鳥取砂丘から若桜町、『日本三大投入堂』の一つ不動院岩屋堂を訪ねて
鳥取旅行の2日目はあいにく雨になった。お世話になった宿にお礼を言ったのち、せっかく浦富海岸に来たのだから、海岸沿いの駐車場に車をとめて海岸の散歩に出ることにした。上の画像は浦富海岸の島の一つである「向島」である。浦富海岸は約15kmも続くリアス式海岸で、海岸西部には海水等の侵食による花崗岩の断崖、奇岩、洞門が続き、海面上に大小の島や岩が散在していて『日本百景』にも選ばれている自然景勝地なのだが、さすが...
「鳥取県」の消滅から再置以降の時代と鳥取の不平士族の動き
前々回の記事で明治9年(1876)になって鳥取県は島根県に編入されることになり、再置される明治14年(1881)までの5年間にわたり「鳥取県」という名が地図から消滅したことに触れた。2014年の県内総生産額で比較すると島根県が23,823億円に対し鳥取県が17,791億円、人口で比較しても島根県が697千人に対し鳥取県が576千人なので、経済力も人口も島根県のほうが上である。県庁所在地である松江市と鳥取市を比較しても、松江市の人口は20...
廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか
子供の頃に「1都1道2府43県」と覚えて、全国に「47都道府県」があることを学んだのだが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で全国の「藩」が「県」となって明治政府の直轄となった時には、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県が存在した。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったために飛び地が各地に残り、同年の秋には3府72県に統合されたという。その後県の数は徐々に少なくなり、明治5年...
大久保利通を暗殺した石川県の不平士族らは何を求めていたのか
明治9年(1876)の第2次府県統合の後の地図を眺めていると、石川県、島根県、高知県、愛媛県、長崎県、鹿児島県など不自然に大きな県が存在し、また奈良県がなく現在の大阪府南部と奈良県を領有した堺県があったことなどいろいろなことがわかる。【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】これらの県では、のちに分県運動が立ち上がり、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が復活を果たすので...