2016.09.30
献身無私のオルガナイザー
平和運動家・進藤狂介さんを悼む
戦後71年。この間、ひたすら平和運動に携わってきた人の訃報が相次ぐ。先日も平和運動家・進藤狂介さんが病没したのを知り、「これでまた1人、平和運動を裏方として支えてきた活動家がいなくなったか」と、惜別の情を覚えた。5月29日に死去、82歳だった。
進藤さんに出会ったのは1966年である。私は当時、全国紙の社会部記者で、この年から「民主団体担当」になった。「民主団体」なんて今では死語だが、当時は革新系の大衆団体のことをそういった。「革新系」というのも今や死語と言っていいが、当時は社会党(社民党の前身)、共産党、総評(労働組合の全国組織。すでに解散)などをひっくるめて「革新陣営」あるいは「革新勢力」と呼んだ。そして、その影響下にある大衆団体を「民主団体」と呼んだのだった。
私が取材で足を運ぶことになった民主団体は、具体的には平和運動団体、労働団体、学生団体、女性団体、国際友好団体などだったが、その中に、原水爆禁止関係団体があった。それは、3つあった。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁、社会党・総評系)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議、民社・同盟系=どちらもすでに解散)だ。
このうち、東京・港区御成門にあった原水協にいたのが進藤さんだった。当時、進藤さんはそこの専従事務局員で組織部に属していた。原水協の取材でお世話になった人の1人が進藤さんだったわけだが、ここで進藤さんと一緒に仕事をしていた同僚によると、進藤さんは山口県出身で、ここに来るまで山口県原水協の事務局員だった。抜群の事務能力を買われて原水協本部にスカウトされたのだという。
組織部での仕事は、原水協が主催する原水爆禁止世界大会の準備とか、核兵器問題や軍縮問題の資料集づくりとか、会議の議事録づくりとかいうものだったようだ。進藤さんと一緒だった元事務局員の1人は「原水協時代の彼の功績は、何といっても被爆問題国際シンポジウムの成功に寄与したことだろう」と語る。
被爆問題国際シンポジウムとは、正式の名称を「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」といい、国際準備委員会と日本準備委員会の共催で1977年7月21日から8月9日まで、東京、広島、長崎を結んで行われた。これには、海外から22カ国69人の専門家が参加し、日本側からも学者・研究者らが多数参加した。シンポジウムは、広島・長崎の被爆者を対象に調査を行い、その結果を医学的、社会的、文化的な見地から検討し、原爆が人間と社会もたらした影響を明らかにした。被爆の実相と被爆者の実情が総合的な見地から国際的に明らかにされたのは初めてだった。
いわば、日本にとっても世界にとっても画期的なイベントとなったわけだが、このシンポには、当時、対立・抗争していた原水協・原水禁の両組織も全面的に協力し、両組織に距離を置いていた市民団体も協力した。このことが1つの契機となって、この年、原水協、原水禁、市民団体が統一して世界大会を開くなど、3つのブロックの共闘が実現する。
このシンポで、進藤さんは日本準備委員会の事務局員を務めた。シンポの後に刊行された報告書の中で、日本準備委員会事務局長を務めた川﨑昭一郎氏(当時、千葉大学教授。現公益財団法人第五福竜丸平和協会代表理事)は「日本準備委員会の事務局を支えてくださった多くの方がたのなかで、とくに進藤狂介・・・の各氏にたいし、心から謝意を表したい」と述べている。
そんな進藤さんにとって、1984年、思いがけない転機が訪れる。この年、共産党が、原水禁、市民団体との共闘を推進してきた原水協執行部に「原水禁・総評と共闘してはならない」との方針を示し、これに従わなかった吉田嘉清・代表理事を、共産党の意向を体した原水協の全国理事会が解任したからである。原水協事務局の何人かは「共産党のやり方は納得できない」として吉田氏と行動を共にした。進藤さんも原水協を離れた。
吉田氏らが、新たな活動の場として「平和事務所」を立ち上げると、進藤さんもこれに加わった。平和事務所が開催した「草の根平和のつどい」で、よく進藤さんを見かけた。
また、吉田氏らが、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で被ばくしたバルト3国の国民を支援するための「エストニア・チェルノブイリ・ヒバクシャ基金」を創設すると、そのメンバーになった。バルト3国の被ばく者代表が来日すると、彼らを長崎に案内したりした。
そのころの進藤さんの活動でとくに印象に残っているのは、神奈川県の生活クラブ生協の組合員グループを“引率して”8月6日を中心に「広島行動」をやっていたことだ。進藤さんとともに広島を訪れた女性組合員たちが、原爆関係の遺跡を見学したり、平和集会に参加して討議に熱心に耳を傾けていた光景を思い出す。1990年前後のことである。組合員たちが広島へ行く前には事前学習会があった。それをアレンジしたのは、もちろん進藤さんである。
15年ぐらい前だったろうか。進藤さんは郷里の山口市へ帰った。がんを患ったため、その治療のためだったようだ。しかしながら、私はその後もほとんど毎年夏に、広島か長崎で進藤さんに出会ったものである。彼が8月6日には広島の、8月9日には長崎の反核平和集会に姿をみせていたからだ。その時の進藤さんは元気で、とても病身とは思えなかった。そのころは、「軍縮問題研究者」とか「被爆問題研究者」と名乗っていた。
ただ、昨年、歩行中に倒れ、以来、外出もままならない日々だったようだ。
「勉強家だった」「軍事問題や軍縮問題にくわしかった。文章も書けた」「いつも裏方に徹していた」「人と人を結びつけるのが得意で、根回しに長けていた」「とくに若い人を組織するのがうまかった」「献身無私の人」「けんかをすることもあったが、心がきれいな人だった」・・・進藤さんと一緒に仕事をした人たち、進藤さんと付き合いがあった人たちの進藤評である。
平和運動家のほとんどがそうであったように、進藤さんもまた、その生活を支えたのは奥さんだった。進藤さんの奥さんが言った。「脇目も振らず平和運動一筋に生きた一生でした」。
なんでそんなに平和運動に熱心だったのか。その理由を聞く機会はついになかったが、幼いころ、戦争を体験したのだろうか。残念ながら、今となっては分からない。遺体は、遺言により山口大学医学部に献体された。死してもなお世のため他人のために役立ちたい。いかにも進藤さんらしい最期と思った。
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
戦後71年。この間、ひたすら平和運動に携わってきた人の訃報が相次ぐ。先日も平和運動家・進藤狂介さんが病没したのを知り、「これでまた1人、平和運動を裏方として支えてきた活動家がいなくなったか」と、惜別の情を覚えた。5月29日に死去、82歳だった。
進藤さんに出会ったのは1966年である。私は当時、全国紙の社会部記者で、この年から「民主団体担当」になった。「民主団体」なんて今では死語だが、当時は革新系の大衆団体のことをそういった。「革新系」というのも今や死語と言っていいが、当時は社会党(社民党の前身)、共産党、総評(労働組合の全国組織。すでに解散)などをひっくるめて「革新陣営」あるいは「革新勢力」と呼んだ。そして、その影響下にある大衆団体を「民主団体」と呼んだのだった。
私が取材で足を運ぶことになった民主団体は、具体的には平和運動団体、労働団体、学生団体、女性団体、国際友好団体などだったが、その中に、原水爆禁止関係団体があった。それは、3つあった。原水爆禁止日本協議会(原水協、共産党系)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁、社会党・総評系)、核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議、民社・同盟系=どちらもすでに解散)だ。
このうち、東京・港区御成門にあった原水協にいたのが進藤さんだった。当時、進藤さんはそこの専従事務局員で組織部に属していた。原水協の取材でお世話になった人の1人が進藤さんだったわけだが、ここで進藤さんと一緒に仕事をしていた同僚によると、進藤さんは山口県出身で、ここに来るまで山口県原水協の事務局員だった。抜群の事務能力を買われて原水協本部にスカウトされたのだという。
組織部での仕事は、原水協が主催する原水爆禁止世界大会の準備とか、核兵器問題や軍縮問題の資料集づくりとか、会議の議事録づくりとかいうものだったようだ。進藤さんと一緒だった元事務局員の1人は「原水協時代の彼の功績は、何といっても被爆問題国際シンポジウムの成功に寄与したことだろう」と語る。
被爆問題国際シンポジウムとは、正式の名称を「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」といい、国際準備委員会と日本準備委員会の共催で1977年7月21日から8月9日まで、東京、広島、長崎を結んで行われた。これには、海外から22カ国69人の専門家が参加し、日本側からも学者・研究者らが多数参加した。シンポジウムは、広島・長崎の被爆者を対象に調査を行い、その結果を医学的、社会的、文化的な見地から検討し、原爆が人間と社会もたらした影響を明らかにした。被爆の実相と被爆者の実情が総合的な見地から国際的に明らかにされたのは初めてだった。
いわば、日本にとっても世界にとっても画期的なイベントとなったわけだが、このシンポには、当時、対立・抗争していた原水協・原水禁の両組織も全面的に協力し、両組織に距離を置いていた市民団体も協力した。このことが1つの契機となって、この年、原水協、原水禁、市民団体が統一して世界大会を開くなど、3つのブロックの共闘が実現する。
このシンポで、進藤さんは日本準備委員会の事務局員を務めた。シンポの後に刊行された報告書の中で、日本準備委員会事務局長を務めた川﨑昭一郎氏(当時、千葉大学教授。現公益財団法人第五福竜丸平和協会代表理事)は「日本準備委員会の事務局を支えてくださった多くの方がたのなかで、とくに進藤狂介・・・の各氏にたいし、心から謝意を表したい」と述べている。
そんな進藤さんにとって、1984年、思いがけない転機が訪れる。この年、共産党が、原水禁、市民団体との共闘を推進してきた原水協執行部に「原水禁・総評と共闘してはならない」との方針を示し、これに従わなかった吉田嘉清・代表理事を、共産党の意向を体した原水協の全国理事会が解任したからである。原水協事務局の何人かは「共産党のやり方は納得できない」として吉田氏と行動を共にした。進藤さんも原水協を離れた。
吉田氏らが、新たな活動の場として「平和事務所」を立ち上げると、進藤さんもこれに加わった。平和事務所が開催した「草の根平和のつどい」で、よく進藤さんを見かけた。
また、吉田氏らが、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で被ばくしたバルト3国の国民を支援するための「エストニア・チェルノブイリ・ヒバクシャ基金」を創設すると、そのメンバーになった。バルト3国の被ばく者代表が来日すると、彼らを長崎に案内したりした。
そのころの進藤さんの活動でとくに印象に残っているのは、神奈川県の生活クラブ生協の組合員グループを“引率して”8月6日を中心に「広島行動」をやっていたことだ。進藤さんとともに広島を訪れた女性組合員たちが、原爆関係の遺跡を見学したり、平和集会に参加して討議に熱心に耳を傾けていた光景を思い出す。1990年前後のことである。組合員たちが広島へ行く前には事前学習会があった。それをアレンジしたのは、もちろん進藤さんである。
15年ぐらい前だったろうか。進藤さんは郷里の山口市へ帰った。がんを患ったため、その治療のためだったようだ。しかしながら、私はその後もほとんど毎年夏に、広島か長崎で進藤さんに出会ったものである。彼が8月6日には広島の、8月9日には長崎の反核平和集会に姿をみせていたからだ。その時の進藤さんは元気で、とても病身とは思えなかった。そのころは、「軍縮問題研究者」とか「被爆問題研究者」と名乗っていた。
ただ、昨年、歩行中に倒れ、以来、外出もままならない日々だったようだ。
「勉強家だった」「軍事問題や軍縮問題にくわしかった。文章も書けた」「いつも裏方に徹していた」「人と人を結びつけるのが得意で、根回しに長けていた」「とくに若い人を組織するのがうまかった」「献身無私の人」「けんかをすることもあったが、心がきれいな人だった」・・・進藤さんと一緒に仕事をした人たち、進藤さんと付き合いがあった人たちの進藤評である。
平和運動家のほとんどがそうであったように、進藤さんもまた、その生活を支えたのは奥さんだった。進藤さんの奥さんが言った。「脇目も振らず平和運動一筋に生きた一生でした」。
なんでそんなに平和運動に熱心だったのか。その理由を聞く機会はついになかったが、幼いころ、戦争を体験したのだろうか。残念ながら、今となっては分からない。遺体は、遺言により山口大学医学部に献体された。死してもなお世のため他人のために役立ちたい。いかにも進藤さんらしい最期と思った。