2014.12.31
書名『うつけの采配(上・下)』
著者 中路啓太
発売 中央公論新社
発行年月日 2014年10月25日
定価 各¥700E
戦国の英雄・毛利元就(もおりもとなり)を祖父に、名将・小早川隆景を叔父に持つ吉川広家((きっかわひろいえ)を主人公とし、広家の視線で関ヶ原の戦いを描いた歴史時代小説である。
徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍の併せて15万を超える将兵が激突した、世に言う「天下分け目の戦い」――関ヶ原の戦いには多くの謎がある。西軍は兵力においても、陣地の配置においても圧倒的な有利さを誇ったにもかかわらず敗れた。何故か。吉川広家は大坂城に在る西軍総帥の毛利輝元の代理として美濃表に出陣し、戦いの当日である慶長5年(1600)9月15日には、輝元の養子秀元を奉じて南宮山の山中に布陣していたが、両軍が激突しているにもかかわらず不戦観望し、西軍は敗走する。西軍から観れば明らかな裏切り行為に他ならない。
物語は文禄2年(1593)広家33歳の朝鮮在陣(文禄の役)の頃より始まる。
吉川家は小早川家と並び、「毛利の両川」と称された家柄である。文禄の役において毛利軍の実質的な総大将である小早川隆景は甥の広家の器量を見抜いていて、うつけを自称する広家の心境を思いやるとともに、「毛利の命運を背負え」と負託する。元就や元春(広家の父)の死後、毛利を守るべく、ひとりで家政の舵取りをした叔父・隆景を尊敬してやまない広家だが、叔父の真似をするつもりも、またそのような器量がうつけである自分にはあるとも思っていない、と広家は造形されている。
隆景の死。隆景の遺言は、上方で乱が起きた際、輝元を安芸広島城から出してはならない。恵瓊に毛利の命運をゆだねてはならない、の2点であった。毛利本家の輝元は広家から観れば8歳年下の従兄弟に当たるが、天下を嘱望すべき経綸も器量をも持ち合わせていないと隆景はみなしていたのだ。安国寺恵瓊は毛利家一族の使僧(外交を専門とする僧侶)で、秀吉の中国大返しの時、小早川隆景と共にその追撃に反対して秀吉に恩を売った人物で、その結果、毛利家は豊臣政権下で殊遇されることになる。
本書で描かれる広家と恵瓊、二人の人物造形は鮮烈である。恵瓊から観れば、広家は毛利一族ながら家康に媚びようとする世間知らずの若者にすぎない。一方、広家は恵瓊を、毛利一族でもなければ正式な家臣というわけでもないただの謀略数奇の怪僧にすぎないとみている。恵瓊には己れの才覚を持って、毛利輝元に天下を取らせるという夢があり、この俺こそ、毛利の運命を決めるべき男であるという自負があった。それに対し広家は、「毛利は輝元のものでも、恵瓊のものでもない」と気を引き締める。毛利の命運を背負うということは恵瓊と対峙することでもあった。
毛利を背負うという宿命から何度も逃げ出そうとする広家を諌めるのは京の色町の遊女・夕霧である。
「うつけの殿……御身のうつけぶりをまっすぐに見つめるのが恐ろしいから、大酒を飲み、死にかけた女郎のもとへなど押しかけてきて、ぐずぐずしておられるのです。……御身がまことにうつけと申されるのなら、うつけぶりを存分に発揮して、堂々としくじればよいのではありませぬか」
広家にとって、この夕霧の諌めは心にしみた。かくして、広家は隆景亡きあとの最も毛利家にとって舵取りが難しい時期に、一族の采配をとると腹を括る。
実在の人物隆景と架空の人物夕霧。この二人の人物の設定が実に絶妙で、広家が毛利の屋台骨を背負わざるを得なくなる当時の状況があますことなく描きつくされている。広家を取り巻く実在の人物としては小早川隆景の独特の存在感と名将ぶりが際立ち、架空の人物としては夕霧と伊知介が印象に残る。
では、「うつけ」を自称する広家の振るう采配とは————如何に!?
おのれの天下を打ち立てるために暴慢な挙動を繰り返す家康の姿は、広家にとっても面白いものではない。かといって、輝元が、天下の覇権を賭けた戦に巻き込まれるのを黙って見過ごしてもいられない。恵瓊はかねてより昵懇にしている石田三成と謀り、毛利家を西軍に属させようと工作している。輝元の信任厚い恵瓊が、秀頼の身柄を押さえ、その名を持って天下に号令すれば毛利は徳川を倒せると本気で考えていたとすれば、お家にとって危うい、家康には勝てない、勝てる見込みがない、と考える広家は輝元に直言する。
「憚りながら、上様(輝元)はいままで、ご自身で采を振られたことはござらぬ。備前宰相殿(宇喜多秀家)もご若年。治部少輔殿(石田三成)にいたっては、先の高麗の戦においても、ほとんど故太閤殿下のおそばにて、畳の塵でも払うておられた御仁。戦のことなどおわかりにならぬ方々ばかりよ」
ここに、「高麗の戦」つまり朝鮮出兵の苦い体験が語られていることに注目したい。本書巻頭で文禄の役が活写されていることとつながっている。秀吉の無謀な朝鮮出兵で、豊臣家中には武将たちと吏僚らの対立が生まれ、秀吉の死後、両派の確執はにわかに深刻化し、関ヶ原の戦場にのっびきならぬ影響を与えている。
主家の力量を見抜き野心を諌めた隆景の遺言にしたがい、天下をめぐる戦乱の最中には輝元を毛利氏の本拠である広島城に閉じ込めておこうとした広家の目論見は失敗する。恵瓊らに唆され、みずからが次の天下人だと思い上がる輝元はすでに軍勢を率いて大坂城西の丸を占拠するや反徳川の総大将に祭り上げられてしまったのだ。
輝元の大坂入りを止められなかった広家は家康に密書を送る。輝元は三成に与するふりをしているが、実は密かに徳川方に有利になるよう動いていると。家康が広家の密書を全面的には信じてはいないと知りつつ、けれども、広家には嘘をつくよりほかに手はなかった。この嘘をうまく突き通すには、輝元を大坂城に閉じ込めておく必要があり、関ヶ原の戦場では、毛利軍をその場から一歩も動かさないことが必要であった。しかもこれらを輝元はもとより恵瓊や三成に覚られずにやり遂げなければならない。偽りの書状を家康のもとに届ける使命を帯びるのは 藤谷伊知介である。これがうつけの采配であった……。
西軍の敗因は毛利家指導部の不思議なまでの消極性と、それゆえの毛利一族の不統一にある。大坂城にある西軍総帥の毛利輝元が秀頼を奉じて出陣してくれば、家康に勝ち目はなかった。徳川に与した福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが、秀頼に矢を向けることはないからである。故に、広家が毛利家の安泰を図るならば、輝元に秀頼を奉じての決戦を進めるべきであった、さすれば毛利氏が父祖の地である安芸を失い中国120万石から36万石に減封されることはなかったとする見解がある。検証すべき歴史のイフであろうが、本書における吉川広家は、三成に属することは毛利家を滅ぼすことになる、徳川家康に勝てる見込みはないと踏む人物として描かれている。
三成に属することとはとりもなおさず豊臣政権の継続延命路線に甘んじることである。家康に勝てぬとは戦の上だけではない。家康はすでに秀吉晩年の豊臣政権を見切っていて、〈関ヶ原以後〉の国家構想を描いている。このことで広家は家康に通じる考え方————秀吉と豊臣家に対する深い失望と幻滅————を有していたと作家はみなしているのであろう。家康の口から発せられるのは作家自身の独自な歴史解釈である。
「(秀吉を)愚かな男だ、と家康は思っている。日本を平定して後、その卓越した富や武威、智慧、そして精力を、内治と後継体制の確立に注いでいれば、豊臣政権のありさまはずいぶん変わっていただろう。」
吉川広家は裏切り者という忌むべき存在であるという先入観があった。が、西軍の主力である毛利軍の事実上の総指揮官として広家が南宮山に陣を構え観望し、一戦も交えずに、東軍勝利を確認するや、戦場を離脱しているのは裏切りでもなんでもなく、したたかな信念で戦い以前から決めていたことであったと読者は知らされる。毛利元就の血筋を引きながら天下を夢見ることなく、毛利輝元の軽挙妄動、安国寺恵瓊の野望を抑え、毛利家の名を残すべく奔走して、家康に賭けた男、吉川広家が清々しい。
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋(隆景の養子)の裏切りばかりがクローズアップされるが、一般にはほとんど注目されていない吉川広家を主人公とし、その苦悩と葛藤を余すところなく描いた本書は史材の選択というだけでもすでに出色である。
中路啓太((なかじけいた)は1968年東京都生まれ。代表作に『裏切り涼山』、近著に『もののふ莫迦』がある。学究の出ながら歴史時代小説の本流に位置される作家で、歴史の非情と狂気を、単なる歴史読み物ではなしに、薫り高い文学の域にまで昇華して描きつくす<戦国もの>歴史時代小説を書き続けている。
本書は単行本として2012年2月に刊行されたものの文庫化である (「解説」は本郷和人 東京大学史料編纂所教授)。
発売 中央公論新社
発行年月日 2014年10月25日
定価 各¥700E
雨宮由希夫 (書評家)
戦国の英雄・毛利元就(もおりもとなり)を祖父に、名将・小早川隆景を叔父に持つ吉川広家((きっかわひろいえ)を主人公とし、広家の視線で関ヶ原の戦いを描いた歴史時代小説である。
徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍の併せて15万を超える将兵が激突した、世に言う「天下分け目の戦い」――関ヶ原の戦いには多くの謎がある。西軍は兵力においても、陣地の配置においても圧倒的な有利さを誇ったにもかかわらず敗れた。何故か。吉川広家は大坂城に在る西軍総帥の毛利輝元の代理として美濃表に出陣し、戦いの当日である慶長5年(1600)9月15日には、輝元の養子秀元を奉じて南宮山の山中に布陣していたが、両軍が激突しているにもかかわらず不戦観望し、西軍は敗走する。西軍から観れば明らかな裏切り行為に他ならない。
物語は文禄2年(1593)広家33歳の朝鮮在陣(文禄の役)の頃より始まる。
吉川家は小早川家と並び、「毛利の両川」と称された家柄である。文禄の役において毛利軍の実質的な総大将である小早川隆景は甥の広家の器量を見抜いていて、うつけを自称する広家の心境を思いやるとともに、「毛利の命運を背負え」と負託する。元就や元春(広家の父)の死後、毛利を守るべく、ひとりで家政の舵取りをした叔父・隆景を尊敬してやまない広家だが、叔父の真似をするつもりも、またそのような器量がうつけである自分にはあるとも思っていない、と広家は造形されている。
隆景の死。隆景の遺言は、上方で乱が起きた際、輝元を安芸広島城から出してはならない。恵瓊に毛利の命運をゆだねてはならない、の2点であった。毛利本家の輝元は広家から観れば8歳年下の従兄弟に当たるが、天下を嘱望すべき経綸も器量をも持ち合わせていないと隆景はみなしていたのだ。安国寺恵瓊は毛利家一族の使僧(外交を専門とする僧侶)で、秀吉の中国大返しの時、小早川隆景と共にその追撃に反対して秀吉に恩を売った人物で、その結果、毛利家は豊臣政権下で殊遇されることになる。
本書で描かれる広家と恵瓊、二人の人物造形は鮮烈である。恵瓊から観れば、広家は毛利一族ながら家康に媚びようとする世間知らずの若者にすぎない。一方、広家は恵瓊を、毛利一族でもなければ正式な家臣というわけでもないただの謀略数奇の怪僧にすぎないとみている。恵瓊には己れの才覚を持って、毛利輝元に天下を取らせるという夢があり、この俺こそ、毛利の運命を決めるべき男であるという自負があった。それに対し広家は、「毛利は輝元のものでも、恵瓊のものでもない」と気を引き締める。毛利の命運を背負うということは恵瓊と対峙することでもあった。
毛利を背負うという宿命から何度も逃げ出そうとする広家を諌めるのは京の色町の遊女・夕霧である。
「うつけの殿……御身のうつけぶりをまっすぐに見つめるのが恐ろしいから、大酒を飲み、死にかけた女郎のもとへなど押しかけてきて、ぐずぐずしておられるのです。……御身がまことにうつけと申されるのなら、うつけぶりを存分に発揮して、堂々としくじればよいのではありませぬか」
広家にとって、この夕霧の諌めは心にしみた。かくして、広家は隆景亡きあとの最も毛利家にとって舵取りが難しい時期に、一族の采配をとると腹を括る。
実在の人物隆景と架空の人物夕霧。この二人の人物の設定が実に絶妙で、広家が毛利の屋台骨を背負わざるを得なくなる当時の状況があますことなく描きつくされている。広家を取り巻く実在の人物としては小早川隆景の独特の存在感と名将ぶりが際立ち、架空の人物としては夕霧と伊知介が印象に残る。
では、「うつけ」を自称する広家の振るう采配とは————如何に!?
おのれの天下を打ち立てるために暴慢な挙動を繰り返す家康の姿は、広家にとっても面白いものではない。かといって、輝元が、天下の覇権を賭けた戦に巻き込まれるのを黙って見過ごしてもいられない。恵瓊はかねてより昵懇にしている石田三成と謀り、毛利家を西軍に属させようと工作している。輝元の信任厚い恵瓊が、秀頼の身柄を押さえ、その名を持って天下に号令すれば毛利は徳川を倒せると本気で考えていたとすれば、お家にとって危うい、家康には勝てない、勝てる見込みがない、と考える広家は輝元に直言する。
「憚りながら、上様(輝元)はいままで、ご自身で采を振られたことはござらぬ。備前宰相殿(宇喜多秀家)もご若年。治部少輔殿(石田三成)にいたっては、先の高麗の戦においても、ほとんど故太閤殿下のおそばにて、畳の塵でも払うておられた御仁。戦のことなどおわかりにならぬ方々ばかりよ」
ここに、「高麗の戦」つまり朝鮮出兵の苦い体験が語られていることに注目したい。本書巻頭で文禄の役が活写されていることとつながっている。秀吉の無謀な朝鮮出兵で、豊臣家中には武将たちと吏僚らの対立が生まれ、秀吉の死後、両派の確執はにわかに深刻化し、関ヶ原の戦場にのっびきならぬ影響を与えている。
主家の力量を見抜き野心を諌めた隆景の遺言にしたがい、天下をめぐる戦乱の最中には輝元を毛利氏の本拠である広島城に閉じ込めておこうとした広家の目論見は失敗する。恵瓊らに唆され、みずからが次の天下人だと思い上がる輝元はすでに軍勢を率いて大坂城西の丸を占拠するや反徳川の総大将に祭り上げられてしまったのだ。
輝元の大坂入りを止められなかった広家は家康に密書を送る。輝元は三成に与するふりをしているが、実は密かに徳川方に有利になるよう動いていると。家康が広家の密書を全面的には信じてはいないと知りつつ、けれども、広家には嘘をつくよりほかに手はなかった。この嘘をうまく突き通すには、輝元を大坂城に閉じ込めておく必要があり、関ヶ原の戦場では、毛利軍をその場から一歩も動かさないことが必要であった。しかもこれらを輝元はもとより恵瓊や三成に覚られずにやり遂げなければならない。偽りの書状を家康のもとに届ける使命を帯びるのは 藤谷伊知介である。これがうつけの采配であった……。
西軍の敗因は毛利家指導部の不思議なまでの消極性と、それゆえの毛利一族の不統一にある。大坂城にある西軍総帥の毛利輝元が秀頼を奉じて出陣してくれば、家康に勝ち目はなかった。徳川に与した福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが、秀頼に矢を向けることはないからである。故に、広家が毛利家の安泰を図るならば、輝元に秀頼を奉じての決戦を進めるべきであった、さすれば毛利氏が父祖の地である安芸を失い中国120万石から36万石に減封されることはなかったとする見解がある。検証すべき歴史のイフであろうが、本書における吉川広家は、三成に属することは毛利家を滅ぼすことになる、徳川家康に勝てる見込みはないと踏む人物として描かれている。
三成に属することとはとりもなおさず豊臣政権の継続延命路線に甘んじることである。家康に勝てぬとは戦の上だけではない。家康はすでに秀吉晩年の豊臣政権を見切っていて、〈関ヶ原以後〉の国家構想を描いている。このことで広家は家康に通じる考え方————秀吉と豊臣家に対する深い失望と幻滅————を有していたと作家はみなしているのであろう。家康の口から発せられるのは作家自身の独自な歴史解釈である。
「(秀吉を)愚かな男だ、と家康は思っている。日本を平定して後、その卓越した富や武威、智慧、そして精力を、内治と後継体制の確立に注いでいれば、豊臣政権のありさまはずいぶん変わっていただろう。」
吉川広家は裏切り者という忌むべき存在であるという先入観があった。が、西軍の主力である毛利軍の事実上の総指揮官として広家が南宮山に陣を構え観望し、一戦も交えずに、東軍勝利を確認するや、戦場を離脱しているのは裏切りでもなんでもなく、したたかな信念で戦い以前から決めていたことであったと読者は知らされる。毛利元就の血筋を引きながら天下を夢見ることなく、毛利輝元の軽挙妄動、安国寺恵瓊の野望を抑え、毛利家の名を残すべく奔走して、家康に賭けた男、吉川広家が清々しい。
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋(隆景の養子)の裏切りばかりがクローズアップされるが、一般にはほとんど注目されていない吉川広家を主人公とし、その苦悩と葛藤を余すところなく描いた本書は史材の選択というだけでもすでに出色である。
中路啓太((なかじけいた)は1968年東京都生まれ。代表作に『裏切り涼山』、近著に『もののふ莫迦』がある。学究の出ながら歴史時代小説の本流に位置される作家で、歴史の非情と狂気を、単なる歴史読み物ではなしに、薫り高い文学の域にまで昇華して描きつくす<戦国もの>歴史時代小説を書き続けている。
本書は単行本として2012年2月に刊行されたものの文庫化である (「解説」は本郷和人 東京大学史料編纂所教授)。