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しばやんの日々

義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか

「眠れる獅子」と形容され、世界から一目置かれていた清国であったが、日清戦争で予想に反してわが国に完敗したあとは、弱肉強食の列強諸国が清国に猛然と牙をむき出して利権獲得に動き出している。清国は三国干渉によって、日本から遼東半島を奪還したのだが、その代償は随分高くついたようだ。まずロシアは、1896年に露清密約を結んで満州を結びウラジオストックに至る鉄道敷設権を獲得し1903年より営業を開始したが、この東支鉄...

北清事変で北京制圧の後に本性を露わにした「文明国」の軍隊

義和団と清兵に取り囲まれた4000人の籠城者を救出するために、わが国は再三にわたる英国の要請を受け、列国の承認のもとで第五師団を派兵した。すでに各国の連合軍は天津城を完全占拠していたのだが、そこで師団主力の集結を待って、8月4日に天津を出発し北京籠城組の救出の途に就いた。連合軍の総兵力は二万二千人と言われ、その半数近くは日本兵だったという。対する清朝軍と義和団は兵の数は多かったが、装備という点では「在来...

義和団による暴動を、満州占領のチャンスととらえたロシア

義和団は北京や天津だけで暴動を起こしたわけではなく、清の朝廷が彼らを義民として庇護したことからたちまち勢力範囲を拡げて、満州地区にも波及していった。かねてから満州全域への進出を狙っていたロシアは、建設中の東支鉄道(東清鉄道ともいう)保護を名目にシベリア方面と旅順から大軍を送り込み、1900年7月13日から満州侵攻を開始したのだが、このタイミングに注目したい。前回まで2回に分けて北京の公使館区域が義和団と清兵...

日露開戦を決定したわが国の首脳に、戦争に勝利する確信はあったのか

明治37年(1904)2月4日の御前会議で対露断交と開戦を決定したのだが、その御前会議が終わった後の夕刻6時に、枢密院議長・伊藤博文は、金子堅太郎を官舎に呼び寄せて、「これから直ぐにアメリカに行ってもらいたい」と告げたという。国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』に金子堅太郎本人が口述した『日露戦役秘録』という本が公開されているが、この時の金子堅太郎と伊藤博文の会話を読んでいると、この時期のわが国の状...

なぜ米国は日露戦争開戦当初から日本の勝利を確信したのか

前回の記事で、日露戦争開戦を決断した直後に伊藤博文がセオドア・ルーズベルト米大統領と親しい金子堅太郎を呼んですぐに渡米することを強く要請し、実際に金子がアメリカに渡り大統領に会うと、米大統領が「今度の戦いは日本が勝つ」と明言したことに金子が驚いたことを書いた。大統領は日本が勝利する理由を詳細には述べなかったが、参謀本部や海軍兵学校長に日露の戦力や様々な情勢を詳細に調べた上での結論のようなのだが、で...

日露戦争の原因となったロシアの朝鮮侵略をけしかけた国はどこの国か

前回及び前々回の記事で金子堅太郎の『日露戦役秘録』を紹介したが、この本を読むと、アメリカは日露戦争に重大な関心を持ち、日本が戦争に勝つために裏で動いていたことが見えてくる。そもそもロシアのような大国が戦争を始めようとすれば、欧米列強だけではなく周辺諸国が多大な影響を受けることになることは誰でもわかる。それぞれの国が、どちらの国が勝つかを予測した上で、自国の国益の為にその戦争にどう対処すべきかを考え...

乃木将軍は「愚将」であったのか

明治37年(1904)5月1日、留守近衛師団長であった乃木希助中将が宮中に参内し、翌日に第三軍司令官に任ぜられた。第三軍の任務は、ロシアの極東進出の最先端であり最大拠点でもある旅順の奪取にあった。参謀長には陸軍切っての砲術の権威と言われた伊地知幸助少将が命ぜられている。日清戦争に勝利したわが国は、下関条約で遼東半島、台湾、澎湖諸島などを獲得したのだが、遼東半島は露独仏の三国干渉により遼東半島は一旦清に返還さ...

世界は乃木率いる第三軍が旅順要塞を短期間で落城させたことを賞賛した

前回は明治37年(1904)11月26日の白襷隊の攻防戦のことまでを書いた。その翌日の午前10時に乃木の率いる第三軍は東北正面の総攻撃を中止し、戦線は西に移動したという。乃木の27日の日記には「日夕、二〇三攻撃を第一師団に命ず」と書かれている。「二〇三攻撃」とは旅順の旧市街地から北西2kmほどのところにある丘陵である「二〇三高地」を攻撃せよとの意で、「二〇三高地」と呼ぶのは山頂が海抜203mであることによる。国立公文書...

圧倒的に劣勢であった奉天会戦に日本軍が勝利できたのは何故か

旅順の攻略を終えた乃木率いる第三軍は、総司令部の命を受け、来たるべき奉天会戦のために1月中旬より北上を開始し、わずか10日で遼陽付近に集結を完了している。この奉天会戦は日露陸戦最後の大会戦となったのだが、戦力を比較すれば兵力・火力ともに圧倒的にロシア軍が優勢であった。日本軍の兵力は約二十五万、火砲約千門に対し、ロシア軍は兵力約三十七万、火砲千二百門。またロシア軍は砲弾量も圧倒的に日本軍よりも多く、奉...

日本海海戦で日本軍が圧勝した背景と東郷平八郎の決断

乃木希助率いる第三軍が旅順要塞に対する第2回総攻撃を開始する11日前の、明治37年(1904)10月15日にバルチック艦隊はリバウ軍港から出航している。ロシア海軍は、バルチック海にある精鋭の艦隊を極東に派遣して、旅順港にある太平洋艦隊とともに日本海軍と戦えば、日本艦隊のほぼ2倍の戦力となるので、勝利して制海権を確保できるとの考えであったのだが、バルチック海から極東に向かう航海は地球を半周するほどの距離がある苛酷な...

ポーツマス会議のあと、講和条約反対・戦争継続の世論が盛り上がった事情

明治38年(1905)6月10日にわが国は米国大統領ルーズベルトの講和提議を正式に受諾し、これと前後してロシア政府もこの提案を受諾して、講和談判地は米国ニュー・ハンプシャー州のポーツマス軍港と決まった。そして7月3日に全権委員として外務大臣小村寿太郎と駐米公使高平小五郎が任命されている。下の画像は、日本の講和団で、前列の右側が小村寿太郎で、左が高平小五郎だ。日露戦争でわが国は、日本海海戦をはじめ個別の戦いでは...

日露戦争の巨額の戦費を外債発行で調達した明治政府と高橋是清の苦労

帝国書院のホームページに、戦争別戦費の一覧表が出ている。日清戦争の戦費は2.3億円であったが、日露戦争では18.3億円もかかっている。https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index06.html【戦争別経費:帝国書院HPより】もっとも、戦費がいくら必要かは戦争が終結するまではわかるものではないのだが、日露戦争当時の明治政府の歳入規模を調べると、明治三十七年(1904)の数字は3.3億円であった。菊池寛の『...