2010.04.29 4・25県民大会に参加して 
 沖縄小景3

市来哲雄 (フリーランスライター)


 まず、数の説明をしなければならない。ゴールデンウイーク前としては低めの気温だったものの、日差しは強く、風のある四月二十五日、日曜日。本来なら、家族連れは行楽に繰り出したり、清明祭で親類縁者が集うに絶好の中、読谷村に九万人(主催者発表)が参集した。うち一万人は、周辺道路の渋滞で参加が間に合わなかった人数を見込みで入れ込んだものだ。大会の名は「米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と、県内移設に反対し、国外・県外移設を求める県民大会」(同実行委員会主催、共同代表は翁長雄志那覇市長、高嶺善伸県議会議長、仲村信正連合沖縄会長、大城節子県婦人連合会会長の四氏)。
 
 この日、沖縄本島では二つの市長選投票日と重なっていた。位置関係を簡単に説明しよう。九五年以降、ことあるごとに開かれた県民大会の開催は宜野湾市。読谷村はそこからさらに車で北上すること、ざっと二十分だろうか。ただし、これは渋滞がなければの話。途中の北谷町あたりで滞ることが多いため、感覚的には三十分以上かかる印象。人口の多い沖縄本島の南部地域からすると、小一時間を見込む。読谷村は交通アクセス上、結構遠い所なのだ。そこに九万人が集まった。これはやはり、尋常な数ではない。二名の代理出席を含む県下全四十一市町村首長の参加に加え、大会前々日に知事の参加表明があり、完璧に全県的な色合いをみせたのは、九五年の少女暴行事件に抗議する大会以来(八万五千人)。しかも、人数は上回っている。仮にアクセスの良い宜野湾市で開催されていたら、ゆうに十万人を超えていただろう。

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写真1 多数の参加者が詰めかけた県民大会 

 私が糸満市を出発したのが十二時過ぎ。本島の幹線道路、国道五八号の渋滞を予想し、高速を使って北上、嘉手納基地の北側を通って読谷村に向かうことにした。高速に入ると通常より車が多め。高速を下りると、一段と増えていた。そして五八号への合流地点、通称嘉手納ロータリーの手前から、びっしりと渋滞が始まった。那覇市など南部地域から五八号を北上してきた車がいっぱいで、右折合流もままならない。そこから約二時間たって会場駐車場内に入り、駐車して会場に入ったのが四時。開会は三時からだから、大会のほぼ半分が過ぎていたことになる。本島の各市町村は無料バスを仕立てていたが、そのいくつかは間に合わないと判断し途中で引き返し、またいくつかは、大会終了後に到着、そのまま帰ったという。
 おそらく、沖縄県で最大の渋滞だったかもしれない。一緒に行った五歳の息子は渋滞中昼寝してくれたおかげで静かだったが、子どもの多い家族連れはトイレの心配も含め、到着までに疲れ果てたことだろう。

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写真2 4月中旬、自宅に配られた県民大会のチラシ

 さて、なぜこれほどまでに人が集まったのか。理由は、マスメディアで報じられているように、「ここまでふらつくか」というほど迷走を続ける鳩山政権に対し、普天間基地の県内移設ノーの意思表示をするためだが、その奥底には、被差別の感情を多くの県民が抱いていたからにほかならない。
 仲井真知事の挨拶の中で「戦争の痕跡はほとんどなくなったが、米軍基地はほとんど変わることなく厳然と目の前に座っている。日本全国で見れば明らかに不公平、差別に近い印象すら持つ」と述べた。保守系の、いや、経済界に推された前知事の稲嶺惠一氏の後継知事として、「に近い印象」が付くものの、「差別」という言葉を使って、これまでの基地の過重負担、鳩山政権の迷走を批判したことは、やはり異例と言うべきだろう。
 県内ニュース番組では、これまでにもいらだちをもってコメントする場面が何度もあり、よほど腹に据えかねていることはうかがえたのだが、これほど注目度の高い大会で発した「差別」は、多くの県民が共通して感じている気持ちを知事なりに代弁してのことだろう。私はそのように聞いた。
 沖縄の知事の地位は、どの他府県よりも重い。四十二年前、主席という名だったが、この公選を米国民政府から勝ち取った歴史があるからだ。以降、基地問題と経済振興という二つの課題を抱えさせられ、あたかも踏み絵のように、どっちを取るかと迫られてきたからだ。本来なら、手法はどうあれ経済振興が主題であるべき時期に、基地の重圧を少しでもはねのけようとせざるを得ない、もしくはそのために多くの労力をさかざるを得ない状況に置かれてきたのが、沖縄県知事だ。選挙のたびに、この二つの課題が争点になり、どっちの結果になっても、その二つから逃れられない。それでも、大きな関心の中で選ばれてきたのが、沖縄県の知事なのだ。
 
 二〇〇七年、教科書検定で沖縄戦での「集団自決」に「軍命」が関係していたか否かの表現が問題になったとき、これも同年九月二十九日に大きな県民大会が開かれたのだが、作家の目取真俊氏は「死者を二度殺すもの」だと表現した。だが、沖縄戦を生き抜いてきた人にとっても、無理矢理、当時の記憶を呼び起こされたという意味で、同様の苦しみを感じたことは、その子、孫世代にも感じられたのだった。あの大会には、高齢者が目立った。中には車いすでの参加もあった。沖縄戦をどう生き延びたか、多くの体験者は心の奥底にしまったまま、あたかもそのようなことを経験しなかったかのように戦後を過ごしてきたようなのだ。
 それは心理学でいう防衛機制のようなものなのだろう。私は、ある八十代の男性に、戦前のことも戦後のことも話すが、沖縄戦のことは「思い出したくないんだ」とはっきり言われたことがある。そのきっぱりとした言い方には返す言葉もなかった。ある民俗学の研究者は、やはり同世代の方に、ある習俗の戦前と戦後の違いを尋ねていたとき、どうしても沖縄戦に触れざるを得なくなり、無理のない形で話を向けていると、その方が突然、涙をぼろぼろ流し始めた場面に遭遇したそうだ。当の本人も驚きながら、「これは初めて話すんだよ」と、流れる涙をどうすることもできず話を続ける。
 おそらく、心の奥底にしまい込んだ沖縄戦の記憶ときわめて近い位置にその習俗がらみの記憶があり、意図せずに沖縄戦の記憶を呼び起こしてしまったのだろうと、その研究者は感じたという。沖縄での教科書検定の問題は、そのようなものだった。心の中で整理を付け話すことのできる人は珍しい。そうでない人が今も生きている。しかもたくさん。私にとって教科書検定の問題は、そのような色合いをはっきりとさせたものだった。

                    
 昨年の衆議院選挙で、鳩山代表のみならず民主党は、普天間基地の移設先を「最低でも県外」と喧伝し、県内全四選挙区で二人の民主党新人代議士が誕生した。他の二選挙区も民主党との選挙協力を得た候補が当選、自民党の代議士は消滅したのである。以後のことは本土でも報道されてのとおりだが、その後の迷走ぶりは、果たしてどれほどの気構えで「最低でも県外」と言っていたのか、疑問、不信を抱かせるに十分だった。
 県民はそのことに怒っている。時間稼ぎの捨て石作戦の結果、当時の人口の五分の一から四分の一が犠牲となり、ねじ曲げられ押しつけられてきた六十五年の重圧をはねのけたい気持ち。折しも事実上初の政権交代が視野に入るタイミングで、それを票取りに使われた。この怒りが通奏低音のように多くの県民の心情に響いている。
 普天間移設の問題はその分かりやすい表れの一つに過ぎない。いつのまにやらマスメディアの関心外となった日米地位協定の改定もいまだ県内では関心事だし、嘉手納基地の夜間の爆音もそうなのだ。こうした思いが伝わらないもどかしさ、一方的に日米安保条約を担わされている不公平感が今もあり、その発露の一つが普天間移設なのであって、県民の望みのすべてではない。

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写真3 1面と最終面ぶち抜きで県民大会を伝える地元二紙

 今回の県民大会のとらえ方は、翌日の全国紙、ニュースで見る限り「五月までに決着するのか」「それはもう無理だろう」というものだが、そのためだけに九万人集まったとするなら、似て非なるというか、あまりに想像力の欠如した物言いだ。
 昨年か一昨年なのかはっきり思い出せないが、沖縄市で、酔った米兵が未明に民家の軒先にぶら下がってわめいていた、という事件があった。少々の器物破損はあったものの人命にかかわることはなかったと記憶する。どのような流れで酔って人家の軒先にぶら下がるのか想像もつかないのだが、こうした耳を疑うような事件が基地周辺ではいくつも起きている。
 報じられているのは一部だろう。その件数を確実に減らすためには、「発覚したら沖縄県警が一次捜査権を持ち、逮捕、拘留される」ことが必要で、それが米軍人、軍属による犯罪発生の「抑止力」になるはずだということは、多くの県民が皮膚で感じている。何も国家の主権云々ではない。頻発する事件、事故を減らすためにはきっと有効だろう、ということなのだ。地位協定を改定できないなら、基地そのもの、あるいは米兵をはっきり削減するしかない。これが出発点なのだ。知事挨拶の「目の前に」とは、そのような意味合いで、立場、信条などとは関係のない普通の生活実感を表しているように私には聞こえた。
 
 なお、同日大会前に、隣接する読谷村文化センター中庭で、昨年十一月に読谷村で起きた米兵によるひき逃げ死亡事件についての「読谷村民報告集会」(県民大会読谷村実行委員会主催)があった。翌日の地元紙によれば、委員長の石嶺伝実村長が、米兵が裁判で無罪を主張していること、今月六日に「たった五百万円で」保釈されたこと、地位協定は抜本的に見直すべきこと、などを参加者二千名(主催者発表)に報告していたという。私はその直後に、息子の用足しにトイレを探していて、この集会があったことを知った。もろもろの思いが、「普天間基地の県内移設反対」に引き寄せられているように思えた。
 
 ところで、トイレだが、既設、仮設も含め結構な数が用意されていたが、大会中も終了後も長蛇の列だった。未曾有の渋滞のためなのだろう。四時半過ぎの大会終了後、私が駐車場を出られたのが五時半前。帰宅したのは七時過ぎ。九時前のニュース映像で息子とひと盛り上がりして、すぐに就寝したのだった。
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