2020.03.31 政府が石けんを「環境に有害な化学物質」に指定しようとするのは、なぜなのか?
シリーズ「香害」第13回
                  
岡田幹治(ジャーナリスト)

 政府が石けんを「環境に有害な化学物質」に指定したいと提案し、多くの研究者や消費者が猛反対している。石けんは人々が古くから使ってきた洗浄剤で、「香害」の被害者である化学物質過敏症(CS)の人たちも使えるものだ。それを政府が「有害化学物質」に指定しようとする背景には、どんな事情があるのだろうか。

◆自然の河川や海では無害
 有害の疑いがある化学物質を管理・監視するための法律が「PRTR法(ピーアールティーアール法=化学物質排出把握管理促進法=化管法)」だ。
 人の健康や生態系に有害な恐れがあって、環境中に広く存在している物質を「第一種指定化学物質」(以下、第一種物質)に指定し、政府が環境への排出量などを把握して監視している。
 第一種物質は約10年ごとに見直されており、2月25日に、現在の462物質から527物質に増やすという見直し案が発表され、3月18日まで意見の公募(パブリックコメント)が行われた。
 見直し案で多くの研究者や消費者が驚いたのは、「飽和・不飽和脂肪酸ナトリウム塩」と「飽和・不飽和脂肪酸カリウム塩」が候補物質に含まれていたことだ。
 これらは動植物の油脂からつくられる物質で、脂肪酸ナトリウム塩は固形石けん、脂肪酸カリウム塩は液体石けんとして広く使われている。
 それをなぜ第一種物質に指定するのか。政府の審議会(厚生労働省・経済産業省・環境省の審議会の合同会合)は、実験室での「生態毒性」試験で水生生物に悪影響が出ており、生態毒性が「クラス2とクラス1」(上から2番目と1番目に強い)であることを挙げている。
 これに対して多くの研究者は、実際の河川や海は実験室とは異なると指摘する。河川水や海水にはカルシウムなどが含まれているので、脂肪酸ナトリウム・カリウムは脂肪酸カルシウムに変化し、生態毒性は発現しない。
 第一種物質に指定されるには、①一定以上の生態毒性があることに加え、②分解されにくく、環境中に蓄積されやすい性質をもつ、という二つの要件が必要だ。
 しかし脂肪酸ナトリウム・カリウムは微生物で分解されやすい性質があり、下水処理場や河川でほぼ100%分解される。この物質が河川や海で検出されたことはなく、したがって指定要件を満たさない。
 そもそも脂肪酸は、人間を含む生物を構成している天然の有機化合物で、川や海の生物が食べれば栄養源になり、体内で油脂になる。つまり、脂肪酸ナトリウム・カリウムは自然界で循環している物資なのであり、自然界における生物と物質の循環システムの中で影響を考えるべき物質だと、吉野輝雄・国際基督教大学名誉教授は指摘する。
 言い換えれば、生態毒性試験の対象にするのも、PRTR法の対象にするのも不適切な物質なのだ。

◆背景に合成洗剤業界の思惑
 この問題は前回の見直し(2008年)で取り上げられ、政府は脂肪酸ナトリウム塩の一部(ステアリン酸ナトリウムとオレイン酸ナトリウム)を第一種物質の候補にした。これに対し研究者らが「環境中には存在しない」などの反対意見を提出した。
 これを受けて政府は「両物質は環境中では不溶性のカルシウム塩になるので、水に溶ける限度以下の濃度なら毒性の発現がないと考えられる」として、生態毒性を「クラス外」に修正し、候補から取り下げている。
 一度結論が出た問題を政府がまた取り上げるのはなぜか。
 洗剤・環境科学研究所の長谷川治代表は、合成洗剤業界と石けん普及をめざす市民運動との関係が背景にあるとみている。
 どういうことだろうか。
 同じ洗浄剤でも、石けんと合成洗剤では原料も製法も成分も異なる(注)。
 石けんは、天然の油脂や脂肪酸を原料にし、これに苛性ソーダか苛性カリを加えるという方法でつくる。成分は「石けん素地」(脂肪酸ナトリウム・カリウム)だ。
 これに対して合成洗剤は、石油や天然油を原料にし、自然界にはない「合成界面活性剤」をつくり、さらに安定剤などの「助剤」を添加してつくる。成分は「ポリオキシエチレンアルキルエーテル(AE)」「直鎖アルキルべンゼンスルホン酸ナトリウム(LAS)」「ポリオキシエチレンドデシルエーテル硫酸エステルナトリウム(AES)」といった合成界面活性剤だ。
 合成洗剤に使われる合成界面活性剤には健康や生態系に有害なものが多く、AE・LAS・AESなど9物質が、PRTR法の第一種物質に指定されている。
 環境省は毎年、家庭から排出される第一種物質の量を推定し発表しているが、それによると、AE・LAS・AESは多い方から1・3・4番目だ(2番目は衣類の防虫剤やトイレの防臭剤に使われるジクロロベンゼン)。
 つまり、家庭で合成洗剤と防虫剤の使用をやめれば、第一種物質の排出量はぐんと減るわけだ。
 石けん普及運動をしている人たちはこの点を指摘して合成洗剤の使用をやめるよう呼びかけているが、合成洗剤業界にとってはそれが目障りで仕方がない。その対抗策の一つが石けんも第一種物質に指定することであり、そうなれば石けん普及運動を牽制できる。
 そうした思惑が合成洗剤業界にはあると長谷川代表はみている。

◆合成洗剤は「香害」の原因の一つ
 いま日本の石けん生産量は年間約20万トン。これに対し合成洗剤は5倍以上の約110万トンも製造され、派手なCMで販売されている。
 合成洗剤の大量使用がもたらした弊害の一つが、「香害」の深刻化だ。香害とは、香りつき製品の成分が原因で健康被害を受け、化学物質過敏症(CS)などになる人が急増していることを指す造語である。
 消費者団体の日本消費者連盟が2017年に実施した「香害110番」で、被害者に体調を悪化させた原因を尋ねたところ、合成洗剤は柔軟仕上げ剤に次いで二番目に多かった。
 もし石けんが第一種物質に指定されれば、どんなことが起きるか。
 いま新型コロナウイルスの感染予防策として、石けんを使った丁寧な手洗いが奨励されているが、人々は本当に使っていいのか迷ってしまう。
 廃食油からリサイクルで石けんをつくっている団体や企業を環境省が表彰している制度なども廃止されてしまうかもしれない。
 そんなこんなで、いまでも少ない石けんの使用がさらに減り、合成洗剤の使用がさらに増えることも考えられる。
 香害で苦しむ人たちにとっては、ますます生きにくくなるわけだ。
 以上のような事情を背景に行なわれた今回の意見公募には、研究者に加え、非常にたくさんの消費者からの応募があったという。
 政府は寄せられた意見を真摯に受け止め、石けんを第一種物質の候補から取り下げるべきだ。

(注)石けんと合成洗剤の見分ける方法=洗濯用や台所用の洗浄剤の場合は、「洗濯用石けん」「洗濯用合成洗剤」などと表示されているので、区別できる。
 シャンプー・ボディソープ・ハンドソープなど化粧品系商品の場合は、石けんなら「無添加石けんシャンプー」と表示され、さらに成分欄に「カリ石けん」「石けん素地」などと表示される。「石けん」の文字がなければ合成洗剤だ。