鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話
この灯籠の由来を調べていると、浜田弥兵衛という人物がオランダという大国と堂々と渡り合った事件があり、その事件の解決の為にオランダが徳川幕府にこの灯籠を贈呈していることがわかった。
国会図書館の近代デジタルライブラリーで、「浜田弥兵衛」をキーワードにして検索すると明治時代から昭和にかけての76冊もの書物がヒットし、中には教科書などもあるのだが、私は最近までこの人物のことを記した本を読んだことがなかったし、マスコミなどで事件のあらましが紹介されたという記憶もない。
Wikipediaには「浜田弥兵衛」について簡単に書かれている。
「江戸時代初期の朱印船の船長。長崎の人。1627年に起こったタイオワン事件(ノイツ事件)の実行者。1915年(大正4年)、贈従五位。」
と、なんと江戸時代の人物が大正4年に叙勲されている。どんな人物なのかとますます興味を覚えて、調べてみることにした。
以前このブログで記したが、南北朝時代から戦国時代には「倭寇」と呼ばれた海賊が中国、朝鮮沿岸を荒らしまわっていた。16世紀後半になってポルトガル船が日本に来航するようになって、豊臣秀吉がわが国の海外交易を統制するために1592年に初めて朱印状を発行し、マニラやアユタヤに派遣したとされるが、この頃の資料は少ないようだ。
秀吉の死後全国を統一した徳川家康は、海外交易に熱心な人物であり、オランダ船の航海士ウィリアム・アダムスやヤン=ヨーステンらを外交顧問として採用し、1601年以降、安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャムなどの東南アジア諸国に使者を派遣して外交関係を樹立し、 1604年に朱印船制度を創設している。それ以降、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航したそうだが、「浜田弥兵衛」という人物は、長崎の貿易商・末次平蔵の保有する朱印船の船長であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%8D%B0%E8%88%B9
上の画像は寛永11年に描かれた「末次船」で、浜田弥兵衛の乗っていた船もこのような外観の船であったと思われる。外見からはよくわからないが、海賊船などと戦うことも想定して、商品だけでなく、武器もかなり積み込まれていたという。
当時、朱印船は必ず長崎から出航し、日本からは銀、銅、銅銭、刀などの工芸品を輸出し、中国産の生糸や絹、東南アジア産の鮫皮や鹿革、砂糖などを買入れて長崎に戻っていたそうだ。
朱印船の渡航先はタイやベトナム、カンボジア、台湾なで、明国は中国本土への日本船の入港を認めていなかったために、明国の港に向かうことはなかったという。
西欧諸国にとっては東洋との貿易は利幅が大きく、ポルトガルやオランダ、イギリスの商人が主導権争いを演じていたようだが、元和8年(1622)にオランダが、明国のマカオにあるポルトガル王国居留地を奪おうとして失敗した事件があった。
オランダは次いで台湾の澎湖諸島を占領して要塞を築いたのだが、澎湖諸島の領有権を持つ明国の抗議を受けたために、2年後の寛永元年(1624)には台湾島を占領し、台南の安平(アンピン)をタイオワンと呼び始め、さらにタイオワンに帰港する外国船に10%の関税をかけることとした。
この辺りの事情は、戦前の本の方がはるかに詳しく記されている。
近代デジタルライブラリーで見つけた本の中から、菊池寛が昭和16年に少年少女向けに著した『海外に雄飛した人々』の文章を紹介しよう。
「ゼーランヂャ(安平)には…多数の支那商船がやってきて、日本の商船と貿易を行なっていました。オランダ人がこの地を占領した目的は、日本との貿易を盛んにやるために、支那の貨物を安い値段で買い取ることにあったのです。それで、日本人と支那人とが直接に取引をすることを喜ばなかったので、彼らは貿易の全権を握ろうとして、輸出品・輸入品に1割の税金をかけました。
支那人…は、大砲の威力を恐れてやむなくこの無法な課税を偲びましたが、しかし、日本人だけは、その命令を聴き入れませんでした。日本人はいわば古参者なのです。新参者のオランダ人から納税の命令を受けるわけがないといって、強硬に反対したのであります。そこでオランダ人も譲歩して、初めのうちは日本人だけには、この税金を許したのでした。しかし間もなくオランダ人は、日本人の勢力が強くなるのをおそれ、日本人を台湾から追い出す一つの手段として、強硬に税金を取り立てようとしました。だが、日本人は頑として無法な税金を払おうとしませんでしたので、ここに、台湾において、日本人とオランダ人との衝突が起こりました。
寛永二年(1625)には、オランダの初代台湾総督ソンクが、関税を納めない代わりとして、千五百斤*の生糸を日本人から没収したという事件がありました。
その翌年、末次平蔵は三十万デュカート、すなわち二百万マルクの資本を以て船を台湾及び南支那に向けて出し、二万斤の生糸と鹿皮その他を仕入れました。
浜田弥兵衛は、この時の船長であります。
ところが、その頃、南支那海を横行していた鄭芝龍を頭とする支那の海賊に睨まれ、とても危険で、どうしても出帆できませんでした。それで船長の弥兵衛は、オランダの第二代台湾総督デ・ウイットに保護方を頼みましたところ、それを拒絶されたばかりではなく、日本の船はたとえ一艘でも支那へ行くことはならぬ、と厳重に言い渡されましたので、浜田弥兵衛をはじめ、そのほかの日本人たちは、台湾でその冬を空しく過ごさなければなりませんでした。」
*1斤:約600g
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/76
この様な事情からオランダ人に対する日本人の苦情が高まり、平戸における日本貿易が不利になっても困るので、日本人から関税を取ることはひとまず中止としたものの、オランダは台湾を占領した事情を徳川幕府に説明し、幕府から日本商船の台湾渡航を一時禁止してもらおうと考え、寛永4年(1627)6月12日に第三代台湾総督のペーテル・ノイツを特使として日本に向かわせている。
それを知った浜田弥兵衛は貨物をそのままにして台湾人16名を引き連れて長崎に帰り、台湾におけるこれまでのオランダ人の無法な仕打ちを末次平蔵に報告し、両名で長崎奉行に訴えたのち、台湾人を引き連れて江戸に向かって、ノイツの交渉を失敗させようとしたそうだ。平蔵らは台湾人と共に将軍に謁見しているのだが、台湾人を連れて行ったのは、彼らに、オランダ人に対する不平を訴えさせるためであり、その戦略は成功した。
菊池寛は江戸幕府の反応について、こう記している。
「また、幕府は、オランダ人がわが国において自由に貿易を許され、丁重にあつかわれているにも拘らず、我が商船の海外貿易を妨げていることを聞いて大いに怒り、彼ら(ノイツら)の要求を全部しりぞけることに決しました。そして、ノイツ等はオランダ国王の臣下たるバタビア総督の施設であるから、オランダ国が正式に派遣した施設とは認められないという口実を作って、彼らを将軍にも謁見させず、その献上物をも受け付けずに、早速日本から立ち去ることを命じました。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/77
ノイツ等は10月26日に台湾に帰っているが、オランダ人の弥兵衛に対する怒りは相当なものであったという。
一方、寛永5年(1628)に浜田弥兵衛を船長する船ともう1隻の船が台湾に向けて出帆し、4月24日に台湾のゼーランジャ(安平)港に到着している。この船にはオランダからの報復を予想し、完全武装した乗組員と大砲まで用意していたという。
予想通りノイツは弥兵衛らを拘束し、さらに、乗っていた台湾人を謀反者として牢獄に投じ、徳川将軍から台湾人に下賜された土産物を取り上げてオランダ人に分配し、船に載せられていた武器を没収した上、弥兵衛らが支那に行くことも帰国することも許さなかった。そうして1ヶ月が過ぎて弥兵衛らは、もう一度交渉してもダメであるならば、命がけでノイツと戦うことを決意したのである。
5月28日に10数人の部下とともにノイツの部屋を訪ね、再度武器の返還と出航の許可を求めに行ったが、断られたタイミングで弥兵衛はノイツに飛びかかり素早く剣を抜いた。
警報が館内に鳴り響き、オランダ兵が集まって屋外から銃を構えたのだが、弥兵衛は右手の剣をノイツの首に当てたまま窓際に出て「もし弾丸がわし命中したら、この男の命はない」旨をオランダ兵にアピールすると、ノイツはオランダ兵の銃を制止させたという。
この日の双方の死傷者は、オランダが死者6人、負傷者が18人、日本側の死者が3名であったそうだ。
この日から6日間ノイツは縛られたまま弥兵衛たちと交渉を続け、6月3日に和解が成立している。その条件は、日蘭両国がそれぞれ人質を出して、相手の人質を乗せて両国の船がともに日本に向かい日本到着後に人質を釈放すること、前回の公開で没収した商品を返す事、台湾人を牢屋から出す事などであったのだが、いずれも無事に長崎に到着したものの、今度は江戸幕府の方が、台湾人を牢屋に入れ将軍が与えた土産を取り上げたことなどのオランダ人の行為に憤り、長崎奉行に命じてオランダ船の人質を監禁し、大砲などの武器を取り上げたばかりではなく、平戸にあったオランダ商館の帳場を閉じ、オランダ人の商売を禁じた上、その後入港してきたオランダ船まで取り押さえてしまったという。
では、この事件はどのようにして解決されたのだろうか。再び、菊池寛の文章を紹介する。
「その後も、オランダ側は、日本側の怒りをなだめるために、いろいろ手立てをつくしましたが、うまく行きませんので、寛永9年の秋、ついに問題のノイツを謝罪のため、日本へ寄こしました。そこで幕府は、新たに来たノイツを大村の牢に入れ、前からおしこめていた多数のオランダ人を解放し、また取り押さえてあった船の出航を許し、同時に平戸におけるオランダ商館の貿易の禁止も解きました。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276921/82
ではノイツはいつ解放されたのだろうか。菊池寛の文章をもう少し読み進むと、ここで日光東照宮のオランダ灯籠が出てくるのだ。
「それから4年の月日が流れ、寛永13年に、日光の東照宮の社殿が落成し盛んな祭典が行なわれるときにあたり、オランダのバタビア総督から日光廟に青銅製の大燭台やそのほかの珍しい唐物を献上したのを機会に、ノイツを牢から放してやり、この事件はようやく解決しました。」
また菊池寛は、浜田弥兵衛が大正時代に叙勲されたことにも触れている。
「大正4年11月 大正天皇は、御即位の大典をあげさせ給うに当たり、弥兵衛が海外でわが日本の国威を辱めなかったことを御嘉賞になり、従五位を贈られました。」
周囲の無法な国々に振り回されている我が国を見ていると、江戸時代の方がまともな外交交渉が出来ていたと思わせるような出来事なのだが、なぜ戦前では国民の常識であったような史実が現在のわが国において伝えられていないのかと誰しも不思議に思うに違いない。
このブログで何度も書いてきたことだが、いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述というものは、時の為政者にとって都合の良いように描かれ、都合の悪い史実は伏せられるか事実を歪めて記述される傾向にある。特に第二次世界大戦後のわが国では、戦勝国にとって都合の良い歴史が広められ、都合の悪い過去の史実は封印されて、通史などに記されないばかりか、マスコミでも報じられることがほとんどない。
浜田弥兵衛の事績も、第二次大戦の戦勝国にとっては都合の悪い史実であったのだろうが、この人物が歴史の舞台に登場するのは江戸時代の初めのことである。こんなに古い時代であっても、欧米諸国が世界を侵略し、原住民はその苛政に苦しんできたという史実が記された書物は戦後GHQによって悉く焚書にされてしまい、今もわが国では、戦国時代から近・現代にいたるまで、同様な史実が数多く封印されたままであることを知るべきだと思う。
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【ご参考】
このブログで書いてきた内容の一部をまとめた著書が2019年4月1日から全国の大手書店やネットで販売されています。
大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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