鞍馬天狗のおじさんは

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 「鞍馬天狗のおじさんは」(竹中労)は、「ゲイジツ、関係おへんのや、そら五十年も役者やってきて、胸を張っていえることなどかけらもおまへんけどな。お客を楽しませてきた、これだけはまちがいのないことダ。鞍馬天狗やむっつり右門、子供だましを飽きもせいでと、エライさんはおっしゃるやろう。だが、それだけ長く続いた、これはお客に支持されてきたからや」と語るアラカンこと嵐寛寿郎へのオマージュに満ちた俳優一代記と、日本映画の盛衰記だ。

 <昭和の銀幕を駆け抜けた鞍馬天狗。生涯、映画を愛し、女に惚れ、一銭の財産も残さずに逝った往年のヒーロー・アラカン=嵐寛寿郎が語った日本映画の裏舞台。
 いかがわしくも、魅力と活気に満ちていた映画界のようすが、竹中労の名調子に乗って甦える。山中貞雄、伊藤大輔、マキノ雅広らの若き日々がいきいきと描かれる、もう一つの日本映画史>

 「筋立てに工夫をする。剣劇のなりたちはそこや。こらえに耐(こら)えます、ほてからに爆発する。阿修羅になる。ダッとたたみこみますのや。屍山血河の大立ちまわり、斬って斬って斬りまくる。待ってました! チャンチャンバラバラ」
 時代劇の復活を願うアラカンの思いが熱い。

 <昭和の銀幕を駆け抜けた鞍馬天狗。生涯、映画を愛し、女に惚れ、一銭の財産も残さずに逝った往年のヒーロー・アラカン=嵐寛寿郎が語った日本映画の裏舞台。いかがわしくも、魅力と活気に満ちていた映画界のようすが、竹中労の名調子に乗って甦える。山中貞雄、伊藤大輔、マキノ雅広らの若き日々がいきいきと描かれる、もう一つの日本映画史。>

朝日のようにさわやかに

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 ã€€å·æœ¬ä¸‰éƒŽã•ã‚“と言えば映画評論が有名であるが、紀行文の書き手でもあって、映画で描かれた東京の街を散歩する「東京・・・」シリーズなんかは、現代の永井荷風という趣があり、又日本の一流ではない二流の町や場末の温泉を訪ねての旅行記などは、つげ義春さんの世界に通じるものがあり、まさに川本ワールドは私にとって一粒で二度美味しい存在なのだ。さて、数ある著作の中で何故この本を選んだかというとそれはあとがきで川本さんが述べているのと同じ理由で、私も映画漬けの毎日を送ったことがあるからだ。1973年(何と半世紀も前のことになってしまった)、この年に観た映画は200本を下らない。とにかく三日と空けずに映画を観、それと同時にせっせとシナリオを書き懸賞コンクールに応募するという文学青年ならぬ映画青年を地で行っていたのだから。そしてそのコンクールの一つに入選して賞金の20万円(源泉徴収され手取りは18万円だったが)を貰ったのを契機にぱったりと映画を観るのも、シナリオを書くのもやめてしまった。何故なら、二、三作は書けても、それ以上に書きたいネタを持ってはいなかったし、ましてや著名な映画監督でさえ仕事がなかった時代であったのだ。自主制作の映画を作るといったって、スポンサーをみつけるほどの器量があるわけでもなく当然自前のお金などなかった。そして私の描くヒーローやヒロインはどうしても暗くなりがちで、とても商業ベースにのるような代物ではないということは自分でも良く分かっていた。そして、そういう私の心を癒してくれたのは二枚目のヒーローでも美しいヒロインでもなく、この本で紹介されているようなひとりぼっちのヒーローたちであり、そしてポンコツ・ヒロインたちだった。川本さんは本書のあとがきで、私のそんな思いをわかりやすく代弁してくれている。
 
 「70年代初めは、全共闘運動を始めとする反体制運動の退潮期にあり、そのなかに多少とも身を置いた人間にとっては毎日が後退戦のなかの灰色の日々だった。感情がまだ熱っぽく高ぶっていて、それを暗闇の中のスクリーンに孤独にぶつけていた。映画を客観的に論じたり、映画史的に分析したりする余裕はなかった。ただひたすら「思い入れ」だけで映画を観ていた。後退戦を強いられているという負の意識が強かったので、敗れていく主人公やポンコツ・ヒロイン、ピンク映画やB級アクションといったマイナーなものに人一倍反応した」

雨の降る日は…。

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 雨が降るとよく映画を観に行った。大島渚監督の「日本春歌考」を観たのは池袋の文芸座地下だったと記憶している。確か大島渚監督の特集で、「絞死刑」との二本立てだった。「日本春歌考」で吉田日出子さんが歌っていたのが「アメノショポショポ・・・」である。哀愁のある歌だと思ったが、その後真崎守さんの「死春記」という漫画にもこの歌がでてきて、改めて歌詞を読むと、映画のなかでの吉田日出子さんの表情が蘇ってきた。ついでながら、この「死春記」という漫画も私にとっては忘れがたい作品である。

<「死春記」
めぐる季節の  人の世に  
夏もあります  秋もある  
冬さえあるに  春だけを 
おんなは春を  売りまする  
春を手渡す  みかえりに  
ひとり寝る夜の  せつなさを
追い消し去れる  ものならば 
春も涙も  売りまする
めぐる季節の 人の世に 
忘れ残りの  風が吹き  
子守唄さえ  ない夜に 
死にゆく春も  ありまする>

 春には何故か雨が似合う。私がいつも雨が嫌いだと公言しているのは「まんじゅうこわい」と同じかもしれない。そして、どういうわけか、雨に「春歌」は良く似合う。

雨のしょぽしょぽ降るぱんに
からすのまとから のそいてる
まてつのきぽたんぱかやろう
さわるはこちせんみるはたた
さん円こちせんくれたなら
かしわのなくまてつきあうわ
あかるのかえるのとうしゅるの
はやくせいしんちめなしゃい
ちめたらけたもて あかんなしゃい
おきゃくしゃん このころかみたかい
ちょうぱのてまえも あるてしょう
こちせんしゅうきを はつみなさい 
そしたら わたしせいたして
二つも三つも おまけして
かしわの鳴くまで ぽぽするわ>

昭和が明るかったころ

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 高度成長期の昭和30年代と映画会社日活の盛衰を重ね合わせ、昭和30年代という時代を考察した評論集。東京オリンピックを契機とするテレビの急速な普及による映画産業の斜陽化を、時代を代表した石原裕次郎、吉永小百合の二大スターの軌跡を追いながら描いていて、団塊の世代の私としては、当時を思い出しながら「そうだった、そうだった」と興味深く読めた。 
 <1956年から58年ごろにかけての石原裕次郎は、年長世代の価値体系を冷笑する強烈な批評性、それと裏腹の、新しい価値を破壊的に建設するエネルギーを感じさせた。また日活映画は、その歴史を通じて基本的には禁欲的な態度をとりつづけ、初期の石原裕次郎にしても観客に性的な衝動を喚起しようとはしなかった。旧来の恋愛に翻弄される受身の女性像(それは主に経済力をともなわない女性の社会的立場によってもたらされたものであるが)を否定する戦後性、敗戦によって根底から崩された男性の自己確認、いわば戦前性の回復(それはおもに「国家にかかわりのある幻影」によってもたらされたのであるが)。
 そのような一見矛盾する要素の統合への試みを、育ちの良い不良青年、石原裕次郎は、そのよく伸びた肢体と「自己表現する」多くの言葉によって行ったのである。62年の「憎いあンちくしょう」こそ、そのような思想を表現した傑作であった。
 一方、吉永小百合は、戦後著しく増加し大衆化しつつあった中流家庭のヒロインであった。役柄の上で彼女が性的な自由を盛んに口にしても、それはいわば明るく健康な「副級長」の「口先解放」であると観客は承知していた。彼女の映画のすべては、恋愛映画、または男女交際映画だったが、彼女はむしろ戦後的恋愛ではなく戦後的な家庭のあり方を表現していた、そのようなイメージは62年から64年という高度成長前期の日本社会に満ちた「一国社会主義」ならぬ「一国民主主義」の空気にピタリとはまった。「サユリスト」とは、吉永小百合が体現した「一国民主主義」の雰囲気を快く思った人々であった。
 しかしそれは、時代と彼女が擦れ違ったときに生じた束の間の光彩ともいえたから、経済成長の弊害のみならず、豊かさへの不安さえ生じた高度成長後期以降にはその輝きが急速に減じた。そしてわがままな「サユリスト」は、「民主的で向上心に溢れた戦後」の記憶を吉永小百合に仮託し続け、彼女の「脱皮」をはばんだ。吉永小百合における「脱皮」「おとなの女優への変身」とは、ひと口にいって「吉永小百合という物語」からの離脱の試行錯誤であった。(終章 「物語」の終わり)>

恋愛映画館

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 「恋愛映画館」(小池真理子)は、小池さんの12人の女優と12人の男優についてのオマージュ(ラブレターと言い換えても良いのだが)だ。語られているのは「恋愛映画」についてではなくここに登場するスターたちへの小池さんの思い入れだ。たとえば、「ソフィーの選択」でのメルリ・ストリープ。
 <劇中、ストリープは、深夜、アパートの窓辺に坐り、涙ながらに自分の過去を青年に語ってみせる。それはそれは長いモノローグである。語っている間、ストリープの顔は紅潮し、その顔色の微細な変化の一つ一つが大写しにされていく。涙と嗚咽は演技の足しにもならない、とわきまえているかのように、この人は顔色の変化でのみ、演技を続ける。
現実と虚構が生まれつき見事にシャッフルされている女優なのだろう。おそらくは両方の世界を行きつ戻りつすることに、何一つ苦痛を覚えずにいられる人なのだ>
 女優さんだけでは片手落ちになるので、男優ロバート・デ・ニーロについては、
 <ロバート・デ・ニーロの歯は小さい。いや、歯が小さいというよりも、口の中できれいにカーブを描いている歯並び、それ自体が小作りなのだ。だからこの人が笑うと、口元が少年のようになる。情けないような、可愛いような、笑っているのにどこかびくびくしているような口元になり、それに伴って、細めた目尻にくしゃくしゃの皺が寄る。いかつさとは縁遠い、あくまでも愛らしく、無垢な笑顔なのだが、どういうわけか時折、その愛らしさの奥底に、別のものが覗き見える。それとはわからないほどかすかな、狂気の気配、歪んだ感情の渦、世界と相いれない人間の持つ、冷え冷えとした孤独感……>
きわめて情緒的な表現だと思うかもしれない。だが、これを読むと、もう一度この24人の出演する映画を観たくなってしまうはずだ。それだけ熱い思いが、この本の中に溢れている。さらに、小池さんらしいこんな見方が思わず読む人の頬を緩ませてくれる。
 <古典に限らず、文学の永遠のテーマは“姦通”なのだ。恋い焦がれるあまり人のものを奪う……今も昔も、人はその苦悩から逃れることができず、そのくせ、その苦悩だけが真の悦びを生むのである>