江戸幕府が赤穂浪士の吉良邸討入りを仕向けたのではないのか~~忠臣蔵4
赤穂浪士による吉良邸討入りの前日である十二月十三日に赤穂藩筆頭家老の大石内蔵助が赤穂の花岳寺の恵光師、正福寺の良雪師、神護寺にあてた手紙が残されている。大石の遺書とも呼ぶべきものだが、そこには驚くべきことが書かれている。次のURLで原文と現代語訳が掲載されている。現代語訳を引用させていただく。http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/gisinews07/news194.htm 「東下りの関所においても無事であり、心配していたこ...
赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5
赤穂浪士四十七人が吉良屋敷に討ち入りをし、主君であった浅野内匠頭に代わって吉良上野介を討ち果たしたのだが、この時吉良の家臣たちはどう戦ったのだろう。『忠臣蔵新聞第234号』に、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』にまとめられた吉良家側の死傷者の数がでている。http://chushingura.biz/gisinews07/news234.htmそれによると、 「本屋内での死者二人、負傷者二人、本屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死...
『明暦の大火』の火元の謎を追う
明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、猛烈な火が江戸を襲い、江戸市街の約6割が焼け、特に江戸開府以来の古い市街地はほぼすべてが焼失し、焼死者が十万人余を数えたという大火災が発生した。世に言う「明暦の大火」である。この大火の様子が『むさしあぶみ』という当時の書物に詳細に記載されている。 作家隆慶太郎氏が、自らの歴史小説で参考にした史料をHPの「文献資料室」で公開しておられて、『むさし...
16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
昨年にこのブログで、「400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと」というタイトルで、16世紀の後半の約50年間に大量の日本奴隷が海外に売られていったことを書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html続けて、日本人奴隷を買う側の事情と、売られていく事情について調べて、秀吉の出した『伴天連追放令』がこの日本人奴隷の流出を止める役割を果たしたのではないかということを当時の...
日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2
前回は15世紀末から始まるインディオの悲劇のことを主に書いたが、北アメリカにもアフリカにも同様な悲劇があったことは言うまでもない。カリブ海地域から拡がった地球規模の奴隷貿易に対しては、宗教的あるいは人道主義の立場から批判が古くからあったようだが、ローマ教皇が奴隷制度自体を弾劾したのは、後で記すとおり、比較的最近の話なのである。 前回紹介したラス・カサス神父は、インディオの虐待を即時中止して平和的にキ...