毛利元就の「三本の矢」の教えはいつの時代の創作なのか
毛利元就と言えば、「三矢の訓(おしえ)」が有名だ。 元就の臨終の床で、長男隆元(たかもと)、次男吉川元春(きっかわもとはる)、三男小早川隆景(こはやかわたかかげ)の三人の息子を枕元に呼び寄せて、矢を一本ずつ与えて「折ってみよ」と命じ、息子たちが難なくこれを折った。 今度は三本の矢を束にして、また「折ってみよ」と命じたところ、息子たちは誰もこれを折ることが出来なかった。 元就は一本では脆い矢も束になれば頑丈に...
光秀は山崎の合戦で死んでいないのではないか…「光秀=天海説」を考える その1
天正10年(1582)6月13日の深夜に、山崎の合戦に敗れた明智光秀が坂本城を目指して落ち延びる途中の京都山科の小栗栖(おぐるす)という地で、農民に竹槍で刺されて死んだという通説は作り話である事を前回の記事で書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-345.html山崎の合戦の後に秀吉が書いた書状(『浅野家文書』)には「山科之藪之中へ北入、百姓ニ首をひろはれ申候」とある。秀吉配下の武士は武功を上げるために、...
南光坊天海は明智光秀と同一人物なのか…「光秀=天海説」を考える その2
前回の記事で、光秀が山崎の合戦以降も生きていた伝承や形跡が多いことを書いた。また「明智光秀がのちに南光坊天海になった」という説を紹介し、その説が唱えられている根拠の一つに、家康が重臣の娘を家光の乳母にしたり、土岐明智家を復活させるなど、家康が明智家に配慮しているように見えるのは、家康の参謀であった南光坊天海が、明智家に近い人物ではないかと思われることを書いた。通説が正しいことを前提にすると「謎」に...
島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか
「治部少(ちぶしょう:石田三成)に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」という落首がある。「佐和山の城」というのは現在の滋賀県彦根市にある佐和山に存在し、近江支配の重要拠点であった山城で、「島の左近」というのは、石田三成の参謀であった島左近(しまさこん)のことである。三成は左近を三顧の礼をもって迎え、家禄の半分を与えてまでも仕官させたと言われているが、調べてみるとかなり謎の多い人物である。通称...
わが国で最初のキリシタン大名となった大村純忠の『排仏毀釈』
天文18年(1549)8月15日にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、日本に初めてキリスト教を伝えた頃のことを以前このブログで記したことがある。フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その1http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-114.htmlフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えた頃の日本の事~~その2http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-115.htmlそもそも、宗教の自由だと...
大友宗麟はキリスト教に接近し、洗礼を受ける前から神社仏閣を破壊した
前回は大村純忠の神社仏閣の破壊のことを書いたが、今回は大友義鎮*のことを記すことにしたい。*大友義鎮(おおともよししげ): 豊後国大友氏第21代当主。永禄5年(1562)に出家し「宗麟」と号した大友義鎮が豊後の国主となったのは天文19年(1550)のことだが、その翌年にフランシスコ・ザビエルを府内の城中に引見して、キリスト教の教義を聴き、領内での布教を許可したことから、領内でキリスト教の信仰が拡がって行くことになる。前...
薩摩に敗れて捕虜にされた多くの豊後の人々は南蛮船に乗せられてどこへ向かったか
前回の記事で島津義久の攻撃で大友氏が滅亡寸前まで追い詰められたが、天正15年(1587)に豊臣秀吉・秀長が九州に出兵して島津軍を破り、大友氏は辛うじて豊後一国を守ることが出来たことを書いた。豊後国とは今の大分県と考えて良い。前回あまり詳しく書かなかったが、薩摩の島津氏と豊後の大友氏との争いは随分長く続いている。【耳川合戦図屏風】天正6年(1578)に大友宗麟・義統父子が、日向の伊東義祐の要請を口実に大軍を率いて...
蒲生氏郷が毒殺されたという説を考える
蒲生氏郷を郷土の誇りとして顕彰するために、大正八年(1919)日野町の上野田・ひばり野に 蒲生氏郷公像が建設されたのだが、昭和一九年(1944)に武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出されてしまったため、地元の多くの人々の尽力と協賛のもとに昭和六三年(1988)に再建され た。右手には筆を持ち、左手には紙を持っているようなのだが、日野観光協会のHPによると、「文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中、中山道武佐の宿より...