2024.01.31
世界のノンフィクション秀作を読む(47)
マリー・キュリー(1867~1934)の『自伝』(筑摩書房刊、木村彰一:訳)
――ノーベル賞を二つ受けた世界で唯一人の女性科学者の独白(上)
――ノーベル賞を二つ受けた世界で唯一人の女性科学者の独白(上)
横田 喬 (作家)
本編の主人公「キュリー夫人」は十九世紀後半、帝政ロシアの過酷な圧政下で喘ぐ旧ポーランド出身の女性だ。厳しい弾圧下で育ち、長じてパリへ留学。フランス人の夫ピエール・キュリーと結ばれ、学問の真実追求のため協力し、共闘する。その偉大な完成として、ノーベル賞(物理学)を連名で受賞。夫が不慮の事故で亡くなった後は、二人の娘を育てながら単独で再びノーベル賞(化学)を受けるなど稀有な足跡を残した。
私の生まれ故郷はポーランドです。父はペテルブルクの大学を卒業し、ワルシャワの官立や私立の中学で物理学と数学を教え、母はワルシャワでも一流の女学校の校長でした。私は1867年に、五人きょうだいの末っ子としてワルシャワで誕生しました。
当時、ワルシャワはロシアの支配下に置かれ、抑圧の深い悲しみによって暗く彩られた少女時代でした。父は文学にも造詣が深く、土曜の晩には母国の詩や散文の傑作を朗読。私たちは祖国に対する愛情が知らず知らずのうちに、身内に培われていきました。
私は学校時代、数学と物理学の勉強には一度も困難を感じませんでした。父はこれらの学問が好きで、よく自分でも教えてくれたものです。父はまた、あらゆる機会を捉えては、様々な自然現象を私たちに説き明かしてくれました。
私たちきょうだいは皆揃ってよくできる子供たちでした。兄ユゼフは大学で医学を学び、医療の道へ。私と姉たちは、両親の跡を継いで教育事業に身を捧げるつもりでいました。私は十五になって早々に中学を首席で卒業。が、家の財政状態が著しく悪化し、私は十七歳で田舎のある家に家庭教師として住み込み、子供たちを教えることになります。
村の子供たちを教える傍ら、私は将来の専門として数学と物理を選択。ゆくゆくはパリへ行って、勉強の仕上げをと貯金を始めます。独学の習慣を身に付け、手当たり次第に集めた参考書の助けを借り、将来役立ちそうな幾らかの知識を得ます。
村で家庭教師を三年半やり、いったんワルシャワに戻って一年、私は私立学校で教えて貯金しました。従兄弟が主宰する私立の研究所で物理や化学の実験を試み、研究生活に対する私の愛着は一層強いものとなりました。1891年11月、二十四歳の時に久しい夢が実現。結婚してパリに先着していた姉夫婦の許へ赴きます。程なく下宿に移り、大学生時代の四年間をずっとそこで過ごします。
私の部屋は屋根裏にあり、冬の寒さは非常なものでした。食事もパンとココア一杯、それに卵と果物だけ。でも、それは言い知れぬ魅力を持ち、何物にも代え難かったのは自由と独立の感じでした。私は勉強に全力を傾け、93年には首席で物理学の学士試験に、そして翌年には二番で数学の学士試験に合格します。
94年春、コヴァルスキ教授の仲立ちで初めてピエール・キュリーと対面します。栗色の髪と大きな明るい瞳の長身の人で、真面目な好意に満ちた表情が印象的で、夢想家タイプにありがちの、どこか無頓着なところも。素朴で誠実な態度は、非常に好ましいものに思われました。私たちは打ち解けて交際するようになり、翌年夏に挙式しました。
夫ピエールはその少し前に博士号を取り、パリ市立物理化学学校の教授に。当時三十六歳で、物理学者として国内外で名を知られていました。研究に打ち込んで、栄達は度外視し、収入はごく僅か。パリ近郊の家に年老いた両親と共に居住。父親は年配の医師で母は善良な婦人で、私は幸福にも、立派な一家に温かく迎え入れられたのです。
夫と私は愛情と共通の仕事とによって緊密に結ばれ、大部分の時間を一緒に過ごすことになりました。夫は講義のない時は決まって学校の実験室に閉じ籠ることにしていましたが、私自身も許可を得てその実験室で仕事をしていました。
経済的に余り恵まれていず、家事は殆ど私がやり、学問上の仕事との両立は難問でしたが、なんとかやって行きました。また、私は女学校で教える資格を得るため数カ月の準備後、96年8月、首席でこの試験に合格しました。
一番の楽しい気晴らしは郊外の散策でした。夫は戸外で時を過ごすのが大好きで、休暇が来ると、自転車で遠征に出かけました。が、私たちの生活の中で一番重要だったのは学問上の仕事です。二人が時間の大部分を振り向けていたのは、実験室での仕事でした。
当時、夫は結晶体の研究に従事し、私自身は97年に鋼鉄の磁性についての仕事を完成します。同じ年、長女イレーヌが誕生。私が実験室へ行っている間は同居する夫の父が面倒を見て下さり、お陰で私はどうにか自分の日々の務めを果たしていくことができました。私たちは翌年7月にポロニウムの発見を、同年12月にはラジウムの発見を発表します。
私たちの考えでは、新しい諸元素の存在は疑いないが、これを化学者たちに認めさせるには、これらの元素を分離して出して見せなければならない。だが、私たちの得た最も強い放射能を持つ分離物(ウラニウムの放射能よりも数百倍の強さ)においてさえ、ポロニウムとラジウムは未だほんの痕跡の程度にしか含まれていなかったのです。
当時、私たちは既に、ポロニウムを蒼鉛(ピッチブレンドから抽出される)から、ラジウムをバリウムから分離する方法を知っていました。が、分離するには、多量の原料が必要でした。私たちは(実験する)場所もなければ、お金も人員も足りなかったのです。
ピッチブレンドは高価な鉱石なので、十分な量を買うことはできなかった。当時、この鉱石の主な出処はボヘミアで、そこにはオーストリア政府の経営する鉱山があった。私たちの予想では、ラジウムやポロニウムは鉱石の残物の中に含まれている筈でした。
ウィーンの科学アカデミーの支持のお陰で、私たちは有利な条件でこの残り屑を数トンも入手することができ、これを原料として使った。処理の費用を賄うため、私たちは先ず自費に頼らねばならなかったが、やがて幾らかの補助金と外部からの協力を得ました。
特に重大な問題は場所でした。私たちは化学的処理を空き家の納屋の中でやらねばならなかった。この納屋は、私たちの電気計装置のある作業室から中庭一つ隔たった一隅にあり、板張りのバラック建てで雨は漏り放題、内部はごった返していました。
この在り合わせの実験室で、私たちは二年間ほとんど助手なしで仕事をしました。化学上の仕事も、段々放射能の強くなっていく精製物の放射の検査も、みんな二人して一緒にやった。そのうちに、二人の仕事を区分せねばならなくなります。夫はラジウムの性質の研究を続ける一方、私は純粋ラジウム塩を作り出す目的で化学的処理に当たりました。
納屋の中は沈殿物と液体を一杯入れた大きな容器で動きが取れなくなった。実験のための一連の作業は、骨の折れる仕事でした。私は放射性物質を含んだバリウムを原鉱から抽出し、これを塩化物の状態に於いて分別結晶させた。ポロニウムの分離よりラジウムの分離の方が易しく、後者の方に努力を集中。こうして得られたラジウム塩は、その作用を調べるために、種々の研究に用いられました。
1903年、私は学位論文を書き上げ、理学博士の称号を受けます。同年末には、ベクレルと夫と私は、放射能と放射性元素の発見に対して、ノーベル賞を授与されました。翌年、私たちの二番目の娘エーヴが誕生します。この年、ノーベル賞のお陰で実力を認められた結果、夫はソルボンヌで特に彼のために設けられた講座を担任することに。私はその講座に付設される実験室の指導者に任命されました。
1906年、私たちが幸福な日々を過ごした納屋の実験室を最終的に引き払った直後、痛ましい惨劇が一瞬のうちに、夫の命を奪い去りました。(注:この『自伝』は夫の死について、衝撃の余りの大きさ故か、詳しい記述を避けている。以下は長女イレーヌ・キュリーの『わが母マリー・キュリーの思い出』からの該当する箇所の抜粋)
<4月19日、ピエールはダントン街の科学会館で同僚たちと話し合った後、(所用で)二時半頃どしゃ降りの雨の中を出かけて行った。彼は車道を横切って向こう側の歩道に渡ろうとした。ぼんやりしていた人がよくやるように、慌てて彼は辻馬車の陰から脇に出た。が、彼の靴の底が湿った土の上で滑った。一つの叫び声が起こり、それが二十もの恐怖の叫びとなる。……六トンの重さで引っ張られた巨大な質量が進み、左の後輪が何かを引き砕いていった。一つの額、人間の頭だ。>