わが国を武力征服しようとしたスペイン宣教師の戦略を阻んだ要因は何か
高橋弘一郎氏の『キリシタン時代の研究』に、イエズス会東インド管区の巡察師*であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノがイエズス会フィリピンの準管区長ライムンド・プラドに書き送った書翰の一節が紹介されており、ここではフィリピンの修道士(フランシスコ会士)は日本に来るなと述べている。ヴァリニャーノはイタリア人だが、フランシスコ会のようにヨーロッパのやり方を押し通すような手法には批判的であったという。ちなみに、この書翰は長崎で二十六聖人が処刑された日からおおよそ9カ月後の、1597年11月19日付で記されたものである。
*巡察師: イエズス会総長から全権を委託されて、東アジアの布教を統括した役割の宣教師
「私は自分の良心の重荷をおろすために、そしてまたフィリピンにおいて真実を知ってもらうために尊師に申述べたいが、われわれ日本イエズス会や日本に関することは別において、一般的に言って、フィリピンの修道士は何人もシナ、日本、およびその他のポルトガル国民の征服に属する地域において、主への奉仕、霊魂の救済、更には国王陛下への奉仕を願い、それに沿った行動をしてはならない。それどころか彼らがそれらの国に行こうとすればするほど、ますます大きな弊害が生じ、その目的を達するのが困難になるであろう。
その主な理由は、これらの地域の王や領主は、すべてフィリピンのスペイン人に対して深い疑惑を抱いており、次の事を知っているからである。即ち、彼らは征服者であって、ペルー、ヌエバ・エスパーニャ*を奪取し、また近年フィリピンを征服し、日々付近の地方を征服しつつあり、しかもシナと日本の征服を望んでいる。そしてその近くの国々にいろいろ襲撃を仕かけており、何年か以前にボルネオに対し、また今から2年前にカンボジャに対して攻撃を加えた。…日本人やシナ人も、それを実行しているスペイン人と同様にその凡てを知っている。なぜなら毎年日本人やシナの船がマニラを往き来しており、見聞していることを良く語っているからである。このようなわけで、これらの国々は皆非常に疑い深くなっており、同じ理由から、フィリピンより自国に到来する修道士に対しても疑念を抱き、修道士はスペイン兵を導入するための間者として渡来していると思っている。このため彼らを自国に迎えるのを望まないばかりか、彼らとポルトガル人が同じ国王の下にある事**を知っているので、我々に対しても疑念を抱いており、それは現在われわれが日本で見ている通りであり…」(高瀬弘一郎『キリシタン時代の研究』岩波書店p.132)
*ヌエバ・エスパーニャ:1519~1821までの北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の領地
**『ポルトガル人が同じ国王の下にある事』:1580年にポルトガルのエンリケ1世が死去し、以後スペイン国王がポルトガルの国王を兼ねた。その後、ポルトガル人はスペインの苛政に反発し1640年にポルトガルはスペインからの独立を果たしている。
この文章の中にある『シナ、日本、およびその他のポルトガル国民の征服に属する地域』という言葉の意味は、少し補足が必要だ。
高瀬弘一郎氏によると、このような表現は「当時のカトリック宣教師や貿易商人、植民者が頻繁に用いた常套の表現」であったようだが、当時においてはスペインやポルトガルに征服されていない国々についても、どちらの国が征服事業に手を付けるかが予め決められていたことを知る必要がある。
わが国は、中国大陸と同様に、ポルトガルが布教をし征服をする権利を有していたのである。
以前このブログで記したことがあるのだが、1494年にローマ教皇アレクサンデル6世の承認によるトリデシリャス条約によって、スペインとポルトガルとがこれから侵略する領土の分割方式が取り決められ、さらに1529年のサラゴサ条約でアジアにおける権益の境界線(デマルカシオン)が定められた。下図のサラゴサ条約におけるデマルカシオンを確認すると、スペインとポルトガルの境界線はこの図の通り、日本列島を真っ二つに分断していたのだ。
その取り決めによりスペインは西回りで侵略を進め、1521年にアステカ文明のメキシコを征服し、1533年にインカ文明のペルー、1571年にフィリピンを征服した。
一方ポルトガルは東回りで侵略を進め、1510年にインドのゴアを征服し、1511年にはマラッカ(マレーシア)、ジャワ(インドネシア)を征服し、そして1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが日本に上陸しキリスト教の布教を開始している。
日本におけるキリスト教の布教については、ローマ教皇はポルトガルの事業であるとし、ポルトガル国王がイエズス会に布教を許可したのだが、一方スペインは、豊臣秀吉がフィリピンに対し降伏勧告状を数回にわたって突きつけたことに対し、その2度目の交渉でフィリピンからわが国に送り込んだ使節のメンバーに、ペドロ・バプチスタらフランシスコ会の宣教師をわが国に紛れ込ませている。
そしてフランシスコ会は、『伴天連追放令』が出されて以来おおっぴらな布教活動を自粛していたイエズス会を尻目に3つの教会を相次いで建築し、わが国で本格的な布教活動を開始したのである。
このことにイエズス会が強く反発したのだが、イエズス会とフランシスコ会の対立は、1580年にスペインがポルトガルを併合し、サン・フェリペ号事件および日本二十六聖人殉教事件があった後にはさらに尖鋭化していったようである。
この両派の対立をわかりやすく言うと、日本という国の領土を「ポルトガル国民の征服に属する地域とするのか、スペインにも一部地域の征服を認めるのか」、あるいは「ポルトガル国王の許可を得たイエズス会のみが布教をするのか、スペイン国王の許可を得たフランシスコ会等の布教をも認めるのか」という対立である。
アウグスチノ会所属のポルトガル人、フライ・マヌエル・デ・ラ・マードレ・ディオスは、日本二十六聖人殉教事件が起こった年である1597年に、次のように書いてイエズス会を擁護している。
「昨年司教ドン・ペテロ・マルティンスは、上述の跣足修道会遣外管区長[26聖人となったフランシスコ会のバプチスタのこと]に書き送り、全く友好的かつ敬虔な表現で、日本に於いて原住民改宗のために聖福音を説く聖務は、教皇聖下の大勅書、ことに教皇グレゴリウス13世の大勅書、及びポルトガル国王の勅命よってイエズス会のパードレ*に指定されているので、この政務を行なうことを尊師に許可するわけにはゆかないという点を了承してもらいたい。というのは、それは教皇聖下の命令にそむき、教皇や権威ある地理学者達がポルトガルとカスティーリヤ(スペイン)の両王位の間で二分した征服の全体的な分割を侵すことに外ならないからである、と懇願した。」(高瀬弘一郎 同上書 p.5-6)
*パードレ:神父、司祭のこと
しかし、よくよく先ほどのデマルカシオンの地図を見て頂きたいのが、スペインが1571年に征服したフィリピンは「ポルトガル国民の征服に属する地域」に入っているし、今回の記事の冒頭で紹介したアレッサンドロ・ヴァリニャーノの書状では、ボルネオやカンボジアにも近年攻撃を加えており、日本と中国も狙っている趣旨の事が書かれている。なぜスペインはサラゴサ条約で定められたルールを無視したのであろうか。
理由はいろいろあるのだろうが、貿易上のメリットという観点から考察すると、スペインの西回りのルート上の国々よりも、中国やインドや日本との交易が可能なポルトガルの東回りのルートの方がはるかにメリットが大きかった。だからスペインは、再三にわたり、日本や中国がポルトガルのデマルカシオンに入る教皇文書を取り消させようとし、同時に、教皇文書を無視して、フィリピンを足場に日本や中国との貿易を開始し、布教をも敢行してきたのである。
ポルトガル商人からすれば、もしスペインが日本や中国との貿易に割り込んでくるのを放置していたら、日本貿易に対する依存度の高いポルトガル領マカオに甚大な打撃を与えることになる。そのために、イエズス会士やポルトガル植民地関係者が大反対したのだが、当時の文書を読むと、この対立関係はかなり根深いものがありそうである。
例えば1597年にマカオのイエズス会士からゴアのインド副王に宛てた書状にこのようなものがある。
「イエズス会士でない修道士が日本に渡ることを禁じた教皇聖下の小勅書に反し、また世俗の者であれ修道士であれカスティーリャ(スペイン)の征服の地からポルトガルの征服の地に赴くことを禁じた国王陛下の勅令を犯すものである。教皇聖下は修道士であれ世俗の者であれカスティーリャ(スペイン)人に対してはこの門戸を鎖し、もう決して彼らが日本およびそれに隣接したすべての島、シナの全海岸…に入国することがないようにしなければならない。…
…そして次のように厳罰を以てルソンの総督に命じてもらいたい旨このインド領国の名で国王陛下に要請しなければならないと思う。…」(高瀬弘一郎 同上書p.26)
また、この時代の宣教師の書翰を読んでいると、わが国の布教を推進するために、わが国を武力で征服すべきだという内容のものが少なくないことに驚く。
前回および前々回の記事で、マニラ司教のサラサールやイエズス会の日本布教長フランシスコ・カブラルが、わが国のキリシタン大名を使ってまず明を攻めることをスペイン国王に提案したことを書いたが、1599年2月25日付けでスペイン出身のペドロ・デ・ラ・クルスがイエズス会総会長に宛てた書翰には、日本の布教を成功させるために、日本を武力征服すべきであるとするかなり詳細なレポートが記されている。一部を紹介したい。
クルスは、わが国をこう攻めるべきだと進言している。
「日本人は海軍力が非常に弱く、兵器が不足している。そこでもし国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことができよう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(しも:九州)、または四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るだろう。
…
隣接する領主のことを恐れているすべての領主は、自衛のために簡単によろこんで陛下と連合するであろう。
…
金銭的に非常に貧しい日本人に対しては、彼らを助け、これを友とするのに僅かのものを与えれば充分である。わが国民の間では僅かなものであっても、彼らの領国にとっては大いに役立つ。
…
われわれがこの地で何らかの実権を握り、日本人をしてわれわれに連合させる独特な手立てがある。即ち、陛下が…われわれに敵対する殿達や、その家臣でわれわれに敵対する者、あるいは寺領にパードレ(司祭)を迎えたり改宗を許したりしようとしない者には、貿易に参加させないように命ずることである。」(同上書p.140-142)
この様にして、キリスト教を受け入れた領主だけを支援し、貿易のメリットを与えることによって日本国を分裂させれば、九州や四国は容易に奪えるとしている。少なくとも当時の九州には、有馬晴信、大村喜前、黒田長政、小西行長など有力なキリシタン大名が大勢いたことを考えると、それは充分可能であっただろう。
次に、攻撃をする正当理由はどこにあったかというと、前回の記事で記したサン・フェリペ号の荷物没収とフランシスコ会士とその使者を殺害(日本26聖人殉教事件)したことで充分だという。
ではどうやって勝利するのか。そのためには軍事拠点が不可欠だが、クルスはその港まで指定している。38年後に島原の乱が起きた場所が指定されている点に注目したい。
「このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。」(同上書 p.144)
さらにクルスは、どこかの港(薩摩、四国、関東)に、スペインの都市を建設し、スペイン国王が絶対的な支配権を確立することを述べた後、シナを武力征服しない限り、シナを改宗させることは出来ないとし、その武力と武器の調達は、安価でそれが可能な日本で行う以外はあり得ないと書いている。彼等は、キリシタン大名を使ってシナを攻めようと考えていたようである。
また、ポルトガル人も都市を建設し基地を作るべきであるとし、小西行長が志岐の港を宣教師に提供することは間違いがないとまで記している。もしスペインが基地の取得に失敗したとしても、ポルトガルならば、従来の経緯から容易にそれが可能だとする意見を述べている。
その上で、最後にわが国の領土をスペインとポルトガルにどう分割するかということまで触れている。文中の「下(シモ)」とは九州の事である。
「…日本の分割は次のようにするのが良い。即ちポルトガル人はこの下(例えば上述の志岐または他の適当な港)に基地を得、一方スペイン人の方はヌエバ・エスパーニャに渡ったり、フィリピンを発ったナウ船が寄港したりするのに適した四国または関東といった…地域に基地を置くと良い。…教皇アレクサンデル6世が行なった分割において、その『東方』と『西方』のいずれに日本が属するかについて意見が分かれている。…このような分割が行なわれたのは、両国が協力し合って布教等を行なうためのものであった。まして同一国王のもとにあるなら尚更それは当然のことである。」(同上書 p.154)
ペドロ・デ・ラ・クルスが指摘したような、良港を手に入れて軍事と貿易の拠点として、布教を進めて領土を拡大する手法は、スペインやポルトガルが世界の植民地化を進めてきた常套手段ではなかったか。
彼らが目の敵にしていた豊臣秀吉が死んだのが1598年(慶長3年)で、クルスの書翰はその翌年に記されたものである。侵略する側の視点に立てば、絶好のタイミングでこの書翰が記されたと言って良い。
もし、関ヶ原の戦い以前にスペインがわが国に攻撃を仕掛けたとしたら、果たしてわが国は一枚岩で戦うことが可能であっただろうか。
秀吉の遺児・秀頼は大のキリシタンびいきであり、もし豊臣家がキリシタン大名と共にスペインの支援を得て徳川連合軍と戦っていたら、徳川の時代はなかったかもしれないし、わが国の一部がスペインの植民地になっていてもおかしくなかっただろう。もしわが国がスペインの勢力を撥ね退けることができたとしても、相当な犠牲が避けられず、国力を消耗していたことは確実だ。
わが国の政局が極めて不安定であった時期に、サン・フェリペ号積荷没収事件と日本二十六聖人殉教事件が起こり、スペインにとってはわが国に対する復讐としてわが国を攻撃する絶好期であった。スペインの宣教師たちも再三そのことを催促していたにもかかわらず、スペインが攻めて来なかったことはわが国にとって幸運なことであったのだが、この背景を調べると、スペインはそれどころではなかったお家の事情があったことが見えてくる。
Wikipediaに詳しく書かれているが、この時期にスペインは地中海全域で戦火を交え、国内ではオランダやポルトガルが独立のために反乱を起こしていたのだ。
ネーデルラント(オランダ)の反乱(八十年戦争)(1568~1648)、オスマン帝国との衝突(レパントの海戦, 1571)、英西戦争(1585~1604)、モリスコ追放(1609)、三十年戦争(1618~1648)フランス・スペイン戦争(1635~1659)、ポルトガル王政復古運動(1640)…
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3
これだけ国内外で戦っていては軍事資金の調達も厳しかったはずだし、そのための増税や兵役に対する不満が各地で反乱の種となる。スペインが遠方のわが国に軍隊を派遣する余裕などは到底なかったであろう。
前回記事で記したサン・フェリペ号事件や日本二十六聖人殉教事件における、イエズス会・ポルトガルとフランシスコ会・スペインの対立も、ポルトガル勢力がスペイン勢力に対して反発を強めて行った大きな流れの中で捉えるべきなのだろう。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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