島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
この乱は島原半島と天草諸島が舞台となったが、島原は戦国時代に有馬晴信、天草諸島は小西行長という熱心なキリシタン大名が統治した地域である。その後、関ヶ原の戦いの後に天草諸島は寺沢広高の領地となり、慶長19年(1614)に島原は松倉重政の領地となり、それぞれがキリシタン弾圧を行なったことが知られている。
そして寛永14年(1637)10月に島原の乱が始まっているのだが、わが国の一般的な教科書ではどう描かれているかと思って『もう一度読む 山川の日本史』で確かめてみると、こう記されている。
「こうして鎖国政策が強化されていったとき、九州で島原の乱がおこった。そのころ、島原・天草地方には多くのキリスト教徒がいたが、領主は徹底した禁教政策をとり、年貢の取り立ても厳しくした。この圧政に反抗した農民は、天草四郎時貞を総大将として、1637(寛永14)年から翌年にかけて島原半島の原城跡にたてこもり、幕府軍と半年近くも戦ったが、武器や食料が尽きて敗北した」(『もう一度読む 山川の日本史』p.160-161)
この文章を普通に読めば、島原・天草地方のキリシタン弾圧がひどかっただけでなく、重税を課したことから農民たちが圧政に立ちあがったものと理解するしかない。学生時代にはこのような記述を何も考えずに鵜呑みにしていたのだが、よくよく考えるといくつも疑問が湧いてくる。
このブログで何度か事例を記してきたとおり、禁教政策はこの地域だけではなく各地で行われていたし、信仰の篤い多くのキリシタンは、迫害を受けた場合に抵抗もせずに殉教の道を選んでいる。なぜ島原・天草のキリシタンは、他の地域のように殉教の道を選ばずに、幕府と戦うことを選択したのだろうか。
また3万7千人とも言われる反乱勢が12万以上の幕府軍と4ヶ月間も戦っているのだが、これだけ長期戦になったのは、反乱勢が大量の武器弾薬を保有していたからにほかならない。では、彼らが大量の鉄砲などを保有していただけではなく、その使い方にも習熟していたのは何故なのか。
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第14 徳川幕府上期 上巻 鎖国篇』に、当時平戸にいたオランダ商館長クーケバッケルがバタビヤ総督に宛てた書状が引用されている。これを読むと、島原藩の領主松倉重政がどのような政治を行ない、島原の乱を主導したメンバーがどういう連中であったかが見えてくる。
「…有馬の君主[有馬直純]は、陛下[将軍]の命にて、他国へ移封せられたが、彼は僅かに若干の臣下を伴い行(ゆ)いた。これに反して新たに有馬に封ぜられたる新領主[松倉重政]は、ほとんど悉(ことごと)くその旧家臣を率いてきた。これがために先領主の旧家臣らは、その歳入を奪われ、非常に困窮して、何れも百姓となった。この百姓は、ただ名のみで、その実は、武器の使用に熟練した兵士であった。
新来の領主は、彼らの旧禄を奪ったにとどまらず、さらに彼らおよび従来よりの純農民に課税し、彼らの負担し得ざる程の米穀の高を徴した。而してもし上納し得ぬ者あれば、日本人の蓑(みの)と称するものを着せ、これを首と体とに捲き締め、縄(なわ)もて両手を背後にしかと縛(しば)り、しかる後この着物に火をつけた。かくて彼らは火傷するばかりでなく、中には焼死する者もあった。この悲劇を蓑踊りと称した。
この執念深き領主は、また婦女を赤裸にして、両足を縛りて、さかしなに吊るし、その他種々の仕方もて、彼女らを侮辱した。
しかも人民はかろうじてこれに耐え忍んだだが、その嗣子にして江戸に住する領主[松倉重治]に至りては、さらにその上に重税を課したから、むしろ坐して餓死を待たんよりも、自殺するに若(し)かずと、まず自らの妻子を手刃するにいたった。
長崎港の南方、有馬領の対岸に位し、退潮の時は、徒歩にても渡り得べき島がある。これが天草島だ。ここの農民もまた、その領主に虐げられた。彼らの領主[寺澤堅高]は、平戸の北方15哩(マイル)の唐津にありて、恒に誅求を事とした。而して彼らは有馬の農民と、互いに相呼応して、一揆を爆発せしめた。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/187
このように、島原の乱を主導したのは旧領主の家臣であったことをオランダ人が記録していることは重要なポイントである。
外国人の記録だけではなくわが国にも史料があるようだ。たとえば『天草征伐記』には、一揆の中心メンバーの名前が記されているという。徳富蘇峰の同上書にその史料が紹介されている。
「天草甚兵衛、同 玄札、大矢野作左衛門、千々輪五郎左衛門、芦塚忠右衛門、赤星内膳、この六人一所に集まり、暫らく物語した。大矢野作左衛門曰く、さてさて口惜しきことよ。このままにて餓死に及ぶとは。時に天草玄札曰く、この島(天草島)の領主寺澤志摩守(廣高)は善人であったが、今の兵庫頭(堅高)は、法令苛(きび)しく、無法に百姓に課役をかけ、福分の百姓も悉く貧しくなり、恨み骨髄に徹している。今この時に於いて、一揆を起こし、運を開くか、左なくば、潔く討死しては如何と。芦塚忠右衛門曰く、尤も妙だ。この島は種子島に近く、島中の鉄砲五六百梃もあらん。百姓共も修練して鹿猿を打つ猟師なれば、武士たりとて、これには及ぶべくもあらず。かつこの島民は本来切支丹なれば、この宗門に託して、不思議を現わし、一味徒党を以て、一揆を企つべしと。これにて評定一決した。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/189
徳川幕府の正史である『徳川実記』にも首謀者の名前が明記されているようだ。
徳富蘇峰の解説によると、「徳川実記には、小西行長の遺臣にして、朝鮮役に軍功のありたる大矢野松右衛門、千束善右衛門、大江深右衛門、山善右衛門、森宗意の5人が、主謀者となり、大矢野村庄屋益田甚兵衛の子四郎(後に時貞)といえる、16歳の少年を擁して愚民を煽動した」とある。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223830/190
『天草征伐記』と『徳川実記』とは首謀者の名前が微妙に異なるのだが、キリシタン大名であった小西行長の遺臣が中心になって、そのまわりに有馬の旧臣も加わって、困窮した農民を糾合して蹶起したという点は同じである。しかし、なぜ、戦後の教科書やマスコミなどの解説に、そのことをしっかり伝えないのだろうか。
島原の乱の起こる数年前から、天候異変や台風などにより農作物の不作が続き、農民たちが重い年貢の取立てに困窮していたことや、キリシタンに対する厳しい迫害があったことは史実である。だから、農民たちが年貢の減免を求めて蹶起したというのが国民の常識になってしまっているのだが、この説が作り話である事は当時の史料を読めば明らかなようである。
神田千里氏の著書である『宗教で読む戦国時代』に、当時の記録をもとに「一揆勢」の行動が紹介されているので紹介したい。
「…大矢野村で、大庄屋の小左衛門が百姓ら四、五十人を引き連れて栖本の代官のところに押しかけたことが天草での蜂起の発端であったが、代官のもとに押しかけた百姓たちは、自分達はキリシタンに立ち返る*と宣言したのみで、年貢を減免せよとは言っていない。…この事件についての別の証言では代官自身にキリシタンになるよう迫った、というから、これが百姓側の主要な訴えであったことは確かだと思われる。とすると、年貢の苛酷な取立てに憤った百姓の言い分としては、いかにも奇妙な感は免れない。いったい農民たちは代官に年貢を減免させたいのだろうか、それてもキリシタンに改宗させたいのだろうか。
また一揆勢は他の村々や周囲の人々にキリシタンになるよう迫り、それに従わない村に対しては攻撃を加えた。天草御領村の住民たちに対して一揆は、キリシタンになるなら仲間に入れてやるが、ならなければ皆殺しにすると迫り、住民たちは否応なくキリシタンになったという。(『御書奉書写言上扣』)…
通常の百姓一揆では一揆に加わらない村々に制裁を加えたことが知られているが、一揆に加わることとキリシタンに改宗することは別である。一揆勢が迫ったのは改宗であり、下手をすれば『異教徒』の村を敵に回しかねないことである。なぜ、このように、一揆勢力は改宗にこだわったのか。苛酷な年貢徴収に憤った農民が、信仰を結束軸として立ち上がったという筋書きは、如何にもそれらしくは見えるものの、一揆勢の行動はこれでは説明できないだろう。」(『宗教で読む戦国時代』p.178-179)
*立ち返る:キリスト教を棄教した者が再び信者に戻ること
「まず一揆勢の行動で目に付くのは寺社への放火や僧侶の殺害である。…有馬村では…新兵衛という者が逮捕された晩に、村民らが、所々の寺社を焼き払ってキリシタンになり、これに周辺八ヵ村の村民らが同調して寺社に火を点け、キリシタンにならない村民の家には火をかけている。さらに島原城の城下町へ来襲した一揆は江東寺、桜井寺に放火している(『別当杢左衛門覚書』)…
…
寺社への攻撃とともに僧侶や神官の殺害も見られる。先に見た有馬村の角内・三吉が逮捕された後、有馬村の住民たちは、信仰の取締りに赴いた代官の林兵左衛門を切り捨てた後、村々へ廻状を廻し、代官や『出家』『社人』(下級神官)らをことごとく打ち殺すよう伝達した為に、僧侶、下級神官や『いきがかりの旅人』までが殺されたという(『佐野弥七左衛門覚書』)。また島原の町の水頭にある寺で火事があったとの報に、城内から侍三人が現場へ駆けつけたところ、火事ではなく寺の住持の首を切り三本の竹を組んだ上に指物にして載せて一揆が城へ向かう所であったという(『松竹吉右衛門筆記』)」(同上書 p.179-180)
このような寺社への放火は島原だけでなく天草大矢野島でも行われているのだが、こういう記録を読むとキリシタン連中が立ち上がったのは、重税に抗議したという政治的なものでは全くなく、極めて宗教的色彩の強いものであったと考えるしかない。
寺社に火をつけたメンバーの証言も残されている。
「一揆の副将であったが幕府方に内通したために原城落城の後に生きのびた山田右衛門作の証言では、にわかに立ち帰った村の主だった者たちが、人数を動員して島原の在々所々の代官に加え、『他宗の出家、キリシタンにならないもの』を残らず切り殺して蜂起したのが乱の発端だったという(『山田右衛門作口書写』)。代官林兵左衛門を殺害したのち、佐志喜作右衛門、山善左衛門二人の名前で出された村々への廻状が『耶蘇天誅記』に収められているが、そこでは林兵左衛門が『デウス様』へ敵対したから殺害したことを述べ、早く村々の代官はじめ『ゼンチョ(異教徒)』を一人残らず殺害すべきことが指示されている。
寺社の放火、破壊、僧侶・神官の殺害が等しく『異教徒』を撲滅する行為の一環であったことがうかがえるが、これらの行為が島原藩や、天草地方を統治する唐津藩の苛酷な年貢徴収に対する抗議活動や反対運動と見なすことができないことは言うまでもない。」(同上書 p.180-181)
当時の島原・天草のキリシタン達は、「異教徒」や「異教施設」は世の中から排除すべき存在であると考え、そのために異教徒を殺すことも寺社を破壊することも正しいと考えたようなのだが、「一神教」というものは純粋化すればするほど異教徒に対して排撃的となり、神の名を借りて過激な行動を正当化することがよくある。
このことはキリスト教だけが問題なのでなくて、イスラム教においても同様なことが起きている。
島原の乱においては、このような過激なキリシタンが大量の武器を手にしたから厄介なことになったのだが、この戦いがどう進行し、幕府は如何にして鎮圧したのだろうか。
そのことを記述するとまた長くなってしまうので、次回に続きを書くことにしたい。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
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