台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂
しかしながらこの事件のあとに江戸幕府の「鎖国」政策により、朱印船貿易は終末を迎えることになる。
寛永10年(1633)には、日本人の海外渡航は、朱印状の外に老中奉書という別の許可状をうけた奉書船に限る事となり、寛永12年(1635) には、日本人の海外渡航と国外にいる日本人の帰国が全面的に禁じられてしまった。
日本の商船が台湾に向かうことが無くなったことで、オランダはこれを好機として台湾における貿易の全権を握ったのだが、このオランダが、わずか38年の短い期間で台湾から追い払われることとなる。
オランダを台湾から追い出したのは、日本人を母とし、長崎の平戸に生まれ育った鄭成功(ていせいこう)という中国人である。今回は、この人物のことをレポートすることにしたい。
江戸時代の慶長の末に、中国福建省に生まれた鄭芝龍(ていしりゅう)という人が、朱印船貿易で中国系商人の傘下に加わり、日本の肥前国平戸(現長崎県平戸市平戸島)に家を構え、平戸藩士・田川七左衛門の娘・田川マツと結婚し福松と七左衛門の二人の子供が生まれた。
この福松少年が後の鄭成功となるのだが、父の鄭芝龍はのちに台湾海峡の海賊のメンバーに誘われて単身明国に渡り、その大将となったあと明国の都督に任ぜられて、7歳になる福松を故郷の福建に呼び寄せて、以後福松は父親の手で育てられている。
ところで、当時の明国は反乱が相次ぎ、1644年には李自成軍の包囲の前に崇禎帝(すうていてい:明朝第17代皇帝)は自殺し、同年満州族の清国が李自成を破って北京を占領している。
一方、中国南部にいた明朝の皇族と遺臣たちは、「反清復明」を掲げて各地で清朝への反抗を繰り返した。鄭成功の父の鄭芝龍らは唐王朱聿鍵(しゅいっけん:隆武帝)を擁立して抵抗を続けたという。
1645年、福松が22歳の時に、父に従って隆武帝(唐王)に拝謁しているが、その時に福松は隆武帝に気に入られ、隆武帝から明の朝廷と同姓の「朱」という苗字を賜った上に、名を「成功」と改め、さらに御営中郡都督という役目を授かっている。
ところが彼は、国姓の「朱姓」を使うことは畏れ多いとして、以後自らの名を鄭成功と名乗るようになった。一方、人々は彼のことを、隆武帝から「国姓を賜った」と言う意味で「国姓爺(こくせんや)」と呼ぶようになった。
また鄭成功は、隆武帝に拝謁した翌月に、父と相談して母を日本から呼び寄せ、15年ぶりの再会を果たしたという。
しかしながら、明国は衰退期にあり、満州族の清国の勢力が南に伸びてくると、父親の鄭芝龍の考え方と、日本人の血の流れた鄭成功と母親の考え方の違いが浮き彫りになる。
前回紹介した菊池寛の『海外に雄飛した人々』の文章をしばし引用する。
「芝龍は、唐王を奉じては見たものの、清の兵がだんだん南下してくるので、もはや明も駄目だと悟り、不忠にも清に内通して本拠の安平鎮へ帰ってしまい、8月、唐王が捕えられるに及んで、自ら部下と共に福州へ赴いて清の大将に降伏しました。
ところが、芝龍の子の国姓爺は、さすが日本人の血をうけただけあって、身を以て国難に殉じようとする忠義一徹の日本武士の本領を発揮しました。父から清に降ることを勧められて聞き入れなかった彼は、更に南方に移り、厦門(アモイ)と金門の二島を根拠地として、あくまで清軍に抗戦したのであります。
この時、国姓爺にとって悲しい事件が起こりました。それは母の死です。清の大軍が泉州を抜き、安平鎮まで攻めてきたとき、国姓爺の腹違いの弟の鄭芝豹(ていしひょう)たちは、驚き恐れて戦う気力がなく、妻子や財産を軍艦に乗せて海上に遁れたのですが、国姓爺の母だけは、女ながらもそこを去ることを拒み、剣をとって立派に割腹して死んだのであります。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/85
このように父親は明と隆武帝を見捨てて清国に内通し、鄭成功の腹違いの弟も明を見捨てたのだが、鄭成功と母親の考えは全く正反対だった。
母は明のために戦って亡くなり、鄭成功は、唐王のため、また母のためにも、清に復讐しようと考えて、それから15年間も清との戦いを続けているのだ。
そこらあたりが利己的で場当たり的な中国人とは随分異なるのだが、平戸藩士の娘であった母親の影響が小さくなかったのではないだろうか。
1658年に鄭成功は北伐軍を興し、翌年に南京を目指して進軍したが失敗し、勢力を立て直すために台湾に向かっている。その頃の台湾は、冒頭に記したとおりオランダ人が支配していた。鄭成功が台湾を本拠とするためには、まずオランダ人を台湾から追い払う必要があったのである。
1661年3月、鄭成功は約百隻の船に2万5千人の兵を乗せて厦門を出発し、4月2日に台湾本土にあるプロヴィンシャ城(今の赤嵌楼)の付近に上陸している。
では、鄭成功が如何にしてオランダ人台湾からを追い払ったのか。再び菊池寛の著書を引用する。
「…時のオランダ台湾総督コイエットは、4月5日、2人の評議員に通訳をつけて国姓爺の陣営に赴かせ…使者は、二城とその付近の沃野の領有を前の通り認めてほしい旨を申し入れました。
国姓爺は静かに使者の言葉を聞いていましたが、やがて口を開いて、
『自分は清の軍と戦争の都合上、台湾を占領しようとするのである。もともとこの地は支那のものであるから、オランダ人は、これを正当な旧主に明け渡さねばならない。自分はオランダ人を相手に戦争をしようとも、その財産を奪おうとも考えていない。城を壊してその材料及びその私財を持ち帰ってよろしい。ただ一刻も早く、この事を実行して欲しい。もしもオランダ側にて、24時間以内に、この要求に応じないならば、その時は、こちらも、採るべき方法を実行に移すばかりである。』と申し渡しました。
使者の帰りを迎えたゼーランジャ城では、その報告を聞いて、兵数は少なく、武器も余り多くはないが、どこまでも城を死守して抗戦することに決し、降伏の勧告を拒絶しました。そして真赤な戦旗を城頭高く掲げました。到底かなわぬまでも、38年の間に築き上げた台湾における今の地位を、一戦も交えずに国姓爺に渡すことは、彼らの誇りが許さなかったのです。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/86
鄭成功(国姓爺)はプロヴィンシャ城を降伏させた後、ゼーランジャ城を攻めたのだがオランダの守りは堅かった。そこで鄭成功は城を包囲して、食糧攻めでオランダの降伏を待つこととした。
そして籠城9か月目となる12月の初めに、鄭成功はゼーランジャ城の一斉攻撃を開始している。オランダも勇敢に応戦したのだが、終に鄭成功に休戦を申し込むこととなった。籠城中に戦死したり、病死したオランダ人の数は、1600人にも達したという。
鄭成功は、孤立無援のゼーランジャ城を9カ月にもわたって護ったオランダ人に名誉の開城を許し、「バタビアに引き上げるオランダ兵士は、充分に武装し、国旗をひるがえし、隊伍堂々と鼓を鳴らして乗船することができた」のだという。
残念なことに鄭成功はオランダ人を台湾から追い払った翌年の1662年の6月に病死してしまい、明朝の再興は果たすことはできなかった。その後台湾は、鄭成功の子の鄭経らが23年間統治したのち、1683年に反清勢力撲滅を目指す清朝の攻撃を受けて降伏してしまっている。
鄭氏台湾は短命に終わったが、オランダ人を追い払った鄭成功は、今も台湾の英雄である。
彼は台湾人の不屈精神の支柱として、また孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として、台湾城内に祀られており、毎年4月29日に復台記念式典が催されているのだそうだ。
また、菊池寛は同じ著書のなかで、こうも述べている。
「その後、212年を経て、明治28年に至り、日清戦争の結果、台湾は日本の領土となりましたが、もし国姓爺が当時台湾を占領しなかったならば、この地は今もオランダの領地となっていたに違いないのです。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/87
今のわが国の教科書には台湾のことがほとんど何も書かれていないので、菊池寛が書いていることに驚いた人も少なくないと思うのだが、この本が出版された昭和16年(1941)には、現在のインドネシア(東インド)はオランダの植民地であったことを知る必要がある。
太平洋戦争が始まったばかりの昭和17年(1942)月の3月1日に、日本陸軍今村中将が約4万の兵を率いてジャワに上陸し、わずか9日間の戦闘で10万のオランダ・イギリス軍を降伏させるまで、インドネシアにおけるオランダ勢力の支配は、なんと340年間も続いたのである。
菊池寛が述べている通り、鄭成功が台湾から早い時期にオランダ人を追い払って台湾を占領していなければ、オランダの支配が長く続いた可能性はかなり高そうだ。また鄭氏一族が台湾を支配し、清と戦う姿勢がなければ清国に滅ぼされることもなく、日清戦争後にわが国に台湾が割譲されることもなかったということになる。
オランダによる台湾の支配は1624年から始まっているのだが、インドネシアにおけるオランダの植民地の統治政策は徹底した搾取と愚民化政策であった。もし同様の統治政策をオランダが実施していれば、台湾という国が今のように豊かな国にはなっていない可能性がかなり高いと思われる。
もし鄭成功の父親の鄭芝龍が日本人と結婚していなければ、鄭成功のように清国を倒し明を再興させるために台湾を本拠とし、そのためにオランダ人を追い出そうと考えるものは出てこなかったのではないか。台湾には親日的な人が多いと聞くが、日清戦争後の日本統治時代が評価されていることのほかに、台湾の英雄に日本人の血が流れているとの親近感もあることだろう。ところが現在の日本では、鄭成功という人物のことを知る機会がほとんど与えられていないのが現状だ。親日的な台湾の人々の英雄である鄭成功について、わが国でもっと広く知らされて良いのではないだろうか。
近松門左衛門作の人形浄瑠璃に、鄭成功をモデルにした『国性爺合戦』(こくせんやかっせん)がある。正徳5年(1715)、大坂の竹本座で初演され、17カ月も続演されたのだそうだが、鄭成功のことは江戸時代の日本人もよく知っていたことは間違いない。
近代デジタルライブラリーで検索すると、「鄭成功」で48冊、「国姓爺」で61冊の戦前の書物が引っかかるのは、以前は台湾が日本領であったことから当然のことなのかもしれないが、戦前のわが国ではこの人物のことが良く知られていたことは確実だ。
ところが、現在の日本史や世界史の教科書や通史に鄭成功の名前が出てこないのだが、それはなぜなのか。
前回記事で記した浜田弥兵衛の事績が封印されているのと同様な理由があるのかもしれないが、その点については読者の皆さんの判断に委ねることとしたい。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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