2024.12.19
秋篠宮家の進学問題
皇室問題を考える
小川 洋 (教育研究者)
偏差値という名の整理券
筆者は以前、ある公立高校で周年行事を担当したことがある。高校と大学の関係についてのユニークな議論をしていた歴史学者の講演会を、保護者向けに企画した。ところが当日、講演者は想像もしていなかった話題を切り出した。当時、大学で採用が広がっていた帰国子女の特別入学制度を取り上げたのである。
バブル期の日本企業は世界各地に進出し、大量の社員を海外に送り出した。家族連れで赴任した社員たちの多くは、子どもが高校生になるころで、日本の大学に進めさせるために妻子を帰国させた。そのころ文部省(当時)の指導もあり、特別枠の入学制度を採用する大学が相次いだ。講演者は、この制度や学生を批判する議論を展開した。
いわく「日本語も現地語(英語)も不自由だ」「日本人の魂を欠く」などなど。筆者は驚き戸惑ったが、聴衆は講演者が批判の言葉を発する度に熱烈な拍手で応えた。なお、その高校は学力的にはトップから距離はあったが、大半の生徒は4年制大学への進学希望者だった。
日本の子どもたちは、遅くとも中学生になると偏差値の序列に組み込まれる。多くの親は、自分の子どもがその序列上、少しでも上位に登り、有力大学に進学し社会に出る際には少しでも有利な地位を得られることを願う。そのためには塾に通わせるなど、家計負担も厭わずに努力する。そこに、偏差値も不明な帰国子女が特権的なルートを利用して大学に進学するのは不適当であるという講演者の話は、そのような彼らの心に刺さったのである。
受験生の保護者たちにとって、偏差値とは大学進学に際しての「整理券」だ。その整理券を握りしめて並んでいるところに、整理券を持たない人たちが横から「ズル」して割り込んでくると感じたのだ。保護者たちの反応に接して、筆者は衝撃を受けた。
悠仁親王の大学進学
秋篠宮家の長男、悠仁親王(17)の進学先が決まった。推薦入試で筑波大に進学するとのこと。親王については、小学校から進学の度に国民からの批判的な声が上がった。とくに全国屈指の進学校である筑波大付属高校への進学時には、特殊なルートを利用したこともあってネット上に遠慮ない批判コメントが溢れた。なかには「皇室特権を許さない」という主張まで聞かれた。
国民が公正なルールに従って並んでいる列に、皇室の人物が割り込みをしてきたと受け止められたのである。親王が高校三年生になって東大進学が本命だという情報が流れると、ネット上では「悠仁親王の東大入学に反対します」という署名活動が行われ、多くの賛同者を集めるという事態も生まれた。筑波大への進学が決まっても祝福の空気はあまりない。今までの経過を振り返りながら、問題点を整理したい。
不思議な寄付金
親王が筑波大付属高校への進学を控えた時期、なぜか高校への寄付金が急に増えて校舎・校庭の改修が進められた。知り合いの子どもが在学していたこともあって、学園祭などの機会に2,3回校内に入ったことがあったが、お世辞にも綺麗な校舎ではなかった。教育学部をもつ国立大学は、研究と教育実習の場として付属校をもっているが、国立大の予算の削減もあって、どこの付属学校も校舎などの施設まで手が回らずに貧弱である。
寄付金が秋篠宮家からのものとは確認できないが、進学先として候補に挙がっていた東大農学部の施設も最近、急に整備されていたという話もある。皇族が、全国の受験生が入学を競うような大学に、自分の子息を特別扱いで受け入れることを求め、宮家の予算から支出したのだとすれば、その原資は我々の税金であり批判は免れない。
奇妙な動機
ジャーナリストの田中幾太郎氏によれば、秋篠宮家が東京大学を選択しようとしたのは、親王に「箔をつけ」させたかったからだという。とくに紀子妃が、ハーバード大卒、東大中退、オックスフォード大学留学という華やかな学歴の雅子妃に対抗心を募らせていたというのである。それが事実だとすれば、皇族たるものが、なんと「俗っぽい」ことかと嘆息せざるをえない。
いまや東大の学歴が「箔」になるとの考えは周回遅れというしかない。最近では、学力最上位層の一部の高校生の間では、東大を滑り止めにして、東大より上位の評価を受けている海外の大学への進学を選択するものが増えている。東大卒の天皇が国民から敬意を集めることができると考えているとすれば、勘違いも甚だしいと言わざるをえない。
学習院の意味
歴史に詳しい人々が抱く違和感がある。戦前の大学令には大学の目的として、「国家が必要とする人材養成と国家(天皇)に忠実な人物の養成」をあげていた。つまり主権者である天皇にとって必要な人材を養成するための機関として位置づけられていた。将来天皇となるべき方がそこに進むのはありえない選択であった。一部の宮家から東大に進んだ方はいたが、将来の主権者となるべき皇太子は学習院で学んだ。学習院は宮内省管轄であり大学令は適用外であった。
もちろん戦後の学制改革によって大学の位置づけは変わったが、皇室の連続性を考えれば、将来、天皇になるはずの方が国立大学に進むことには、もやもやとした気分をぬぐい切れないのである。国民の間で愛子内親王への好感度が高いのは、学習院で学ばれながら、皇族に求められる教養や作法を身につけていると多くの国民が感じているからだ。
未来の日本に相応しい天皇・皇室とは
皇族は「聖性」を与えられている。天皇は長い歴史のなかで政治に積極的にかかわった時期もあったが、基本的には祭祀者であった。皇族とくに天皇は国家の安寧を願う宗教儀式を執り行ってきた。明治政府がその長い歴史を否定し、天皇を近代国家建設に政治利用したため、その性格は大きく変容させられた。昭和に入って軍部独裁国家となった日本は、世界を相手に戦争を挑み崩壊した。天皇は地位ばかりではなく生命までもが危険に晒されたのである。
占領下、連合国軍(GHQ)の主導で成立した日本国憲法では、天皇は「日本国民統合の象徴」とされた。アメリカは「統合(the unity of the people)」の語にとくに重要な意味を込めていたはずである。第二次大戦終結後のヨーロッパ各国では、共産主義や社会主義も大きく勢力を伸ばし、選挙でも議席を増やすなど政治的分裂と対立が深刻となっていた。アメリカは日本でもそのような状況が生じる可能性に神経を尖らせていた。占領終結後を見据えたアメリカにとって「統合」は重要なテーマだったのである。
アメリカの振り付による新しい天皇像は、戦後しばらくは思惑どおりにいったと言えよう。しかしいまだに国民の間に天皇及び皇族のあり方に十分なコンセンサスが形成されているとは言えない。そのような環境のなかで、宮家が偏差値の高い大学へ親王を入学させたという印象を与えるようでは、国民は白々しい気分にならざるをえない。今は、あらためて国民の叡智を集め、未来の日本に相応しい天皇・皇族のあり方をオープンに議論すべき時ではないか。
2024.12.13
韓国語から学ぶもの <その3=完>
韓国通信NO760
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)
鳥よ 鳥よ 青鳥よ
緑豆の畠に下り立つな
緑豆の花がホロホロ散れば
青餔売り婆さん泣いて行く (金素雲訳)
緑豆(ノクト)は日清戦争前年1894年に起きた甲午農民戦争(東学農民戦争)の指導者全琫準(チョン・ボンジュン)のこと。彼は小柄だったので緑豆将軍といわれた。鳥はそれをついばむ日本侵略軍の譬え。「鳥よ、鳥よ」で始まる郷愁と悲しみに溢れたメロディと詩、全琫準の容姿に心を奪われた。
酷税に耐えかねた全羅道の農民たちの反乱が日本軍の介入によって全面対決に発展、日清戦争の前哨戦となった。
農民軍のスケールの大きさと意識の高さは目を見張るほどで、日韓の近代史理解には欠かせない。近代装備の日本軍の前に壊滅した悲劇は現在でも民衆のなかに広く語り継がれている。田中正造が称賛した東学農民戦争は日本と朝鮮に共通する権力者に対する民衆抗争とも位置づけられる。
<写真/逮捕後護送中の全琫準>
東学の創始者崔済愚(チェ・ジェウ)が処刑された大邱から始まる旅は、東学が占拠した全州を中心に東学農民戦争の発祥地井邑(チョンフッブ)から木浦に至る旅である。「韓国通信」は「 全琫準を追いかけて」9回シリーズでレポートした。
全羅道各地の東学農民が参加した戦争は朝鮮政府軍を窮地に陥れたが、軍備に優る日本軍に圧倒され、農民側の犠牲者は3万人から5万人ともいわれる。一方の日本軍の犠牲者は1人という皆殺しという信じがたい虐殺が繰り広げられた。
旅は、後日、さらに内蔵山から晋州、智異山を経由して、尹伊桑、朴景利ゆかりの統営、釜山からソウルへ続く旅行へ続いた。
帰路、仁川空港に向かうバスの車中。徴用工問題の韓国大法院による確定判決が報じられていた。(韓国通信「続・続からくにの記」より) 日本の侵略が終わっていないことを実感。
参考図書として中塚明、井上勝生、朴孟洙共著『東学農民戦争と日本』(高文研、2013年)と高橋邦輔『全羅の野火「東学農民戦争」探訪』(社会評論社2018)を挙げておく。
<挿入画/全州城農民軍入場記念碑/散歩する市民が案内してくれた>
鬱陵島(ウルルンド)から竹島(獨島=ドクト)へ
2006年6月、かれこれ20年近く前。鬱陵島からフェリーに乗ってドクト(獨島)、日本名竹島を旅した。
日本の援助で作られた浦項製鉄所(現POSCO)のある浦項(ポハン)行きの高速バスターターミナルに韓国の親友李庭訓君とスティーブンの二人が見送りに来てくれた。23時の出発まで、ビールを飲みながら「日米韓国際会議」。李君は韓国の領土を譲らず、スティーブンと僕はどうでもいいという立場だ。首脳会議は「領土問題を利用して対立を煽る政治家が悪い」という結論で一致した。
<写真/浦項行きバスの前で左からスティーブン、李、筆者>
翌朝未明に浦項に到着後、鬱陵島行きフェリーで島に到着後、島内散策。
島内めぐりの観光バスの中で、唯一の日本人である私は旅の目的を話す羽目になった。黙っていたのに日本人と見破られた!
「ドクトを韓国の人がどれほど愛しているか知りたくて」という車内マイクでの説明に拍手が起きホッとした。
夜食は海岸に面した食堂で新鮮なイカをつまみにしてマッコルリを楽しんだ。翌日のドクト行きフェリーの乗船時に外国人を対象とする特別審査を受け、旅行目的を聞かれた。
竹島の領有権問題をめぐり日韓関係が険悪になっていた。前年に島根県議会が「竹島の日」条例を可決した中でのドクト行きだった。物好きと言われると思われると返す言葉はない。北朝鮮に出かけたのと同じで、ただ現地に出かけてこの目で確かめ自分の頭で考えてみたかっただけ。
後日、外務省から日本人が日本の領土にパスポートで竹島に渡航するのは好ましくないという見解が示され、これまでの渡航者数を発表して注意を促した。外務省のお役人は日本の領土と主張するだけで現地に行ったことはないらしい。彼らにも言い分はあるだろうが何と狭い了見か。
韓国通信は、平和な鬱陵島のスケッチとドクト(竹島)をレポートしたが、私のテーマは小さな島の領有権をめぐり何故、日韓が争うのか現地で考えることだった。
後年、北方四島をわが国固有の領土と主張しながら、ロシアのプーチン大統領と二島だけの返還交渉をした国粋主義者の例を出すまでもなく、固有の領土という主張には胡散くさいものがある。領土の概念が確立したのは近代国家成立以降のこと。地球は人類のものと考える私には国境も領有権もあまり興味がない。
ドクトからの復路、船上を自由に飛び廻る群がる無数のカモメの姿に感動した。領土問題で一番デリケートなドクトには国境はなかった。
<写真/ドクト(竹島)上陸記念写真>
<何故 韓国語を学ぶのか>
長く韓国語を勉強しているのに実力はまだまだ。韓国語ではそれを「まだ遠かった」と過去形で表現するのも興味深い。「行き行きて 倒れ伏すとも…」の心境である。私にはこれからも学びと自分探しの旅は続く。
韓国語を教えてくれた先生は14人にのぼる。先生たちから言葉だけなく文化や人生観まで教わった気がする。受験英語では学ぶことに苦痛しか感じなかった私に外国語を学ぶ楽しさを教えてくれた。
最近、斎藤真理子著『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』(創元社2024.8)を読み、彼女の韓国との出合いと韓国語に情熱を傾ける姿に感動した。それに刺激されて、韓国語を学びながら旅を続けた自分を振り返り、今回3回にわけて文章にまとめみた。
ところで、私のパソコンには2004年に始まった「韓国通信」が前号759号までが保存されているほか、韓国にかかわる多くの資料、翻訳が残されている。
留学時代に教材として読み、感動した短編「ソナギ(夕立)※1」、「尹伊桑※2の日本講演の記録」、小倉志郎著「原発を並べて自衛戦争は出来ない」、金英の論文「日本のパートタイム労働」(翰林日本学11)、「原爆慰霊式における長崎市長のメッセージ」等の日韓、韓日の翻訳の他、歌詞「君のための行進曲」「人生の贈り物」の翻訳が含まれる。
韓国語の勉強とともに数々の映画やドラマ、素晴らしい音楽との出合いもあった。
洪 蘭坡「鳳仙花」、金敏基「朝露」、バティ・キム「離別」、趙 容弼の「釜山港へ帰れ」などの曲。5.18光州事件の「君のための行進曲」は作曲家の安藤久義さんに編曲してもらい、晴れのピアノ発表会で演奏したことも忘れられない。いずれも私の愛唱歌になった。ヤン・ヒウンの「人生の贈り物」は友人がシャンソンのリサイタルで必ず歌ってくれた大好きな歌だ。
私が翻訳したのは翻訳したいものだけ。ただ伝えたいと願ったからだ。自動翻訳にかけると翻訳ができる時代になったが、機械的な翻訳にはない心遣い、息遣いを伝えたいと心がけてきた。心と文化を理解した通訳と翻訳の重要さはますます増えている。
上写真/※1<童話ソナギ(夕立)絵本より/朝鮮戦争後の都会から越してきた少女と地元の少年の物語。山に出かけ、突然にわか雨が…。韓国人なら誰でも知っている名作として知られる>
※2 尹伊桑(ユン・イサン) 世界的な作曲家。ドイツで韓国KCIAによって拉致された。来日時の日本語による講演記録を翻訳して統営にある尹伊桑記念館に資料として提供した。
対馬が日韓の歴史に果たした役割と徳恵翁主(高宗の娘)の生涯に関心を持ち対馬から釜山への旅、済州島の旅など…、冷や汗かきながらの旅と話には限りがないのでこの辺で…。
韓国の危機と日本の危機
連日、わが国の新聞とテレビは韓国の非常事態報道に余念がない。話題の中心はもっぱら日韓関係の行方である。
だが韓国社会の関心事は民主主義そのもの。大統領の責任追及と即時退陣要求はそのためのものである。12月9日付けハンギョレ新聞は100万人の市民が弾劾を求めて国会前に集まったと伝え、社説の見出しを「危機の韓国民主主義、市民が希望」と大見出しで飾った。
<写真12/9日付けハンギョレ新聞>
世界が注目する韓国の行方。だがこの問題の決着は国民自らがつけるはずだ。国は国民のもの(憲法第2条)という当たり前のことが市民に徹底した国、韓国である。
私たち日本人が心配することはない。「日本人は日本のことを心配したほうがいい」(金芝河)。他人のことを心配するより、韓国人から政府に反対する「声の出し方」でも教えてもらったらいい。わが国の大半のメディアは韓国情勢の分析に熱を入れるが、日本の危機には関心はないように見える。危機感がないのは危機だ。
新聞に「希望だ」と言われた市民に私たちもなりたい。
2024.12.07
驚愕! 韓国の非常戒厳
韓国通信NO759
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)
12月3日、突如として尹大統領が非常戒厳令を宣言した。野党の反対を「内乱」と決めつける荒唐無稽な大統領の「乱心」は明らかだった。国会が直ちに解除を決議したため、大統領は6時間後に撤回せざるを得なくなった。
任期半ばで既に政権末期状態となり、辞任を求める声が日に日に高まっているさなか、辞職する意思がない大統領が出した結論が非常戒厳だった。幼稚と思える思考で自らの墓穴を掘り、自身が恐れていた弾劾の可能性が一挙に現実味を帯びだした。まさに「愚や 愚や」である。
大統領は三流だが、国民は一流。
非常戒厳を知った多くの市民たちが国会に駆け付け、非常戒厳の即時撤回と軍の国会進入を阻止した。
日本政府と主要メディアは対岸の火事のように憂慮はするが無責任の極みだ。尹大統領を親日派、関係改善の功労者として独善的な評価を与えたことへの反省がまったくない。また、国民のあらゆる権利を奪う非常戒厳と「緊急事態条項」との違いを明らかにせず、改憲が孕む危険性については知らん振りである。日本の民主主義の危うさを韓国から学んだ。
<写真/戒厳宣言を発表する尹大統領/KTVレビ>
韓国語から学ぶもの <その2>
<お詫び>前回号の訂正です-世宗王が公布した「訓民正話」は間違い。正しくは「訓民正音(フンミンジョンウム)。ご指摘に感謝します。
さて、前回号の続きである。韓国語と韓国に向き合いながら何を見、何を考え、何が見えてきたのか。いささか冗長で細切れの文章にお付き合い願いたい。
3月1日と8月15日は韓国人が日本を特別に意識する日だ。1919年に起きた独立運動が3.1記念日、そして1945年の日本敗戦の日が植民地支配から解放の日、8.15光復節。歴史を知らない旅行者、留学生、韓国在住の日本人でも、この日ばかりは肩身の狭い一日を送ることになる。
留学早々、独立運動発祥の地、鐘路にあるタブコル公園に出かけた(下写真)。
「日本人が何しに来た」と言われそうで少し緊張した。愛国者と太極旗で溢れる公園で二時間ほど演説に耳を傾け過ごした。
その年、1998年に発足した金大中政権は発足早々外貨不足(IMF危機)で深刻な経済危機に直面していた。そのせいか集会は「外貨危機突破」一色で、さながら現代版の独立運動の観があった。その日はタクシーもバスも例外なく太極旗を付けて走り、街中が国旗で溢れかえっていた。企業倒産による解雇が相次いだ時期。公園や地下道などで炊き出しが行われていた。
<下宿生活>
下宿は二食付き4畳半の部屋に家具付きで月額3万円ほどだった。おかずも5品から6品。キムチは食べ放題。とても気さくで面倒見のいいオバサンは学生たちから母親のように慕われていた。下宿ビジネスを超えた日韓の市民交流があった。
下宿で元AP通信社のカメラマンだった菊池さんと知り合った。彼は世界を駆け回る現役時代から退職したら韓国留学と決めていた。居心地がいいせいか2年近くも勉強と韓国生活をエンジョイした。帰国後、菊池さんは世話になった旧日本人学生たちに呼び掛けて下宿のオバサン夫妻を囲んだ同窓会を開いた。「こんなことは初めて」とオバサンは感激して涙ぐんだ。
ソウル大のオバサンは帰国する時、長い坂道を私の重い荷物を持ってバス停まで見送りしてくれた。
<ミスター スティーブン>
彼はソウル大のクラスメートでアメリカ人留学生。卒業後、大学で英語を教え、テレビの英語番組や旅番組に出演するいわゆる「外タレ」になった。私が韓国人のハンセン病患者の支援をしているのを知って「京郷新聞」に「日本人にもこういう人がいる。アメリカ人の私をブッシュ大統領と一緒にしないで」と記事を書いた。街を一緒に歩いているとサインや写真撮影を求められる人気者だった。アメリカ人と日本人が韓国で話をするのは不思議な世界だ。
<韓国の旅は続く>
時代は金浦空港時代から仁川空港時代へ。成田空港は農民の土地を奪い、流血、死者まで出して開港したが、仁川空港は干拓地に作ったせいかあっという間に完成した。
留学を終えると栃木に新たな仕事を得た。韓国語を生かせる仕事ではなかったが、精神障害者の家族会が運営するホテル付の障害者施設で、社会的な偏見と差別にさらされている障害者のために働くことはやりがいのある仕事に思えた。
だが、赤字続きの温泉付きのホテル(左写真)の経営を軌道に乗せるのは容易ではなかった。障害者がホテル業務の仕事をしながら社会復帰をめざすプロジェクトは国内外で注目を集めた画期的な施設だった。韓国の家族会の代表をホテルに招いて交流。初めて「韓国語講座」を開いたのも施設がある喜連川だった。
施設の運営委員長である国際医療福祉大学の大谷学長からハンセン病について多くのことを学んだことが韓国のハンセン病との縁になった。在職中の2001年8月に北朝鮮にピースボート主催のツアーに参加。韓国に偏りがちな半島を見る目が北朝鮮にも向けられる有意義な旅だった。「南男北女」―北には美人が多いのを確認できたのも収穫だった。
3年半余りで施設の退職を余儀なくされ、2002年から韓国大使館韓国文化院(東京港区南麻布)に転職した。言い古された言葉だが、「日韓の架け橋」という夢が現実になった。金大中大統領の任期最後の年、かつて拉致救援活動にかかわった私が金大中政権の下で働くのは奇跡に思えた。サッカーワールドカップ共同主催国韓国の出先機関の一員としてスポーツ・文化交流が活発化した時期に多岐にわたり貢献できたのはラッキーだった。あるスポーツ交流イベントで韓国を代表して挨拶したことも信じがたい。在任中に金大中の後任に当時無名だった廬武鉉が奇跡的に当選した。韓国の市民運動の力強さをあらためて感じ、一市民として何ができるか考えるようになった。
友人や家族との旅行も素晴らしいが、何といっても旅の魅力は「ひとり旅」だ。
話が前後するが留学を終え、ひとりぼっちの「修学旅行」をした。
汝矣島の民主労組の解雇反対大集会から始まり、大邱(ケーブルカーで八公山登山)、蔚山の現代自動車のスト現場の見学、光州からソウルへと時計回りの駆け足旅行だった。帰国の飛行便は北朝鮮のテポドン発射のため空港で数時間足止めを食った挙句、予想外の愛知県の小牧空港に連れて行かれ、新幹線に乗り継いで深夜の帰宅となった。核保有、ミサイル発射時代の幕開、1998年、テポドンと一緒に帰国して修学旅行は終わった。 テポドンは地名だが、長らく「鉄砲ドーン」と記憶していた。
<上写真テポドン1号>
韓国人と結婚する留学時代の仲間の女性から結婚式の案内をもらった。飛行便が取れず、関釜フェリーで釜山からソウルまで。フェリーは過去5回利用したが、乗客は日韓半々くらいで船中は日本にいるような韓国にいるような不思議な気分になる。青春切符2枚を使ってフェリーを利用すると一番安く韓国に行ける。
その時の旅で印象的だったのは落選運動。保守・守旧派の立候補者に対する市民派の組織的ネガティブキャンペーンに目を見張った。運動は民主化への嵐のように成果を上げた。当時との比較は難しいが、日本では最近SNSを悪用して当選するケースが問題なっているが、公正で厳しい落選運動を見習ったらどうだろうか。
台湾のハンセン病患者に続き、韓国の補償問題が一応落着した2005年、日韓の旧ハンセン病施設を訪ねた。
以下「通信」から転載-
「5月14日、品川から倉敷行きの夜行バスに乗り込み、私の旅は始まりました。最終の目的は20日にソウルで開かれる『交流会』への参加でしたが、岡山の長島愛生園、韓国馬山市郊外にある旧千葉村があった栗九味、小説『太白山脈』の舞台となった筏橋、日本の植民地時代に作られたハンセン病患者隔離施設のある小鹿島(ソロクト)、25年前に光州事件のあった光州市等と少し欲張りな旅でした。韓国を一人旅したことはこれで三回目ですが、今回の旅行は観光というより、自分なりに課題を持たせた、それだけに少し緊張した旅行でした(韓国通信NO59)」。
(写真/上/橋で繋がった長島愛生園/写真下/フェリーで小鹿島へ 現在は架橋)
韓国侵略の歴史に登場する千葉村(栗九味)は日露戦争に翻弄された千葉漁民が移住した村として知られる。軍事侵略と民間人の移住がセットで行われた。旧千葉村のある馬山では独島(竹島)問題が再燃して街宣車が走っていた。
ひっそり静まり返った長島愛生園とは対照的に、翌日訪れたソロク島は島ぐるみの運動会当日で大変な賑わいだった。東京で知り合った自治会長を訪ねたが、会えずじまいだった。島にはソロクトの歴史が資料館に展示され、別館には男性の患者に使用された「断種台」が保存されていた。島外から「ソロクト大好き」という幟やワッペン姿の人たちで賑わっていた。魚市場のおじさんからハンセン病患者に同情する昔話を聞いた。
最近読んだ大阪池田の川口祥子さんが訳した姜善俸著『小鹿島(ソロクト)賤国への旅』詩集『小鹿島の松籟』(解放出版社)から日本の侵略と懶病という二重の苦しみが伝わる。
光州5.18記念公園墓地を再び訪ねた。大きなモニュメントの写真も残されているが、墓石ひとつひとつをのぞき込むように見て回る女性の姿が今でも忘れられない。
<上写真>
2005年5月。旅の最後に韓国良心囚の支援活動を続けた大阪のアムネスティ会員たちが招待されたパーティに参加した。私が「なんでアムネスティ」(前出恒成和子さんの著書名)と思うかもかもしれない。前回号で紹介した韓国から送られてきたファックス翻訳が縁で私もにわか「関係者」となり恩恵にあずかった。パーティに先立って詩人の金芝河との懇親会が開かれた。
<写真/金芝河を囲んで/前列左から3人目が金芝河>
通信64号でも触れたが、彼が民主化運動に果たした功績とは裏腹に民主化以降の彼の行動に批判の声が絶たない。
その後も朴正煕元大統領の娘朴槿恵を大統領選挙で支持したため公然と裏切り者のレッテルが張られた。最近、何故金芝河が公然と朴槿恵支持をしたのか考えることがある。彼が追い求めた理想と現実の民主化路線に生まれたギャップに彼は抗ったのではないか。彼は新しい農業に挑み、一昨年江原道原州で亡くなった82歳。
口では民主主義を語りながら権威主義的で無原則に妥協をする政治家は日本にも韓国にも多い。政権を得ること、政権を維持することだけに腐心する政治に対して批判することは決して間違いではない。
次号に続く
2024.12.02
韓国語から学ぶもの <その1>
韓国通信NO758
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)
友人たちと韓国語を学び始めたのは1977年。最近は少なくなったが、「どうして韓国語」と問われることが多かった。
詩人の茨木のり子さんも答えることが煩わしかったのだろう。「隣の国だから」と答えていた。彼女は「韓国語の森」という詩のなかで、
「日本語が かつて蹴ちらそうとした隣国語
한글(ハングル)
消そうとして決して消し去れなかった한글
용서하십시오(ヨンソハシプシオ)
ゆるして下さい 汗水たらたら 今度はこちらが習得する番です」
<韓国語半切表>
と、韓国語を学ぶ動機を語り、
「どこまで行けるでしょうか
行けるところまで 行き行きて 倒れ伏すとも萩の原※」
と、韓国語学習への決意を示した。
※河合曾良の俳句からの引用
この詩が気に入ってコピーして友人たちに配った。
以来、茨木さんは私の同志になった。私も真似して、「隣の国だから」と説明してきた。
それでも怪訝顔の日本人は多かったが、初めて会う韓国人は例外なくとても喜んでくれた。
<韓国語学習前史>
私の少年期に耳にした言葉-「ハヴァー、カヴァー」、「スゴン」。前者は「しよう、行こう」、スゴンは「手ぬぐい」が韓国語だとわかったのは韓国語を勉強してからのこと。仙台の私の祖母が、子どもに「アンチャアンチャ」と座らせたのはいまだに謎めく。座れという意味だが、朝鮮に出兵した経験のある祖父から教えてもらったのかも知れない。
<学習のきっかけと勉強サークル>
金芝河の詩を読んで感動した。私とほぼ同い年の彼が独裁政権と闘う姿がまぶしかった。
『苦行』『金芝河全集』を原文で読みたくなった。1970年代のわが国では隠れた金芝河ブームが起きていた。
銀座の浦田弁護士との出会い、勉強する仲間が集まったのは前回紹介した。教科書は早川嘉春の『朝鮮語入門講座Ⅰ』、京橋 の三中堂書店で見つけた。早川氏は1974年に韓国の民青学連事件で逮捕された少壮の研究者で釈放帰国後、大学教師、NHKハングル講座の講師を務めた。
<上写真/法廷の金芝河 死刑判決の宣告時>
<低空飛行を続けた25年>
難解に見えたハングル文字は短時間で読めたが、発音に苦労した。日本語であまり使わない濃音と激音- つまる音と激しい音。日本語の「ん」が舌の位置によって二通り、「お」の発音も唇の形で二通りある。半切表(日本語の「あいうえお表」に相当)の文字に、さらに子音が加わる複雑さ。発音を指示する文字は世界でも例がないという。学習者は李朝世宗王が庶民のために文字を考案させ、それを「訓民正話」として公布した(1446年)事実を知って納得する。
新しい言葉の学習と、言葉をとおして見え始めた隣国の文化に心ときめかせながら、年月は、あっという間に過ぎ去った。仕事を持ちながらの勉強会はなかなか進まなかったが、先生たちの話に刺激されながら、韓国に関する書を読み漁り、映画や音楽、韓国の民主化運動の話題で会は盛り上がった。通訳ガイド試験に合格する仲間もいたが、概して語学の勉強は低空飛行を続けた。それぞれマイペースで韓国語の勉強会を楽しんだ。
自作の韓国語の詩に曲をつけて披露する人もいれば、知り合いの韓国の友人を連れてきたり、飲み会を開いたり、ハイキングに出かけたり、泊りがけで韓国の料理教室を開いたりして楽しんだ。
NHKに韓国・朝鮮語講座を作ってほしいという運動にも取り組んだ。講座名を韓国語とするか朝鮮語にするかで決着がつかず開講は1年遅れたが講座は1984年度から始まった。待ちに待った講座・最初の1年間のテキストは私の「宝物」になった。
日本語では「あいうえ」、英語なら「ABC」、韓国語は「ㄱㄴㄷ」の順にならぶ韓国語の辞書を引くのに苦労した。今は電子辞書のおかげで簡単になった。最近は韓国語の教材は山ほどあり、パソコンやテレビで韓国のニュースや映画、ドラマを見ることができるようになった。私は早稲田奉仕園の韓国語講座に1年間在籍したが、何故参加したのか思い出せない。大阪に転勤して豊中の韓国語教室にも参加。勉強会で素晴らしい教師と友人に出会えたのも韓国語のおかげだ。
<はじめての韓国旅行>
1987年、勉強会の仲間たちと韓国を旅行した。成田闘争に心を痛め、私の「国際化」は10年も遅れた。初めてパスポートを取得した。
今では信じられないことだが、職場の仲間たちが私の三泊四日の韓国行きに「壮行会」を開いてくれた。当時の韓国はやはり怖い国だった。「韓国で捕まらないように」と心配する仲間もいた。
ツアーの全員が入国審査をパスした時、添乗員が無事に入国できて喜んでいた。ブラックリストに挙がった人が入国拒否されることが結構あるという。到着した晩、キーセン(妓生)がくわわつた夕食会が開かれた。朴正熙時代のなごりのようで、日本人観光客にキーセンパーティがセットされていた。夫人同伴、子供連れの私たちには招かれざる客なのでお引き取り願った。夜の明洞散歩、明け方の銭湯、反北朝鮮・反共主義丸出しのバスガイドも新鮮だった。帰国後、旅行記「からくにの記」を友人たちに配った。韓国語は少し喋ることはできたが、あらためて韓国語に対する意欲が掻き立てられた。
<韓国ひとり旅>
それから4年後、勤続25年の表彰で長期休暇を取り、韓国をひとり旅した。ソウル仁寺洞から始まり釜山まで、旅行ガイドブックとバッグひとつを携えた放浪に近い旅だった。ビザの延長には苦労した。当時観光ビザは15日、それを1か月に延長するために木洞(モクトン)にある入国管理事務所へ出かけた。朝の通勤時間のせいか空車のタクシーが見つからず「相乗り」に挑戦した。運転と客が「乗せてやれ」「ダメだ」ともめた。
「30日間の観光旅行なんて考えられない。他に目的があるのでは」と訝る係員に韓国語でひたすら懇願する外国人に根負けしたのか、2時間ほどかけて延長に成功して意気揚々と鐘路のYMCAホテルに引き上げた。偶然、同宿した早川嘉春(前出)さんに「信じられない」と羨ましがられた。彼は観光ビザより更に短いビザだった。
本当に行き当たりバッタリの旅。
仁寺洞のギャラリー巡りで画家本人やギャラリー主と話をしたり、曹渓寺、芸術の殿堂のピアノリサイタル、MBC放送ホールで旧友のヴァィオリニスト丁賛宇さんのリサイタルを聞いたり会食したり。江華島と水原城の小旅行。
ビザの延長で勇躍、百済の古都扶余、諭山、儒城、光州、木浦、麗水から船に乗って釜山へ。
下手な韓国語はどこでも歓迎された。山のような失敗談も忘れて関釜フェリー出航のドラの音を聞きながら、一か月の旅を思い出して涙した。
帰国後、旅行記『続からくにの記』を友人たちに配った。
<写真/2冊の旅行記>
友人の(つもりになっていた)茨木のり子さんから嬉しい感想文を貰った。失敗談満載の旅行記がとても面白かったらしい。韓国語の仲間、浦田弁護士からはエピソード一つ一つに感想を書き記した手紙をいただいた。『という人びと』の著者、永山正昭さんからは「漱石の『満韓ところどころ』1909年より上等」という感想をもらった。漱石より「素晴らしいのは文章ではなく韓国を心から楽しんだ君」だと言われた。
原稿を読み、ワープロ入力を引き受けたうえに「出版記念会」の計画まで立ててくれた銀行時代の畏友、入山清さんは昨年亡くなった。
当時、韓国の情報は新聞をとおした政治情勢が中心の時期。友人たちから歓迎された旅行記は「韓国通信」につながった。
<韓国へ留学>
意に染まらない銀行職場で定年まで勤める意欲を失っていた私が大阪転勤の辞令を受けた。1995年、1月には阪神大震災、3月にはオウム真理教のサリン事件が起きた年である。54歳になっていた。転勤先で何も期待されない異常な転勤だった。支店長も言葉を失い、関西旅行でもしてみたらとすすめてくれた。
修学旅行の続きをすることになって、大阪、京都、奈良、和歌山、兵庫をくまなく観光して回った。交通費は会社負担。
誕生日の前日から休暇を取って生まれて初めて祇園祭りを楽しんだ。
それまで嫌いだった関西弁がやさしく心に沁みて癒された。阪神タイガースの応援団解散を聞いてタイガースのにわかファンになった。豊中の韓国語講座でも素敵な出会いがあった。アムネスティの恒成和子さんから、かつての良心囚、李学永さんからの手紙の翻訳を頼まれ、それがきっかけになって韓国で活躍している多くの人たちと知り合うことになる。まさに「万事塞翁が馬」である。
それにしてもファックスのかすれた韓国語の解読には苦労した。謎解きのような翻訳は深夜まで、それも何日も続いた。
関西旅行にも飽きて1年間の大阪サリ(大阪暮らし)を切り上げて早期退職した。大学院進学と韓国留学、韓国への思いを生かせる第二の職場を目指した。
大学院では日本の植民地銀行だった朝鮮銀行の研究を「社史を読むー朝鮮銀行の歴史」として論文にまとめた。明治時代に始まる侵略の歴史を金融制度の側面から明らかにしたもので、敗戦後、残余財産で作った新銀行が見事にバブルで破綻するまでの物語である。
大学院に通いながら失業保険をもらうために職安通い、さらに高麗大学の夏季講座に通うという忙しい日々を送った。
論文を仕上げて1998年4月からソウル大の語学スクールに通い始めた。5級からのスタートである。
写真上/ソウル大正面入り口/正面奥が冠岳山/ソウル中心部にあった医学部を除く学部が1975年にゴルフ場跡地に移転した。
学生運動に手を焼いた朴政権が郊外に移転させた。門の形はハングル文字と言われている。
ソウル大のカリキュラムは高麗大に比べるとアカデミックで韓国文化の理解、文章表現に力を置き私の韓国理解には願ってもないものだった。午前中の授業が終わると午後は復習と予習に明け暮れる毎日。かつての大学受験よりもハードな毎日、寝る前には眞露焼酎チャミスルを欠かさず一本。授業のない週末は銭湯、床屋は一か月に1回、友人と会食を楽しみ日本ではめったに行かなかったカラオケにも2回ほど出かけた。
教科書中心の授業の合間にテーマを決めた討論会、ソウル大生との討論交流会(整形手術をめぐる討論は忘れられない)、市場見学、遊園地、美術館巡り、民族楽器の講習会など充実した学生時代を満喫。
<次回に続く>
2024.11.18
「ぼりばあ丸」事故を覚えていますか
韓国通信NO757
1969 年に沈没したジャパンラインの大型貨物船(54,271 重量トン)。乗組員 33人のうち31人が死亡した。大きな衝撃を与えた事件だが、記憶する人は少ない。1984年に発行されたルポ『巨船沈没』(晩聲社刊)を読んだ。技術の粋を集めた大型船が何故、一瞬のうちに沈没したのか。伊東信氏が事件の顛末を描いた。
それまで海難事故といえば、大半は自然災害扱いにされてきた。納得できない遺族 6人がジャパンラインと造船会社石川島播磨を相手どり事故の原因と責任を求めた裁判の物語である。敗戦後、日本は海運業再建のために官民が一体となって大量の造船と巨大化をはかった。裁判では国策による粗雑な計画と設計ミス、手抜き作業が次々と明らかになった。遺族たちの悲しみと怒りが巨大企業と裁判所を追い詰め、13年の年月をかけ、責任を認めさせ決着した。
高等商船学校卒業、機関士経験者という特異な経歴を持つ浦田乾道弁護士の奮闘が苦難の裁判闘争を支えた。彼は被告側の「感性なき知識」「道徳なき商い」「人間性なき科学」を俎上にあげて厳しく追及した。当初、高を括っていた被告側は敗北を認めざるを得なくなった。本書を読み、初めて事故の全貌を知ることができた。断捨離をしなくてよかった!
<安全だから、安全か?!>
「飛行機だって落ちるのだから、原発事故も起きる」。これは私が地元我孫子市議会に提出した東海原発再稼働反対の請願に対する議員の反対意見である。ぼりばあ丸沈没事故は被告が船の欠陥を認めて多額の賠償金を支払い解決したが、原発事故を交通事故並みに扱われてはたまらない。政府も電力会社も原発は安全と胸を張るが、嘘も繰り返されるといつの間にか安全になってしまう異常さである。
今まで原子力規制委員会が原発の安全を保証したことは一度もない。ただ基準に合格したと述べたに過ぎない。曖昧さは許されない。安全対策は原発をなくす以外にはない。 戦争被爆国の日本が核抑止を主張し、事故を起こしてなお原発に固執する姿は今や世界の笑いものだ。電気は足りている。サヨナラ原発。
<浦田弁護士のこと>
ぼりばあ丸事件で大活躍した弁護士の浦田さんは青春をともにした仲間だった。1926 年京城(ソウ ル)に生まれ。戦後、海から陸にあがって弁護士に。利権弁護士とはほど遠く、正義派のビンボー弁護士だった。営業に訪れた銀行員の私と意気投合して始めた韓国語の勉強会は25年続いた。教材が乏しい時期に韓国語を教えてくれた5人の韓国人留学生から浦田さんは父親のように慕われた。
彼は、私を初めて韓国に連れて行ってくれた人だ。太平洋単独航海をした小林則子さんとヨットで朝鮮通信使の道、玄界灘を帆走した。韓国留学の夢は果たせなかったが、いつも青年のように夢を追い続けた。韓国人の刑事事件の国選弁護人を買って出た。浦田さんは、多くの人たちの記憶の中に今も生き続ける。
小原 紘 (個人新聞「韓国通信」発行人)
1969 年に沈没したジャパンラインの大型貨物船(54,271 重量トン)。乗組員 33人のうち31人が死亡した。大きな衝撃を与えた事件だが、記憶する人は少ない。1984年に発行されたルポ『巨船沈没』(晩聲社刊)を読んだ。技術の粋を集めた大型船が何故、一瞬のうちに沈没したのか。伊東信氏が事件の顛末を描いた。
それまで海難事故といえば、大半は自然災害扱いにされてきた。納得できない遺族 6人がジャパンラインと造船会社石川島播磨を相手どり事故の原因と責任を求めた裁判の物語である。敗戦後、日本は海運業再建のために官民が一体となって大量の造船と巨大化をはかった。裁判では国策による粗雑な計画と設計ミス、手抜き作業が次々と明らかになった。遺族たちの悲しみと怒りが巨大企業と裁判所を追い詰め、13年の年月をかけ、責任を認めさせ決着した。
高等商船学校卒業、機関士経験者という特異な経歴を持つ浦田乾道弁護士の奮闘が苦難の裁判闘争を支えた。彼は被告側の「感性なき知識」「道徳なき商い」「人間性なき科学」を俎上にあげて厳しく追及した。当初、高を括っていた被告側は敗北を認めざるを得なくなった。本書を読み、初めて事故の全貌を知ることができた。断捨離をしなくてよかった!
<安全だから、安全か?!>
「飛行機だって落ちるのだから、原発事故も起きる」。これは私が地元我孫子市議会に提出した東海原発再稼働反対の請願に対する議員の反対意見である。ぼりばあ丸沈没事故は被告が船の欠陥を認めて多額の賠償金を支払い解決したが、原発事故を交通事故並みに扱われてはたまらない。政府も電力会社も原発は安全と胸を張るが、嘘も繰り返されるといつの間にか安全になってしまう異常さである。
今まで原子力規制委員会が原発の安全を保証したことは一度もない。ただ基準に合格したと述べたに過ぎない。曖昧さは許されない。安全対策は原発をなくす以外にはない。 戦争被爆国の日本が核抑止を主張し、事故を起こしてなお原発に固執する姿は今や世界の笑いものだ。電気は足りている。サヨナラ原発。
<浦田弁護士のこと>
ぼりばあ丸事件で大活躍した弁護士の浦田さんは青春をともにした仲間だった。1926 年京城(ソウ ル)に生まれ。戦後、海から陸にあがって弁護士に。利権弁護士とはほど遠く、正義派のビンボー弁護士だった。営業に訪れた銀行員の私と意気投合して始めた韓国語の勉強会は25年続いた。教材が乏しい時期に韓国語を教えてくれた5人の韓国人留学生から浦田さんは父親のように慕われた。
彼は、私を初めて韓国に連れて行ってくれた人だ。太平洋単独航海をした小林則子さんとヨットで朝鮮通信使の道、玄界灘を帆走した。韓国留学の夢は果たせなかったが、いつも青年のように夢を追い続けた。韓国人の刑事事件の国選弁護人を買って出た。浦田さんは、多くの人たちの記憶の中に今も生き続ける。
2024.10.30
小数与党の政権を望む
ー一つの正論が九十九の俗論を抑える政治を
田畑光永 (ジャーナリスト)
総選挙はご承知のような結果となった。政権を担ってきた自民、公明の両党が議席を大きくへらして、両党合わせても当選者は衆議院議員定数の過半数、233人に18人足りない215人にとどまり、どのような連立政権になるかが注目を集めている。
確かにこのような場合、野党の一部の協力を得て、連立政党の数を増やして、その当選者を与党に取り込むことが真っ先に浮かび上がる解決策である。第二次大戦後のわが国でもいくつもの連立政権が登場した。戦後すぐの時期を除いて、1993年に自・社両党対決を主調とする「55年体制」が崩れた後、細川護熙首相の「非自民8党派連立政権」に始まって、村山富市首相の「自社さ連立政権」、小渕恵三首相の「自自公連立政権」と、今の「自公政権」以外にも多くの連立政権が生まれた。
とはいえ、そうした連立政権が概して短命に終わったことも確かで、連立の難しさを感じさせる。そこで今度はどうか。まだはっきりした形にはならないが、やはり自民党は公明党以外の政党とも組んで、連立政権を目指すであろうと考えられる。今のところ石破首相は態度を明らかにしていないし、連立政権となると、真っ先に自民党から声がかかると予想される国民民主党の玉木代表も「連立は考えていない」と公言している。しかし、これらはいずれもとりあえずのポーズであろうから、ほどなく連立話が政界の焦点になるはずだ。
そこで私の考えを聞いていただきたい。私は石破内閣にはあえて少数与党でこれからの政局に臨んで欲しいと思っている。なぜそう思うか。
国会というところは国民の代表が集まって、国の進む方向をきめるところである。一方、国会議員から選ばれた政権担当者もまた自らが正しい、あるいは適切だと思う方向に国を運営したいと考える。両者の考えが一致するとは限らないし、国会議員の考えはそれこそ多種多様であるだろうし、それが望ましい。そこで政権担当者としては採決での多数の賛成をあらかじめ確保しておこうとする。もし選挙の結果、与党が多数を取れなければ、野党の一部を取り込もうとする。成功すれば「安定多数」をバックに議会での議論に安心して臨むことが出来る。
野党の質問にうまく答えられなくても、かりに間違ったことを言ってしまっても、最後の採決に与党の出席者を必要なだけ用意できれば、すべてはこともなく進んでいく。本来、同一政党の人間でも政府、議会に分かれていれば、それぞれの立場で議論を戦わせるべきなのだが、実際の議会では与党の議員は政府の予定通りに法案を成立させることが、議会活動そのものとなっている。議論は二の次、三の次である。
三権分立という以上、行政權と立法權は別物でなければならないはずである。ところが実際には行政權と立法權を握る人間たちは一体の場合が多い。むしろ一体と言われるくらいの状態が「うまくいっている」ことになり、両者が対立すれば「不都合な事態」と見られる。
強権国家と言われる国々が世界にはいくつもあるが、その場合の強権とは、行政権のトップの権力を指すことが多い。大統領が議会などあってもなきがごとく眼中におかずに「特別軍事行動」を発動したり、敵対者の集合地にミサイルを雨あられと撃ちこんだり、といったたぐいである。近代以前の王権と同じような強い権力を、議会があるにもかかわらず、行政権のトップが握っている国があちこちにある。
ということは、議会のあるなしが問題なのではなく、かりに議会があっても、大統領や首相といった行政權のトップが議会をないがしろにすることが、まさに現代の政治制度の問題であると私は考えている。
行政権力の肥大化、横暴化が現代の問題の根源の一つである。とすれば、議会の多数派から行政トップを選び、立法と行政の間に矛盾・対立がないのが良い状態と見るのはとんだ錯覚ではないか。
議会の議員は党派にかかわらず政府の決定を、それぞれが当否を判断するのが、三権分立というもののはずだ。政権のすることにあらかじめ賛成することが決まっているような議会は本来の役目を放棄していることにならないか。
今回の選挙で自公両党が過半数の当選者を出せなかったことは、それこそ国民の意思であるはずだ。それをポストのやりとりなどで多数派を囲い込むのは民意に反する。政府の提案が議会で否決されたら、行政が非能率、不適切を強いられるなどと言うのは本末転倒である。
99人の俗論を1人の正論が排することができるのが民主主義であり、1人の愚論・極論に99人が従うのは議会主義の恥じである。次の国会は石破内閣と衆議院が真剣に対峙してほしい。石破首相は多数派工作などはやめて、貴方らしく建前一本やりで進んでほしい。(241029)
2024.08.28
地震予知に科学的根拠はあるか
――八ヶ岳山麓から(482)――
阿部治平 (もと高校教師)
8月8日、日向灘を震源とした地震が発生し、気象庁は南海トラフ地震の臨時情報「巨大地震注意」を初めて発表した。それから1週間、何ごともなく「注意報」は15日に「解除」された。この間、人によっては大地震に備えて食料を買いこんだし、夏休みだのお盆休みだのの旅行の予定をキャンセルし、観光地は大きな打撃を受けた。
今回の臨時情報には、巨大地震への備えを人々に確認させた意味はあったと思うが、同時に1週間たって警戒期間が終了したことが安全宣言と受け取られる危険性をもつものでもあった。
雑誌「週刊金曜日」の8月23日号に「巨大地震は2040年ごろに」という記事が載った。筆者は地震学者の元京都大学総長尾池和夫先生である。尾池氏は、8月8日の日向灘地震は南海トラフ地震に関連するという前提で大略こういう。
――西日本では、南海トラフの巨大地震の50年前から10年後までの間が内陸部の活断層を中心とする地域の地震活動期となることがわかっている。その活動期と活動期の間は静穏で、その期間の長さが変化することがわかっているとして、1707年の宝永南海トラフ地震、その147年後の1854年安政地震が起こり、その後静穏期があり、1891年の濃尾地震から活動期に入り、1948年で活動期が終わった。その後静穏期が1995年の兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)前まで続き、その後活動期に入って現在に至るーー
そして「統計データに基づく予測では21世紀の前半が活動期で、2040年ごろに南海トラフの巨大地震がおこると予想される」として、こう記している。
「日向灘の地震活動は、南海トラフの巨大地震の前にもあるが全体的M7の地震の頻度が高い(ママ)。南海トラフの巨大地震の前後にはその地域の地震活動が高くなる。前回の活動の後しばらく静穏であったが最近活動を始めている。/内陸部の地震活動は1995年以後次の活動期に入っている。/このようなことから、やはり今世紀前半の2040年ごろに南海トラフの巨大地震が起こるという見方が自然なのではないかと、私は思っている」
尾池氏はM7クラスの地震の後にはM8クラスの巨大地震が起こる可能性があると考えているらしい。
注)Mはマグニチュード、地震の規模を定量的に表す尺度。マグニチュードが2増すごとにエネルギーは1000倍に増加する。震度とは異なる。
尾池氏は、かつて『中国の地震予知』(NHK出版)という本で、文化大革命時代の中国における地震予知研究を紹介した。中国では、予知技術、地震観測網、避難訓練が大変よく組織されており、唐山地震のように予知できないこともあったが、予知できたものがあり、住民を巧みに避難させた実績を語っていた。その中にネズミが電線を伝わって移動するといった動物の異常行動と地震発生の関連も肯定的に書いていた。
だが、わたしは中国の地震多発地帯のチベット高原の東端に5年ほど生活して、改革開放後も中国には、地震観測網も予知技術も避難訓練もないことがわかった。尾池氏の本は、中国当局者が提供した材料を何の科学的検討もなく丸呑みしたものだった。
その後尾池氏は、『新版 活動期に入った日本列島』(岩波書店 2011年)を出版した。そこではこう言っている。
「南海トラフの巨大地震の間隔は平均したら117年ですから、(昭和南海地震の)1946年に117を加えると2060年ころになります」「最近起こったマグニチュード4以上の地震のデータから予測すると2040年ころ、マグニチュード5以上の地震から予測すると2040年代、6以上では2050年代となります(p75-76)」という。
だが、尾池氏は、2015年には南海トラフに起こる次の大規模な地震は、2040年ではなく、2038年頃になると予測されているとしていた。
わたしの記憶だと、地震予知が議論されるようになったのは、1976年当時東京大学理学部助手だった石橋克彦氏(現神戸大学名誉教授)が学会で、地震空白地帯である駿河湾・東海地方の大地震の可能性を指摘したことがきっかけであった。1978年には大規模地震対策特別措置法(大震法)が施行された。当時私は夜間高校で地理を教えていたので、地震予知ができるようになるかもしれないと生徒たちに興奮して語った記憶がある。
しかし、1980年代以後の大地震をふりかえると、専門家の作ったハザードマップのもっとも危険とされた地震防災対策強化地域は発生せず、予想外の地域で発生した。地震予知への疑いを強めたのは、1995年の阪神淡路大震災の直後、さる地震学者が「地震予知の可能性は極めて疑わしい、学者だけでなくいろんな人が国家予算を取るために予知だ、予知だと騒ぎ立てるのだ」と発言したことだった。地震の予知は火事の予報をするのと同じこと、といった学者もいた。
もっとも衝撃的だったのは、1998年東京大学理学部助教授ロバート・ゲラー氏(現東京大学名誉教授)の、「地震は気象や海流とは異なる。地震予知は本来できるものではない」という発言だった。
ところで、尾池氏の説くところにはジャーナリストや地震学者の異論がある。
最近の代表的なものは、東京新聞(8月15日から)の<南海トラフ臨時情報を問う>という特集である(小沢慧一記者)。
そこでの名古屋大学の鷺谷威教授(地殻変動学)の話を集約すると次のようになる。
〇気象庁の南海トラフ地震臨時情報の統計は、1904~2014年に発生した世界の地震データである。それによると、マグニチュード(M)7の地震後、7日以内にM8以上の地震が起きた例は1437回中6回としているが、これには、南海トラフのような「海溝型」だけでなく、内陸での地震などさまざまなメカニズムの地震が含まれている。
〇また、1904年からの統計は、観測精度の信憑性の疑問もある。データに一定の質が担保されるのは、一般的に1970年代以降だとされるからだ。「気象庁がまとめたごちゃまぜのデータでは学術論文としては通らないだろう。この統計から言えることは大きな地震が起きやすいという地震学の常識を表しているに過ぎない」
〇臨時情報は想定震源域の中で地震が起きたか否かを発表の基準とするが、過去にこのサイズの地震が起きた記録はなく、「東日本大震災が南海トラフで起きた」場合を当てはめただけのものである。
〇想定震源域自体あまりしっかりした根拠がない。その線の内側か外側かだけで南海トラフ地震の発生可能性を判定しても、科学的にあまり意味はない。注意情報の南海トラフで想定するM7の後に、M8が実際に起きたケースは知られていない。
〇東日本大震災では3月9日にM7.3の前震が起き、その2日後にM9の地震が発生した。安政地震(1854年)や、昭和東南海地震(1944年)では、注意情報より一段警戒度が高い「巨大地震警戒」のケースが発生している。
橋本学・元京都大防災研究所教授によると、政府が地震学者の委員たちに発生頻度を出すよう求めたとき、「どう考えても出せない」と拒否したという。さらに、京都大防災研究所の西村卓也教授によると、過去の日向灘の地震が南海トラフに影響を与えたとする研究はない。「(震源域を)広げたのは南海トラフが起きたときに日向灘に影響を与える可能性が否定できないことが主で、逆はあまり考えられていない」とのことである。
尾池氏の所論には異なった見解があることは以上のとおりである。気象庁の地震予知情報も堅い科学的根拠にもとづくものではない。今後も予知情報を出すなら、これを国民に明らかにしてから予知情報を出すべきである。
わたしは、国は地震の基礎研究を強化するべきであって、地震予知ばかりに人とカネを集中することに強い疑問を持つ。むしろ、防災対策を首都圏や東海・南海地域に限定するのではなく、列島全体の原発の停止と建造物の耐震性の強化にとりくむこと、さらに大地震発生時の正確な情報を国民に逐次提供する仕組みをつくること、被災からの速やかな復興を準備すること、このほうがより現実的であると思う。
ところで、「週刊金曜日」誌の記事「巨大地震は2040年ごろに」の「はしがき」は、「地震学の専門家が説明する」として尾池説を肯定的に紹介している。これは危険ではないか。尾池説と同時に、異なる見解を持つ他の地震学者の見解も紹介すべきではなかったか。
(2024・08・25)
2024.08.05
大田洋子の訴えに改めて目を向けよう
文学碑移設に伴う碑前祭へのメッセージ
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
8月2日、広島市の中央公園内で、原爆投下直後の惨状を描いた小説『屍の街』で知られる被爆作家・大田洋子の文学碑前祭が、広島文学資料保全の会の主催で行われた。この文学碑は1978年に中央公園内に建てられたが、中央公園内にサッカースタジアムが建設されたのに伴い、今年5月に元の場所から50メートル北側に移設された。碑前祭はこれを機に開催されたもので、被爆者、文学関係者らが集まった。
NHKによれば、碑を前にして、広島文学資料保全の会の土屋時子代表は「このような体験をさせてはならない。そういうことが2度と起こってはならないという強い願いといいますか、そういったものが大田洋子にあったと思うんですね。若い人たちもこの場に訪れて、大田洋子さんのことを学んでいただけたらなと思います」と述べた。
なお、碑には「少女たちは/天に焼かれる/天に焼かれる/と歌のやうに/叫びながら/歩いて行った」と刻まれているが、これは『屍の街』の一節である。
私はこの碑前祭に列席できなかったが、広島文学資料保全の会に請われて碑前祭にメッセージを送った。以下は、その全文である。
大田洋子の訴えに改めて目を向けよう
去る7月22付の毎日新聞朝刊の1面トップ記事は、東京の霊園に著名人の「墓じまい」の波が押し寄せている、と伝えていました。明治時代の詩人・上田敏、明治・大正期の劇作家・島村抱月らの墓が撤去されつつあり、それは、墓を管理してきた親族らが亡くなりつつあるからだという記事でした。
それに引き換え、広島市の中央公園広場にあった被爆作家・大田洋子の文学碑は、サッカースタジアムの建設でいったん撤去されたものの、中央公園広場の一角に移設されました。移設完了を心からお慶び申し上げるとともに、移設に尽力された広島文学資料保全の会の方々に深甚なる敬意を表します。
あの日、大田洋子は爆心地から1・5キロの広島市白島九県町で被爆しました。その後、『屍の街』、『人間襤褸』『半人間』などの作品を次々と発表、いずれも原爆がもたらした凄惨な状況を経験に基づいてリアルに描いたものでありました。
でも、これらの作品は、簡単に出来上がったものではありません。三重苦と闘った末の作品でした。まず、全ての持ち物を焼失した大田は原稿用紙はもとより1本の鉛筆も持っていませんでした。知人からもらった障子から剥がした煤けた障子紙やちり紙に書き続けました。第2は、原爆症による後遺症なのか、常に病身だったことです。大田は「根こそぎ心身をこわした。昼間は四つん這いにしか歩けず、夜は頭を鉢巻きでしめくくって書いた」と書いています。第3は、GHQ(連合国軍総司令部)によるプレスコードでした。米軍は、原爆に関する機密や悲惨極まる原爆被害が世界に知られるのを恐れ、原爆に関する報道を禁止したのです。大田も米軍の訊問を受け、作品の一部を削除せざるを得ませんでした。
大田がこうした三重苦に遭いながらも筆を止めなかったのは、ひとえに「原爆の真実を伝えるのは作家の責任だから」という信念の持ち主だったからです。
大田洋子のこれらの作品は、人類にとって貴重な遺産であります。広島文学資料保全の会と広島市が、2023年に峠三吉、原民喜、栗原貞子の作品とともに大田洋子の作品をユネスコの世界記憶遺産とするよう申請したことにも端的に表れていると言っていでしょう。
来年は「被爆80年」です。改めて被爆の実相に国民の関心が向けられる年です。だが、被爆の実相を証言できる被爆者は年ごとに減少しており、被爆の実相をどう次の世代に継承して行くかが喫緊の課題として改めてクローズアップされるでしょう。そうなれば、被爆の実相を記録した大田洋子らの原爆文学が改めて注視されるに違いありません。彼女の作品を改めてひもときたい。
2024.05.17
仙台、水俣、京都へ
韓国通信NO745
小原 紘(個人新聞「韓国通信」発行人)
足が遠のいていた仙台の実家へ1年ぶりに出かけた。
「みどりの窓口」がなくなりあわてた。「どうしました?」と窓から愛想のない顔がのぞく。となりの券売機でも年配の婦人が奮闘中だ。「不便になったね」とイヤミを言って、駆けつけた駅員に切符を買ってもらった。
実家に着くと手押し車の叔母が笑顔で出迎えてくれた。訪問介護、デイサービス、病院通いをしながら一人暮らしを続けている。
「元気だった?」と声をかけると、
「元気じゃない」といつもの挨拶が返ってきた。
一人で外出が出来ない96才。朝食はパンと牛乳と果物。配達される弁当が彼女の昼食と夕食というパターンは十数年変わらない。入浴や洗濯、買い物、掃除をヘルパーに頼る他は、日常生活を何とかこなしている。
そこでは時間がゆったり流れている。新聞を読んだりテレビを見たり、時々居眠りもする毎日。意思疎通に難ありだが、スマホを駆使した親戚や友人たちとの交流も以前とまったく変わらず、夕方には茶飲み友だちとおしゃべりを楽しむ毎日である。
誰も避けることのできない独り暮らし。彼女の場合は母親を看取った挙句の独り暮らしである。自分ならどうするだろうか。「地域で支える」と言うケア・マネージャーの存在は頼もしい気もするが。
<揺るぎのない平和主義>
近郊に住む従兄と彼の息子がたずねてきたので昼食を食べに出かけた。叔母は従兄の息子にお嫁さんを探さなければとおせっかいを言い、日本の人口減少を心配した。
いつものことである。叔母の戦争反対論が始まった。
19歳の時に宇都宮の中島飛行機に勤労動員された苦労話から始まり、戦死した親戚や友人の話を始めると止まらない。戦争抑止のための戦争準備なんていう理屈は彼女には通じない。彼女は新聞もテレビも見ていないようでよく見ている。
突然、朝鮮人差別について語り始めた。
叔母の兄、つまり私の父親から「朝鮮人を馬鹿にしてはいけない」と厳しく諭された思い出話を始めた。職業軍人だった叔母の父親ともう一人の兄にひきかえ、病弱のため戦地に行かなかった私の父がどれほど家族思いでやさしい人柄だったか話した。
工場勤めをした父親から空襲で死んだ朝鮮人の女子労働者たちの話は聞いたような気がするが、「差別をするな」と妹の叔母を戒めた話は初耳だった。これまで知らなかった父親の話に耳を傾けた。
父親が晩年、さりげなく話してくれたことを思い出した。銀行に入社して日の浅いころ、職場で繰り広げられた日常的な差別を目の当たりにして私が窮地にあった時期。父は銀行の支店長から手紙をもらった。手紙は過激な組合を抜けるように説得してほしいという中身だったという。28才になる息子の改心を求める手紙のばかばかしさ。息子を信じて父は手紙を破り捨てた。
妹の叔母に父が語った差別の話がつながった。支店長の予告どおり出世とは無縁な職場生活を歩むことになったが、自分の生き方が父に理解されていたことに初めて気がついた。食事の箸をとめて何回も叔母にその事実を確かめ、96才の叔母の記憶に感謝した。
<墓掃除>
叔母が気にしていた墓参りをした。私もあなたも死ねばここ入ると何回聞かされたことか。二人で花と線香を持って出かけた。雑草が根深くて採り切れず、翌日一人でスコップを持って出かけた。一人で作業をしたせいか墓について普段考えていた疑問が大きくなった。骨となった私が墓参りに来た人に感謝するかどうか、草むしりを喜ぶかどうかという素朴な疑問。墓碑銘に名を残すだけというのは淋しいが、いっそのこと墓も墓碑銘もないほうが気楽に思えてきた。
<水俣病 天が病む>
実家の購読紙『河北新報』のコラムが石牟礼道子の「祈るべき 天と 思えど 天の病む」を紹介して、水俣病患者と家族が政府に訴えるマイクの音声を環境省職員が3分で切った事件を批判した。国の病の深さ。天に祈っても天そのものが腐っていてはどうしようもない。
もしかしたら、この国は政権交代だけではでは間に合わないところまで来ているのかも知れない。政治家たちは裏金を指摘されても逃げ切れると思っている。国民の声に耳を傾ける気はさらさらない。中国は専制国家だ。北朝鮮のミサイルが飛んでくると恐怖感をまき散らしてはやりたい放題。バイデン大統領と岸田首相のお友だちの尹大統領にNO!を突き付けた韓国を少しは見習ったらどうだ。憲法の番人、最高裁も政府と同病。重病人患者を抱えていささか憂鬱だが、諦めるわけにはいかない。
仙台から帰ってから数日後に開かれた高校時代のクラス会では病気と墓の話に花が咲いた。国の病気が話題にならなかったのは私たちも病んでいるからだろう。
<自分でやれることは>
今週末、亡くなった友人の納骨のために京都に出かける。「韓国通信」には彼の台湾の「廃原発運動」の寄稿文が遺された。やれることは何でもする、行けるところは何処にでも行く。そんな思いで行動を共にした友人だった。死者の思いを無駄にしないという思いが日々募ってくる。彼と訪れた河井寛次郎の記念館を訪ねるつもりでいる。
「通信」を書きがら、彼を思い出してイスラエル大使館に抗議のメールを送った。
英文で―「ユダヤ人虐殺を世界は決して忘れないが、イスラエルのパレスチナ虐殺も世界は忘れない。直ちに戦争をやめて!!」
彼が生きていたら「いいね」と賛成してくれた筈だ。
2024.04.19
ロシアに似てきた中国の口調、それでいいのですか?
―日米比を「北大西洋条約」になぞらえるとは
先ごろの岸田首相のアメリカ訪問が歴代首相のワシントン詣でといささか趣を異にした点をさがせば、11日にフィリピンのマルコス大統領を交えて三国首脳会談が開かれたことだろう。
それもたまたま訪米時期が重なったからというのではなく、南シナ海の南沙諸島の海域における情勢が、中国のフィリピンに対する態度がますます横暴となってきたのを受けてのいわば対策会議であった点が、従来の日米首脳会談の枠組みから大きく足を踏み出した点が注目された。
それについて米バイデン大統領は、日米に韓国とかオーストラリア、ニュージーランド、あるいはインドなどを加えたさまざまの国家グループがこれまでに形成されているのを、ここでいわば「格子」状に重ね合わせて、中国を抑止しようとしているのだという解説がおこなわれていて、それはそれで説得力をもつ話ではある。
同時に日米安保条約はあくまで日本を守るためのものであるという従来の説明からはどう考えても、一歩足を踏み出すものであることは確かである。もっとも日本の防衛力を増強することについての議論はすでに数年前に終わって、防衛予算の大幅増額が現にスタートしている以上、その線上の話といえばそれまでである。
とつおいつ、こんなことを考えていると、「戦力はこれを一切保持しない」という憲法9条は何処へ行ってしまったのだろうとも思うし、一方では戦争だか内戦だか、何と言っていいのかわからない中でミサイルや爆撃機がとびかい、ガザのあんなせまいところで3万人以上も無辜の民が殺されたと聞くと、人間社会にはもはや道義もなにもなくなって、なんでもありの原始状態にもどってしまったのだろうか、などとも考えてみる。
すると16日、中國の新聞に「共同防衛じつは徒党の強盗」という論説が載った(新華時評)。強盗呼ばわりされたのはほかならぬ11日の日米比三国首脳会談である。
その論旨はー 「3国会談では、南海(南シナ海)においてフィリピンの航空機、船舶あるいは武装部隊に対するいかなる攻撃も米比共同防衛条約に抵触する可能性がある、とされた。米が言う『共同防衛』とは『友を守る』と聞こえるが、米国およびその同盟国には侵害される正当な権益などが本当にあるだろうか? 答えは『ない』である」、「北大西洋条約のような軍事集団であろうと、米日、米韓、米比などの双務軍事同盟は、いずれも『共同防衛』あるいは『集団防衛』の看板を掲げているが、行っていることは他国の合法的利益を侵害する悪事である。」
「もっとも典型的なのは、自ら『地域的、防衛的』組織と称する北大西洋条約である。冷戦時代、ソ連に対抗するために、米は『共同防衛』の触れ込みで一部の欧州国家を取り込んで『北大西洋条約』を成立させた。・・・目下、欧州大陸でまたも戦火が広がっているのは、米主導の北大西洋条約をたえず東へ拡張しようとする災厄である。」
われわれが最近、ちょくちょくテレビで目にするのは、中國大陸からははるかに離れた南沙諸島海域で、中國の大型巡視船が太い大砲のような筒先から海水の放射をフィリピン船に浴びせる場面である。以前は大型の船舶を数珠つなぎに並べてフィリピン船の行く手をさえぎっている光景であったが、最近はもっぱら水鉄砲ならぬ水大砲である。
地図を見ればすぐ分かるように、現場は中国大陸からはるか遠くに離れた海域であり、そこを中国領と主張する根拠は前世紀の前半に国民党政権が勝手に地図上に9個の点を並べた「九段線」(その後、共産党政権は北方に点を1個追加して、現在は「10段線」と称している)であるが、これはハーグの国際仲裁裁判所で確か2016年に「根拠なし」としりぞけられた。しかし、中國はその判決を「紙屑」と称して従わず、海域の「実効支配」をつづけているのである。
私が驚いたのは、日米比三国首脳会談を非難するにしても、中國が持ち出したのが北大西洋条約のいわゆる「東方拡大論」だからである。これはプーチンがしきりに東・中欧諸国が北大西洋条約に加入するのを非難する際に使う言葉だが、ロシアに隣接ないし近接する国家が北大西洋条約にぞくぞく加入したのは、ロシアが怖いからであって、北大西洋条約が原因ではない。同条約の「東方拡大論」はプーチンがウクライナ侵攻の理由ともとれる言い方をしたのは事実だが、それを中國が援用することは、みずからを悪役として認めることにほかならない。
どうも習近平の総書記三選以来の中国はどうも様子がおかしい。やがて何が起こっているのか、分かる日がくるだろうが、それまではこれも大きくはないが、愚説奇論の一つとして記憶しておこう。
田畑光永 (ジャーナリスト)
先ごろの岸田首相のアメリカ訪問が歴代首相のワシントン詣でといささか趣を異にした点をさがせば、11日にフィリピンのマルコス大統領を交えて三国首脳会談が開かれたことだろう。
それもたまたま訪米時期が重なったからというのではなく、南シナ海の南沙諸島の海域における情勢が、中国のフィリピンに対する態度がますます横暴となってきたのを受けてのいわば対策会議であった点が、従来の日米首脳会談の枠組みから大きく足を踏み出した点が注目された。
それについて米バイデン大統領は、日米に韓国とかオーストラリア、ニュージーランド、あるいはインドなどを加えたさまざまの国家グループがこれまでに形成されているのを、ここでいわば「格子」状に重ね合わせて、中国を抑止しようとしているのだという解説がおこなわれていて、それはそれで説得力をもつ話ではある。
同時に日米安保条約はあくまで日本を守るためのものであるという従来の説明からはどう考えても、一歩足を踏み出すものであることは確かである。もっとも日本の防衛力を増強することについての議論はすでに数年前に終わって、防衛予算の大幅増額が現にスタートしている以上、その線上の話といえばそれまでである。
とつおいつ、こんなことを考えていると、「戦力はこれを一切保持しない」という憲法9条は何処へ行ってしまったのだろうとも思うし、一方では戦争だか内戦だか、何と言っていいのかわからない中でミサイルや爆撃機がとびかい、ガザのあんなせまいところで3万人以上も無辜の民が殺されたと聞くと、人間社会にはもはや道義もなにもなくなって、なんでもありの原始状態にもどってしまったのだろうか、などとも考えてみる。
すると16日、中國の新聞に「共同防衛じつは徒党の強盗」という論説が載った(新華時評)。強盗呼ばわりされたのはほかならぬ11日の日米比三国首脳会談である。
その論旨はー 「3国会談では、南海(南シナ海)においてフィリピンの航空機、船舶あるいは武装部隊に対するいかなる攻撃も米比共同防衛条約に抵触する可能性がある、とされた。米が言う『共同防衛』とは『友を守る』と聞こえるが、米国およびその同盟国には侵害される正当な権益などが本当にあるだろうか? 答えは『ない』である」、「北大西洋条約のような軍事集団であろうと、米日、米韓、米比などの双務軍事同盟は、いずれも『共同防衛』あるいは『集団防衛』の看板を掲げているが、行っていることは他国の合法的利益を侵害する悪事である。」
「もっとも典型的なのは、自ら『地域的、防衛的』組織と称する北大西洋条約である。冷戦時代、ソ連に対抗するために、米は『共同防衛』の触れ込みで一部の欧州国家を取り込んで『北大西洋条約』を成立させた。・・・目下、欧州大陸でまたも戦火が広がっているのは、米主導の北大西洋条約をたえず東へ拡張しようとする災厄である。」
われわれが最近、ちょくちょくテレビで目にするのは、中國大陸からははるかに離れた南沙諸島海域で、中國の大型巡視船が太い大砲のような筒先から海水の放射をフィリピン船に浴びせる場面である。以前は大型の船舶を数珠つなぎに並べてフィリピン船の行く手をさえぎっている光景であったが、最近はもっぱら水鉄砲ならぬ水大砲である。
地図を見ればすぐ分かるように、現場は中国大陸からはるか遠くに離れた海域であり、そこを中国領と主張する根拠は前世紀の前半に国民党政権が勝手に地図上に9個の点を並べた「九段線」(その後、共産党政権は北方に点を1個追加して、現在は「10段線」と称している)であるが、これはハーグの国際仲裁裁判所で確か2016年に「根拠なし」としりぞけられた。しかし、中國はその判決を「紙屑」と称して従わず、海域の「実効支配」をつづけているのである。
私が驚いたのは、日米比三国首脳会談を非難するにしても、中國が持ち出したのが北大西洋条約のいわゆる「東方拡大論」だからである。これはプーチンがしきりに東・中欧諸国が北大西洋条約に加入するのを非難する際に使う言葉だが、ロシアに隣接ないし近接する国家が北大西洋条約にぞくぞく加入したのは、ロシアが怖いからであって、北大西洋条約が原因ではない。同条約の「東方拡大論」はプーチンがウクライナ侵攻の理由ともとれる言い方をしたのは事実だが、それを中國が援用することは、みずからを悪役として認めることにほかならない。
どうも習近平の総書記三選以来の中国はどうも様子がおかしい。やがて何が起こっているのか、分かる日がくるだろうが、それまではこれも大きくはないが、愚説奇論の一つとして記憶しておこう。