2018.09.30
私が会った忘れ得ぬ人びと(1)
菅原文太さん―最後は沖縄知事選応援で反戦演説
本土「ヤマト」の自民党政治を「上から目線」「政治の堕落」と咎めた硬骨の沖縄県知事・翁長雄志氏がこの八月、膵臓癌で急逝した。享年六十七歳。四年前、現職の仲井間弘多氏を相手に新顔として立ち、「辺野古基地」問題での同氏の変節を突いて圧勝。一期目終盤での思わぬ悲劇である。その前回選挙運動の最中、那覇市野球場で開かれた翁長候補応援の一万人集会に当時肝臓癌を病む菅原文太さんが車椅子で参加。歩いて登壇し、笑みを浮かべてマイクを握り、しっかりした声で要旨こう訴えた。
――政治の役割は二つ。一つは国民を飢えさせないこと。もう一つは、これが最も大事。絶対に戦争をしないこと。(大きな拍手)前知事は今、最も危険な政権と手を結んだ。沖縄の人々を裏切り、辺野古を売り渡した。映画『仁義なき戦い』の最後で「(裏切り者の)山守さん、弾はまだ一発残っとるがよ」というセリフをぶつけた。その伝でいけば、「仲井真さん、弾はまだ一発残っとるがよ」と、ぶつけてやりたい。(笑いと拍手)沖縄の風土も、本土の風土も、海も山も空気も風も、全て国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。辺野古も然り!勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ!(大きな拍手)
YouTubeで「菅原文太 沖縄 動画」と入力すれば、十一分余のその内容は今すぐ確かめられる。このスピーチの二十七日後に彼は亡くなるが、沖縄そして日本の行く末を案じる真情が溢れ、幾度見ても目頭が熱くなる。今から三十七年前の一九八一(昭和五十六)年秋、当時『朝日新聞』記者だった私は文太さんを東京・杉並区内のご自宅に訪ね、差しで一時間余りやりとりしている。当時の紙面を引くと、
――仙台弁で「おだちもっこ」と呼ばれる人間のタイプがある。(中略)虎穴に入らずんば虎児を得ず、少々おっちょこちょいだが、どえらい事をやりかねない男である。俳優菅原文太(四八)の実力を茶の間にまで広く認識させたNHKテレビドラマ「獅子の時代」。菅原が演じた主人公、平沼銑次は旧会津藩士の設定ながら、おだちもっこの典型といっていい人物。明治の裏街道をひた歩き、自由民権のために秩父事件の死地にまで赴く男――銑次の人物像は文太の個性を前提に書かれたという。「おっちょこちょいなのか、分の悪いことを知っていながら、つい先頭切ってやっちまうところがある。やっぱり、血かなあ」
仙台生まれの宮城っ子。映画「仁義なき戦い」シリーズがヒットしてスターにのし上がるまで、長い下積み生活にしぶとく耐えた粘り強さ。常にマイペースを守り、自己主張を曲げない頑固さ。いずれも東北のものだ。「スターであるってことは恥ずかしいことです。実態は大したことないんだから」「カストロよりゲバラの方に、心情的にはひかれる。現実のオレは七十になっても、恐らくタラタラ俳優稼業をやってんだろうけど・・・・・・」。
アクションスターの外見からは想像しにくい内面のナイーブさが、言葉の端々にのぞく。
早大中退後の一時期、傾倒する坂口安吾の世界を地で行く無頼の生活を送ったことも。かげりのある独特の存在感は、そうした過去ともどこかでつながっていそうだ。――
書斎の隣にかなり広い書庫があり、床から天井まで届く書架が幾重にも並び、内外の文学全集やいろんな本がぎっしり詰まる。その一隅に革製のサンドバッグが天井から吊り下げてある。文太さんはいささか照れ臭そうに言った。
――歌舞伎町辺りで夜遅くまで飲んでも、帰ってから忘れずにバッグを叩いて体を絞るようにしている。体あっての役者稼業だから。
菅原文太(本名、敬称略)は一九三三(昭和八)年、仙台市に生まれた。父・菅原芳助は元『河北新報』記者で洋画家・詩人。文太は県立仙台一高卒~早大中退。早大進学後の‘五四年、劇団「四季」に一期生として入団。貧乏画家だった父親からの仕送りは当てにできず、翌年に早大を中退する。山谷の簡易宿泊所暮らしや銀座の高級クラブでのボーイ勤め、後の俳優・岡田真澄らとの日本初の男性専門モデルクラブ設立・・・、様々な身過ぎ世過ぎを味わう。‘五八年に新東宝宣伝部員にスカウトされ、映画俳優を目指し入社。が、鳴かず飛ばずのうち新東宝が破産し、松竹へ移籍。ここでも目が出ず東映へ。
この移籍がきっかけで運が開ける。‘七三(昭和四十七)年~七五年に制作された異才・深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズに主演し、一躍大スターの座へ駆け上る。殺し殺され、裏切り裏切られる、美学やロマンとはおよそ無縁な衝撃的で陰惨なやくざ世界。主役・文太の凄みのあるド迫力な演技が光り、金子信雄の演ずるケチで臆病、狡猾な策士の暴力団組長に利用され尽くし、終に耐えかね、ドスの効いた広島弁で彼はこう凄む。
――オヤジさん、あんたは初めからワシらあ担いどる神輿じゃないの。組がここまでなるのに誰が血流しとるんや。神輿が勝手に歩けるいうんやったら、歩いてみないや、のう!
私はシリーズ最初の三本を映画館で見たが、『七人の侍』や『ゴッドファーザー』などにも劣らぬ秀作では、と感銘を受けた。‘七五~七九年に制作された鈴木則文監督の『トラック野郎』シリーズにも文太は主演する。五年間で全十作品が公開され、『仁義なき戦い』シリーズに劣らぬ興行収入を挙げ、彼は名実共に東映のトップスターの座を固める。
看板スター菅原文太をテレビの世界も放ってはおかない。‘八〇(昭和五十五)年一月~十二月に全五十一回で放送されたNHK大河ドラマ『獅子の時代』は、社会派の作家・脚本家の山田太一が文太の個性を前提にオリジナルで書き下ろしたもの。従来の大河ドラマの主人公は中央政権の近くにいた有名武将など華々しい英雄たちがほとんどだが、文太が演じる主役・平沼銑次は元会津藩下級武士という設定の架空の人物だ。
銑次は会津戦争~函館戦争に参加し、いずれも敗北。下北半島斗南へ入植し辛酸をなめた後、商人に転身して無実の罪で投獄される。数々の災難・不幸に見舞われながら、持ち前の反骨精神で乗り越えていく。維新史の光と影を追う物語は終盤、秩父困民党の武装蜂起事件へ舞台を移す。一八八四(明治十七)年、明治政府のデフレ政策に苦しむ農民三千人が決起するが、軍隊や警察に武力で鎮圧される。「自由自治元年」の旗を掲げる銑次は、「秩父の外にも味方はおる」と口にし、敵陣をめがけ単身で斬り込んでいく・・・。
放送翌年の‘八一年はちょうど「自由民権百年」に当たり、同年秋に横浜市内で「自由民権百年全国集会」が開かれる。歴史家・色川大吉さんの呼びかけで延べ約七千人が参加し、彼に私淑する私も会場に馳せつけた。『獅子の時代』の脚本家・山田さんと主演の文太さんが壇上に顔を揃え、文太さんはこんな趣旨のスピーチをした。
――(日本に)どこからか戦争の足音が聞こえないでもない状況です。銑次が現代に生
き続け、民衆のために戦っているとすれば、演じがいがある。チェ・ゲバラは我々のヒー
ローの一人であり、銑次はゲバラではないかと考えながら演じてきました。
四年前に逝った文太さんは泉下で今、何を思うだろう。一年余に及ぶ「もり・かけ」疑惑。首相の疑惑を取り繕うべく財務官僚が嘘の答弁をし、公文書を改竄した。その官僚はクビになり、退職金が削られたが、検察当局のお咎めはなし。当の首相は得意の不誠実答弁で押し通し、つい先の自民党総裁選で三選を果たす。対抗馬が「正直・公正」の旗印を党内圧力で下ろさざるを得ない、とは世も末。文太兄いの苦虫を噛む顔が思い浮かぶ。
<横田喬氏の経歴>富山県出身。東大文学部仏文科卒。元朝日新聞社会部記者。著書に『下町そぞろ歩き』(日貿出版社)、『西東京人物誌』(けやき出版)、『白隠伝』(大法輪閣)など。共著に『新人国記』(全十巻、朝日新聞社)など。
横田 喬(作家)
本土「ヤマト」の自民党政治を「上から目線」「政治の堕落」と咎めた硬骨の沖縄県知事・翁長雄志氏がこの八月、膵臓癌で急逝した。享年六十七歳。四年前、現職の仲井間弘多氏を相手に新顔として立ち、「辺野古基地」問題での同氏の変節を突いて圧勝。一期目終盤での思わぬ悲劇である。その前回選挙運動の最中、那覇市野球場で開かれた翁長候補応援の一万人集会に当時肝臓癌を病む菅原文太さんが車椅子で参加。歩いて登壇し、笑みを浮かべてマイクを握り、しっかりした声で要旨こう訴えた。
――政治の役割は二つ。一つは国民を飢えさせないこと。もう一つは、これが最も大事。絶対に戦争をしないこと。(大きな拍手)前知事は今、最も危険な政権と手を結んだ。沖縄の人々を裏切り、辺野古を売り渡した。映画『仁義なき戦い』の最後で「(裏切り者の)山守さん、弾はまだ一発残っとるがよ」というセリフをぶつけた。その伝でいけば、「仲井真さん、弾はまだ一発残っとるがよ」と、ぶつけてやりたい。(笑いと拍手)沖縄の風土も、本土の風土も、海も山も空気も風も、全て国家のものではありません。そこに住んでいる人たちのものです。辺野古も然り!勝手に他国へ売り飛ばさないでくれ!(大きな拍手)
YouTubeで「菅原文太 沖縄 動画」と入力すれば、十一分余のその内容は今すぐ確かめられる。このスピーチの二十七日後に彼は亡くなるが、沖縄そして日本の行く末を案じる真情が溢れ、幾度見ても目頭が熱くなる。今から三十七年前の一九八一(昭和五十六)年秋、当時『朝日新聞』記者だった私は文太さんを東京・杉並区内のご自宅に訪ね、差しで一時間余りやりとりしている。当時の紙面を引くと、
――仙台弁で「おだちもっこ」と呼ばれる人間のタイプがある。(中略)虎穴に入らずんば虎児を得ず、少々おっちょこちょいだが、どえらい事をやりかねない男である。俳優菅原文太(四八)の実力を茶の間にまで広く認識させたNHKテレビドラマ「獅子の時代」。菅原が演じた主人公、平沼銑次は旧会津藩士の設定ながら、おだちもっこの典型といっていい人物。明治の裏街道をひた歩き、自由民権のために秩父事件の死地にまで赴く男――銑次の人物像は文太の個性を前提に書かれたという。「おっちょこちょいなのか、分の悪いことを知っていながら、つい先頭切ってやっちまうところがある。やっぱり、血かなあ」
仙台生まれの宮城っ子。映画「仁義なき戦い」シリーズがヒットしてスターにのし上がるまで、長い下積み生活にしぶとく耐えた粘り強さ。常にマイペースを守り、自己主張を曲げない頑固さ。いずれも東北のものだ。「スターであるってことは恥ずかしいことです。実態は大したことないんだから」「カストロよりゲバラの方に、心情的にはひかれる。現実のオレは七十になっても、恐らくタラタラ俳優稼業をやってんだろうけど・・・・・・」。
アクションスターの外見からは想像しにくい内面のナイーブさが、言葉の端々にのぞく。
早大中退後の一時期、傾倒する坂口安吾の世界を地で行く無頼の生活を送ったことも。かげりのある独特の存在感は、そうした過去ともどこかでつながっていそうだ。――
書斎の隣にかなり広い書庫があり、床から天井まで届く書架が幾重にも並び、内外の文学全集やいろんな本がぎっしり詰まる。その一隅に革製のサンドバッグが天井から吊り下げてある。文太さんはいささか照れ臭そうに言った。
――歌舞伎町辺りで夜遅くまで飲んでも、帰ってから忘れずにバッグを叩いて体を絞るようにしている。体あっての役者稼業だから。
菅原文太(本名、敬称略)は一九三三(昭和八)年、仙台市に生まれた。父・菅原芳助は元『河北新報』記者で洋画家・詩人。文太は県立仙台一高卒~早大中退。早大進学後の‘五四年、劇団「四季」に一期生として入団。貧乏画家だった父親からの仕送りは当てにできず、翌年に早大を中退する。山谷の簡易宿泊所暮らしや銀座の高級クラブでのボーイ勤め、後の俳優・岡田真澄らとの日本初の男性専門モデルクラブ設立・・・、様々な身過ぎ世過ぎを味わう。‘五八年に新東宝宣伝部員にスカウトされ、映画俳優を目指し入社。が、鳴かず飛ばずのうち新東宝が破産し、松竹へ移籍。ここでも目が出ず東映へ。
この移籍がきっかけで運が開ける。‘七三(昭和四十七)年~七五年に制作された異才・深作欣二監督の『仁義なき戦い』シリーズに主演し、一躍大スターの座へ駆け上る。殺し殺され、裏切り裏切られる、美学やロマンとはおよそ無縁な衝撃的で陰惨なやくざ世界。主役・文太の凄みのあるド迫力な演技が光り、金子信雄の演ずるケチで臆病、狡猾な策士の暴力団組長に利用され尽くし、終に耐えかね、ドスの効いた広島弁で彼はこう凄む。
――オヤジさん、あんたは初めからワシらあ担いどる神輿じゃないの。組がここまでなるのに誰が血流しとるんや。神輿が勝手に歩けるいうんやったら、歩いてみないや、のう!
私はシリーズ最初の三本を映画館で見たが、『七人の侍』や『ゴッドファーザー』などにも劣らぬ秀作では、と感銘を受けた。‘七五~七九年に制作された鈴木則文監督の『トラック野郎』シリーズにも文太は主演する。五年間で全十作品が公開され、『仁義なき戦い』シリーズに劣らぬ興行収入を挙げ、彼は名実共に東映のトップスターの座を固める。
看板スター菅原文太をテレビの世界も放ってはおかない。‘八〇(昭和五十五)年一月~十二月に全五十一回で放送されたNHK大河ドラマ『獅子の時代』は、社会派の作家・脚本家の山田太一が文太の個性を前提にオリジナルで書き下ろしたもの。従来の大河ドラマの主人公は中央政権の近くにいた有名武将など華々しい英雄たちがほとんどだが、文太が演じる主役・平沼銑次は元会津藩下級武士という設定の架空の人物だ。
銑次は会津戦争~函館戦争に参加し、いずれも敗北。下北半島斗南へ入植し辛酸をなめた後、商人に転身して無実の罪で投獄される。数々の災難・不幸に見舞われながら、持ち前の反骨精神で乗り越えていく。維新史の光と影を追う物語は終盤、秩父困民党の武装蜂起事件へ舞台を移す。一八八四(明治十七)年、明治政府のデフレ政策に苦しむ農民三千人が決起するが、軍隊や警察に武力で鎮圧される。「自由自治元年」の旗を掲げる銑次は、「秩父の外にも味方はおる」と口にし、敵陣をめがけ単身で斬り込んでいく・・・。
放送翌年の‘八一年はちょうど「自由民権百年」に当たり、同年秋に横浜市内で「自由民権百年全国集会」が開かれる。歴史家・色川大吉さんの呼びかけで延べ約七千人が参加し、彼に私淑する私も会場に馳せつけた。『獅子の時代』の脚本家・山田さんと主演の文太さんが壇上に顔を揃え、文太さんはこんな趣旨のスピーチをした。
――(日本に)どこからか戦争の足音が聞こえないでもない状況です。銑次が現代に生
き続け、民衆のために戦っているとすれば、演じがいがある。チェ・ゲバラは我々のヒー
ローの一人であり、銑次はゲバラではないかと考えながら演じてきました。
四年前に逝った文太さんは泉下で今、何を思うだろう。一年余に及ぶ「もり・かけ」疑惑。首相の疑惑を取り繕うべく財務官僚が嘘の答弁をし、公文書を改竄した。その官僚はクビになり、退職金が削られたが、検察当局のお咎めはなし。当の首相は得意の不誠実答弁で押し通し、つい先の自民党総裁選で三選を果たす。対抗馬が「正直・公正」の旗印を党内圧力で下ろさざるを得ない、とは世も末。文太兄いの苦虫を噛む顔が思い浮かぶ。
<横田喬氏の経歴>富山県出身。東大文学部仏文科卒。元朝日新聞社会部記者。著書に『下町そぞろ歩き』(日貿出版社)、『西東京人物誌』(けやき出版)、『白隠伝』(大法輪閣)など。共著に『新人国記』(全十巻、朝日新聞社)など。