はてなキーワード: 博士とは
といっても彼は東大博士課程5年なので、年齢は1歳しか変わらない。
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★都内在住
★フリーランス、年収700万円(貯金600万円、S&P5001400万円くらい)
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マチアプやりまくってエンジニアとか経営者とかクリエイターとかそれっぽい職業の人といっぱいデートしたけど、たまたま会った大学院生と付き合うことになった。
彼の年収はたぶん150万円くらいだし学費は自費、文学部フランス文学専攻、激安エアコンなし寮に住んでいる、しかもバンドマンというコテコテ加減。
顔が綺麗だったのと、新聞配達のバイトしてるっていうけなげさが可愛くて惹かれて付き合った。
自分の年収あがると、年収500万~800万くらいの男の人になんの色気も感じなくなってしまった。
年収1000万円以上ある人か、夢追って頑張ってる貧乏人の方がエロい気がする。
ラーメン食べたり自転車で川走ったり、貧乏くさいデートを繰り返して楽しんでる。
彼はひも願望ないみたいで頑なに割り勘。なんならたまに奢ってくれたりする。
先日、親友Aのバンド、PompadollSが大阪の夏フェスに出演することが発表された。
◤ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄◥
㊗️初、野外フェス決定㊗️
◣____________◢
PompadollS、大阪の夏フェスOSAKA GIGANTIC MUSIC FESTIVALへの出演が決定しました!!
7/19は大阪・万博記念公園にてお会いしましょう🐦⬛
▼各日のチケット販売中▼https://t.co/eyKGOzvHvo pic.twitter.com/7bTYbB0idP— PompadollS (@PompadollS) May 13, 2025
増田はこの界隈には新参者だが多分めちゃめちゃすごいんだと思う。
共演者にはsumika、日食なつこ、緑黄色社会、マカロニえんぴつ、やばTにフレデリックという邦楽にわかの増田でも知っているような有名アーティストがバンバン出演していてびびる。
増田は本当に嬉しくて、友達6人グループを誘って万博も併せて大阪夏旅行を計画中だ。
前回の記事を出してから1年と経たずに夏フェス出演まで上がってきたPompadollS。
興味をもってくださる方もいると信じて、増田目線から見たこの1年間を記させていただく。
実はPompadollSは昨年の10月ごろまで活動が控えめだった。
8月から10月までライブはなく、間の9月にはKeyを担当していたメンバーが体調不良のために脱退することが発表された。
このKeyの脱退は正直かなりショックだったことを覚えている。
PompadollSの持ち曲はどれも童話をモチーフに現代風に落とし込んだ作風が魅力の一つであり、その独特な世界観を余すところなく表現していたのが元メンバーの繊細かつハイクオリティな演奏だった。
それゆえ彼女の脱退はファンの間で惜しまれていたし、増田は同時に、今後バンドが一体どうなるのかという不安すら覚えていた。
このような背景の中、11/1に新たなメンバーがKeyとして加入が発表され、新体制で活動が再開。
翌11/2には彼らの1st EP「P.S.」がリリースされた。
https://www.youtube.com/PompadollS - P.S.
このEPではすでに発表済みだった3曲と新しく3曲を追加した6曲が収録されている。
前述のこともあり、期待と不安が半々の心持で新曲を聴いてみたところ、一気に不安は吹き飛んだ。
新メンバーは間違いなく、PompadollSのKeyという難役に相応しい演奏技術の持ち主であり、恐らくメンバーを引っ張ってきたAの手腕には脱帽である。
次に示す「悪食」という曲はPompadollSの真骨頂ともいえる一曲であり、ぜひイントロの10秒でも聴いてもらえれば、繊細かつどこか懐かしいピアノの魅力に惹きつけられると思う。
https://www.youtube.com/PompadollS - 悪食
新体制で始まった11月からPompadollSの活動は段々活発になっていく。
11月中旬からInstagramやTiktokでの運営が始まり、ライブのショート動画がほぼ一日一件は投稿されるようになる。
同時に、それらのSNSで音楽を紹介するアカウントなどがPompadollSを紹介するようになっていく様子も見られた。
10月まではMVに付いていたコメントがYouTube広告やTwitterからだけだったが、徐々にInstagramやTikTokから来たというコメントが増えてきたのを覚えている。
そして12月、PompadollSに転機が訪れる。
ここまでに上のURLを開いた人はもう気が付いたかもしれないが、実は上で挙げた「悪食」、MVではなくジャケ写音源でありながら再生回数が現在120万回を超えている。
なぜこれほど再生されているかというと、昨年12月初旬にTikTokで挙げられた悪食のショート動画がバズったからである。
その勢いを受けて同時にSpotifyの週間バイラルチャートにて悪食が2位でランクイン、さらに1週間を経たずに1位まで駆け上がることとなる。
11月まではYouTubeのチャンネル登録者数が6000人程度だったのに対し、12月中にはYouTube、Instagram、TikTokの全てでフォロワーが1万人を超え、Spotifyに至っては月間リスナーが2万人を超える大躍進となった。
年が明けて1/7、インスタライブが初めて行われ、500人弱のファンが集まる中、1st ワンマンライブの開催が発表。
翌日行われた先行販売では開始数分での即完売を達成、抽選ではなかったためかサイトが落ちる事態となり、阿鼻叫喚のTLが観測された。
同時に2ndワンマン開催希望の声が多く上がり、この声を受けて1週間後に2ndワンマンの開催が発表。
2ndは抽選制かつ1stの3倍近く(200人弱→600人)のキャパのライブハウスが用意されたが、こちらも落選者が出るほどに応募された。
増田も普通に落選メールをもらうこととなり嬉しさと哀しさの悲鳴を上げていた。
そして3月、幕張メッセで開催されたツタロックフェスにてオープニングアクトとして出演が決まった。
これは多数の応募がある中でオーディション審査を通過しての決定だった。
PompadollSは前年夏のロッキン2024で惜しくも最終オーディションで落ちた過去があり、この瞬間を会場で見ていた増田は、情緒がぶっ壊れてめちゃめちゃ人に自慢した。
フェス当日では、1000人以上もの前でも啖呵を切りながら楽しそうに演奏をするAの姿が本当に格好良かった。
その後も大阪ワンマンやツーマンの開催が発表されるものの全て即完、、増田は今のところチケット争奪戦にて3勝2敗である。
2025年現在ではYouTube、Instagram、TikTokそれぞれ平均3万人のフォロワーを獲得、Spotifyに至っては月間リスナー7万人を目前としている。
以上が増田が見てきた、PompadollSが跳躍するまでの軌跡だ。
もし増田を読んで、少しでも彼らの音楽を気になってもらえたら嬉しい。
これからも、彼らがどんどん高く登っていくことを願ってやまない。
増田が武道館でAの演奏を見れる日がくるのも近いかもしれない。楽しみだ。
ジークアクスの至る所に乃木坂関連の要素が隠れている、という情報を見ていて思い出した話。
ちょっと前にとあるエロゲをプレイしていたら、「キムチ」という名前の女性キャラクターが突然出てきてギョッとした。
しかもそのキャラの設定が「慰安婦」(属してる組織の男たちが女性兵士や民間人女性に手を出さないように防波堤となっている)
エロゲ業界はわりと右の人が多いらしいから、まさかこれもそうなのか…?と一瞬疑ったが、
キャラの描き方自体は見た目も性格もぜんぜん好意的なものだったのでたぶん違うのだろう。
でも嫌韓じゃないとして、じゃあ一体どういうつもりで慰安婦キャラに「キムチ」なんて付けたのかというと、皆目わからない。
仮にまったく他意なく思いついた名前だとしても一般的な感覚があれば、これはさすがにマズいかな(苦笑)とすぐに気づけるはずじゃん?
なんなの、この「キムチ」…?
江戸川コナンは阿笠博士博士が発明した蝶ネクタイ型変声機を使っていろいろな人の声をまねることができます
黒羽盗一に変装術を教わった怪盗キッドとベルモットは自分の声を自由に変えて人の声をまねることができます←いやそれはおかしいだろ
現在、「パン食い競走」の起源については、一般にこう説明される。
この「1874年海軍兵学寮起源説」と「1896年札幌農学校起源説」について検証する。
1874年の海軍兵学寮では、イギリス人のダグラス提督の提案により「競闘遊戯」という日本初の「運動会」が開催された。
そこで実施された競技は詳しく記録されているのだが、そのなかにパン食い競走に類するものは見当たらない。
二年後の1876年にも同様の運動会が開催されたとするが、その内容を伝える『Japan Weekly Mail』の記事を確認しても、やはりパン食い競走はない。
一方の札幌農学校であるが、こちらは1878年から毎年「遊戯会」という名の運動会を行っていた。
これは「大志を抱け」で有名なクラーク博士や、その後継のアメリカ人教師たちの指導のもと、生徒たちにより実施されたものであるという。
『恵迪寮史』によると、1896年の第十五回遊戯会にて「食菓競走」という競技が行われた。
これが「1896年札幌農学校起源説」の根拠になっているのだろう。
また1898年刊行の『札幌農学校』という書籍でも、現今の遊戯会では「菓子喰競走」が行われている、とある。
この「食菓競走」あるいは「菓子喰競走」はパン食い競走と同様の競技だったのだろうか。
1895年に札幌農学校を卒業した松村松年は、『人間学としての体育』という本において、「昔時著者の学生時代に行はれたる競技」として「菓子喰競走―之れは両手を後方に廻はし、口にて途中に吊れる菓子を喰へ行くの競走」と説明している。
1902年(明治35年)の新潟県高田中学校修養会の機関誌では、秋季大運動会の「食菓競走」について「飢えたる狼の如く押開いて突貫して来る一隊。目の前にぶらつくを取り得ぬもどかしさ」と説明している。
1910年(明治43年)の『運動世界』の記事では、早稲田大学春季陸上運動会について「滑稽なのは菓子喰競走で宙にぶら下げた菓子を手を結びて馳け付け下からガブリとやる、それを側に居る係りがワザと動かす、喰い付く動すと云う滑稽もの」と書いている。
これらを勘案すると札幌農学校の「食菓競走」「菓子喰競走」が現在のパン食い競走と同じ形態だった可能性は高く、とりあえずは「1896年札幌農学校起源説」を採用していいのではないかと思う。
というか松村の記述を素直に捉えるなら「菓子喰競走」は1895年以前にも行われていたかもしれない。
ただし松村はいくつかの学校を転々としているので札幌農学校のことである確証はなく、また研究者として農学校に残っているのでそれ以降の記憶と混じっている可能性もある。
当時、こうした競技を指導していたのは、ダグラス提督やクラーク博士といったお雇い外国人教師であった。
たとえばクラーク博士の母校であるマサチューセッツ農科大学では「サイダーミート(Cider Meet)」というイベントがあったらしい。
「サイダー・ミート」と呼ばれる最初の集まりがブレイク・フィールドで開催されたのは1878年10月20日で、’80年卒のクラスと’81年卒のクラスの対決は引き分けに終わった。両クラスは夕方にフィールドに集まり、平和的にサイダーを飲んだ。興味深いのは、800人以上がこの集まりに参加し、その中にはスミス大学の女子学生も多く含まれていたことだ。後の世代には奇妙に思えるかもしれない競技としては、ジャガイモ競走、3マイル競歩、フットボール蹴り、三本脚競走、目隠し手押し車レース、野球ボール投げ、太った男の競走、背負い競走、そして何よりも人気だったのが、油を塗った豚を追いかけるレースだった。
海軍兵学寮の競闘遊戯の種目だった「二人三脚」「背負い競走」「豚追い競走」などが記されているのは興味深い。
また「ジャガイモ競走(Potato Race)」は札幌農学校の遊戯会に「薯拾」として採用されていたようだ。
時系列的に、アマースト大学の「サイダーミート」そのものが、「競闘遊戯」「遊戯会」に直接の影響を与えたわけではないだろう。
しかし、おそらく同種の競技はサイダーミート以前から行われており、それがお雇い外国人教師を通じて日本にも導入されたのではないだろうか。
その線で考えるなら、菓子喰競走も当時のアメリカの大学などで行われていたのではないかと思う。
まあ色々言われてはいたしそれはわかるんだけど
バカが言う地頭とか頭のいい人間はどうとかではない、数字が扱える、普通の学問の話がわかると言う意味ではキレる人だったとおもうんだが
https://news.yahoo.co.jp/articles/583efaf3599add9dd1ab2f20cafc03f9524319dc
私がマッキンゼーにいた頃は、入社後は毎年20%ずつクビにするという厳しい条件を提示し、それを受け入れた人だけ採用していた。つまり、入社5年後に生き残れる確率は20%だったのである。
え?毎年20%なら32.768%だろ
元の20%ってなら6年目は0%か?違うだろ?ちーがーうーだろ!
バカ向けの嘘だとしてもこんなのよっぽどのバカじゃないと一瞬で違和感感じるってわからないのズレすぎだろ
他にも名目GDPが上がってないから労働生産性は上がっていないとか(円が下がってんのにGDP下がってないんだから上がってる)、労働生産性が低いから名目賃金は日本の“1人負け”だとか(円安なら低いにきまってる)ちょっと算数のレベルでやばい話がおおい😅
これもうボケてるだろ
とりあえず3つ挙げたら全部音楽系だった。
もう30万行ってるかと思ったが、さっき見たらまだギリ越えてなかった(28.7万)。関西弁のアメリカ人音楽博士がJ-POPのコード進行とかを解説する。後半では実演もあってやたらうまい。イントネーションは完全に関西弁のそれだけど、ギャグのノリがアメリカン。あと動画の背景が変。
懐かし洋楽を翻訳して原曲のメロディに乗せて歌ってるチャンネル。大昔流行った王様の直訳ロックを彷彿とさせるが、それより真面目な感じで意外と自然な仕上がりになってる。最近はビートルズ以外の曲がほとんどなので、チャンネル名を変えてもいいように思うがいまさらか。
ずんだもんなどの合成音声でファミコンの音楽を鳴らしている。小学生のとき口でBGMをマネしてたときの、あの感じが思い出されて良い。それにしてもチャンネル名が内容と関係なくて思い出しにくい。ヘッダー画像には「ファミずんだ」と書いているし、やっぱりチャンネル名を変えた方がいい気がする。
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。
タイトルに書いてある通り、とある企業研究職であんまり跳ねてないというか、あんまりうまくいってないなーと感じて普段から思っていたことを文章にしてみる。後にも書くが自分の能力の問題が大前提としてあるが、似たようなプロフィールの人を入れても再現性を持って失敗するであろう組織の問題とまぜこぜにならないように書いてみる。
ちなみに非IT 系、製造業で、場所はヨーロッパのどこかです。
筆者のプロフィールとしては工学博士持ちの男30代。現職には博士卒業して入って3年目である。
大前提も大前提として、独立研究者として自分に能力が足りない。裁量のある研究者として、無能は何よりも悪である。自律走行能力があるとして裁量を貰っているのに持て余すのは悪である。
何が無能なのかと言えば、とにかく現行製品と製品化までのプロセスの知識経験が足りない。これは博士までの経験と業務分野のミスマッチだったとは思う。具体的には、スタート時には学術分野としてのおおまかな知識はあれど、製品に使われている技術の具体的な知識はほぼない、みたいな状態だった。これではまともな研究提案になるはずもないし実行段階でも躓く。
やはり技術開発は論文を書くレベルの研究とは性質も難易度も違うなと思う。次に何で知識がないと困るのか書く。
比較対象として大学院時代の研究スタイルを出す。自分の過ごした大学の研究はある程度時間と自由を与えられていて、ラボで今まで積み上げられてきた知見や装置を基に、この物性値はこの現象にどう影響する?といった基礎科学をやっていたので、プロセスとしては、
とりあえず面白そう(できそう、論文にできそう)なネタを試してみる→なんかうまく行きそうなところを当たりをつけて重点的にやる
といった感じでスタート時点ではかなりコストが嵩みすぎない限りはある程度自由に試すことができた。その間に現象についての知識や実験系の経験も得ることもできた。これは後述する企業の研究開発とは方向性が違って困った。
対して現職ではスタート時点で研究をやることによるメリット、予算感、期間、NPV 、同業とのポジショニングなどを最初の時点である程度理解しておく必要がある。ある程度最初から全体像が見えてないとそもそも始まらないのである。
これがとても自分には難しく、まともなトレーニングもなかったのでかなり苦戦した。何せ大学の時とスタート時点でのスタンスがあまりにも違う上に製品知識もない。どんな技術が今の製品に使われているか、何故そうなっているか、というのは案外落ちていないもので、在籍期間をかけて多少マシにはなったが今でも理解してるとは言い難い。
ちなみに現職のやり方が間違ってるとは全く思ってはいないしこれが全うな研究開発だとは思うのだが、もう少し遊びがあると特に実験系の研究者は助かるなあ、とは思う。
知識不足を解消するのに長い時間がかかっている点について組織に少し恨み言を言うならば、情報共有と継続した教育とキャリアサポートはあってもよかったなあと思う。2年で上司がtentative 含めて3回も変わったら継続したラーニングも難しかったし、学会に行った人がこんなネタあったよ!みたいなスモールトークすらなくてちょっと文化の違いを感じた。正直そういった情報を握っていることが飯のタネになる人たちなので言ってもしょうがないのだが。。
専門分野に関係あるワークショップ終わってから何でお前いなかったの?とか聞くような雑な情報共有システムは新入りにはキツかった(存在自体知らなかった)
後からコネクションなり情報を聞ける人が増えて来たがスタートでうまくハマらないとあんまり自信を持ってリスクを取れなくなっていった気もする(これは自分の素質も問題アリ)
長くなったので暇があれば組織のいけてなかったところも書いてみたいがまたいつか。