スペインは、1521年に北米メキシコで栄えたアステカ、33年には南米ペルーにあったインカを滅ぼし、メキシコなどをスペイン副王領とすると太平洋に進出した。
43年に西太平洋のレイテ島に上陸し、当時のフェリペ皇太子にちなんで周辺諸島をフィリピンと命名した。70年にはマニラを征服、メキシコ副王の総督をマニラに置き本格的な支配を行った。
1581~1640年には、スペイン国王がポルトガル国王を兼ねており、東アジアに進出してきたポルトガルとの争いも無くなり、東アジア侵攻を考えることになる。
フィリピン総督は、中国征服に強い意欲を持ち、スペイン国王に再三、書簡を送っている(高瀬弘一郎氏の論文『キリシタン宣教師の軍事計画』から)。
当時、日本でも有名なイエズス会巡察使、アレッサンドロ・ヴァリニャーノも1582年、フィリピン総督に以下のような書簡を送っている。
「時宜と条件にかなえば、中国が陛下の支配下に入るのはかなり容易であろう」「日本布教は神の教会の中で最も重要な事業の一つであることを断言できる。国民は非常に高潔かつ有能にして、理性に良く従うからである」
「もっとも、日本は征服事業を企てる対象としては不向きである」「国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。しかしながら、中国の征服事業を行うことには、非常に益することになろう」
日本布教長をしていたフランシスコ・カブラル(元軍人)は84年、マカオからスペイン国王に以下の趣旨の書簡を送った。
「中国貴族は逸楽に溺れており、一方で国民は武装を禁じられ、鍛錬されておらず臆病である。政治が過酷で国民はわれわれの統治の方がましと思えば謀反が発生しわれわれにとって利点となる」
「この征服事業を行うには1万の軍勢と適当な規模の艦隊があれば十分。日本に駐在しているパードレ(宣教師)たちが、容易に2000~3000の日本人キリスト教徒を送ることができよう。彼らは打ち続く戦争に従軍しており、陸海の戦闘に大変勇敢な兵隊」
フィリピン・イエズス会のアロンソ・サンチェスも84年、「説教で中国人を改宗させることは不可能だ。中国で30年近くやってきた人も同じことを言う。神はこの事業をメキシコやペルーと同じ道程(征服、改宗)で完了すべき」と記した。
87年のフィリピン総督からメキシコ副王への書簡には、キリシタン大名、小西行長の兵を中国に差し向ける用意があるとの記述もある。
85年、キリシタン大名、高山右近の付き添いで、イエズス会司祭、ガスパール・コエリョが、関白、豊臣秀吉に面会した。秀吉は厚くもてなすとともに、次のような趣旨の発言をしている。
「日本平定後、明を征伐し降伏させる志を持っており、軍船2000を作ろうと考えている。ポルトガルの大型軍艦2隻を言い値で買い取りたい。師に斡旋(あっせん)していただけるとありがたい。征服後には明にキリスト協会を建て改宗命令を出そう」(『日本西教史』より)
秀吉の発言は、宣教師たちとキリシタン大名が事前に相談・根回しをしたのであろう。米大陸経由でフィリピンまで征服してきたスペインは、日本の征服は無理だが、日本の軍事力は利用できると考えたようだ。
内藤克彦
ないとう・かつひこ 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。環境省地球総合環境政策局環境影響審査室長、水・大気環境局自動車環境対策課長、東京都港区副区長、京都大学大学院経済学研究科特任教授などを経て、現在は東北大学特任教授。個人的に歴史研究を深めている。著書に『展望次世代自動車』(化学工業日報社)、『五感で楽しむまちづくり』(学陽書房)など多数。