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    中国通史で辿る名言・故事探訪

      前漢末の大儒・揚雄

                  前漢    

      揚雄、字は子雲。成都の出。生没年は、前53~後18。

      ※ 成都は中国南西部の歴史ある都市。現 四川省。

      幼児より学を好み博学の徒となるが、生来 吃音があり弁舌を揮う

     代わりに文章で以って名声を博す。

      四十歳を過ぎて上京し、司馬王音に文才を見出され、成帝に仕えて

     黄門侍郎(皇帝に近侍する官職)に任ぜられる。

      屈原や司馬相如の詩賦に傾倒し、「甘泉賦」や「長揚賦」を作り詩賦の

     名手と謳われるようになった。

      だがやがて、「文芸は男子一生の業と為すに足りず」として詩賦の道を

     捨て、学問著述に方向転換した。

      揚雄の学問は孔子的倫理観と老子的宇宙観を融合するものであり、

     正しい聖賢の道を提唱し、また「論衡」を著した王充の如く、漢代に流行

     した災害異変や迷信の類を強く否定した。


         大器は規矩準縄の如きものなり、

         先ず自ら治めて、後に人を治めるのを大器という。


      大器とは大人物、聖賢の道に通ずる人をいう。規矩準縄とは物事の

     基準や標準になるもののことである。

      同様に自らをよく治め得る者が始めて人も治められる者であり、これこそ

     が大器といえる。

      春秋の昔 孔子は斉の管仲を評して、

    「管仲の器 小なる哉」と言ったことがある。

      それから幾星霜、或る人が揚雄に問うた、

      「斉は管仲を得て覇業を為したのに、

    孔子は彼を小器だという。

      果たして、大器とは如何なるものか」と。

      上の言葉が、或る人の問いに対する揚雄の応えである。

      揚雄の「揚氏法言」は、「論語」に倣って書かれたものであるが、学問、

     政治や人生などについて問答形式をとり、聖人を尊び王道を説く。

      揚雄は晩年には、前漢王朝を簒奪した「新」の王莽に仕える。

      

    テーマ : 中国古典・名言
    ジャンル : 学問・文化・芸術

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    中国通史で辿る名言・故事探訪

         成帝と蠱惑的悪女趙姉妹

              漢代

      漢の成帝 (11代 劉驁ーりゅうごう)の晩年、成帝はある日 お忍びで

     陽阿の公主(皇帝の妹)邸を訪れ遊興に耽った。

      其の宴席で、美しい舞姫の姉妹が舞った。その踊りはまるで燕の如く

     身軽で巧みでもあった。

      姉妹は成帝に召され、寵愛を受けるようになった。

      姉は趙飛燕と呼ばれるようになり、妹と共に宮中に召し出され、

     「婕妤(しょうよ)」という後宮の女官位が授けられた。

      ※ 前漢の後宮官位は、婕妤以下十八種類あった。

      姉妹は貧しい庶民・趙臨の娘で、飛燕が生まれた時 両親は貧しさの

     に故に取りあげようとしなかったが、三日間放置しても死ななかったので、

     やむを得ず育てたと謂われる。

      宮中に入った趙姉妹は成帝の寵愛を受ける身となり、彼女らの父親も

     成陽侯に取り立てられた。

      その内 姉の飛燕は皇后(前18年)に立てられ、妹は昭儀の位が授け

     られた。

      ところが飛燕が皇后に取り立てられてから、成帝の愛は妹の趙昭儀

     に移ってしまった。

      皇帝の愛を独占するようになった趙昭儀は、豪華な御殿で贅沢の限り

     をしたが、子には恵まれなかった。

      また姉の飛燕も子には恵まれなかった。

      その内 成帝の許美人が身籠り出産したことを聞き知った趙昭儀は、

     嫉妬の炎を燃え上がらせた。

      すさまじい勢いで成帝に詰め寄り、故意に自らの体を痛めたり、爾来

     食を断ったりして、遂には暇乞いを奏上した。

      それに対して成帝は、自分も食を断ち釈明しようとしたが、昭儀は聞く

     耳を持たず、なおも執拗に責め続けた。

      さすがに成帝も持て余して、遂に昭儀に約束した。

      「今後 許美人を立てる(皇后に)ことは無い。

      世の中で趙氏の上に出る者はいないから安心せよ」、と。

      そして許美人に対して、詔を下し生ま℉れて来た我が子を殺させた。

      また皇后となった趙飛燕付きの史官であった曹宮という娘も成帝の子

     を産んでいたが、これも昭儀にばれて殺されてしまった。 

      成帝の側近で、

      「陛下には後継ぎがいないので、母親の身分にかかわりなくご配慮を

     願います」と進言する者もいたが、聞き入れず子供は生まれてすぐに

     連れ去られて始末されてしまった。

      更に昭儀は、曹宮に薬を与えて死を迫り、曹宮は無念の涙を呑んで毒を

     仰いで死んでしまった。

      この後も成帝には何人かの子をなしたが、いずれも昭儀の魔手が伸び、

     殺されてしまい、結局 皇帝の跡継ぎは途絶えてしまった。

                     劉向 「列女伝 孼嬖(げつへい)伝」

        趙飛燕は成帝の崩御後、成帝皇后の身分から庶人に

         落とされたが、自ら命を絶った。



     

      
     

      

    テーマ : 歴史的な出来事
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    中国通史で辿る名言・故事探訪

           循吏・龔遂

                  漢代


      武帝(7代)の時代には、法を過酷に適用する役人が幅を利かせていた。

      巷間 彼らのことを[酷吏]と言った。

      時代は遷って武帝の孫にあたる宣帝の時代には,法の精神を生かし

     融通を利かせた民の救済愛護を目指そうとした。

      即ち酷吏を廃した循吏の重用である。

       ※ 「史記」の太史公自序に、

         循吏とは法を奉じ理に循(したが)うの吏、

         功を伐(ほこ)り能を矜(ほこ)らず、百姓(多くの人民ら)称す

        ること無きも、亦た過行(過ちのこと)無し、と。

      そのような循吏の代表的人物が龔遂(きょうすい)である。

         「乱民を治むるは、乱縄を治るが

        如し、急にすべからざるなり。」


       反乱を、則ち一旦失われた社会の秩序を取り戻すのは、もつれた縄

     を解きほぐすようなもので、急いでやるべきではない。

      渤海郡は度々の飢饉に見舞われて、尚かつ野盗が出没し治安が悪く

     なった。

      宣帝は龔遂を渤海郡の太守に抜擢し、彼を引見して下問した。

      「如何様に野盗を取り締まるか」と。

      龔遂は、

      「渤海郡は北方の僻地で、陛下の威徳を受けていない所です。

      人民が飢えと寒さに苦しんでも、役人は暖かい手を差し伸べようとせず、

     為に人民を野盗化させたのです。

      つまりは陛下の赤子(せきし。人民)が武器という玩具を持ち出して、

     水溜まり(渤海)で悪さをしているようなものです。

      陛下は臣をして、これに勝たしめんと望まれますか、

      それとも之を安定させることを望まれますか」、と。

      宣帝、「もちろん、安定にある」、と。

      龔遂、

      「ではお願いがございます。

      乱民を治むるは、乱縄を治るが如し。急にすべからざるなり。

      そのためには、法で拘束されるのではなく、私の一存で執り図ることを、

     特にお許し願いたいのです」、と懇願した。

      宣帝は彼の申し出を許した。


                  「漢書・循吏 龔遂伝」、「十八史略 西漢」




      
      

    テーマ : 中国古典・名言
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    中国通史で辿る名言・故事探訪

         「造次顛沛」

             
               春秋時代

      「造次顛沛(ぞうじてんぱい)」とは、一瞬たりとも怠りなく務める

     ことをいう。

      ※ 「造次」とは、慌ただしく僅かな間。ごく短い時間。

         「造」はにわか、「次」はついでの意。

         「顛(顚)沛」とは、つまずいて転倒すること。

         転じて、咄嗟の場合。

         「顛」も「沛」も倒れるの意。慌ただしい時の意。

         
         「論語 里仁篇」

         君子の仁

     子曰く

     冨と貴とは是 人の欲する所なり。その道を以ってせずして之を得れば

     処(お)らざるなり。

     貧と賤とは是 人の悪(に)くむと所なり。その道を以ってせずして之を

     得れば去らざるなり。

     君子 仁を去らば悪(いずく)にか名を成さん。

     君子は終食の間も仁に違(たが)うことなし。

     造次にも必ず是(ここ)に於いてし、顛沛にも必ず是に於いてす。


       

        
      

    テーマ : 四書五経
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    中国通史で辿る名言・故事探訪

         李陵と上官傑

                 漢代

      紀元前八十七年、武帝崩じて太子・弗陵が八歳で即位した。
     
      これが第8代・昭帝である。補佐は大司馬・霍光が任じた。

      霍光は、対匈奴戦に於いて赫々たる武勲を挙げた霍去病の弟で

     ある。

      少帝の即位後、霍光、上官傑は、匈奴の地に抑留されている李陵を

     帰国させるべく使者を匈奴の地に派遣した。

      李陵の旧友である任(にん)立政ら三人が使節に選らばれた。

      匈奴の地に至った彼らは、単于(匈奴の頭目)から酒を賜り歓談した。

      その席には李陵も衛律も同席したが、未だ私語を交わすことは出来

     なかった。

       「刀環」

      刀環とは、故郷に帰ることの意。

      古代中国の刀の頭には、紐を通す環があり、この頭を撫でることに

     よって、「環=帰国」と判させ、帰国を促す手段とした故事。

      そこで任立政は目で李陵を見ては、しばしば自らの刀環を撫で、自ら

     の足を握った。

      秘かに身振りで、与に漢に帰るべきことを教えようとしたのである。

      だが李陵は、再び漢の地を踏むことなく匈奴の地に没した。

      「上官傑の謀反」

      霍光の娘が左将軍上官傑の息子に嫁いでおり、彼らの間に出来た

     子(娘)の後宮入りに霍光が反対したことから、霍光と上官傑の間で

     確執が生じ、凄まじい権力闘争が生じた。

      上官傑は燕王・丹を抱き込み、更に昭帝と燕王丹の姉である蓋長公主

     と御史大夫の桑弘洋がこれに加わった。

      蓋長公主は、上官傑が彼女の意を受けて愛人を侯の位に付けるよう

     に進言したところ、霍光に反対され恨みを抱いていた。

      桑弘洋は予てから政策面で霍光と反目していたが、桑弘洋が子弟の

     為に官職を求めようとして、霍光に阻止されて怨んでいたのである。

    彼らは陰謀を巡らし、霍光失脚を狙って彼の休暇日を選び、霍光謀反

     の心有りとし、ある男を燕王丹の使者として上書を携行させ提出した。

      ところが昭王はそれを朝議にかけず握りつぶしてしまった。

      翌日 霍光は己が弾劾されていることを聞き及び、参内して控室に

     留まっていた。

      そしてお召しにより拝謁するや、冠を脱ぎ平伏して謝罪した。

      昭帝は弾劾の上奏文に疑問を抱き、霍光の謀反心とされる諸点に

     ついて、その矛盾を突き今更 霍光が謀反を起こす必要も理由もない、

     と判断し、一層の信頼を寄せるようになった。

      果たして上書をもたらした男は遁走し、昭帝は男の行方を厳重に追及

     させたので、上官傑らは拙いことになると思い、それを中止に持ち込もう

     と昭帝に言上したが、昭帝は追及の手を緩めなかった。

      しばらくして上官傑らは再度 霍光を讒言したが、昭帝は怒りの色を

     隠さず、

      「大将軍は忠義の臣である。先帝から吾が身の補佐の為に付けられた

     人物である。

      謂われなく讒言する者有らば、許さぬ」、と激怒した。

      万策尽きた上官傑の一味は、最後の手段に出ようとしたが、偶然その

     計画が外部に漏れ、或る者が昭帝に訴えたので、昭帝は上官傑親子、

     桑弘洋とその一族を含む者を皆殺しにした。

      蓋長公主と燕王丹はそれぞれ自殺してしまった。

      かくして霍光は反対勢力を一掃し、権力を一手に握るようになった。

      聡明な昭帝とはいえ、まだ十四歳の少年であり、霍氏一族が次々と

     取り立てられ、特に軍事部門では霍氏の独占となった。

                        「十八史略 西漢」


     

      、

    テーマ : 歴史的な出来事
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     河野長生   tyouseimaru

    Author: 河野長生 tyouseimaru
    出身地は四国八十八か所参りの発心の阿波、大阪を終の住処とする。
    歴史好きで、城郭・神社仏閣・歴史遺跡巡りが趣味となる。
    特に中国の中世、古代史にはとりわけ興趣が強い。

    自薦
    自著「中国通史で辿る名言・故事探訪」は、上・中・下の3巻あり、 余りにも大部な書となってしまった。 そこで内容を圧縮して「ブログ」として、活路を見出した。 それで、かなり減量したものとなった。 今後はさらに読みやすいブログを目指して、工夫を加えるなどして、 補記訂正してゆきたいと思っています。       
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