『ポツダム宣言』を公然と無視し、国際法に違反した国はどの国か~~ポツダム宣言10
前回まで『ポツダム宣言』受諾をめぐるわが国の動きを中心に書いてきたが、国内でこれだけ激しく意見の対立があったのは、この『ポツダム宣言』の内容が、連合国とわが国が戦争を終結するための条件を呈示したものでものであったからとも言える。このシリーズの最初の記事で『ポツダム宣言』に書かれている内容を紹介したが、この宣言で、連合国はわが国に対して、条件付きで戦争を終結させようと提案してきたのである。http://shi...
『板垣死すとも自由は死せず』が広められた背景を読む
私の書棚に1冊のGHQ焚書図書がある。ある古本屋で見つけて1000円で買った菊池寛の『大衆明治史』(国民版)という本だ。なぜこんなに面白い本が焚書処分にされたのかと考えるのだが、おそらくは以前私が紹介した、「マリア・ルーズ号事件」のことを記述しているからなのであろう。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-113.htmlマリア・ルーズ号は南米ペルー船籍の船だが、明治5年(1872)に大量の中国人奴隷をアメリカに運...
自由党と立憲改進党が帝国議会開設を前に衰退した経緯
自由民権運動の高まりに対抗して明治政府は集会条例を制定するなど民権派の活動を取り締まる一方、政府主導による立憲政治の実現にとりかかった。政府部内でも大蔵卿・参議の大隈重信がすみやかに憲法を制定して国会を開設し、イギリスをモデルとした議会中心の政党政治を行なうことを主張したが、岩倉具視、伊藤博文らはドイツ流の君主の権限の強い憲法制定をとなえて大隈と対立していた。明治14年(1881)に、開拓使官有物払下げを...
英商人に阿片を持込まれ、コレラ流行時に港で外国船の検疫を拒否された明治日本
前回の記事で、帝国議会の開設を明治政府が宣言した後に自由党も立憲改進党も衰退に向かい、帝国議会開設に近づくと再び自由民権運動が動き出すのだが、明治政府は明治21年には大隈重信を第1次伊藤内閣の外務大臣に入閣させたことを書いた。立憲改進党はその後集団運営体制に移行し、党首を欠いたまま明治23年の帝国議会の開設を迎えることになったのだ。しかし、この重要な時期になぜ、大隈重信は立憲改進党の仲間を裏切ってまで...
英国船が沈没して白人が助かり、日本人乗客は全員溺死したノルマントン号事件
前回の記事で、わが国で「条約改正」の世論が盛り上がった背景に、わが国に阿片を持ち込んだ英商人が無罪とされたことや、コレラが流行していた清国からわが国へ直航してきたドイツ船・ヘスペリア号がわが国の検疫要請を無視し、横浜入港を強行した事件があったことを書いたが、もうひとつ国内世論を沸騰させた有名な事件があるので書き記しておきたい。明治19年(1886)10月24日の夜、横浜港から神戸に向かっていたイギリス船籍の貨...