<!‐- 80 -->【土・日連載】司法書士の足跡

2024年12月14日 (土)

「売家」の看板を見付けてから【平成26年:3回目の事務所移転の記録】

Pxl_20241212_090144500平成14年に事務所を開業してから、事務所の引っ越しは、3回も経験しています。

その中でも、今の事務所に来た時は、一大決心。開業した時のワクワク感を、再び取り戻すことになります。平成26年のことです。

・2月17日 「売家」の看板見つける
・2月19日 カギを開けてもらって、中を見に行く
・3月 6日 融資の申し込みに行く
・3月 8日 ハウスメーカーさんに建築の相談に行く
・3月25日 不動産の売買契約
・3月26日 融資の承認が下りる
・3月29日 ハウスメーカーさんと建築の請負契約
・4月 8日 不動産購入の決済
・4月11日 解体工事着工
・5月19日 建築確認が下りる

日常の仕事と並行して、あれやこれやと打ち合わせ。期間的なゆとりがあれば、楽しい工程も、7月26日の引っ越しまで、あっという間。慌ただしい毎日を過ごすことになります。

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2024年12月 7日 (土)

独立を告げてから出るまでの期間(平成14年1月~7月)

20231118_104858326 平成14年1月。独立することを勤務先の先生に告げ、独立の日は平成14年7月と決まりました。

しかし、事務所の先生は、後任者を募集するような気配がありません。

私の気が変わって、「やっぱり独立は止めます」と言うと思われていたのか、できるだけ長く居て欲しいと思って下さったのか。

いずれにしても「勤務司法書士なんか、すぐに見つかる」目算は外れ、いざ探し始められたものの、後任となる補助者が入ったのは、私が退職する前日。その時期からもう、ひと昔前と比べると、資格者の募集が難しくなっていたのかもしれません。

3年間働いて独立していく司法書士と、実務経験があるものの、事務所のやり方が分からない補助者の差は、歴然としています。司法書士事務所、どこも同じように思われるかもしれませんが、事務所によって「やり方」は大違いです。

「引き継ぎ」がないまま、ある日突然違う人が入って、上手くいくはずもありませんでした。

ところが、回りまわって、自分が逆の立場になるとは、当時は思いもしません。

産休の代替要因として入ってもらい、引き継ぎ期間が1週間しかない状態に、私もやってしまいます。立場が変わった私は、新しく入る人の目線に立てず、「1週間あれば、なんとかなるだろう」という、安易な考えに陥ってしまいます。

人は機械ではないので、ある日を境に入れ替わる、というのは、無理な話です。

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2024年11月30日 (土)

親の心子知らず-独立を決めた時の私(平成14年1月)

Pxl_20241130_033951159独立を決めた「瞬間」は、鮮明に記憶しています。

平成14年1月。事務所の先生から「不景気だから、独立の予定は遅らせて」と言われた時に、「いえ、もう独立したいんです」と言いました。

『親の心子知らず』というのは、まさにこのことで、100%私のことを心配して言って下さった言葉に、即座に切り返しました。

先に独立した先輩の事務所は、見させてもらっていました。「これだけの仕事が動いてるねん」と件数を見せてもらって、有志の無料相談会に参加させてもらうと、たくさんの相談者が来られていました。

確かに、古い世代では「司法書士業は、景気と密接につながっていた」のかもしれませんが、「自分もやってみたい」。「景気は関係ないんじゃないか」と思っていました。なので、「事務所を出たい」と言う機会はないかと、ずっと考えていたものの、なかなか言えませんでした。

当時の自分の経験から、平成22年12月に私の事務所から独立した森髙司法書士には、オープンに話してもらうようにしていました。

「下積みの経験がない人に、上積みの仕事はできない」と『伝説の外資トップが説く働き方の教科書(新将命著)』に書かれていましたが、こういう部分を切り取っても、まさにそのとおりです。

しかし、その後、スタッフの数以上に「辞めます」と言われてきた私は、スタッフへの配慮が足りないことを、後で気付くことになります。それと、立場変わって、「辞めます」と言われた側の気持ちも、知ることになります。

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2024年11月23日 (土)

「法律事務所をつくる!(ハードウェア&ノウハウ集積編)」

Pxl_20241123_093048377弁護士さんか書かれた「法律事務所をつくる!(スピリット&マネジメント編)」と並行して読んでいたのが、「法律事務所をつくる!(ハードウェア&ノウハウ集積編)」。

法律事務所の開業を支援する立場、コンサルされる業者さんの立場から書かれた本です。

私の場合、独立の時と1回目の引っ越しの時は、紹介で出会ったコクヨ系の備品屋さんのお世話になって、2回目3回目は、オフィス移転の専門業者さんのお世話になっています。

2回目と3回目の引っ越し時は、LANも複雑になり、「ただ荷物を運ぶだけ」では済まなくなったためです。

事務所の備品も、最初は、家庭用のものでも良さそうなところ、そこは「形から入る」で、事務所らしく。ワンルームマンションなのに、開業時に、備品代だけで44万円分も使っています。

司法書士は、「携帯電話とパソコンがあれば、自分の身ひとつでできる」スタイルも選択できますが、2か所の事務所勤めを経て、事務所構え、見栄えも大事。司法書士事務所というのは、こうあるものだ、というイメージを持っていたからだと思います。

無意識に持つイメージというのはとても大事で、他人を雇用する予定もなかった私が、今、4人の事務所を運営できているのは、形から整えて「こうありたい」というイメージを持っていたからではないか、と。しかし、それは後付けの理屈で、実際のところは、先のことを考える余裕なんてなかったです。

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2024年11月17日 (日)

「法律事務所をつくる!」(弁護士近藤早利著)

Pxl_20241117_075329015mp「法律事務所をつくる!(スピリット&マネジメント編)」が出版されたのが、平成13年10月。

平成14年1月に独立を決めた私は、この本を何度も読んで、支えにしていました。書かれているのは、弁護士の共同事務所を作る話なので、ひとりで事務所をやっていこうとしていた私とは、次元が違い過ぎるのですが。

だから、今読んでも、ものすごくいいことが、書かれています。

ずっと頭に残っているのが「雇用を創出してこそ、経営の醍醐味」というフレーズ。

正確には、経費節減が安定経営に資するという考えには与しません、という話の後に「雇用を維持・創出してこそ企業経営の醍醐味でしょうに(本書の表現のまま)」と続きます。

私自身、当時は人を雇用することは、予定していませんでした。「ノリと弾みとタイミング」で、2人で事務所を始めることになったものの、「2か月だけ手伝って。後はひとりでやる」と言っていました。

大きくするのは、簡単。小さくするのは、難しい。

だから、悲観的に。規模を極力小さくして始めたことは、今になっても正解だったと思っています。

司法修習の最終講義で黒板に書かれたという言葉「恒産なければ恒心なし(本書の表現のまま)」も、本当にそのとおり。

自分の心配をしている状態じゃ、人のことを心底思いやることはできない。家族のこと、従業員のことも、依頼者のこともです。

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2024年11月16日 (土)

独立を決めてから開業するまでの記録(平成14年1月~7月)

Pxl_20241115_000529071 独立開業前の話。

平成14年7月1日に開業した私は、事務所の先生との「独立する時は、半年前に言うこと」という約束を守り、平成14年1月に伝えました。「出る」と言った後の半年は長いですが、やることはいろいろあります。

・3月31日、パソコンを購入(178,269円)
・4月14日、事務所の賃貸借契約
・4月22日、請求書のソフトを購入(92,400円)
・6月20日、コピーFAXの複合機を購入(504,000円)

いきなりコピー機を買うなんて、まさに「形から入っている」としか思えない進め方。「司法書士事務所には、コピーFAXの複合機があるもの」という固定観念がありました。請求書も、最初はエクセルで十分なのに。

アスクルのカタログを眺めるのも、楽しかった。

5月頃、その後、私の奥様になる人が、「見せたいものがある」と家に持ってきました。事務所のホームページの原型、手作りのものでした。

6月22日には、机やキャビネットを搬入。合計441,000円の中には、200キロの対価キャビネットもありました。

7月1日から、2人で事務所を始めました。前の日に「明日から来れる?」と私が言った、と言っていますが、その記憶が、私にはありません。

ホームページは8月に公開。12ページ、今からすると小規模のものですが、素人が作ったにしては上出来。わりとすぐに、問い合わせが入り始めます。

◎リンク 堺市の司法書士吉田事務所メインサイト「事務所の歴史 第1章創業期」

◎リンク 堺市の司法書士吉田事務所 コラム44 「堺東の司法書士」より「三国ヶ丘の司法書士」

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2024年11月 9日 (土)

「挨拶回り」や「飛び込み営業」は必要なのか【事務所運営】

Pxl_20241107_231819227mp 土曜日の連載、過去を振り返る話。時計の針を少し戻して、平成14年7月。4年と9か月の勤務経験を経た私は、三国ヶ丘駅前のワンルームマンションで、独立開業しました。

『開業の案内』を郵送したところ、「ちょうどよかった」と抹消の依頼がありました。7月1日に申請した商業登記があったので、「やることなし」状態ではなかったものの、「経費をどうやって賄うか」という、マイナスの思考しかありませんでした。

先輩から回してもらえた仕事。それと、月1回、有志で開催していた無料相談会から、仕事は少しずつ入ってきました。

JCからのお誘いもありました。集会に参加はしてみましたが、面倒くさいなという記憶しかありません。

メインは、ホームページ経由のお仕事です。「金融機関や不動産業者には近付くまい」と決めていました。

大学の会報で取材してくれた時の記事によると、「7月から11月まで14件の相談があった」と書かれています。債務整理を扱う司法書士、ホームページを持つ司法書士がまだ少数派だった時代で、見えないところで、追い風は吹いていました。

多くの人が、仕事を得るために、最初は「いろんなところに顔を出す」とか、「飛び込みでの挨拶回り」と書かれています。今の私が開業前の状態だったら、「そんなことしたくない」と絶望するでしょう。でも、嫌なお付き合い、営業回りみたいなことはせずに、あれから22年が経過。今に至っています。

◎リンク 堺市の司法書士吉田事務所メインサイト「事務所の歴史 第1章創業期」

◎リンク 堺市の司法書士吉田事務所 コラム040「営業行為」をしない司法書士事務所

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2024年11月 2日 (土)

1回目の司法書士試験が終わった後

Pxl_20241014_045143193-1平成8年7月、1回目の司法書士試験の受験を終えた後で、20日間の中国の旅。

就職浪人をして「あと1年」、受験勉強を続ける私に、親は何も言いませんでした。何を言っても聞かない子、ということは、もう伝わっています。やりたいように、させてくれました。

平成9年7月の試験にピークを持っていくには、早く仕上げてしまっても続かない。年明けから、早稲田セミナーと日本司法学院の答練を受けることを決め、平成8年中は、わりとのんびりとしていました。

基礎講座に合わせて始めた「なんば」での居酒屋のバイトには、引き続き通っていました。勉強に集中するために、環境は変えないほうがいい。

12月は、28日勤務という無茶なことをしています。お金が必要だったわけではなく、ただ、仕事するのが楽しかっただけ。

3日しかない休みのうち1日は、祖父が亡くなった日で、祖父が自宅マンションに戻った横で(病院から葬儀会場に直接移動するのではなく、一度家に連れて帰っていたのが、今とは違う話)、孫たちで肉じゃが作ったことが、記憶に残っています。

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2024年10月26日 (土)

1回目の司法書士試験の後は中国への旅に

Pxl_20241014_045117628 平成8年7月7日に、1回目の司法書士試験が終わった後、7月12日から31日まで。19泊20日で、中国への旅行に出ています。

行きと帰りの飛行機のチケットと、20万円程度は持っていたという記憶があるものの、日本を出た時点で中国のホテルは取っていません。

北京で留学中の友達と合流。バックパックを背負って、成都、重慶、武漢と回っています。移動手段は、寝台列車、飛行機(中国の国内船)、山峡下りの船。宿泊先の確保は全部、フロントで「今日空いていますか?」でした。

今と違って、携帯電話を含む通信機器がありません。3段式の寝台列車では、こんなとこで寝れるわけがないと思いましたが、意外と快適。三峡下りの観光船も中国人と一緒で、最初に乗り込んだ安い船はあまりにひどい環境で、出発前に逃げ出しました。

今からすると、よく行ったものだと思いますが、恐さを知らないのは、若さの特権。冒険好き、拘束されたくない、というのは、今と同じです。

旅行の工程表を書いている手帳のページに、「受験番号最後の50人は3列。その他4列」とメモしていました。司法書士試験の会場、受験番号が若い教室は、何とも言えない重たい雰囲気。最後のほうは、受かるつもりで来ている人は少ない。

翌年の司法書士試験では、わざと願書の提出期限ぎりぎりに出すことを決め、平成9年。大阪の合格者の中では、一番最後の受験番号で合格しています。

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2024年10月19日 (土)

司法書士試験1年目の結果

Pxl_20241014_045143193「司法書士としての終わり」も意識しつつ、「司法書士を志した時期」のことを思い返しているのは、きっと「今が中間地点にいる」ということなのだろう、と思っています。

開業23年目で、51歳。あと23年経てば、私は74歳になっている計算。

いろいろありながらも、振り返ってみると、短かった。だから、残りの司法書士人生。大事に生きていかなければ、と。

司法書士試験の受験勉強を始めたのは、平成7年4月。
1回目の受験は平成8年7月になりますが、平成8年の本試験は、午前28問/35問、午後22問/35問で不合格でした。

基礎講座が終わったのが平成8年3月末。本試験まで3か月ちょっとしかない時期から、全部の科目を回すのは物理的に厳しいとして、全然ダメな結果ではなかった。「もう一年だけ」と決めて、勉強を続けることになります。

当時の手帳を探しました。基礎講座を受講していた時間は、平日の18時半から21時20分まで。帰宅すると22時なので、若かったからできた話。

でも、今から考えると、仕事してなかったんだから(平成7年度のバイト収入は74万円)、もうちょっとできたんじゃないか、と思ったりもします。

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