鉄砲伝来の翌年に鉄砲の量産に成功した日本がなぜ鉄砲を捨てたのか~~その1
例えば、何故日本は西洋諸国の植民地にならずにすんだのかということ。もう一つは、何故日本はその後に鉄砲を捨てて刀剣の世界にもどったのかということなどである。
16世紀に来たポルトガルやイスパニアに日本侵略の意思があった記録はいくつか読んだことがあるが、なぜ日本はその時に西洋諸国の侵略を免れることが出来たのか。単純に海があったからというのでは、フィリピンが同様の時期にスペインに征服されたのをどう説明すれば良いのだろうか。
また、西洋諸国が植民地を拡大している時代に、鉄砲を捨てたような国は日本の他に存在するのだろうか。
もし日本が鉄砲を捨てていなければ、江戸時代から明治にかけての日本の歴史は随分異なったものになっていたはずである。
鹿児島県の黎明館という施設で常設展示されている薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚の「南浦文集」の中に、慶長11年(1606)に書いた「鐡炮記(てっぽうき)」という記録があり、そこに鉄砲の伝来の経緯から国内に鉄砲が伝わる経緯が書かれている。
その記録によると、
天文12年(1543)8月25日、種子島の西村の浦に大きな外国船が漂着し、その中に漢字を理解できる五峯(ごほう)という人物がいたので筆談をし、その船に乗っていた商人から鉄砲と言う火器を、領主の種子島時尭(ときたか)が二挺購入した。
下の画像は種子島にある時尭の銅像である。
種子島時尭は家臣に命じて、外国人から火薬調合の方法を学びまた銃筒を模造させたのだが、銃尾がネジのついた鉄栓で塞がれていてその作り方がわからなかった。
そこで、翌年来航した外国人から八板金兵衛がその製法を学び、ようやく鉄砲の模造品が完成し、伝来から一年後に数十挺の鉄砲を製造することが出来たという。
その後、種子島を訪れた紀州根来の杉坊(すぎのぼう)や堺の商人橘屋又三郎が鉄砲と製造法を習得して持ち帰り、近畿を中心に鉄砲の製造が始まったそうだ。
最初に種子島に漂着した船にいた「五峯」とは、肥前の五島を根拠地に倭寇の頭目として活躍した海賊の王直の号であり、王直は中国安徽省出身であったこともわかっているそうだ。王直はその後、鉄砲に不可欠な火薬の燃料である硝石を中国やタイから日本にもたらして、交易で巨利を得たという。
鉄砲の製造と使用は急速に広まり、1570年に織田信長と戦った石山本願寺の軍は8000挺の銃を用いたといい、1575年の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍は1,000挺ずつ三隊に分かれて、一斉射撃を行って武田の騎馬隊を打ち破ったことは有名な話である。
米国のダートマス大学教授ノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」(中公文庫)という本にはこう書いてある。
「…アラビア人、インド人、中国人いずれも鉄砲の使用では日本人よりずっと先んじたのであるが、ひとり日本人だけが鉄砲の大量生産に成功した。そればかりか、みごと自家薬籠中の武器としたのである。」(p35)
「…今日もそうだが、日本は当時も優れた工業国であった。…日本で、もっとも大量に製造されていた物がなにかというと、それは武器であって、二百年ぐらいは世界有数の武器輸出国であった。日本製の武器は東アジア一帯で使われていた。」(p38-39)
「少なくとも鉄砲の絶対数では、十六世紀末の日本は、まちがいなく世界のどの国よりも大量にもっていた。」(p63)
「たとえばイギリス軍全体をとってみても、その鉄砲所有数は、日本のトップの大名六名のうちどの大名の軍隊と比べても少なかった。…1569年イギリス枢密院がフランス侵攻の際に動員できるイギリス全体の兵隊と武器の数を決定すべく総点検を行った時のことだ、…フランス大使はスパイを通じてその情報をつかみ、「機密にされている兵隊の集計値」は二万四千、そのうち約六千の者が銃を所持している、とパリに報告した。」(p160-161)
「1584年、…戦国大名の竜造寺隆信が島原方面で有馬晴信・島津家久と対戦したが、率いていた軍勢は二万五千、そのうち九千が鉄砲隊であった。…」(p162)
すなわちイギリス国全体の軍隊の銃の数よりも肥前国の竜造寺氏の銃の数の方が五割も多かったのだ。しかも日本は独自の工夫により銃の性能を高め、「螺旋状の主動バネと引金調整装置を発達させ」「雨中でも火縄銃を撃てる雨よけ付属装置を考案し」、当時のヨーロッパにおける戦闘と比較して、「武器においては日本人の方が実質的に先行していたのではなかろうか」とまで書いてある。
鉄砲だけではない。刀も鎧も日本の物の方が優れており、ヨーロッパ製の剣などは日本刀で簡単に真っ二つに切り裂かれるということが正しいかどうかを実験した人がいるそうだ。 「今世紀(20世紀)の武器収集家ジョージ・キャメロン・ストーンが、16世紀の日本刀によって近代ヨーロッパの剣を真二つに切る実験に立ち会ったのがそれだし、また15世紀の名工兼元(2代目)の作になる日本刀によって機関銃の銃身が真二つに切り裂かれるのを映したフィルムが日本にある。」(p41)
この本を読むと、日本が西洋の植民地にならなかった理由が見えてくる。
前々回の記事でこの当時日本に滞在したイエズス会の宣教師が日本を絶賛した記録が残っていることを書いたが、この本にも当時に日本に派遣された外国人が、日本の方が先進国であると書いている記録が紹介されている。
「十六世紀後期に日本に滞在していた…宣教師オルガンティノ・グネッチは、宗教を措けば日本の文化水準は全体として故国イタリアの文化より高い、と思ったほどである。当時のイタリアは、もちろんルネッサンスの絶頂期にあった。前フィリピン総督のスペイン人ドン・ロドリゴ・ビベロが1610年、上総に漂着した際にも、ビベロの日本についての印象は、グネッチと同様の結論であった。…」(p45)
と、著者が根拠とした文献とその何ページにそのことが記載されているかについて詳細な注が付されている。
この本の巻末には、著者の注だけで24ページ、参考文献のリストに11ページも存在し、ノエル・ペリンだけが特異な意見を述べているのでないことがわかる。世界にはこの時期の日本の事が書かれた書物が色々あるようなのだが、参考文献のほとんどが邦訳されていないのが残念だ。
この本を読んでいくと、この時代において鉄砲でも刀でも文化でも日本に勝てなかった西洋諸国に、日本を征服できることは考えられなかったことが見えてきて、日本人なら少しは元気になれるというものだろう。
しかしこの本のような記述は、私が学生時代以降に学んできた歴史の印象と随分異なる。戦後日本の歴史教育は、日本の伝統技術や文化水準に正当な評価を与えているのであろうか。この本のように当時の日本のことを丁寧に調べた書物ですら、我が国であまり注目されていないのは随分おかしなことだと思う。
私は、戦後の長い間にわたって、自虐史観に合わない論文や書物が軽視され続けてきたという印象をもつのだが、ペリン氏がこの著書で参考文献に挙げた海外の書物が邦訳されるのはいつのことなのだろうか。
<つづく>
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
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