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しばやんの日々

ペリー来航の目的と、その後幕府の権威が急速に失墜した経緯を考える

前回の記事で、江戸幕末に米の相場以上に生活必需品の価格が高騰して武士階級が困窮生活を余儀なくされていたことを書いた。徳川幕府は有効な対策を講じないまま求心力を失っていったのだが、徳富蘇峰は『近世日本国民史 第31巻』でこう解説している。「…徳川幕府中心主義を、わが全国民が遵奉し、かつ徳川幕府がこれを遵奉せしめ得る場合においては、鎖国政策も祖法としてこれを維持するを得べきも、国民の心が徳川幕府より離れ...

ペリーが持参した米国大統領の国書と、有力諸藩大名が幕府に提出した意見書を読む

前回の記事で、徳川幕府の老中首座阿部正弘がペリーの持参した米国の国書の受取りを認め、一行の下田上陸を許したことを書いた。この時幕府は、12代将軍徳川家慶の病気を理由に返答の1年の猶予を要求したのだが、そもそも、この国書には何が書かれていたのだろうか。一般的な日本史教科書である『もう一度読む 山川の日本史』には「上陸したベリーには、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を幕府側の役人に手渡した。ペリ...

ペリーが江戸を離れた翌月に4隻の艦隊を率いて長崎に来航したロシアのプチャーチン

前回まで2回に分けて嘉永6年(1853)6月3日に浦賀に来航したペリーの事を書いた。徳川幕府は将軍の病気を口実に返答に1年の猶予を要求し、ペリーは1年後の再来航を約して6月12日江戸を離れたのだが、それからわずか10日後の6月22日に将軍家慶が死去している。そして幕府が7月3日水戸齋昭を海防参与に任じた2週間後の7月17日に、今度はロシアのプチャーチンが旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。【パルラダ号】ロ...

嘉永6年に行われたわが国とロシアの領土談判とプチャーチンの残した警告

前回の記事で、アメリカのペリーが来航した翌月の嘉永六年(1853)七月にロシアのプチャーチンが長崎に来たことを書いた。プチャーチンは、ペリーのようにわが国を武力で威圧するようなことはしなかったが、携えてきた国書には両国の親善と交易の開始のほかに両国の境界を定めるという難問が記されていた。しかも、プチャーチンが長崎から上海に向かう直前に老中に宛てて記した十月十八日付けの書簡には、択捉島も千島列島も樺太島も...

ペリーの再来航と日米和親条約

ロシアのプチャーチンが長崎を去った八日後の安政元年一月十六日に、今度はペリーが再び浦賀に現れた。ペリーは昨年六月に一年後の再来航を告げて江戸を去ったのだが、幕府にすれば、ペリーがこんなに早く来航することは想定していなかったはずだ。【鳳凰丸】ところで幕府は、一年後にペリーが再来航することを前提に様々な準備をしていたようだ。以前に記したように、老中阿部正弘は強硬な攘夷論者であった水戸齊昭を海防参与に据...

吉田松陰はペリーを暗殺するためにポーハタン号に乗り込んだのか

嘉永七年(1854)三月二十七日ペリーの二度目の来航の際に、吉田松陰と金子重之輔が海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗り込もうとした事件があった。二人は、渡航を拒否されたために下田奉行所に自首し伝馬町牢屋式に投獄され、死罪は免れたものの松陰は長州へ檻送されたのちに野山獄に幽囚されたのだが、松陰がペリーのいるポーハタン号に向かった目的は何であったのか。アメリカに留学しようと...