特高警察の「拷問」とはどの程度のものであったのか
この本を読むまでは「特高(特別高等警察)」という存在は悪いイメージしかもっていなかったのだが、その理由はおそらく、マスコミなどで「日本軍」がロクな書かれ方がされないのと同様に、「特高」も長いあいだ意図的に貶められていた点にあるのではないか。
よくよく考えると、戦後のマスコミや教育界・出版界・学会を長らく支配してきた左翼系の人々が、天敵であった特高を悪しざまに言うのは当然のことだと思うのだ。
もちろん、特高出身者の宮下氏が語る言葉が、実際にあったことを控えめに述べている可能性は否定できないのだが、宮下氏は高等小学校後職工生活を経て20歳の時に警察練習所を経て巡査となり、26歳で巡査部長、29歳で警部補に昇進し特高に抜擢された苦労人である。また戦後の特高は解散されて公職追放で職を追われ、悲惨な生活の中で栄養失調で歯がガタガタになってやせこけたという宮下氏に、前の職場を美化する動機が強いとは考えにくいのだ。
宮下氏は、特高のいい面も悪い面もかなり正直に述べていると私は判断しているのだが、特高の取調べの際の暴力がどのようなものであったのか、宮下氏自身が語っている部分を紹介することから始めたい。
「特高警察を特殊視して、そこで暴力・拷問といった固定観念がつくられてしまっている。しかし特高警察と一般の警察がまるでちがったものに考えられているのは誤解です。
司法警察官として検事の命を受けることも、普通の刑事犯を扱う司法警察官と変わりありません。刑事訴訟法のたてまえからいうと、検事が捜査し、司法警察官がそれを補助するということですから、検事が中心です。じっさいに検事が捜査を指揮するわけではないのですが、法のたてまえはそういうことです。警視庁特高であるわたしたちの場合は、東京地検の思想部検事の補助をする。
…
取調べのさいの暴力ですが、ぶんなぐるというようなことがなかったかというと、それはずいぶんあったかもしれない。それはいろんなものが重なり合って、警察にはそういう習慣があるんです。刑事部屋というのはずっとつづいていますから、それに体罰をくわえるというのは、当時は親でも学校の教師でも、かんたんにやった。わたしなんかも巡査時代、同僚に殴られたりしたことがある。軍隊経験者も多いし、挑発されるとつい手がでる。そういう意味では暴力は警察のなかでは日常化しているということはありました。…」(宮下弘『特高の回想』p.123-124)
と、宮下氏は暴力行為があったことは否定しないが、当時は体罰を加えることは、親でも学校の教師でもよくあったことだし、宮下氏が特高に抜擢される前の警察勤務時代においてもある程度の暴力はあり、同僚から殴られたこともあると書いておられる。では特高は一般の警察と較べて、暴力を用いることが多かったのか、少なかったのか。
「そりゃあ刑事の対象は罪のおそれで比較的おとなしく卑屈にもなるが、特高はこれを敵と見て反抗する相手に立ち向かうのだから、一般の警察的な暴力にまた加わるのですよ。これは共産主義者が非合法運動をやっているのですから。
… わたしは特高になったとき、最初に先輩に訊いたことがある。いったい、こんなに乱暴に扱っていいのか、とね。そうしたら、なにを言ってるんだ、なんならむこうに訊いてみろ、と話にならない。共産主義の側からいえば、おれたちは革命をやるんだ、お前たちと戦争しているんだ、立場が逆になれば、おれたちがおまえたちを取締る、ということでしょう。まかりまちがえばあなたたちを殺しますよ、というわけです。あたりまえの話なんで、不法だなんだというようなことは言わぬのだ、と。そういうような状態のなかに、取調べる側も取調べられる側もあるので、いまの人たちが考えるように、そうおかしくはないんです。」(同上書 P.125)
なるほど、革命を夢見ている共産主義者からすれば、特高は憎むべき敵であり、特高の取調べは国家権力との戦いであり、その戦いに勝つことが正しいことなのである。したがって、逮捕されたところで罪の意識は殆んどないのだ。そういうメンバーを自白させるのには、一般の警察の場合よりもかなり大きなエネルギーを必要としたことは間違いがないだろう。
多くの日本人は、「特高」といえば「拷問」をしたと考えてしまうところなのだが、そのイメージはプロレタリア作家の作品などで拷問の場面が何度も描かれたことから作り上げられた側面もあると思われる。
宮下氏は、
「知識人や作家が書くものには誇張もあるだろうし、自分を美化するところもあるだろうし、戦後自分は軍と協力した、というひとは一人もいなかったように、書かれるのは特高にひどい目にあわされたという話ばかりですから。」(同上書 P.126)
と述べて、実際には嘘話が平気で書かれている書物がある事を具体例を挙げて説明しておられるのだが、その点は省略する。
プロレタリア作家からすれば、国家権力に雄々しく立ち向かう主人公を描くためには、特高の取調べが余程厳しく描かなければ物語が成立しないだろうし、嘘をもっともらしく広めて国家権力を貶めることも権力闘争の一手段であると彼らが考えていた可能性もあると思う。
とは言いながら、特高の取調べの最中に死亡した人物がいることもまた事実である。このことをどう解釈すれば良いのだろう。
『日本資本主義発達史』を著した野呂栄太郎が昭和9年2月に品川警察署から北品川病院に移送された後に死亡しているが、このケースでは、もともと肺結核で療養中のところを検挙され、取調べ中に持病が悪化したために死亡した可能性も考えておく必要がある。
しかし『蟹工船』を著した小林多喜二が昭和8年(1933)2月20日に特高での取調べ中に死亡した件については、写真も残されており拷問があった可能性を感じさせる。
この小林多喜二の件については宮下氏の言葉の歯切れは良くないのだ。
「拷問で殺したとはおもっていませんよ。殺したというんじゃない。死なせたわけですわね。むろんそれはまずいことですよ。死なせてしまったんですから。いいことをしたというようなことはぜんぜんない、まずいことです。大失敗です。しかし、部内で責任がどうこうということはなかった。誰が責任を取る、追及されるという事柄ではなかった。」(同上書 P.126)
ところがプロレタリア作家の江口換は、赤坂福吉町で小林多喜二とともに捕らわれて、膀胱結核で保釈となった今村恒夫を病院に訪ねて、今村から多喜二のことを聞いたとして
「須田と山口は、にぎりぶとのステッキと木刀をふりかざしていきなり小林多喜二に打ってかかる。築地署の水谷警部補と芦田、小沢のふたりの特高も横から手伝う。たちまち、ぶんなぐる。蹴倒す。ふんずける。頭といわず肩といわず、脛でも腕でも背中でもところかまわずぶちのめす」
とひどい拷問が行なわれたことを書いているという。これは取調べというよりもリンチというべきだが、本当に特高はここまでやったのだろうか。
http://blog.goo.ne.jp/takiji_2008/e/669e9970e90e6d399fb57fdd8d50a4a7
次のURLに小林多喜二の遺体の写真があるが、両足が内出血で黒ずんでしまっており正視できるものではない。
http://urano.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-774d.html
しかしこのような拷問がもし日常的に行われていたとしたら、報復で特高警部が襲われたり、自宅が襲撃されるようなことがあってもおかしくないと思うのだが、そのようなことはなかったという。宮下氏はこう述べている。
「ありませんね。わたしはいまの暴力の問題もふくめて、そんなに憎まれるような調べをやったことがありませんから。まえにも言ったが、いま住んでいるわたしの家は戦後建てたんですが、あれはわたしが取調べた共青*の中央組織部長がつくってくれたんですよ。加藤工務店という工務店をやっていましてね。」(同上書 p.127)
(*共青:日本共産青年同盟の略。現在の日本民主青年同盟の前身。)
特高には宮下氏のように、後に取り調べを受けた者から感謝された人物もいたのである。取調べられる方も、自白するかどうかは相手の人柄と力量に左右される部分が大きいのだと思う。
とは言いながら、昭和3年から4年の頃には「取調べる方がなんにもわからないんだから、ひっぱたくしかしょうがない。特高にひっぱられたら拷問というのは、そのころの話がいつまでも伝わっているんじゃないかな。もっとも、その後でも、そういうやり方の人間がいたことは否定しませんが。」(同上書 p.128)とも述べている。
さらに、宮下氏は取調べには拷問は必要ないとはっきり述べている。
「とにかく調べというのは、意志と意志の戦いですよ。調べるほうの意志が相手を打ち負かすか、相手の方が優位に立つかで、相手が優位に立てば取調べなんかにならないでしょう。だからぶんなぐるというのも、相手の意志を挫き、弱くする方法であるが、調べる側がじゅうぶんな知識をもってのぞめば、拷問というような手段は必要ないんです。
…
取調べる側からいえば、取調主任の能力が問題ですね。調べられる側の話しやすい人間というか、話してくることをピンと受けるとる感度を持っている人間というか、ですね。それからツボを衝かなければ訊きだすものも訊き出せない。自分でもスリができるくらいでないと有能なスリ係の刑事にはなれないと警察ではよく言いましたよ。バクチの調べでもそうです、自分がぜんぜんバクチできなくては取調べはできない。
われわれでいえば、革命運動をやろうとする心理、それが逮捕されたときの心理、そういうものを知っていて、それから言葉づかいでも彼らと同じ用語を使う。仲間としゃべっているような気分にさせてしまうくらいにね。(笑)
留置場に長いあいだ放り込まれていると、しゃべりたくなるのが人情なので、そのあたりをみはからって取調べに呼び出し、ツボをはずさなければ、たいていはしゃべります。それでもしゃべらないというのは、まず、いません。」(同上書p.128-129)
教育は教師と生徒との魂のぶつかり合いだという話を聞いたことがあるが、特高の取調べも同様であろう。相手から自白を引き出す仕事はリンチのような拷問行為は必要がないという宮下氏の話にはかなり説得力がある。
小林多喜二が死んだ年である昭和8年(1933)の12月23日に、当時の日本共産党中央委員であった大泉兼蔵と小畑達夫の二人が、渋谷区内のアジトで仲間に針金等で手足を縛られ、目隠しとさるぐつわをされて暴行されために、小畑が24日に外傷性ショックにより死亡した「日本共産党スパイ査問事件」という事件があった。
二人に暴行を加えた人物の供述によると「最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた。その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、濃硫酸をかけるなどの凄惨な拷問を加えた。最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加えた。そして大泉を引き出して小畑同様のリンチを加えた。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは死亡したものと早合点しそのまま引き上げた。大泉はまもなく蘇生した。この頃小畑が死亡する。裁判では小畑の死因は外傷性ショックであるとされた」というもので、小林多喜二の場合の場合よりさらに残酷なやり方で小畑は命を奪われていることになる。二人が仲間から暴行された理由は、特高のスパイ行為を働いたというものであった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E6%9F%BB%E5%95%8F%E4%BA%8B%E4%BB%B6#cite_ref-4
このリンチを行なった中心人物は、後に日本共産党委員長となった宮本顕治である。 宮本はこのリンチ事件の2日後で捕えられたが、なぜ宮本の場合は小林多喜二のようにならなくて済んだのか。
そもそも地下活動に入っていた小林多喜二が、仲間と待ち合わせしていた場所になぜ特高警察が待ち伏せしていたのか。いったい誰が多喜二の待ち合わせ場所を特高に洩らしたのか。特高が多喜二を拷問にかけて死に追いやったのがプロレタリア作家・江口換の記述の通りなら、仲間や家族が国を相手に訴えなかったのはなぜなのか。
私には、この事件にはもっとドロドロとした背景があるような気がしてならない。
ネットでは宮本顕治が怪しいと考えている人もいるようだが、なかなか興味のある視点である。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/nihon/senzennikkyoshico/hosoku_mifuneco.htm
今まで小林多喜二が特高による拷問で死んだ話は何度も聞かされてきたのだが、その前に日本共産党員が昭和5年「川崎武装メーデー事件」で拳銃を発砲し警官やメーデー実行委員を負傷させた事件があった。昭和7年にはスパイ容疑で仲間を射殺する事件があり、10月には拳銃と実弾購入資金を得るために銀行を強盗した「赤色ギャング事件」が起こっている。
そして昭和8年2月に小林多喜二事件があり、12月に「日本共産党スパイ査問事件」があった。
このような事件が当時の日本共産党で相次いだことを知ったのは比較的最近のことなのだが、このような一連の事件を伝えずに小林多喜二の特高の拷問で死んだことばかりが強調されるのが公平な歴史叙述の姿勢であるとは思えないのだ。
我々は、教科書や新聞などを読み、テレビや映画などを見ているうちに、いつの間にか「共産主義者やコミンテルンにとって都合の良い歴史」に洗脳されてしまっているのではないだろうか。
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