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しばやんの日々

鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1
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鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1

中学・高校で日本史を学んだときに腑に落ちなかったことがいくつかあった。例えば、何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ。もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなどである。16世紀に来たポルトガルやイスパニアに日本侵略の意思があった記録はいくつか読んだことがあるが、なぜ日本はその時に西洋諸国の侵略を免れることが出来たのか。単純に海があったからという...

鉄砲の量産に成功した日本が何故鉄砲を捨てたのか~~その2

前回は鉄砲伝来の一年後には種子島で数十挺の鉄砲を製造し、その後紀州や堺で鉄砲の大量生産が始まり、十六世紀の末には世界最大の鉄砲所有国となっていたばかりではなく、鉄砲の性能も、刀も鎧も日本製の方が優れていたし、文化水準も西洋よりも高かったことを当時日本を訪れた多くの外国人が記録していることを書いた。しかし、その後日本人は鉄砲を捨てて刀剣の世界に舞い戻っている。これは何故なのか。鉄砲を捨てた日本人 日...

毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか

毛利元就と言えば、「三矢の訓(おしえ)」が有名だ。 元就の臨終の床で、長男隆元(たかもと)、次男吉川元春(きっかわもとはる)、三男小早川隆景(こはやかわたかかげ)の三人の息子を枕元に呼び寄せて、矢を一本ずつ与えて「折ってみよ」と命じ、息子たちが難なくこれを折った。 今度は三本の矢を束にして、また「折ってみよ」と命じたところ、息子たちは誰もこれを折ることが出来なかった。 元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈に...

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1

フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549)8月15日に鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師である。 大正8年(1919)に大阪の茨木市の山奥にある千提寺の民家から、教科書でおなじみの聖フランシスコ・ザビエル画像が発見されたことは以前このブログの「隠れ切支丹の里」という記事で書いたことがある。shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-109.htmlこんな肖像画が出てきたのだから、ザビエルがこ...

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2

前回はザビエルが鹿児島に上陸して二ヶ月半たった時点で、ゴアのイエズス会会友宛てに日本人の印象などを書き送った書簡の一部を紹介した。今回はザビエルの日本での活動を追ってみよう。ザビエル(画像)はゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船に乗ってゴアを出発し、1549年8月15日に鹿児島に上陸した。そして翌月には薩摩の守護大名・島津貴久(画像)に謁見し、キリスト教宣教の許可を得ている。前...

400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと

ブラジルサンパウロ州サンパウロ市で発行されている、日系人や駐在員向けの日本語の新聞で「ニッケイ新聞」という新聞がある。この新聞はネットでも読む事が出来るが、その新聞に2年前に連載された記事を見つけたときに衝撃を受けた。その記事とは、フランシスコザビエルが日本でキリスト教の布教をしていた時期から1600年頃までの約50年間に大量の日本人が南米に渡っている記録がいくつか残されているという話なのだが、それも主...

秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1

ザビエルがはじめて日本で伝えたキリスト教は、時の権力者であった織田信長の庇護を受けて順調に信者を増やしていった。 豊臣秀吉も当初は織田信長の政策を継承してキリスト教布教を容認していたのだが、天正15年(1587)に秀吉はキリスト教に対する態度を急変させ、博多で「伴天連追放令」を出している。(「伴天連」とはキリスト教宣教師のこと) 学生時代に学んだ通史では、なぜ「伴天連追放令」が出されたのかが良くわからなかった...

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その2

前回は秀吉が伴天連追放令を出した経緯を、イエズス会宣教師のルイス・フロイスの記録から纏めてみた。では、日本側の記録ではどうなっているのか。 秀吉の側近に大村由己(おおむらゆうこ)という人物がいる。この人物は以前にこのブログで、天神祭のことを書いた時に、大阪天神宮の神宮寺の別当であったと紹介したことがある。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-18.htmlこの人物は豊臣秀吉に近侍して秀吉の軍記など...

秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したのか~~その3

戦国時代の九州で、なぜ大量の日本人がポルトガル商人に奴隷として売られてしまったのか。この点については、前々回紹介したルイス・フロイスが、その当時の九州の実態について、「奴隷」という言葉こそ使っていないがその事情が理解できるような記録を残している。たとえば、豊後については薩摩軍との戦いが続いて惨憺たる状況であった上に、次の様なことが起こっていた。フロイスの記録をしばらく引用する。 「薩摩軍が豊後で捕...

戦国時代に大量の寺社や仏像を破壊させたのはキリシタン大名か、宣教師か

前回まで3回にわたって、豊臣秀吉が「伴天連追放令」をだした背景を日本人奴隷の問題を中心にまとめてみたが、秀吉が問題にしたのは奴隷の問題だけではなかった。 「秀吉はなぜ「伴天連追放令」を出したか~~その1」で紹介した、秀吉がイエズス会の日本準管区長コエリョにつきだした質問のなかには、伴天連が牛や馬を食べることも問題にしていたくだりがあったが、このことは今の時代に生きる我々にはどうでもよい。それよりも...

永禄10年に東大寺大仏殿に火をつけたのは誰なのか

以前このブログで、江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)の3回落ちたということを書いていることを紹介したことがある。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-120.html最初の斎衡2年の時は地震で、治承4年の時は平重衡による南都焼討、永禄10年は松永久秀が夜襲をかけたのが原因とされているが、永禄10年については異説があ...

永禄9年にあったわが国最初のクリスマス休戦のことなど

前回は、永禄10年(1567)に大仏殿をはじめ東大寺の多くの伽藍を焼失させたのは、松永弾正久秀ではなく三好軍にいたイエズス会のキリシタンであると、同じイエズス会のフロイス自身が記録していることを書いた。松永弾正は東大寺には火をつけなかったかもしれないが、それ以前に三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)との戦いで多聞城の間際まで攻め込まれた松永弾正は、相手方が陣地として利用しそうな(般若寺、文殊堂など)寺を...

前期倭寇は元寇の復讐だったのか~~倭寇1

中学や高校時代に日本史の室町時代の授業で「倭寇」を学んだ。その時はなぜ、日本人がこの時期に急に海賊行為を始め、その活動が大規模になったのかが良くわからなかった。 対馬や壱岐の歴史を振り返ると、平安時代の寛仁三年(1019)に「刀伊の入寇」という事件がある。この事件を調べると市販の山川の日本史教科書では「とつぜん刀伊(女真人)が、対馬・壱岐・筑前をおそった。…これは大宰府とその周辺の土豪の力によってしりぞけら...

「高麗史」を読めば朝鮮半島の倭寇をエスカレートさせた原因がよくわかる~~倭寇2

『高麗史』を読んでいると、14世紀の半ばから倭寇の話が驚くほど頻繁に記述されている。Wikipediaによると高麗末期に500回前後の記述があるとのことだが、その内高麗人が加わっていたことが明記されているのは3件だけなのだそうだ。そのことから、前期の倭寇の主体は日本人だったと考えられている。前回の記事で書いた通り、中国の正史である『明史』には明が興こった (1368年) 頃に、「地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡...

中国の史料では後期倭寇は中国人が中心だが、奴隷売買に関与はあったか~~倭寇3

以前このブログで、「400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと」という記事を書いた。この記事は、ブラジルの日系人のための新聞である「ニッケイ新聞」に連載された記事の紹介から書き起こしている。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html その記事とは16世紀の中頃から1600年頃までの間の50年間に大量の日本人が南米に奴隷として渡ったことを当時の記録などを引用しながら書かれた記事...

秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか~~朝鮮出兵1

秀吉の朝鮮出兵については、晩年の秀吉は征服欲が嵩じて意味のない戦いをしてしまったようなニュアンスで学んだような記憶がある。歴史家も秀吉の誇大妄想と記述しているケースが多いようだ。最近の高校教科書で確認してみよう。例えば『もう一度読む山川日本史』には朝鮮出兵についてこう書かれている。 「秀吉はまた外交の面でも積極的で、倭寇などの海賊的な行為を禁じるとともに、日本人の海外発展を援助したので、日本船の東...

多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2

前回の記事で秀吉の軍隊に加勢した朝鮮の人々が多かったことを書いた。この点については教科書には全く記述されていないところである。第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の記録を見てみよう。 秀吉の朝鮮出兵については日本のみならず李氏朝鮮や明国にも記録が残されており、「文禄の役」の戦の経緯は次のサイトでコンパクトに纏められている通りで、日本軍は連戦連勝で平壌まで進んでいる。http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_taj...

第二次朝鮮出兵(慶長の役)も秀吉軍の連戦連勝であった~~朝鮮出兵3

前回は第一回目の朝鮮出兵である「文禄の役」の概略を書いた。この戦いは陸戦では多くの朝鮮民衆が日本軍を支援して連戦連勝で勝ち進んだが、船の進路を阻まれて補給路を断たれて前線が孤立し、さらに前線の食糧倉庫を焼かれてしまったために一旦漢城に戻って体制を立て直すのだが、そこでも日本軍の食糧倉庫が焼かれてしまい、窮した日本軍は和平交渉に入るのだが、日本側の和平交渉を担当した小西行長と小西如安が早く交渉を終え...

金閣寺と足利義満の野望

幕末から明治にかけて外国人も含め多くの写真師が写真館を開業し、慶応2年に来日したイタリア生まれ英国籍のフェリックス・ベアトが撮影した日本の景色や風俗の写真が、横浜のファーサリ商会に引き継がれて明治23年(1890)に写真帖が出版されている。その写真帖の貴重な当時の写真が早稲田大学の次のURLに紹介されている。http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/farsari/index.html 上の画像は、ファーサリ商会の写真帖にあ...

本能寺の変で信長の遺体が見つからなかったのはなぜか~~本能寺の変1

上の図は安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた本能寺だが、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の本能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。秀吉によって移転され再建された本能寺の境内は、今の京都市役所や御池通りを含む広大なものであったそうだが、現在の本能寺はビルに囲まれて随分狭い境内だ。有名な寺院ではあるが、観光客はそれほど多くない。 天正1...

本能寺で信長が無警戒に近い状態であったのはなぜか~~本能寺の変2

前回の記事で、イエズス会のフロイスが書いた本能寺の変に関する記述の一部を紹介した。 その引用した部分の少し前に、驚くべきことをフロイスが書いている。 「…そして都に入る前に兵士たちに対し、彼(光秀)はいかに立派な軍勢を率いて毛利との戦争に出陣するかを信長に一目見せたいからとて、全軍に火縄銃に銃弾を装填し火縄をセルベに置いたまま待機しているように命じた。  …兵士たちはかような動きがいったい何のためである...

明智光秀は何故信長を裏切ったのか~~本能寺の変3

本能寺の変について当時の記録を紹介しながら今まで2回に分けて書いてきたが、ここまで読んでいただいた方には、この事件については真実が相当歪められて後世に伝えられていることに気付かれたのではないだろうか。 本能寺の変については、市販されている「もう一度読む山川日本史」では「信長は1582(天正10)年に武田氏をほろぼしたあと、さらに中国地方の毛利氏を攻撃するために安土を出発したが、京都の本能寺に宿泊中、家臣の...

家康の生涯最大の危機と言われた「神君伊賀越え」の物語は真実か~~本能寺の変4

歴史の定説では、「本能寺の変」を知った徳川家康は、明智光秀軍や混乱に乗じた落武者狩りなどの遭遇を回避するために、わずか34名の供回りで堺から脱出したのち伊賀の山を越え、大変な苦労をして命からがら三河に帰ったことになっている。(「神君伊賀越え」) また途中で家康と別行動をとった穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、落武者狩りの土民に襲撃されて殺害されたことになっている。穴山梅雪とは武田勝頼滅亡後に甲斐武田家の名...

秀吉の「中国大返し」はどこまでが真実か~~本能寺の変5

天正10年(1582)6月、備中高松城の戦いにあった羽柴秀吉が主君織田信長の本能寺の変での横死を知り、速やかに毛利氏との講和を取りまとめて、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動を「中国大返し」と呼ぶのだが、備中高松城(岡山県岡山市北区)から山城国山崎(京都府乙訓郡大山崎町)まで235kmもある。「日本史上屈指の大強行軍」と言われることは理解するのだが、武装した集団が武器・食糧を運びながら、な...

16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1

昨年にこのブログで、「400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと」というタイトルで、16世紀の後半の約50年間に大量の日本奴隷が海外に売られていったことを書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html続けて、日本人奴隷を買う側の事情と、売られていく事情について調べて、秀吉の出した『伴天連追放令』がこの日本人奴隷の流出を止める役割を果たしたのではないかということを当時の...

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2

前回は15世紀末から始まるインディオの悲劇のことを主に書いたが、北アメリカにもアフリカにも同様な悲劇があったことは言うまでもない。カリブ海地域から拡がった地球規模の奴隷貿易に対しては、宗教的あるいは人道主義の立場から批判が古くからあったようだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を弾劾したのは、後で記すとおり、比較的最近の話なのである。 前回紹介したラス・カサス神父は、インディオの虐待を即時中止して平和的にキ...

日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その3

前回は、大航海時代以降に西洋諸国が世界各地を侵略し地球規模で奴隷貿易を開始したのは、ローマ教皇の教書に則った活動であることを書いた。インカ帝国が滅亡した事例で、キリスト教の神父が重要な役割を演じていることを紹介したが、わが国の場合はキリスト教の宣教師に日本を侵略する意思や、日本人を奴隷化する意思はあったのだろうか。表題のテーマからすれば、日本も例外ではなかったことを、当時の記録から論証する必要があ...

安土城を絶賛した宣教師の記録を読む

安土城は天正4年(1576)に織田信長によって琵琶湖東岸の安土山に築城された山城で、わが国で最初に大型の天守閣を持った城なのだが、建造後わずか6年後の天正10年(1582)に天守閣が焼失し、その後天正13年(1585)に廃城となっている。 下の図は大阪城天守閣所蔵の「安土城図」で、当時は琵琶湖に接していたのだが、昭和期に周囲が干拓されて今では湖岸から離れた位置に城址が残っている。 前回の記事で紹介した『フロイス日本史』の第...

光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1

天正10年(1582)6月13日の深夜に、山崎の合戦に敗れた明智光秀が坂本城を目指して落ち延びる途中の京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で、農民に竹槍で刺されて死んだという通説は作り話である事を前回の記事で書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html山崎の合戦の後に秀吉が書いた書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とある。秀吉配下の武士は武功を上げるために、...

南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2

前回の記事で、光秀が山崎の合戦以降も生きていた伝承や形跡が多いことを書いた。また「明智光秀がのちに南光坊天海になった」という説を紹介し、その説が唱えられている根拠の一つに、家康が重臣の娘を家光の乳母にしたり、土岐明智家を復活させるなど、家康が明智家に配慮しているように見えるのは、家康の参謀であった南光坊天海が、明智家に近い人物ではないかと思われることを書いた。通説が正しいことを前提にすると「謎」に...

鎖国前の台湾で、新参者のオランダの苛政に抵抗した日本商人の話

昨年の秋に日光東照宮に訪れたレポートをこのブログに書いた際には紹介しなかったが、東照宮の陽明門を抜けて左に折れ、薬師堂の鳴き龍に向かう途中に、国の重要文化財に指定されている「オランダ灯籠」という銅製の大きな灯籠がある。この灯籠の由来を調べていると、浜田弥兵衛という人物がオランダという大国と堂々と渡り合った事件があり、その事件の解決の為にオランダが徳川幕府にこの灯籠を贈呈していることがわかった。国会...

台湾からオランダを追い出した鄭成功の大和魂

前回は、台湾を強引に占領して、いきなり朱印船貿易に10%の課税を強行し、それに従わない船の貨物の没収を繰り返したオランダに抵抗した、浜田弥兵衛という人物のことを書いた。浜田弥兵衛が台湾総督のノイツと命懸けで戦ったのが寛永5年(1628)で、その後わが国が人質に取っていたノイツを解放し、事件が完全解決したのが寛永13年(1636)のことである。しかしながらこの事件のあとに江戸幕府の「鎖国」政策により、朱印船貿易は終末...

日本人傭兵隊がシャムで結成され、山田長政が活躍した背景を考える

前々回の記事で、1604年に朱印船制度が創設され、それ以降1635年まで、350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航したことを書いた。渡航先は安南、スペイン領マニラ、カンボジア、シャムなどの東南アジア諸国であったのだが、それらの地域には多くの日本人が移り住んで日本人町ができたという。「移り住んだ」と書くと、如何にも日本人全員が自分の意志で海外に渡っていった印象を受けるのだが、もう少し正確に言うと、少なから...

日本人傭兵を買い漁った西洋と東南アジア諸国の背景を考える

前回の記事で、イエズス会の宣教師として来日していたルイス・フロイスが、太閤秀吉の言葉として「商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行している」と記していることを書いた。またシャム国では、日本人武士を買って傭兵として用いる強いニーズがあり、山田長政はその日本人傭兵部隊を率い...

キリスト教徒に神社仏閣や仏像などが破壊された時代

天正15年(1587)の7月、豊臣秀吉が『伴天連追放令』を出す直前に、イエズス会の日本準管区長コエリョに使いを出して秀吉の言葉を伝えさせている。そのうちの一つが日本人奴隷の大量流出問題であり、前回及び前々回の記事では、大量の日本人奴隷が売買されて、東南アジアでは傭兵としてかなり重宝されたことを書いた。しかし、秀吉が問題としているのは日本人が奴隷として売られている問題だけではなかった。当時わが国に滞在してい...

日本人女性がポルトガル人やその奴隷に買われた時代

前回の記事で、伴天連らが日本で布教活動を行なっていることは、わが国を占領する意図があることを秀吉が見抜いていたことを書いた。中学や高校で学んだ歴史の教科書には宣教師らが渡来してきた目的がわが国の占領にあったなどとはどこにも書かれていないが、この当時のローマ教会やわが国に来た宣教師などの記録を読めば、かれらは単純にキリスト教を広めることが目的ではなかったことが容易に理解できる。以前このブログで、15世...

フィリピンを征服したスペインに降伏勧告状を突き付けた豊臣秀吉

前回の記事で1584年にイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、日本のキリシタン大名を用いて中国を征服して植民地化することをスペイン国王に提案していたことを書いたが、同様な宣教師の当時の記録はいくつも存在する。日本史の歴史教科書には何も記されていないのだが、スペインが1571年にフィリピンを征服した(「フィリピン」と言う地名はスペイン国王フェリペ2世に由来する)。スペインは16世紀前半にアステカ文明、...

サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件を考える

前回の記事で豊臣秀吉が、スペインの植民地であるフィリピンの太守のダスマリナスに対し、3度にわたり降伏勧告状を送ったことを書いた。フィリピンでは、秀吉の3度目の降伏勧告状に対する返事をどうするかで議論があったようだが、協議の結果このような返事を提出することになったという。「親和関係の継続は閣下の希望し給うところなるを知り、大いにわが本懐に適えり。なんとなれば閣下もわが国王も共に大なる者なり。よってその...

わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か

前回は、遭難したサン・フェリペ号の積荷没収事件と日本二十六聖人殉教事件について、イエズス会・ポルトガルとフランシスコ会・スペインとの主張が真っ向から異なり、前者は、両事件ともイエズス会・ポルトガルの関与はないと言い、後者はイエズス会の讒言により、フィリピンのサン・フェリペ号の荷物が没収されフランシスコ会の宣教師らが処刑されたと主張したことを書いた。高橋弘一郎氏の『キリシタン時代の研究』に、イエズス...

島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか

「治部少(ちぶしょう:石田三成)に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」という落首がある。「佐和山の城」というのは現在の滋賀県彦根市にある佐和山に存在し、近江支配の重要拠点であった山城で、「島の左近」というのは、石田三成の参謀であった島左近(しまさこん)のことである。三成は左近を三顧の礼をもって迎え、家禄の半分を与えてまでも仕官させたと言われているが、調べてみるとかなり謎の多い人物である。通称...

豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか

いつの時代でもどこの国でも、最高権力者が死んだ後は直ちに激しい権力争いとなることが多いのだが、豊臣秀吉が死んでしばらくの間大きな争い事がなかったとはいえ、水面下ではかなりの駆引きがあったはずである。一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、「秀吉の死後、その子秀頼は幼少で、家康がしだいに実権を握るようになった。そのため、秀吉の恩をうけた五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって...

徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯

前回の記事で、豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康がいかにして政敵を排除して権力を掌握していったかについて書いた。徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、家康の政治スタンスをこう表現している。【徳川家康】「家康の眼中には、秀吉の遺言は勿論、いわゆる大老奉行等が血をもって誓うたる、秀吉の法度を守るべしとの起請文も廃紙同様であった。彼は随意に他の大名と誓約を取りかわした。彼はその子秀忠の妻を、随意に...

石田三成の挙兵後、なぜ徳川家康は東軍の諸将とともに西に向かわなかったのか

前々回の記事で、会津の上杉景勝に謀反の噂がたち、徳川家康は弁明のために上洛を勧告したのだが景勝はそれに応じず、そこで家康は上杉征伐の兵を集めて会津に向かい、その途中で石田三成が反徳川の大名を集めて挙兵したことを書いた。徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、徳川家康の会津征伐には三成の挙兵を誘う意図があったと書き、家康が当初より三成の挙兵を想定していたと判断する根拠についてこう記している。【...

天下分け目の関ヶ原の戦いの前に、家康はいかにして西軍有利の状況を覆したのか

前回の記事で、石田三成を中心とする西軍は兵力で東軍を凌駕し、朝廷と秀頼を手にしており政治的に有利な立場にあって、充分に勝機があったにもかかわらず、三成の思惑通りに味方の武将が動かなかったことを書いた。そもそも天下を二分するような重要な戦いにおいて、もし敗れる側に着いたら、所領すべてを失うだけでなく一族や家臣の命の保証もない。どちらも烏合の衆であったことは同じなのだが、どの武将も勝つ可能性の高い側に...

関ヶ原本戦の前日に、杭瀬川の戦いで西軍が大勝してからの東西両軍の動き

前回の記事で、石田三成が関ヶ原の本戦の3日前に大阪の増田長盛に送った書状の一部を紹介したが、西軍の諸将の中には東軍と通じている武将が少なからずいたし、高い山に陣を取って、戦うためよりも身の安全を保つことを優先する武将もいた。この書状の中に、前回の記事で紹介しなかったが、非常に重要な部分がある。『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に紹介されている書状の該当部分を徳富蘇峰の解説とあわせて引用し...

関ヶ原の戦いの本戦で東西両軍はいかに戦ったのか

関ヶ原を東西に東山道*が貫通し、中央より西北に向かって北国街道、南東に向かって伊勢街道があり、関ヶ原の東には東山道と伊勢街道に挟まれて南宮山があり、東山道の南に松尾山が聳え、また北国街道の北には伊吹山から続く相川山があり、その山の麓に笹尾山と称する小山がある。*東山道:江戸時代に五街道が整備されて、東山道は、中山道、奥州街道などに再編された西軍の主力が大垣城を出て関ヶ原に向かったのは9月14日午後7時以...

関ヶ原の戦いの後の佐和山城と大垣城の落城

前回の記事で慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いの本戦の流れについて記したのだが、西軍は敗れたとはいえ石田三成、宇喜多秀家ほか多くの諸将は敗走して生き延びている。また大坂城や大垣城や佐和山城などには西軍の将兵が無傷で多数残っていたのだから、この日の「関ヶ原の戦い」だけで東西両軍の争いが完全に決着したとは考えにくいところである。しかしながら、標準的な高校教科書である『もういちど読む 山川の日本史』には...

石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが捕縛され京都で斬首されたこと

関ヶ原の戦いに大勝したとはいえ、西軍の首謀者である石田三成、宇喜多秀家、小西行長、安国寺恵瓊、島津義弘らの行方が不明であったので、徳川家康は、田中吉政にその捜索を命じている。【慶長年中卜斎記】最初に発見されたのは小西行長だが、家康の侍医であった板坂卜斎が記した『慶長年中卜斎記』に行長が発見された経緯などが記録されていて、徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』に該当部分が引用されて...

西軍の毛利氏と島津氏の家康に対する交渉力の違い

前回の記事で、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊が処刑されたことを書いたが、大坂城には西軍の大将・毛利輝元が大軍とともにいた。もし輝元が家康と戦う意志があったなら、この城はそう簡単に抜ける城ではなかったはずだ。西軍の主将であった毛利輝元は大坂城で家康をどう迎えたのだろうか。徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第11 家康時代 上巻 関原役』にはこう記されている。「肝腎の輝元は、大坂における主将とは言いつつも、ほと...

わが国で最初のキリシタン大名となった大村純忠の『排仏毀釈』

天文18年(1549)8月15日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えた頃のことを以前このブログで記したことがある。フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.htmlフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.htmlそもそも、宗教の自由だと...