権をめぐって争うさまを描いているが、俗語だらけの台詞が生き生きしていて、しかも詩的であるのが好評だった。これ以後、ピンターは舞台はもちろんラジオやテレビをも活動の場とし、更に映画シナリオにも手を広げるなど、精力的に活動するようになる。

 なお、喜志氏は「あとがき」の冒頭に次のような文章を記している。「(ハロルド・ピンターのノーベル文学賞受賞の報に接し)嬉しかったが、少しも驚かなかった。劇というものの在り方を決定的に変えてしまったこの劇作家が、いずれはノーベル賞を受けることを、何十年も前から確信していたからである」。
 喜志氏は別の場所で故ピンターに関し、次のようにも記している。「彼の劇は二つの意味で革命的だった、と私は思う。先ず、彼は劇が現実を捉えるやり方を決定的に変えてしまった。旧来のリアリズム劇は、登場人物の行動だけでなく、なぜその人物がそんな行動をするのかも――つまり、行動の前提となる動機や理由をも――示すのが普通だった。だから、古風なリアリズム劇は、<分かり易い>ものだったのである。しかし、人間には、他人の行動を認識することはできても、行動の動機や理由を理解できるとは限らない。ある行動を選ぶ当の人物にとってさえ、自分がなぜそんな行動をしたのかが判らないことがある。動機や理由についての議論は、人が現実に対して下す解釈に過ぎないのだが、古いリアリズム劇は、まるで解釈もまた現実の一部であるかのような錯覚に基づいて成立していた。ピンターはこのことに気付き、現実を解釈抜きで提示した。だから彼の劇はしばしば<分かり難い>として批判されたが、現実は容易に理解できるとするのは、人間の思い上がりに過ぎないのである。


2025.02.17 21世紀ノーベル文学賞作品を読む(7―中)
H・ピンター(1930~2008、イギリス)――世界情勢について熱い政治的発言を繰り返した劇作家(講演の続き。訳者は喜志哲雄氏=京大名誉教授・英米演劇学)    
               
横田 喬 (作家)

 サンディニスタ(ニカラグアの左派武装革命組織)は完全ではありませんでした。人並みの傲慢さは具えていましたし、その政治哲学には幾つもの矛盾が含まれていました。しかし、この人たちは知性と理性と良識の持ち主でした。この人たちは、多元的で道理を尊重する、安定した社会を建設しようとしました。死刑は廃止されました。
 何十万もの貧しい農民が生きる手段を与えられました。十万以上の家族が土地の所有権を認められました。二千の学校が建設されました。目を瞠るような識字運動の結果、この国の非識字率は七分の一以下に減少しました。無償の教育制度と医療制度が実現しました。幼児の死亡率は三分の一も低下し、小児麻痺は根絶されました。

 アメリカ合衆国はこういう成果をマルクス・レーニン主義的破壊活動として非難しました。アメリカ政府の考え方によると、危険な前例が作られようとしていることになるのでした。もしもニカラグアが社会的・経済的公正の基本原則を確立させることが認められるなら、また、医療制度や教育の水準を上げ、社会的統一や国民の自尊心を現実のものとすることが認められるなら、近隣諸国も同じ問いを発し、同じことを実行するのではないか――そのようにアメリカ政府は考えたのです。もちろんその当時、エルサルバドルには、現状を打破しようとする激しい動きがありました。

 私は先ほど、私たちの周りにある「嘘の綴れ織り」に言及しました。レーガン大統領はいつもニカラグアを「全体主義の牢獄」と呼んでいました。マスコミも、それからもちろんイギリス政府も、これは事実に即した公正な言い方なのだと理解していました。しかし実は、サンディニスタ政権の下に暗殺隊があったという記録はありません。拷問の記録もありません。軍隊による暴力行為が組織的に、あるいは政府の承認を得て、行われた記録もありません。ニカラグアで聖職者が殺害されたことは一度もありません。
 実はサンディニスタ政権には三人の聖職者がいました。二人のイエズス会修道士とメリノール会(ローマカトリック系海外伝道の会)の伝道師です。全体主義の牢獄は、実際には近隣のエルサバドルとグアテマラにあったのです。1954年、アメリカ合衆国はグアテマラの民主的に選ばれた政府を打倒しましたが、二十万以上の人々が相次ぐ軍事独裁政権の犠牲になったと推定されています。

 世界でも最も優秀なイエズス会員が六人、1989年、サンサルバドルの中央アメリカ大学において、アメリカ合衆国ジョージア州フォート・ベニングで訓練を受けたアルカトラル連隊によって虐殺されました。かの極めて勇敢なロメロ大司教は、ミサを行っていた最中に暗殺されました。七万五千の人たちが死んだと推定されています。
 この人たちはなぜ殺されたのでしょう。この人たちが殺されたのは、もっといい生活がありうるし、それを実現させねばならないと信じていたからです。そう信じることによって、人々は直ちに共産主義者と見做されました。この人たちが死んだのは、現状に疑問を投げかけたから――自分たちが生まれながらに与えられた、果てることのない貧困と疾病と汚辱と圧政に苦しむ在り方に疑問を投げかけたからだったのです。
 
 第二次世界大戦が終わった後、アメリカ合衆国は世界中のあらゆる右翼軍事独裁政権を支持し、多くの場合、それが誕生するのを助けました。すなわちインドネシア、ギリシア、ウルグアイ、ブラジル、パラグアイ、ハイチ、トルコ、フィリピン、グアテマラ、エルサルバドル、そしてもちろんチリの政権です。1973年にアメリカがチリに対して加えた暴虐は、決して拭い去ることも、決して赦すこともできません。
 これらの国々では、何十万もの人々が死にました。本当に死んだのでしょうか。そして、それは全てアメリカの外交政策のせいだったのでしょうか。答えは、そう。人々は本当に死んだ。そして、それはアメリカの外交政策のせいだ、というものです。しかし、そうは見えないのです。

 アメリカ合衆国の犯罪は、系統的で恒常的で邪悪で容赦のないものでしたが、実際にそれを問題にした人はほとんどいません。アメリカには脱帽せねばなりません。それは普遍的な善の味方を装いながら、世界的規模において権力を極めて冷徹に行使してきたのです。それは明敏な、機知さえ感じられるほどの催眠行為で、見事な成功を収めています。
 私は主張したいのですが、アメリカ合衆国は疑いもなく地上最大の見世物です。それは残忍で冷徹で傲慢で非情であるかも知れませんが、同時にそれは非常に頭のいいものでもあります。セールスマンとしては抜きんでており、目玉商品は自己愛です。これは受けること確実です。アメリカの大統領は必ずテレビでは「アメリカ国民」という言葉を使うではありませんか。

 これは才気あふれる戦略です。人々が頭を使って考えるのを防ぐために、現に言葉が使われているのです。「アメリカ国民」という言い方は、安心感という深々としたクッションになってくれるのです。頭を使う必要はありません。ただクッションにもたれかかったらいいのです。このクッションは知性や批判精神を窒息させているかも知れませんが、ひどく快適ではあります。もちろん、この事実は、貧困線(最低限度の生活を維持するのに必要な所得水準)以下の生活をしている四千万の人々や、アメリカ全土に広がる巨大な牢獄の網に閉じ込められている二百万人の男女には当てはまりません。
 アメリカ合衆国はもはや低水準紛争などには煩わされたりしません。控えめであることは勿論、遠回しなやり方をすることにさえ、アメリカは意義を認めないのです。アメリカは何ら悪びれることなく、手の内を明かしています。アメリカは要するに国連も国際法も、また反対意見も(それは無力で無関係なものだと見做されています)問題にはしていないのです。私たちの道徳的感性はどうなってしまったのでしょうか。
2025.02.15  21世紀ノーベル文学賞作品を読む(7―上)
H・ピンター(1930~2008、イギリス)――世界情勢について熱い政治的発言を繰り返した劇作家(講演。訳者は喜志哲雄氏=京大名誉教授・英米演劇学)    
               
横田 喬 (作家)

 ハロルド・ピンターは2005年度のノーベル文学賞を受けた。受賞理由は「劇作によって、日常の対話の中に潜在する危機を晒し出し、抑圧された密室に突破口を開いた」。ノーベル文学賞を受けた2005年に「芸術・真実・政治」と題して行った受賞記念講演の中から、その真髄を示す箇所を紹介したい。

 大多数の政治家の関心は、真実ではなく、権力とその権力を保持することとにある。そのために不可欠なのは。大衆が無知でいること、真実について、自らの生命に関わる真実についてさえ、大衆が無知でいることなのです。そういうわけで、私たちを取り囲んでいるのは、巨大な嘘の綴れ織りなのであり、私たちはそれを糧にして生きているのです。
 イラク侵攻を正当化する理由は、サダム・フセインが大量破壊兵器を何種類も保有しており、その中には45分もあれば発射できて惨憺たる結果をもたらすものもあるというものでした。それは真実ではありませんでした。
 イラクはアルカイダとつながりがあり、2001年9月11日のニューヨークの大惨事について部分的には責任があるとのことでした。それは真実ではありませんでした。イラクは世界平和に対する脅威なのだ、と私たちは告げられました。それは真実ではありませんでした。
 真実はこれとは全く違ったものです。真実は、アメリカが世界における自らの役割をどう理解し、それをどうやって具体化させようとするかという点に関わっています。

 戦後の時期にソ連で、また東ヨーロッパで何が起こったかは誰もが知っています。すなわち。組織的な残虐行為、広範囲にわたる暴虐行為、個人の思想に対する容赦ない弾圧といったものです。こういうものは全て、完全に文書に記録され、確認されています。
 しかし、私が今言いたいのは、同じ時期のアメリカの犯罪についてはごく断片的な記録があるに過ぎない――詳細な文書があるわけでもなければ、確認されてもいない、いやそれが犯罪であったことさえ認められてはいないということです。
 ソ連が存在していたことが、アメリカをそういう行動に追いやったことはある程度は確かですが、世界全体でのアメリカの行動を見れば、好き勝手なことがやれるとこの国が確信するに至ったことは明らかです。

 主権国家に直接に侵攻するというやり方は、実はアメリカが好む方法ではありませんでした。おおむねアメリカは「低水準紛争」と呼ぶやり方を選んできました。低水準紛争とは、結局は何千もの人間が死ぬのですが、ただ、爆弾を落として一気に片づける場合よりも、死ぬのに時間がかかることを意味しています。
 これは、ある国の心臓部に病原体を持ち込み、悪性の細胞を増殖させ、それらが死滅するさまを見守ることを意味しているのです。そして民衆が屈服し――あるいは、殴り殺され――これは、同じことですが――アメリカの友人、つまり軍部や大企業が権力の座に安住するようになったら、カメラの前に現れて、民主主義が勝利を収めたと述べるのです。私が問題にしている時期においては、これがアメリカの外交政策の常套手段でした。

 ニカラグアで起こった悲劇は、極めて重要な例でした。それをここで採り上げるのは、当時も今もアメリカが世界における自らの役割をどのように捉えているかを示す、有力な証拠になるからです。
 1980年代後半のことです。私はロンドンのアメリカ大使館で、ある会合に出席しました。アメリカ連邦議会は、ニカラグアに対するコントラ(ニカラグアの反政府右派勢力)の戦闘のためにもっと資金を提供できるかどうかを決定しようとしていました。私はニカラグアの立場を代弁する代表団の一員でしたが、この代表団の一番重要なメンバーはジョン・メットカーフ神父という人物でした。

 アメリカ側の責任者はレイモンド・サイツ(当時は大使に次ぐ二番目の地位にあり、後に大使に就任)でした。メットカーフ神父は言いました。
 ――私はニカラグア北部の教区の責任者です。教区の住民たちは学校や保健センターや文化センターを建設しました。私たちは平和に暮らしていました。数か月前、コントラ軍が教区に攻撃を加えました。そして、あらゆるものを破壊しました――学校も、保健センターも、文化センターも。連中は看護師や教員を強姦し、医師を殺害しました。しかも、残忍極まるやり方で。連中の振る舞いは野蛮人のようでした。お願いです。アメリカ政府がこういう非道なテロリストの活動を援助するのをやめるように、進言してください。

 レイモンド・サイツは、理性的で慎重で、きわめて洗練された人物として高く評価されていました。外交官の世界では、非常に尊敬されていました。この人物は神父の話をよく聞き、間をおいてから、いくらか重々しく、こう言いました。「神父さん、申したいことがあります。戦争の時には、罪のない人たちが必ず酷い目に遭うのです」
 凍りついたような沈黙が生まれました。私たちはこの人物をじっと見つめました。先方は怯んだりしませんでした。確かに、罪のない人たちが必ず酷い目に遭うものです。
 とうとう誰かが言いました――「しかし、この場合、『罪のない人たち』は身の毛のよだつような残虐行為の犠牲になったのです。そしてそのための資金は、アメリカを含む沢山の国から出ていたのです。もしもアメリカ連邦議会がコントラに更に資金を提供するなら、同じような残虐行為がもっと行われるでしょう。そうではありませんか。従って、アメリカ政府は、主権国家の市民に対する殺戮行為や破壊行為を支持するという罪を犯していることになるのではありませんか」

 サイツは動揺しませんでした。「私が把握している事実によると、あなたの主張には裏付けがあるとは思えません」と、この人物は答えました。
 私たちが大使館を出ようとしていた時、一人のアメリカの補佐官が、私の劇は面白かったと言いました。私は返事をしませんでした。
 アメリカはニカラグアの残虐なソモサ独裁政権(1936年から79年まで、政治・経済的に支配を続けた)を四十年以上も支持しました。サンディニスタ(ニカラグアの左派武装革命組織)に導かれたニカラグアの民衆は、1979年にこの政権を打倒しました。それは息を呑むような民衆革命でした。

2025.01.23  21世紀ノーベル文学賞作品を読む(6―下)
『ピアニスト』の作者、エルフリーデ・イェリネク(オーストリア、2004年度受賞)の人となり

横田 喬 (作家)

 エルフリーデ・イェリネクは1946年、ウィーンの南西百キロほどの地方小都市ミュルツツシュラーク(シュタイアーマルク州)に生まれ、ウィーンで成長した。父親は労働者階級出身のユダヤ人で、大学を卒業し、化学の学士号を持つ。父方の祖父はオーストリアの社会民主主義運動の創設者の一人。一方、母親はウィーンの富裕なブルジョワの家の出で、カトリック信仰者だった。母親自身は有力企業で働き、人事管理部門のトップを務めた。

 生地のオーストリアはウィーンやザルツブルグなど中世以来の美しい街並みと壮大な王宮や荘厳なカテドラル、音楽や美術の豊富な文化遺産を誇る都市にイメージされる。あるいはアルプスの山々が聳え、自然の恵みが溢れるチロル地方に、多くの観光客が訪れることで知られている。しかし、重すぎる過去の伝統や自然遺産は、言葉を換えれば、保守性となって、社会を重苦しいものとする。また、年間二千万人もの観光客の殺到は、国内総生産の一四%を占める観光業収入をもたらすが、その源泉である貴重な自然や独自の文化の破壊をもたらしかねない。

 近い過去では、ナチズムという暴力が世界を荒らし回った時、その最初の被害者が、1938年にドイツに強制的に併合された「自分たちオーストリア人である」と考える人たちがオーストリアには多いようだ。だが、この「被害者」論が、「EUの被害者であるオーストリア人」論をはびこらせる社会的土壌を培ってきたのだ、として厳しくオーストリア人を叱る論陣も、一方で張られている。そして、その急先鋒の一人がこのイェリネクなのだ。

 もう一度、イェリネクの成長期に戻る。教育はあるが、社会的には低い階層出身のユダヤ人の父と、富裕なウィーン市民階級出身の母。この家庭は、イェリネク自身も述べているが、父と母の二つの相異なる価値観のはざまに苦しむ子供時代をもたらした。彼女自身が日常的に遊びたがったのは労働者の家庭の子供たち。だが、母はそれを禁じた、というふうに。

 イェリネクは修道院付属の小学校に通った後、ギムナジウムで高校卒業資格試験を修め、その間並行してウィーン音楽学校でパイプオルガン、ピアノ、ブロックフレーデを学ぶ。64年、ウィーン大学に入学。演劇学と美術史を専攻し、67年中退。並行して続けていた音楽学校は71年、オルガン奏者国家試験に合格し、卒業している。
 イェリネクはこの時期に文学作品の執筆を始め、叙情詩を書き、67年に最初の詩集を発表。文芸雑誌に短い小説などを掲載する。69年には、その詩作品に対してオーストリアの二つの文学賞を受賞し、作家としての評価を得ていく。その作家活動は多岐に渉り、抒情詩はもとより、ラジオやテレビ、映画の脚本を書き、また多くの戯曲を著述。ドイツのハンブルクやボン、ベルリンの劇場で、さらにウィーンのブルク劇場などで上演されている。

 それらの作品への文芸欄での批評や論文、研究書は、他のどの作家と比べてみても、数としても質としても遜色ない。小説作品も、89年の『欲望』がベストセラーになり、現代オーストリア作家、あるいは現代ドイツ語圏の作家として、重要な地位を獲得している。文学賞も、86年度ハインリヒ・ベル賞など多くを獲得している。
 だが、高い評価が寄せられるイェリネクの作品は、読者に愛され、観客から温かい拍手が寄せられる筋合いのものではない。彼女自身、「最も憎まれる作家」と自称して憚らず、アバンギャルド(前衛)、アンファン・テリブル(恐るべき仔)というレッテルを張られることもしばしば。その作品で取り扱う素材、テーマが、誰もが目を背けていたかったことであるが故に、常に文学批評の枠を超える論議を巻き起こす。そのような作家なのだ。

 代表作『ピアニスト』はミヒャエル・パネクによって映画化され、2001年のカンヌ国際映画祭でグランプリに選ばれている。2004年のノーベル文学賞受賞の際には、「自分が公の人になってしまったのは残念だ」と述べ、トマス・ピンチョンや同じオーストリア出身のペーター・ハントクの方が受賞にふさわしいのではないか、と語った。
 現代オーストリアの病弊を暴き、オーストリアの人たちを叱り飛ばし、オーストリアと愛と憎悪で結ばれているのだ。その不機嫌そうな、挑発的な物言い。グロテスクなイメージに満ちた表象。攻撃的な風刺や揶揄による社会批判。文学作品のジャンルの限界を突き破る実験的な創作行為。と列挙できるイェリネクの特徴は、オーストリア文学のある種の伝統の連続において捉えることも可能なようだ。

 オーストリア文学に明るい熊田泰章法大教授は、こう記す。
 ――イェリネクの作品で扱われてきた事ども。第二次世界大戦後の新しい世代の苛立ち。大都市での生活の中での存在の根拠への不安。「男」であること、「女」であることが、もはやそれだけでは、ある個人にとっての規範にはなりえないこと。この社会の中での人と人とのつながりが、個人のレベルでは暴力による支配と被支配となり、個々人の中の傷のその大きな現れとしてのテロリズムがあること。性的関係が互いの癒しのためにあるのではなく、相手を傷つけ、相手を抑圧する結果をもたらすこと。自分が安心できる場所をパートナーと共有することの困難、などなど。題材、テーマとしては気が滅入りそうなものばかりだ。ただ、そのような内容の作品を編み上げ、テクストを構築する言葉が、鈍くて輝きのない言葉なのではなく、軽やかに疾走する言葉であるところに、言語による作品としての特徴がある。
2025.01.22  21世紀ノーベル文学賞作品を読む(6―中)
E・イェリネクの『ピアニスト』(鳥影社・中込啓子:訳)
――社会の不条理と抑圧への反発(続き)

横田 喬 (作家)

 その後、エリカはとにかく「音楽アカデミー」における大切な修了コンサートで無力ぶりを完璧にさらけ出す。ライバルたちの招集された家族の前で、そして連れなしの一人で現れた母親の前で、彼女は期待された成果を挙げられない。母親はなけなしの金をはたいてエリカのコンサート用衣装と化粧に費やしていた。後でエリカは母から平手打ちを食らう。
 音楽の面でずぶの素人でさえ、例えエリカの両手にではなくても、その顔に能力の機能マヒを読み取ることができたからだ。おまけにエリカは、幅広く、滔々と流れゆく大衆のための選曲を全くしていなかったのだ。それどころかメシアン(フランスの現代音楽の作曲家)とかいう名前の作曲家を、母親が断固警告をしていた選択をしていたのだった。

 この選択をした子供は、こんな風では、母親と子供が既にいつも軽蔑してきた大衆の心に忍び込んでいくことはできない。前者<母親>はいつも例の大衆の、小さくて目立たない一部分だったから、そして後者<エリカ>は決して大衆の、小さくて目立たない人でありたくはないから、という理由からの選択だった。屈辱のうちにエリカは演奏していた壇上からよろよろ離れ、恥辱にまみれ、自分の発送人、つまり、母親の出迎えを受ける。元高名な女性ピアニストだった自分の先生もまた、集中力欠如だったから、と非常に激しい調子でエリカを叱責する。大きなチャンスが役立てられなかったし、もう二度とその機会が戻って来ることはない。もはや誰からもエリカが嫉妬されず、もう誰の願望の的でもない日が遠からず近づいてくるだろう。

 教授職に鞍替えする以外、何がエリカに残されているというのか。突如つっかえつっかえ弾く初心者や心のこもっていない上級過程生の前に自らの姿を見出すことになる巨匠ピアニストには、酷い措置だ。かつての時代同様、今でも未だ多くの若い人たちが芸術へと駆り立てられるが、そのうちの大半は自分たちの両親に芸術へと駆り立てられている。というのも、その両親らは芸術について何一つ理解しておらず、芸術が存在していることだけは何とか知っているに過ぎないためだ。

 おまけに両親たちはその関わりをとても喜んでいる! とはいえやはり限界も在らざるを得ないわけで、多くがまた芸術を脇へと押しやることになるのは確かなこと。エリカは教職活動をしていくうちに、才能のある者と才能のない者との間に殊更好んで境界線を引くようになり、選び出したり選び捨てたりすることで多くの事柄が報いられている。所詮、エリカ自身がかつて抜きん出た雄羊(マタイ伝に「悪人<羊たち>から善人<雄羊たち>を区別する」の一節がある)として、並みの羊たちから区別されていたことがあった。エリカの男女の生徒らはごく大雑把に言えば、ありとあらゆる種類の者が混在していて玉石混淆であり、誰も生徒たちを予めそれとなく味見したり、味付けしたりはしていなかった。

 生徒のうちに稀にしか一本の赤い薔薇は見つからない。教職初年度にエリカは早くも、クレメンティ・ソナチネ<作品三六の第1番から第6番までの全六曲の小ソナタ>の一曲か二曲の果実をかなり多くの生徒たちから掘り起こすことに成功するが、その一方で他の生徒らはぶつぶつ不平を言いながらチェルニーの初心者練習曲を未だあちこち掻き回していて、中間試験の時には引き離され、見棄てられる。理由は、両親たちが、自分の子供は直に肉や野菜入りのパイを食べるだろうと固く信じているのに、子供は葉っぱ一枚、穀物一粒を見つけようなどと少しも願わないからだ。

 三年経つとその都度ピアノ生徒は次の一段高い級に進級する必要がある。この目的のためには進級試験に合格することだ。この試験に関する最大の仕事としてエリカはより高度なツーリングを目指して、かなり激しくアクセルを踏み、怠惰な学生エンジンを締め上げなければならない。こんな風に手をかけた生徒のエンジンが時々きちんと始動しないことがある。そのような生徒が音楽という言葉を女の子の耳に滴らす時だけ、音楽と関係を持ちたいのに過ぎず、出来ればなるべく全く別のことをしたいためだ。エリカは音楽という言葉を女の子の耳に滴らすところなど喜んで見たくないし、自分で出来る時には阻止する。

 時々、エリカは試験前にお説教する。作品に相応しくない間違った精神で全体を再現するよりは、ミスタッチする方が未だずっと害は少ない、と。言ってみれば、不安で心を閉ざしている聞こえない耳に、エリカは説教をしている。その理由は、多くの生徒にとって音楽は、労働者階級の深みから芸術家の清廉さという高みへの飛翔であるからだ。生徒たちは後々同じように男女のピアノ教師になる。試験の時には、不安という興奮剤をドーピングされて、汗で滲む指が性急な鼓動に急き立てられ、誤ったキーの上に滑ってしまうのを、生徒たちは恐れている。すると、試験前にエリカは存分に解釈を話して聞かせることが可能だ。あなた方はとにかく、終わりまで弾き通すことが出来ると欲することです。

 エリカの思考は、金髪の美しい青年、ヴァルター・クレマーに喜ばしげに向かっていく。この若者は最近、朝一番に早くもやって来て、夕方には一番最後に去っていく。勤勉なところは四季咲きのベゴニアそのままだ、とエリカは認めざるを得ない。クレマーは工科大学の学生であり、そこでは電流とその有益な特性とを学んでいる。最近では生徒全部が終わるのを待ち通す。それも、初めの躊躇いがちに指で打つ練習から、ショパンの幻想曲へ短調、作品第四九番の最後の打鍵まで。まるでこの青年には有り余るほど時間があるかのように見えるが、こんなこと、大学課程の最終段階にいる学生の場合に有りそうにはない。

 非生産的にここでぼんやり座っているよりは、むしろシェーンベルク(1874~1951:ウィーン生まれ、12音技法の創始者)の練習を実践してみる方がいいのでは、とある日エリカは訊いてみる。大学の勉強で学ぶべきことはないの? 講義とか、演習とかはないの? 何もないの? 彼女は学期末休暇中だと聞かされる。エリカは多くの学生を教えてはいるけれど、学期末休暇など考えたことがなかった。ピアノの休暇と大学の休暇とは重なり合わない。厳密に言えば、芸術に関して有給休暇などは決してないし、芸術がどこまでも人に付いて回る、そして芸術家にはそれだけが正しい。

 エリカは訝る。クレマーさん、一体どうして貴方はいつもそんなに早く来るんですか? 
 もし貴方のように、シェーンベルクの33bの演奏を勉強している人なら、「楽しく歌いましょう、悦ばしき響きを」(ウィーンでよく知られた1960年発行の「子供の歌と民謡集」)などという歌集を気に入っているなんて有り得ないことですよ。ですからなぜ耳を傾けているんですか? せっせと忙しげなクレマーは嘘をつく。どこでも、いつでも人は何かしら利益を得ることができます、それがほんの僅かだけであっても。あらゆるものから教訓は引き出せます、ともっと益しな事など何も企てていないこのペテン師は言う。

 自分の兄弟たちのごく小さな事柄そしてほんの僅かな事からさえも、知識欲いかんでそれなりに、いくらか脳裏に焼き付く場合もあるのです。でもねクレマーさん、先に進んで行くには、じきにそういう事を乗り越える必要がありますよ。生徒はごく些細な事に固執している事など許されません。固執ばかりしていると、生徒の上位者が余計な手出しをしますよ。その上エリカが何か演奏してみせる時、それがただ単調な歌声を伴ったり、ファララと弾きながら歌ったり、あるいはロ長調音階の音を響かせたりするだけでも、この若い男は喜んで女性教師に耳を傾ける。

 エリカは言う。クレマーさん、貴方の年長のピアノ教師にお世辞を言わないで下さい。若い男は答える。年長だなんて問題になり得ません。それにお世辞だというのは真実でありません。それって、僕が全面的に、極めて正直に、心底から納得して言っている事ですから! この美しい青年は、自分はものすごく熱心なのだから、教材以外に何か課題を付け加えて練習しても構わない、という好意の標を時々請い求める。期待一杯の表情で女性教師をじっと見て、指示を待っている。合図を待ち構えている。馬上で高みの鞍に座っていて傲慢な女性教師は、シェーンベルクに関して辛辣な言い方をして、若い男の熱気を冷ます。つまりは、それにしても貴方はシェーンベルクをまたしても未だそんなに上手には弾けていませんよ、と。生徒は自分が見下されているという時ですら、そのような教師陣の一女性教師にどんなに喜んで自らを委ねていることか。女教師はと言えば、生徒を見下しながら手綱をしっかりと握っている。
2025.01.20  21世紀ノーベル文学賞作品を読む(6―上)
エルフリーデ・イェリネク(オーストリア、04年度受賞)の『ピアニスト』(鳥影社刊、中込啓子:訳)――社会の不条理と抑圧への反発

横田 喬 (作家)

 E・イェリネク(1946~)は2004年度のノーベル文学賞を受けた。受賞理由は「その小説と劇作における音楽的な声と対声によって、社会の不条理と抑圧を並外れた言葉への情熱を持って描き出したこと」。その魅力の一端を、代表作『ピアニスト』で探ってみよう。

 エリカ、原野の花<ヒース、淡い紫紅色、小低木の小花>。この花から娘は名前を貰っている。出産する前、母親の目の前には何かおずおずとして、優しいものが漂っていた。そのあと母親が、生身の体から勢いよく飛び出させた粘土の塊を眺めていた時に、純粋さと繊細さを保持するためには、気配りなどせずにその塊を的確に形を整えて切るという仕事にすぐ取り掛かった。あそこで一部分切り取って、向こうでも未だちょっと切るという具合に。どの子供も汚物や糞便を前にしたら、無理やり引っ張り戻さないと、本能的にそれを目指して進む。

 エリカのために母親は早期から、何らかの形で芸術的な職業をと選ぶが、それは、苦労多くして獲得した精緻な技からお金を搾り取ることができるように、という魂胆があったからだけれど、他方では平均的人間がこの女性芸術家を称賛しながら取り囲んで拍手喝采してくれることもある。今ようやくエリカには然るべく叩き込まれたあげくの繊細な技がある。今からすぐにエリカは音楽のワゴンを軌道に乗せて、即座に技巧を凝らし始める方がいい。従って、このような少女にうってつけでないのは、荒っぽいことを実行するとか、難しい手仕事や家事をすること。

 少女は生まれた時からクラシックのダンスや、歌曲や、音楽の技巧へと運命づけられている。世界的に著名な女性ピアニスト、これがどうやら母の理想像である。ということは、奸計を弄してでも子供が道を見出すようにと、母親はどこの角にでも道しるべを地中に叩き込んで、もしエリカが練習したがらない時には、娘も一緒に叩き込む。母は、エリカを嫉妬している一群の存在のことを警告するが、その群団というのは、やっと勝ち取ったものを常に邪魔しようとしていて、その殆どは例外ないくらい男性集団なのだ。

 気を逸らしちゃダメよ! エリカが到達するどんな段階でも、ゆったり休息する暇などは許されない。はあはあ息を弾ませながら、アイスピッケルにもたれかかったりしていてはいけない。なぜなら、すぐに次に進むのだから、つまり次の段階へ、と。森の動物たちは危険なほど間近に寄って来て、同じようにエリカを野獣化しようとする。競争相手たちは眺望を説明してあげたいからという口実を使って、エリカを岩礁におびき出そうと願う。

 とにかく、どんなに易々と人は転落するものなのか! 母親は子供が深淵に陥らず身を守るように、深淵とはどんなであるのか目に見えるように描写する。頂上では世界的名声を欲しいままに支配できるけれど、大抵の人々には世界的名声が首尾よく達せられることなど決してない。頂上では冷たい風が吹いていて、そこにいる芸術家は孤独であり、自分でもそうだと言っている。この母がなおも生きていて、エリカの未来が活気づいている限り、この子にとって問題になるのは唯一つ、つまり絶対的な世界のトップ。

 ママはいつも両足で大地にしっかり根を張って立っているから、下から押し上げている。そして間もなくエリカは出身の地である母なる大地<本来の意味は肥沃な土>にもう立ってはいない、そうではなくて、既に彼女は先の方へと奸策を巡らした別の大地の背面に立っている。こちらは危なっかしい大地だ! エリカは母親の両肩の上で爪先立ちして、熟練した指を突き立てて、上の方にある突端をしっかり掴む。残念ながらそれは、頂上の本物の突端だと思わせただけで、単なる岩のうちの突出部だという正体をやがて顕わにするが、エリカは上腕の筋肉をぴんと張りつめ、体を上に、上にと伸ばす。

 今では鼻が突出部の上方をちらちら覗いて見ているが、それも新たな岩をもう一つ見つけざるを得ないためだけだという結果になる。しかも初めの岩より更に切り立っている。しかし、ここでは名声という製氷工場は、早くも支所を一つ所持していて、工場の複数の製氷産物を幾つもの塊にして貯蔵しておき、このやり方で貯蔵庫のコストをそんなには犠牲にしないでいるのだ。エリカは塊の一つを舐めていて、一回の生徒コンサートのことも、早くもショパン・コンクールの優勝獲得とほとんど同じ位に受け取っている。未だ一ミリだけ足りない。足りていれば、自分は上位だ!とエリカは思う。

 母はエリカが余りにも控えめなので、ちくりと嫌味を言う。あなたはいつだってビリなのね!お上品に控えていたって何にもならない。人はいつだって少なくとも上位の三人に入っていなくてはいけない。遅れてくる物事全てはゴミ箱入りになる。このように母は話していても、子供には最優秀を願っている。だから我が子を路上に放置させたままにしないのは、我が子がスポーツ関係の試合に参加しないため、そしてまた音楽の練習をなおざりにしないという目的のためだ。

 エリカは目立ちたがらない。上品に自分の感情を抑制していて、他の人たちが彼女に代わって何かを獲得するのを待っている、と母獣は気持ちを傷つけられて嘆く。自分は我が子のために全ての事を独りで面倒を見ざるを得ないと痛烈に嘆いたり残念に思いながらも、勇ましい声を上げながら闘いに突進する。エリカは気高く自分自身を後回しにするが、そのためストッキングやパンティを買える位の細かいお恵みコインのほんの数枚さえ手に入れることはない。

 数年が経過するうちには、これはという時に誰かを見下すことにかけて、エリカは母親以上になっている。結局ああいう素人は問題じゃないのよ、ママ。あなたの判断は生半可で、あなたの感受性も十分に熟していない。専門家だけが私の職業では価値があるのよ。母親が返答する。市井の平凡な人間の称賛を侮ってはいけない。こういう人たちは心で音楽を聴いて、それで楽しんでいるの。技術を高め過ぎてヘマをしがちな人たちや、甘やかされた人、思い上がった人たちより、もっと。お母さんは自分では音楽の事は何も判らないのに、それでも自分の子供をこういう音楽という馬具用の軛に無理に入れるわけなのね。

 母と娘の間で復讐試合が正々堂々と展開する。やがて子供には、音楽の面では自分が母親を凌いでしまっていると判るからだ。子供はその母のアイドルであり、母はその分の手数料としては、ほんの少しの料金しか子供に要求しない。つまり、子供の人生だけを。母は子供の人生を自分で価値判断しても許されると思いたい。市井の平凡な人間との交際がエリカには許されない。でも、称賛にはいつでも耳を傾けていても許される。専門家の人々は残念ながらエリカを褒めない。

 素人の愛好家の非音楽的である運命が、あのグルダやあのブレンデル、あのアルゲリッチ等々を掘り出した。けれども、そのような運命はコーフートの傍を、執拗に顔をそむけて通り過ぎる。そのような運命がどのみち不偏不党の存在であるのを余儀なくされるから、粋な仮面に騙されたりしたくはない。魅力的だとはエリカについて言えない。魅力的でありたいと欲するなら、母は即それを禁止しただろう。両腕をエリカは運命に向かって伸ばすが、無益なのだ。とにかくそのような運命はエリカをピアニストに仕立てあげない。鉋屑になってエリカは地面に投げ出される。エリカには自分に何が起きているか判らない。もうずっと前から自分が巨匠であるも同然なのだから。