歳を重ねると物の見方もそれを感じる心根も変化してきます。
言い替えれば、視点が替わり、奥深さも受け取る意味も変容します。
どちらが良いと言う訳ではありません。
ただ言えることは幾つになっても自分なりの感動する喜びを、否、悲しみだってしっかり受け取る気持ちを持ち続けることが肝要かと。
何かと厳しい日常をかいくぐっている間に、人は、心を鎧で覆ったり硬くしてしまったりと閉鎖的に自分を守っています。
繕った笑顔で自分を守るのではなく、自然とにじみ出た笑顔を見せて日々を歩て行きたいと思います。
「祇王寺」の山門をくぐります。
つくばいも心なしか優し気です。
ここは権勢を誇っていた平清盛が心変わりをしたため、世を捨て嵯峨の山里のここへ移り住んで、尼となって暮らした祇王、祇女の姉妹とその母刀自が暮らした場所です。
苔のお寺とも言われます。
今日は特に雨に打たれてしっとりしていて、来客も少なく静かな時間が流れています。
幸いでした。
親切に苔の説明板やサンプルなどもあります。
とても愛らしい苔の盆栽も有ります。
他に目を移せばヤブランがこっそり水と戯れています。
少し進むとスクッと伸びた竹が、風を受けてサワサワとBGMを流しています。
この絵だけは全体が少し暗めの祇王寺なので、色調を変えてみましたよ。
竹の持つ爽やかな香りが届けば良いのですが。
「独りいて 悲しみも無く 竹かおり」(nobotyan詠む)
想う人の心がそこに間違いなくあると確信できれば、悲しいことは無いのです、ただ時に逢えない寂しさがあるだけです。
どなたかが読経を上げてねんごろに毎日弔っているんでしょうか、華美でない小さな落ち着いた仏壇があります。
ともすれば大本山の圧倒するような建築物は京都には数多くありますが、こういう里の草庵は心安らかにしてくれます。
足元にひっそりと野草が。
出で立ちはミズヒキのような感じですが、背丈も小さく祇王寺には似合っていますが、別種なんでしょうか?
帰りにお墓に手を合わせ立ち去ることにしました。
では、今日はこれまで (@^^)/~~~
にほんブログ村 良かったら是非、「栃木情報」もクリックして下さいね。
コメントの投稿