16世紀後半に日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇教書の関係~~その1
Category大航海時代の西洋と日本
昨年にこのブログで、「400年以上前に南米や印度などに渡った名もなき日本人たちのこと」というタイトルで、16世紀の後半の約50年間に大量の日本奴隷が海外に売られていったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-116.html
続けて、日本人奴隷を買う側の事情と、売られていく事情について調べて、秀吉の出した『伴天連追放令』がこの日本人奴隷の流出を止める役割を果たしたのではないかということを当時の史料をもとに3回に分けて書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-132.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-133.html
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-134.html
「伴天連」とはキリスト教の宣教師の事だが、伴天連は日本人奴隷の流出を拱手傍観するどころか、初期にはポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名をしていたというレポートもある。(藤田みどり『奴隷貿易が与えた極東への衝撃』、小堀桂一郎編『東西の思想闘争』所収)。
ルイス・フロイスの記録によるコエリョと秀吉との論争を読んだ印象では、キリスト教の布教と奴隷売買とは繋がっていたと私は判断しているのだが、あるSNSで私のブログの上記記事を紹介したところ、キリスト教会は奴隷貿易に積極的であったわけではないとの意見が出てかなり議論になった。
この問題について、新たに調べて勉強になったこともあるので自分の考えを整理する意味で、当時のキリスト教が奴隷貿易にどう関わっていたのかについて、自分なりに纏めておくことにしたい。
有史以来、戦争の勝者が捕虜や被征服国の住民を奴隷とすることは、程度の差はあるが世界中で存在したし、わが国でもそれは例外ではなかった。
一口に「奴隷」といっても待遇は時代・地域によりさまざまで、例えばスパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができたそうだし、アテナイの奴隷は市内移動の自由が認められ、知的労働に従事することもあったというし、古代ローマではローマ市民権を得て自由人となる道も開かれていたそうだ。
奴隷貿易が質量ともに変化するのは15世紀から始まる「大航海時代」以降の話で、ヨーロッパ人がインド・アジア、アメリカ大陸、アフリカ大陸などに進出し植民地的な海外進出を始めた頃からなのだが、「奴隷狩り」で大量に集められた奴隷が商品として地球規模で売られていったのはこの時期からだと考えて良い。
この時期に日本人奴隷が大量に流出したことは、こうした世界史の流れの中で理解すべきであると思うのだ。
では、この時期のスペイン・ポルトガルの世界侵略の実態はいかなるものであったのか。その点が日本の教科書には、残念ながら綺麗ごとが書かれているだけなのだ。
教科書では『侵略』という言葉を使わず『ヨーロッパの世界進出』とか『ヨーロッパ世界の膨張』という無味乾燥な言葉を必ず使うことにいつも違和感を覚えるのだが、この時代に起こったことは、普通に考えれば『侵略』とか『大虐殺』という表現こそがずっと相応しいと思うのだ。
ヨーロッパ人がこの時期に世界中を荒らしまわった背景について、教科書によく書かれているのは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』によって金の空想にかきたてられてアジアの関心が高まったこと、ヨーロッパ人の必需品となっていた香辛料がイスラム圏との争いで手に入りにくくなって価格が高騰したこと、羅針盤の改良などの遠洋航海術の発達や地理学の発達したこと、キリスト教の布教熱の高まりがあったことなどがあげられて、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見したことや、1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見したことなどが淡々と記載されていると思う。
教科書だけで歴史を学べば、大半の人がコロンブスは英雄だと思ってしまうところだろうが、当時の記録などを実際に読んでみると多くの人がショック受けることだろう。
後に地球規模の奴隷貿易を出現させたと言われているコロンブスの航海を最初にふりかえってみることにしたい。
1492年8月3日にコロンブスは約90名の乗組員を乗せてサンタ・マリア号以下3隻の船でパロス港から出帆し、西回り航路でインディアスを目指した。
10月12日に今のバハマ諸島のウォトリング島に到着し、この島をインディアスの一部と考え、そこに住む人々を「インディオ」と呼び、島の名前をサンサルバドル島とした。
コロンブス自身が、サンサルバドル島に到着した時に書き残した記録がWikipediaに邦訳されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%B9
「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。…」
コロンブス一行は、サンサルバドル島だけでなく武器で原住民を脅迫して金銀宝石、真珠などを強奪し、イスパニョール島にスペイン初の入植地を作り、39名を残して、翌1493年3月にスペインに戻っている。
スペインでは大歓迎されて、この地にキリスト教徒になりうるあるいはスペインの下僕になりうるインディオが住んでおり、また黄金も発見されたことを国王や教会関係者、出資者に報告している。彼は2回目の航海の目標をこう書いているという。
「彼らが必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ。」
早速2回目の航海が準備され、1493年の9月25日に出帆することになるが、今度は植民が目的のために農民や坑夫を含む17隻1500人という大船団であった。
しかしながら、11月にドミニカ島に到着し、前回作った入植地に行ってみると基地は原住民により破壊されており、現地に残したメンバー39人は全員が殺されていたという。
コロンブスはこの場所を放棄して新たなイザベル植民地を作ったが、スペイン人の行為に対して次第に原住民の怒りが高まっていく。1494年末に最初の原住民の反乱があり、それに対してスペイン人は武力報復を敢行し、多数のインディオを殺害し、また捕虜にした。この多くは現地で奴隷として使役されたが、一部は奴隷としてスペインに送られている。
布留川正博氏は『近代世界と奴隷制』という本の中で、
「1498年、第3次の航海では、コロンブスがおよそ600人ものインディオを奴隷としてスペインに連れて帰っている。こうして、強制労働→インディオ反乱→武力制圧→強制労働という「閉じた回路」がこの時点で形成される。この回路を成立させていたのは、レコンキスタ*の延長線上にある当時のスペインの好戦的姿勢とそれを物質的に保証する武力的優位、それにイスラム教徒でさえない邪教徒インディオに対する極端な侮蔑意識であった。
コロンブスによってきり拓かれたインディオに対する支配とその奴隷化への道は、ここエスパニョーラ島だけでなく、時を移さずカリブ海諸島全域に広がり、その後アステカ帝国やインカ帝国、「新世界」全域に及んだ…」(p.58)と述べている。
*レコンキスタ:718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動
岩波文庫にラス・カサス神父が著した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』という本がある。神父の父ペドロがコロンブスの第2回目の航海に参加し、自身は1502年以降インディオスに何度も渡り、コロンブス以降のインディオの社会崩壊を目の当たりにした。
ラス・カサス自身は何よりも平和的な方法によるインディオのキリスト教化を望んでいたのだがインディオの状況は酷くなるばかりであり、1541年に国王カルロス5世に謁見してインディオの社会崩壊はスペイン人の非道な所業によるものであるとの報告書を提出している。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、その時の報告書をもとに著されたものであるが、ここにはこう書かれている。
「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。…彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ共和国のある島)で…非常に豊かな島であった。周囲には無数の大きな島が点在し、その島一帯には、我々も目撃したのであるが、世界のどこを探しても見当たらないほど大勢の土着の人びと、インディオたちがひしめきあって暮らしていた。…1541年までに発見された土地だけについてみても、人びとはまるで巣に群がる蜂のようにひしめきあい、さながら神が人類の大部分をそこに棲まわせたかのようであった。
神はその地方一帯にすむ無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対し、また、現在彼らが仕えているキリスト教徒たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。…」(岩波文庫p.17-18)
「…スペイン人たちは、…これらの従順な羊の群に出会うとすぐ、まるで何日も続いた飢えのために猛り狂った獅子のようにその中に突き進んで行った。この40年間の間、また、今もなお、スペイン人たちはかって人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョール島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。…」(岩波文庫p.19-20)
「インディアスへ渡ったキリスト教徒を名のる人たちがその哀れな人びとをこの世から根絶し、絶滅させるに用いた手口は主に2つあった。ひとつは不正で残酷な血なまぐさい暴虐的な戦争による方法である。いまひとつは、何とかして身の自由を取り戻そうとしたり、苦しい拷問から逃れようとしたりする領主や勇敢な男たちを全員殺害しておいて、生き残った人たちを奴隷にして、かつて人間が、また、獣ですら蒙ったことのないこのうえなく苛酷で恐ろしい耐え難い状態に陥れ、圧迫する方法である。キリスト教徒たちが無数の人びとを殺戮するのに用いたそのほかの様々な手口は、ことごとくこの2つの極悪無慙で暴虐的な方法に集約される。
キリスト教徒たちがそれほど多くの人びとをあやめ、破滅させることになったその原因はただひとつ、ひたすら彼らが黄金を手に入れることを最終目的と考え、できる限り短時日で財を築こうとし、身分不相応な高い地位に就こうとしたことにある。…」(岩波文庫p.21-22)
具体的な暴虐の実態はラス・カサスの上記著書の各ページに書かれているが、紹介してもきりがないので、ここではラス・カサスの著書に添えられたテオドール・デブリーの版画を紹介しておく。
ラス・カサスはエスパニョール島の人口はかって300万人いたと書いているが、統計があるわけでもないので数字はあまりあてにしないほうが良いだろう。
布留川正博氏の上掲書よると、コロンブスが来る以前のエスパニョール島の人口は20万~30万人で、それが1570年には2集落を残すのみとなったとあり、キューバ島に関しては、当初6万人いたインディオが1544年にはわずか千人になったと書いてある。ラス・カサスよりもこちらの数字のほうが正しいような気もするが、この説も論拠についてはよくわからない。
いずれにせよ南海の楽園が、スペイン人によってほとんど壊滅状態になったことだけは間違いがない。ほとんど原住民がいなくなってしまったので、不足する労働力を補うために、後に白人がこの地にアフリカから大量の奴隷を輸入することになったのだ。
しかし、このようなインディオの悲劇はなぜ起こったのだろうか。
ローマ教皇はこんなに残虐な行為を止めるつもりがあったのか、なかったのか。
これはキリスト教国だから起こった出来事なのか、どの宗教の国でもありえたことなのだろうか。
その点については、次回以降のテーマとして書くことにしたい。
***************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
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【ご参考】
このブログで書いてきた内容の一部をまとめた著書が2019年4月1日から全国の大手書店やネットで販売されています。
また令和2年3月30日に、電子書籍版の販売が開始されました。価格は紙の書籍よりも割安になっています。
【電子書籍版】
大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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ルイス・フロイスの記録によるコエリョと秀吉との論争を読んだ印象では、キリスト教の布教と奴隷売買とは繋がっていたと私は判断しているのだが、あるSNSで私のブログの上記記事を紹介したところ、キリスト教会は奴隷貿易に積極的であったわけではないとの意見が出てかなり議論になった。
この問題について、新たに調べて勉強になったこともあるので自分の考えを整理する意味で、当時のキリスト教が奴隷貿易にどう関わっていたのかについて、自分なりに纏めておくことにしたい。
有史以来、戦争の勝者が捕虜や被征服国の住民を奴隷とすることは、程度の差はあるが世界中で存在したし、わが国でもそれは例外ではなかった。
一口に「奴隷」といっても待遇は時代・地域によりさまざまで、例えばスパルタの奴隷は移動の自由こそなかったが、一定の租税さえ納めれば経済的に独立した生活を送ることができたそうだし、アテナイの奴隷は市内移動の自由が認められ、知的労働に従事することもあったというし、古代ローマではローマ市民権を得て自由人となる道も開かれていたそうだ。
奴隷貿易が質量ともに変化するのは15世紀から始まる「大航海時代」以降の話で、ヨーロッパ人がインド・アジア、アメリカ大陸、アフリカ大陸などに進出し植民地的な海外進出を始めた頃からなのだが、「奴隷狩り」で大量に集められた奴隷が商品として地球規模で売られていったのはこの時期からだと考えて良い。
この時期に日本人奴隷が大量に流出したことは、こうした世界史の流れの中で理解すべきであると思うのだ。
では、この時期のスペイン・ポルトガルの世界侵略の実態はいかなるものであったのか。その点が日本の教科書には、残念ながら綺麗ごとが書かれているだけなのだ。
教科書では『侵略』という言葉を使わず『ヨーロッパの世界進出』とか『ヨーロッパ世界の膨張』という無味乾燥な言葉を必ず使うことにいつも違和感を覚えるのだが、この時代に起こったことは、普通に考えれば『侵略』とか『大虐殺』という表現こそがずっと相応しいと思うのだ。
ヨーロッパ人がこの時期に世界中を荒らしまわった背景について、教科書によく書かれているのは、マルコ・ポーロの『東方見聞録』によって金の空想にかきたてられてアジアの関心が高まったこと、ヨーロッパ人の必需品となっていた香辛料がイスラム圏との争いで手に入りにくくなって価格が高騰したこと、羅針盤の改良などの遠洋航海術の発達や地理学の発達したこと、キリスト教の布教熱の高まりがあったことなどがあげられて、1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見したことや、1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見したことなどが淡々と記載されていると思う。
教科書だけで歴史を学べば、大半の人がコロンブスは英雄だと思ってしまうところだろうが、当時の記録などを実際に読んでみると多くの人がショック受けることだろう。
後に地球規模の奴隷貿易を出現させたと言われているコロンブスの航海を最初にふりかえってみることにしたい。
1492年8月3日にコロンブスは約90名の乗組員を乗せてサンタ・マリア号以下3隻の船でパロス港から出帆し、西回り航路でインディアスを目指した。
10月12日に今のバハマ諸島のウォトリング島に到着し、この島をインディアスの一部と考え、そこに住む人々を「インディオ」と呼び、島の名前をサンサルバドル島とした。
コロンブス自身が、サンサルバドル島に到着した時に書き残した記録がWikipediaに邦訳されている。
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「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。…」
コロンブス一行は、サンサルバドル島だけでなく武器で原住民を脅迫して金銀宝石、真珠などを強奪し、イスパニョール島にスペイン初の入植地を作り、39名を残して、翌1493年3月にスペインに戻っている。
スペインでは大歓迎されて、この地にキリスト教徒になりうるあるいはスペインの下僕になりうるインディオが住んでおり、また黄金も発見されたことを国王や教会関係者、出資者に報告している。彼は2回目の航海の目標をこう書いているという。
「彼らが必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ。」
早速2回目の航海が準備され、1493年の9月25日に出帆することになるが、今度は植民が目的のために農民や坑夫を含む17隻1500人という大船団であった。
しかしながら、11月にドミニカ島に到着し、前回作った入植地に行ってみると基地は原住民により破壊されており、現地に残したメンバー39人は全員が殺されていたという。
コロンブスはこの場所を放棄して新たなイザベル植民地を作ったが、スペイン人の行為に対して次第に原住民の怒りが高まっていく。1494年末に最初の原住民の反乱があり、それに対してスペイン人は武力報復を敢行し、多数のインディオを殺害し、また捕虜にした。この多くは現地で奴隷として使役されたが、一部は奴隷としてスペインに送られている。
布留川正博氏は『近代世界と奴隷制』という本の中で、
「1498年、第3次の航海では、コロンブスがおよそ600人ものインディオを奴隷としてスペインに連れて帰っている。こうして、強制労働→インディオ反乱→武力制圧→強制労働という「閉じた回路」がこの時点で形成される。この回路を成立させていたのは、レコンキスタ*の延長線上にある当時のスペインの好戦的姿勢とそれを物質的に保証する武力的優位、それにイスラム教徒でさえない邪教徒インディオに対する極端な侮蔑意識であった。
コロンブスによってきり拓かれたインディオに対する支配とその奴隷化への道は、ここエスパニョーラ島だけでなく、時を移さずカリブ海諸島全域に広がり、その後アステカ帝国やインカ帝国、「新世界」全域に及んだ…」(p.58)と述べている。
*レコンキスタ:718年から1492年までに行われたキリスト教国によるイベリア半島の再征服活動
岩波文庫にラス・カサス神父が著した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』という本がある。神父の父ペドロがコロンブスの第2回目の航海に参加し、自身は1502年以降インディオスに何度も渡り、コロンブス以降のインディオの社会崩壊を目の当たりにした。
ラス・カサス自身は何よりも平和的な方法によるインディオのキリスト教化を望んでいたのだがインディオの状況は酷くなるばかりであり、1541年に国王カルロス5世に謁見してインディオの社会崩壊はスペイン人の非道な所業によるものであるとの報告書を提出している。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、その時の報告書をもとに著されたものであるが、ここにはこう書かれている。
「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。…彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ共和国のある島)で…非常に豊かな島であった。周囲には無数の大きな島が点在し、その島一帯には、我々も目撃したのであるが、世界のどこを探しても見当たらないほど大勢の土着の人びと、インディオたちがひしめきあって暮らしていた。…1541年までに発見された土地だけについてみても、人びとはまるで巣に群がる蜂のようにひしめきあい、さながら神が人類の大部分をそこに棲まわせたかのようであった。
神はその地方一帯にすむ無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対し、また、現在彼らが仕えているキリスト教徒たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。…」(岩波文庫p.17-18)
「…スペイン人たちは、…これらの従順な羊の群に出会うとすぐ、まるで何日も続いた飢えのために猛り狂った獅子のようにその中に突き進んで行った。この40年間の間、また、今もなお、スペイン人たちはかって人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョール島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。…」(岩波文庫p.19-20)
「インディアスへ渡ったキリスト教徒を名のる人たちがその哀れな人びとをこの世から根絶し、絶滅させるに用いた手口は主に2つあった。ひとつは不正で残酷な血なまぐさい暴虐的な戦争による方法である。いまひとつは、何とかして身の自由を取り戻そうとしたり、苦しい拷問から逃れようとしたりする領主や勇敢な男たちを全員殺害しておいて、生き残った人たちを奴隷にして、かつて人間が、また、獣ですら蒙ったことのないこのうえなく苛酷で恐ろしい耐え難い状態に陥れ、圧迫する方法である。キリスト教徒たちが無数の人びとを殺戮するのに用いたそのほかの様々な手口は、ことごとくこの2つの極悪無慙で暴虐的な方法に集約される。
キリスト教徒たちがそれほど多くの人びとをあやめ、破滅させることになったその原因はただひとつ、ひたすら彼らが黄金を手に入れることを最終目的と考え、できる限り短時日で財を築こうとし、身分不相応な高い地位に就こうとしたことにある。…」(岩波文庫p.21-22)
具体的な暴虐の実態はラス・カサスの上記著書の各ページに書かれているが、紹介してもきりがないので、ここではラス・カサスの著書に添えられたテオドール・デブリーの版画を紹介しておく。
ラス・カサスはエスパニョール島の人口はかって300万人いたと書いているが、統計があるわけでもないので数字はあまりあてにしないほうが良いだろう。
布留川正博氏の上掲書よると、コロンブスが来る以前のエスパニョール島の人口は20万~30万人で、それが1570年には2集落を残すのみとなったとあり、キューバ島に関しては、当初6万人いたインディオが1544年にはわずか千人になったと書いてある。ラス・カサスよりもこちらの数字のほうが正しいような気もするが、この説も論拠についてはよくわからない。
いずれにせよ南海の楽園が、スペイン人によってほとんど壊滅状態になったことだけは間違いがない。ほとんど原住民がいなくなってしまったので、不足する労働力を補うために、後に白人がこの地にアフリカから大量の奴隷を輸入することになったのだ。
しかし、このようなインディオの悲劇はなぜ起こったのだろうか。
ローマ教皇はこんなに残虐な行為を止めるつもりがあったのか、なかったのか。
これはキリスト教国だから起こった出来事なのか、どの宗教の国でもありえたことなのだろうか。
その点については、次回以降のテーマとして書くことにしたい。
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【ご参考】
このブログで書いてきた内容の一部をまとめた著書が2019年4月1日から全国の大手書店やネットで販売されています。
また令和2年3月30日に、電子書籍版の販売が開始されました。価格は紙の書籍よりも割安になっています。
【電子書籍版】
大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
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