はてなキーワード: 外山滋比古とは
何か障害がある可能性もあるので、心配なら医者にかかったほうが良いが、そうではない場合の話を書く。
当たり前っちゃ当たり前だが、自分が読もうとしている本に書かれている知識をあらかじめたくさん持っているほど、基本的には速く正確に読めるし、読んだ後の記憶の定着も良い。
① 読み書き能力をつけるための読書:語学の教科書、数学の教科書など
② ある分野の重要なアイデアを身につけるための読書:教科書、基本書、古典など
これらのどれに該当するかで、その読書の難度、費やす時間、読み方が変わってくる。
①が一番ハード。書かれているアイデアが腑に落ちて、習慣的に使えるようになるまで、何度も読んで、唱えて、書いて、例題を解くなどして練習する。身につける必要のある部分については、身につくまで何十回でも練習することもざらにある。
②がその次にハード。通読だけなら難しくない場合もあるが、深く理解して自分のものにするには線を引いたり、考えたことを書き込んだり、縮訳したり、と何遍か読む必要がある。理解を深めるために類書や解説書を比較読みすることもある。モノにしたい本は3回以上読むと良い。
③' は、その本を読むための前提知識となる①②があれば難度はたいてい②と同等。覚え込むほどの必要が無いなら、割くべき労力は②よりも少なく済む。
③が最も簡単。流し読み、拾い読みでザクザク読み、重要と思ったところだけじっくり読む。
①②が読書の基礎体力。読んで理解不能な本は、自分にとって読書の基礎体力が足りていない本か、そもそも読者に理解可能なように書かれていない本。どちらの場合も、現時点の自分がそれを読むのは時間の無駄なので、一旦その読書は放棄して良い。
他の増田https://anond.hatelabo.jp/20210823205016も言うように、まずは読書の基礎体力をつけるために、自分が興味の持てる理解可能な本からどんどん読んでいくと良い。
最終的に、興味を持った新書や学術系の文庫を数冊通読して、「面白かった」と思える頃に、一応、読書の基礎体力は付いたと思っていい。
読書の仕方が書かれた本もある。読書の基礎体力がついた頃に読むと色々発見がある。
本を読む本/M.J.アドラー
もう一つ、読書のコツとして文章の一般的な構造を知っておくことも役立つ。
論説的な文章であれば、パラグラフライティング/リーディングの知識が有るのと無いのとで、読みの速さと正確さが変わってくる。
自分が言ったことを親が覚えていないのだ。適当に聞き流して相槌だけ打っていたのならまだしも、しっかりと会話として成立し「じゃあお母さんがやっておくね」と言ったことが為されていない。行動を起こしていないことではなく、「やる」と言ったことを覚えていない、ましてや「そんな約束した覚えはない、自分に都合のいい嘘をついてるんでしょ」と責任転嫁してくるそのことがとにかく腹立たしかった。私たちは確かに2001年1月16日にその話をしたというのに!!!(約束の内容は実に子供らしい取り留めのない話なので割愛する)
あまりいい親ではなかったのでそういうものなのだろうかとも思うが、家庭から出ても「自分が何度も言ったことを相手は覚えていない」という事態に遭遇する。流石に幼少期よりは歳を重ねていたので地団駄踏んで怒ることこそなかったが、「この話5回したよ」「もう4回聞いた」「2回も言わないでもわかる」というような台詞は何度吐いたかわからない。その言葉を投げかけられた友人たちが不快になっていたであろうことは大人になってから理解し、反省した。
中学以降は自分が小動物的容姿なのも相俟って、わざと抜けたことを言ってはいじられ、ペットのように可愛がられるというそこそこの立場で過ごしていた。
どうせ理解してもらえないのなら、自分から話題を振るよりも他人の話にカービィみたいに相槌を打っていればいいのだ。「ほょ〜?」とか言えるのは若さゆえの特権。
だから大学で一番楽しかったことは、「バカのふりをしないでいい」ということだったな、と最近思い出す。
大学でできた友達はみんな外山滋比古もクィア理論も御館の乱も当然の教養として知っていた。全員が全員その道のオタクや研究者ほどの知識があるわけではないけれど、受験勉強で触る程度の知識は当然みんな持っていた。喋る前にいちいち前知識の説明をしないで済むということがこんなに楽だなんて知らなかった。
専攻は本当に楽しかったし、充実した4年間だった。
当時バイトは知り合いの紹介で事務をやっていたけれど、その知り合いを含めほとんどの人が高卒で、大学に進学した同世代よりも先に社会に出ていることを誇りに思っているような人たちばかりだった。
実際、自分が大学でのんべんだらりと『西瓜糖の日々』なんか読んでる間にも実務経験を積んで自力でお金を稼いでいた人たちのことをすごいと思う。
初めて任された業務について先輩に質問をしていたら、「大学行ってまで何学んでんだかw」と笑われたことがある。
「少なくともこの会社の顧客リストのコピーの方法ではないですし、他人にそういうことを言わないような教養ですかね」と口に出すのはなんとか堪えた。
自分には確かに中卒・高卒の人たちが築いてきたキャリアも考えもわからないけれど、彼らも大学生・大卒の人間の学んでいることを知らないのに何故こうも馬鹿にして下に見るのだろうか。
「大学に行ける」という選択肢を持てた立場の傲慢なのかな、とは思いつつ、それでもやっぱり自分が愛した学問を理解もせず見下していた彼らのことは苦手だ。
ちなみに上司にセクハラとパワハラとモラハラをされたので勤務時間内に「今からバイト辞めます」と宣言して辞めた。時給はちゃんとその時間までで出ていた。
『勉強できる子卑屈化社会』という本があるそうで、まだ機会がなくて読めてはいないのだけれど、タイトルや書評だけで深く頷いてしまった。
自分が同年代の平均より知能指数が高いであろうことは自覚しているけれど、それがあたかも嫌味なことであるかのように扱われ、出身大学を尋ねられたら「あ、一応○大です」と「一応」をつけなければいけない気がする。
スポーツ得意とか、料理が上手とか、そういうノリで言っちゃダメなの?「僕は頭がいいです」って。
あと一つ言っておくけど、「本当に頭の良い人なら頭が悪い人にもわかりやすい話ができる」っていう論調やめてくれねーか。
あれわざわざお前のレベルに合わせて話の知能指数下げてるから情報取りこぼしてるんだよ。
そもそもその「本当に頭の良い人」とやらに一方的に負担を強いて喜んでるのマジで何なの?お前もちゃんと原文で理解する努力をしてくれ
これから寒くなるとトイレにいるのもきつい人間もいるかもしれないが、真のトイレ好きは便座暖房があれば温かい季節程ではなくとも心地よさは残る。
そこには公衆トイレの汚らしい見た目も息の詰まるようなにおいも無く、日本的一般家庭の居心地の良さがあるのみだ。
読書、新聞、漫画・ゲーム。外山滋比古という方の著書で三上という言葉を知った。馬上、枕上、厠上では良い考えが生まれやすいということらしい。
私はクリエイティブな仕事についてるわけでもなく、人間性ももっていないがこの言葉には大いに同意できる。良い考えは会議からはうまれない。トイレから生まれる。
外山氏曰く良い考えが生まれても忘れてしまいやすいからメモを置いておくといいらしい。私が中学生の時、友達の新築の家に上がらせてもらった。
新しいことをするときはえてして完璧を求めるものである。家を建てる時もそうだろう。家具の配置にもこだわるに違いない。時を経て使いやすい配置に変わることも多々あるだろう。
だがこの友達の家族は唯一完璧にすべきものをわかっていた!落ち着ける場所を最優先に考えるべきことをわかっていた!
彼らの家のトイレは整然としていた。一般的清潔さと新築の輝きでほぼ完ぺきだった。そこに一つ加えるだけで居心地が圧倒的に良くなるのをわかっていた!
本棚が置いてあったのだ。中にはあたしんちという漫画が置いてあった。トイレの中にカレンダーを貼る家庭は多いのか。勉強のための本屋ポスターを置く家庭は多いのか。
洋式トイレに長時間座っていると腸が下がってくるらしい。もちろんトイレを使う人間は自分だけじゃない場合が多い。必然的に滞在時間は短くなる。
そんなときにトイレのみに集中しない人間は何をすべきなのか。トイレを至福の空間と考えている人間にはわかるはずである。
そう、トイレとは外界から隔絶された空間であるべきでそこには一切の気遣いを生む物は持ち込む必要はないのだ!
日本人は年をとっても漫画を読む人間が多い。トイレに求められる漫画は温かみがあり、余計な思考をする必要がなく、そしてなにより、これら前者を投げ打ってでも短い漫画であるべきだ!
あたしんちというのは4コマ漫画だ。4コマならばトイレ片手にさっと読める。決して難解な哲学書や法律書であるべきではない。
また、トイレというものが好まれる理由の一つに体にフィットした狭さというものがある。猫はせまいところや箱、果ては鍋にまで入りたがる。ライオンやトラもそうらしい。
これは私の推測であるが、おそらく人間は狩猟民族時代の習慣が抜けきっていないのではないか。人間はひ弱な分脳が発達した。群れを作り、道具を使い文明を作った。
狩猟も複数で石槍などを使っていた。人間は捕食者でありながら生物それじたいの強さはとても弱かった。人間は隠れる必要があった。なるべく狭く密閉性のあるところに。
私たちは今でも何かと闘っている。そして疲れ果て、安らぎを欲した時、トイレにかけこむのだ。
私はここに言う。トイレとは日本国民及び全人類が家の中で最も念入りに作るべき場所である。文明の発達した現代だから言えることだ。
間違いなく半世紀前にはこのようなことは考えられなかっただろう。文明の発達に応じて考えるべきものもまた変わるのだ。
そして何より言いたいのは汲み取り式便所というものは早々になくすことである。昔トリックという映画で全国トイレ水洗化計画というのがあったがそれを安陪政権はただちに実行すべきだ。
韓国のフェリー沈没事故の報道を見て思うのは、遺族の感情表現がとても激しいこと。
衆目憚らず猛烈に泣き叫び暴れる。先日のマレーシア航空墜落事故での、中国人遺族も同様。
その昔、大韓航空爆破事故の報道映像でも似たように嘆き悲しんでいた遺族を記憶している。
「泣き女」という文化が中国、朝鮮には存在する。葬式の場で大いに泣いて悲しい雰囲気を演出する、歴とした職業らしい。
翻って日本人が、特にマスコミの前などで、そのように感情を爆発させることは少ない。
感情を赤裸々に発露させようとしても、恥が歯止めをかけるのか。
他のアジアの国だと、前観た映像で、台風に被災したフィリピン人遺族は粛々と泣いていた。
欧州について。
フランス人は議論するとすぐ白熱して、天下の往来でも大きな声と身振りで言葉を交わす。
色々例を挙げて何を伝えたいのかというと、感情を抑える、爆発させないことは島国に特有の気質なのではないかということ。
島国と大陸は二元論的に語られるトピックだと常々思っていて、たとえば外山滋比古は言語における差異を「アイランド・フォーム」と「コンチネンタル・フォーム」と区別している。
http://anond.hatelabo.jp/20091215072940
外山滋比古の思考の整理学が本屋で平積みになっていた。家に帰り、久しぶりに件の本を棚から引っ張りだしてパラパラと捲った。その中の一段、時の試練という項目で取り上げられている、当時は天才と持て囃されたけれども時代とともに忘れ去られた島田清次郎と、当時賛否両論であったのに現代は国民的作家となった夏目漱石との対比の例を見て、ふと脈絡なくスレイヤーズのことを思い出した。
富士見ファンタジア系、といってもそこまで詳しくないのだけれど、当時見ていて覚えているのは、スレイヤーズ、天地無用、セイバーマリオネットとかだろうか。確かに面白かったし、同じ文脈を持った同年代と出会うと大抵話題に上る。けれども、そこで終わり。懐かしむ以上のものはない気がする、といったら傲慢だろうか。
順調に年を取り、或いは40年後、擁護老人ホームで溜め込んだオタクコンテンツを消費する生活になったとして、何を見るか、何が残っているか、みたいなのを夢想する。もしかしたら、その頃にはアニメをみていないのかもしれない。今でさえもうリアルタイムで追っていない。もしくは、アニメという産業自体が存在しているかどうかも分からない。
近年で言うと、DVD,BDともに一番売れた化物語が数年後どうなっているのかとか。個人的に西尾維新は好きだけれども、数年後は分からない。空の境界などはどうだろうか。こちらもDVDが売れているみたいだけれども。と思ったら、ニコニコ動画のチャージマン研ブームのように、局地的に意外な視点で取り上げられることもある。SFが好きなため、ハルヒは一巻の頃から追っていたが、あそこまでブームになるとは思わなかった。突然話がずれるけど、書痴は何でも読むから書痴なのであって、当然ライトノベルも読む。そこで、当時図書館でスレイヤーズと一緒に借りたのが・・・記憶が曖昧だが、それが確か島田清次郎の何かだったかも・・・というのを思い出した。いや、出来すぎだから多分記憶違いだろう。
今年も様々なアニメ作品が放映されるけれども、どれだけの作品が残るのか、というのも興味深い。ちなみに、掲示板の質問で、どんなアニメをみたらいいか、という内容のときたまに上がるプラネテスだけれども、あれは正しいと思う・・・みたいな感じで作品は語り継がれていくのかな、とも思ったり。
人には距離が必要なのです。
これは、日本のコトワザの「三尺下がって師の影を踏まず」や「親しき仲にも礼儀あり」と同じ考え方といえるでしょう。
車の衝突事故を防ぐために「車間距離」が必要なように、
◆名言『真の愛は、相手を自由にこそすれ、不自由にするものではない』から学ぶ幸せのヒント [まぐまぐ!]
真の愛は、
相手を自由にこそすれ、不自由にするものではない。
走行する車が、
安全に走るために車間距離が必要なように、
人と人の間にも、
孤独は山になく、街にある。
車間距離というのがあるように 人と人との間にも距離が必要だと思うのです
頭まで登って、顔まで舐めだす奴がいる。 俺はそういう奴が大嫌いなんだ。
君は君の友にあまりに近づきすぎて彼に隷属せずにいることができるか
相手の同意なく相手を支配できるほど優れた人など存在し得ない。
支配したり、服従したりしないで、それでいて、何者かで在り得る人間
私は私のことをします。ですから、あなたはあなたのことをして下さい。
愚か者でないかぎり誠実であることは危険である。バーナード・ショー