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種子島に鉄砲が伝来した記録を読む

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Category大航海時代の西洋と日本
薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長11年(1606年)に著した『鐡炮記(てっぽうき)』という書物に、種子島に鉄砲が伝来した経緯から国内に鉄砲が伝わる経緯が記されている。

この『鐡炮記』は、原文と現代語訳が電子書籍化(Kindle版 )されているので、誰でも容易に入手することが出来る。


天文十二年(1543年)八月二十五日に種子島に中国船が漂着し、その中にポルトガルの商人が乗っていて鉄砲などの商品を積んでいたのであるが、言葉が分からないのにどうやって意思疎通ができたのかと誰でも疑問に思うところである。

鉄炮記』には、種子島に鉄砲が伝来した経緯についてこう記されている。

「…我が西の村小浦に一大船有り。何れの国より来れるかを知らず。 船客百人、其の形、類せず。其の語 通ぜず。見る者以て奇怪と為す。其の中に大明の 儒生一人、五峯(ごほう)と名づくる者あり。今、其の姓字を詳にせず。時に西の村の主宰織部丞(おりべのじょう)なる者あり。頗る文字を解す。偶々五峯に遇ひ、杖を以て沙上に書して云ふ。『船中の客、何れの国の人なるやを知らず。何ぞ其の形の異なるや』と。五峯、即ち書して云ふ。『 此れは是れ西南蛮種(せいなんばんしゅ)の賈胡(ここ:商人)なり。粗々君臣の儀を知ると雖も、未だ礼貌(れいぼう)の其の中に在るを知らず。是の故に其の飲むや、抔飲して盃せず。 其の食うや、手食して箸せず。徒々嗜欲(しよく)の其の情にあきたるを知りて、文字の其の理を通ずるを知らざるなり。所謂、賈胡一処に到りて輒(すなわ)ち止まるといふは、此れ其の種なり。其の有る所を以て其の無き所に易ふるのみ。怪しむべき者に非ず」と。」(Kindle版『鉄砲記』〈現代語訳付き〉No.21/241)

漂着した船はポルトガルの船ではなく中国船で、「五峯」というのは倭寇の頭目であった王直の号である。西之村の地頭であった西村織部丞は漢字の読み書きができたので、砂浜に字を書いて五峯と筆談をすることによってなんとか意思疎通が出来たという。
王直は、我々は貿易商人であり怪しいものではないと織部丞に伝え、船に積んであるものを商いする意思があることを伝えたのである。

鉄砲伝来紀功碑
鉄砲伝来紀功碑】

種子島南端にある門倉崎に『鉄砲伝来紀功碑』がある。

鉄砲伝来でポルトガル人が上陸した付近
【門倉崎よりポルトガル人上陸地点方向を臨む】

実際に中国船が漂着した場所は、門倉崎よりも少し北の東側の浜だという。上陸地点には『鉄砲伝来葡国人上陸地』の石碑が建っているという。

鉄砲伝来の話に戻そう。西村織部丞は、種子島を治めていた種子島家の居城である赤尾木城に、異国の産物を載せた船が西の村に漂着したこと、今の場所から波の立たない大きな港に移す必要がある事、彼らは商人であり我々と商いすることを求めていることを当主の種子島時尭(ときたか)に報告したのである。



赤尾木城は現在の西之表市にあり、門倉崎から50kmほど北に離れている。どうやって異国船を動かし、どこの港に移したかについて『鉄炮記』には「時尭即ち扁艇数十をして之を 拏いて、二十七日己亥、船を赤尾木の津に入れしむ。」(同上書 No.39/241)と記されている。

西之表港
【西之表港】

「赤尾木の津」というのは現在の西之表港のことで、種子島時尭は船数十艘で異国船を曳航させ、西之村で西村織部丞が発見してからわずか2日で赤尾木城の近くの港に入港させているのである。西村織部丞は早馬を飛ばして時尭に急報していなければ、こんなに早く大船を赤尾木の港に入港させることは不可能である。

異国の商人にはリーダーが二人いて、時尭が見たこともない長い物を携えていた。何に使う物かを訊ねると、小さな鉛の弾と火薬を入れ、撃ち放つと稲妻のような光が走り雷のような音がして、岩の上に置いた杯に命中した。時尭は今まで見たこともないこの武器に強い興味を覚え、使い方を学びたいと申し出たのである。『鉄炮記』には、この武器を最初に「鉄砲」と呼んだのが誰なのか、明人なのか島の者なのかは分からないと書いてある。

種子島時尭像
種子島時尭公像】

そして良い日を選んでいよいよ鉄砲の試し打ちをすることとなった。選んだ日は九月九日の重陽の節句の日である。百歩の距離のところに的を置いて引き金を引くと、ほとんど的のすぐ近くに当たったという。

時尭、其の価の高くして及び難きを言はずして、而ち蛮種の二鉄砲を求めて、以て家珍と 為す。其の妙薬の擣篩和合の法は、小臣篠河小四郎をして之を学ばしむ。時尭、朝に磨し夕に淬し、勤めて 已まず。向の殆ど庶幾きもの、是に於てか百発百中、一も失するもの無し。」
(同上書 p.76/241)

鉄炮は非常に高価なものであったが、時尭はすぐに二挺を買い求めて家宝とし、火薬の調合方法については家臣の篠河小四郎に学ばせ、時尭は朝夕練習をし手入れをしていた。そしてついに、的に百発百中するほどの腕前になったという。

その頃、紀州の根来寺の杉の坊某が鉄砲の噂をきいてわざわざ種子島までそれを求めにやって来た。時尭はその熱心さに感心して一挺を譲ることとし、火薬の調合の仕方や発火の方法についても家臣に指導させている。
その後時尭は鉄砲がこの島で作れないものかと考えて、鉄匠数人に残った一挺の複製を命じたのである。しかしどうしても作り方が分からない部品が存在した。それが、銃身を塞ぐネジだったのである。

運の良いことに、翌年(1544年)に南蛮人の商人が再び種子島の熊野の浦に来航して、その商人の中にネジの作り方を知る者がいたという。時尭は金兵衛清定という者にその作り方を学ばせ、金兵衛は「時月を経て」その製法を収得し、「是に於て歳余にして新たに数十の鉄砲を製す。」と記されている
「時月」の言葉の意味は、「時」は3ヶ月、「月」は1ヶ月という意味もあるが、「わずかの月日で」という意味もある。種子島で最初の鉄砲が作られたのは、ネジの製造に最初に成功した時期と考えられるが、熊野浦にネジの作り方を知る南蛮人の商人が来訪した日が不明なため、『鉄炮記』だけでは鉄砲が完成した日付についてはよくわからない。しかしながら、鉄砲伝来からおおよそ1年後に鉄砲の製造に成功し、その1年後には大量生産にも成功したと理解して良いだろう。

また『鉄炮記』には、堺の商人が種子島に来たことが書かれている。
「其の後、和泉の堺に橘屋又三郎といふ者あり。商客の徒なり。我が島に寓止するもの一・二年にして、鉄砲を学ぶもの殆ど熟せり。帰郷の後、人皆名いはずして、呼んで鉄砲又と日ふ。然る後、畿内の近邦皆伝へて之を習ふ。 翅に、畿内、関西の得て之を学ぶのみに非ず。関東も亦然り。」(同上書 p.100/241)
橘屋又三郎は種子島に一両年滞在して、金兵衛清定から鉄砲の製法技術を学び、堺に帰ってその製法を伝え、それ以降畿内各地で製造が開始され、鉄砲は全国に広まっていったという。

ところで、先に根来寺の杉ノ坊が持ち帰った鉄砲はどうなったのだろうか。杉ノ坊はネジの作り方を知らないまま根来に持ち帰ったのだが、和歌山県のホームページの津田監物算長(杉ノ坊算長)の解説記事によると、紀州でも鉄砲の製作に成功しているという。

「『鐡炮記』より後に編纂された『鉄炮由緒書』では、算長は根来西坂本の刀鍛冶・芝辻清右衛門に種子島由来の鉄砲の複製を命じたとされ、天文十三年(1544年)には紀州第1号となる鉄砲が誕生しました。その後、清右衛門は堺に居を移し、堺での鉄砲生産にも大きく寄与したのです。」
http://www.city.wakayama.wakayama.jp/shisei/wakayama/1001005/1001031/1001032.html

『鉄炮由緒書』の原文テキストが見つからなかったのは残念だったが、鉄砲伝来の翌年に紀州第1号が誕生したというのが事実なら、随分早く完成したことに驚く。ネジについては自力で製造方法を編み出したか、種子島とは別ルートで製造法を学ばなければ、こんなに早く完成することはなかったであろう。もしかすると、紀州第1号は種子島よりも早く完成していたかもしれないのだ。

鉄砲は、わが国よりも早く、アラビアやインド、中国にも伝わっていたのだが、その生産に成功した国はわが国だけであったという。
種子島に伝来した二挺の鉄砲はそれぞれ複製品が試作され、その後、堺を中心に大量に生産されるようになって各地の戦国大名が競って購入した。また、性能面でも優れていたことから海外にも販売されるようになり、16世紀の後半から約二百年の間、わが国は世界最大の武器輸出国となったのである。
ポルトガルやスペインまでもがわが国の鉄砲を買い求めていたことからわかるように、わが国の技術水準は、この時代においても高い水準にあったことを知るべきである。

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新ブログでは、『ネットで読めるGHQ焚書』シリーズが完成しました。
あまり知られていませんが、第二次世界大戦後GHQが、昭和21年から23年にかけて、当時わが国で流通していた書籍のうち7769タイトルの単行本やパンフレットを廃棄して日本人に読ませないようにしましたが、国立国会図書館の蔵書までは手を付けませんでした。
最近GHQ焚書の全リストを入手したのですが、著作権保護期間終了により国立国会図書館デジタルコレクションで無料で公開されている本が存在することに気が付きました。この度総ての検索を終了し、全部で2136タイトルの焚書が、ネットで読めることが分かりました。そのURLのリストを新しいブログで公表しています。
https://shibayan1954.com/category/degital-library/ghq-funsho/
GHQが焚書にしたのは、戦意高揚のためのものばかりではありません。わが国の古代から昭和時代に至る迄の著作、外国に関する著作、外国人の著書までもが焚書処分を受けています。戦勝国にとって都合の悪い史実が描かれている書籍がかなり焚書処分にされたと考えています。

GHQ焚書の一部には、戦後日本人に知らされてこなかった真実が記されている可能性があります。あれだけ偏向報道を繰り返すマスコミや反日国家が声高に主張する歴史叙述にそろそろ疑問を持っても良い時期ではないでしょうか。
古すぎて役に立たない書物もあるでしょうが、真実に近づくためには戦後の長い間、日本人に封印されてきた歴史叙述を知ることも大切だと思います。興味のある方は是非覗いて見て下さい。

また、4月1日から、このブログで書いてきた記事の一部を書きまとめた新著が発売されています。
内容について簡単にコメントすると、大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。

無名のライターゆえ、一般書店ではあまり置いて頂いていません。
アマゾンにも2件書評が入っていますが、4/25に「るびりん書林」さんからも書評を頂きました。ご購入検討の際の参考にしてください。
https://rubyring-books.site/2019/04/25/post-1099/

また『美風庵だより 幻の花散りぬ一輪冬日の中』となりいうブログでも採り上げていただきました。
https://bifum.hatenadiary.jp/entry/20190426/1556208000

おかげさまでこの本は5月15日に増刷されてようやく入手困難な状況が解消されました。本の注文をされた方には、長い間ご迷惑をおかけしてして申し訳ございませんでした。これからは、店頭在庫のない一般店舗でもネットショップでも、取り寄せして頂ければ必ず手に入りますので、よろしくお願いいたします。

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2Comments

ユーアイネットショップ店長うちまる  

初めて鉄砲を見たときは驚きだったでしょうが、
それを活用しようと思った人も素晴らしい!

2019/06/26 (Wed) 06:20 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: タイトルなし

中国やインドやアラビアなどではもっと早く鉄砲が伝来していたのですが、自国で作ることは出来ませんでした。わが国だけが鉄砲の製造に成功しただけでなく、大量生産を始めて16世紀の後半にわが国は世界最大の武器輸出国になりました。
わたしの著書にも書きましたが、ポルトガルやスペインがわが国にキリスト教を布教しようとした時期に、大量の武器を保有していたということは重要です。もし、先にキリスト教が布教されて鉄砲が伝来がずっと後だったら、あるいは、鉄砲が伝来しても自前で生産することを誰も考えなかったとしたら、今の日本はありえないような気がしています。

2019/06/26 (Wed) 08:19 | EDIT | REPLY |   

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