はてなキーワード: 安野モヨコとは
ちょっと早い時間に出勤したら、運良く人身事故とか大きいトラブル回避できちゃったぜ、いえーい!の世代…😟
で、俺たち第一次?就職氷河期が、いわゆるベビーブーム世代なんで、大量の犠牲者が出て阿鼻叫喚、
そこから急速に回復して、氷河期なかったことにされて、氷河期プギャーwされてたところに、第二次氷河期が到来、リーマンショックがどーのとか…😟
まあ、そんな感じでも、後々メンタル壊すことになるとしても、IT関係は仕事があったんですよ、
インターネット黎明期とでもいうか、携帯電話開発で地獄を見た人がネットで有名になったりしたじゃないですか、
横浜だったか、どこだったか、逃げられない閉鎖的なところでゴミみたいなファーム開発する地獄…😟
自分はゲーム開発とかからWebに逃げたタイプなので、基本ソルジャーじゃないというか、
みんながアーノルドシュワルツェネッガー扮するターミネーターと格闘してる間に、ちゃっかり逃げたけど、
どこにも行き場所がなくなっちゃって、元から健常者じゃないし、負傷したしで、
何の因果か落ちぶれて、今じゃマッポの手先、じゃなかった社会の底辺…😟
まあ、ハッピーマニアとか、働きマンとか、嫌いじゃない、寧ろ面白く読んでた時期もあるんだけど、
敢えて日本人の容姿じゃなくて、白人っぽい容姿で描く、あの絵柄とか、バブルなんだよね、
俺はド田舎で、テレビでワンレンボディコンのおねえちゃんが扇子持って踊ってるなあ、みたいな印象しかないんだけど…😟
まあ、学校にも父親がダンプの運転手で、寧ろ羽振りが普通のサラリーマンよりいい、みたいなのあったしねえ…、
金持ちのスネ夫みたいなヤンキー、スネ夫とジャイアン足して二で割ったような奴がいっぱいいましたよ、俺には地獄だったけど…😟
みんな大好き庵野監督の嫁、安野モヨコのハッピーマニアでシゲタがはいチーズ!のかわりに言った。
写真撮る時にはいチーズ!だと最後の口がズだから、ほら、チューする口になるじゃないですか。
シゲタの「キムチ!」なら最後の口がイーってなるから笑顔になるよね。
正解。
もっと時を遡るとサトウサンペイ氏が漫画「フジ三太郎」でこの件をすでに言及されている。
サトウサンペイ氏を知らない方はググってください、絵を見たら、30代くらいの人までなら見たことあるんじゃないかな。
チーズ、ってするとチューの口になって写真が撮られるから、さてどうしたもんかと地図を広げてチーズのかわりに「フィージー」にした、という四コマ漫画だった。
そこでフィージーを知った。
でもさすが安野モヨコ。
この件を知ってか知らずか、キムチ!のほうがより良い。
フィージーって、非日常すぎるがキムチなら日常だし、チーズの代替として完璧。
写真撮るときははいチーズではなくキムチ!が良いね。あれ、もしや韓国ではキムチ!なのか?
キムチ旨いよね。
娘(3歳)が「くしゃい!」っていうから中々食べられないんだけど。
ちょうど先日chatgptとシン・エヴァの話をしたので、幼稚なtogetterとの比較のために掲載しておく。
人類はchatGPTにすでに敗北していると思う。
以下chatgptからの返答。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』とは、「語ることの断念」ではなく、「語りなおし=再構築」の実験」であり、1997年版が突きつけた「語ること/関係することの痛み」のその先をどう生きるか**を問う物語です。
要するに、あの「気持ち悪い」から、もう一度「やりなおす」試みです。
■前提:『まごころを、君に』のラディカルさのあとに
1997年版が突きつけたのは、次のような問いでした:
「語ること・終わらせることは可能か?」
『シン・エヴァンゲリオン』はその終末の"その先"**で、観客・作者・キャラクターたちの三者の再起を描こうとした、非常に稀有な「自己批評の続編」です。
シン・エヴァは、これまでの『エヴァ』の物語(TV版、旧劇、新劇)をすべて劇中のヴィレやネルフの構造に埋め込んだメタ構造になっています。
つまり、「物語が終わったあとにもう一度、物語を語りなおすことは可能か?」という問いの演習なのです。
ラストの**「エヴァのいない世界」「実写の駅」「宇部新川駅」「庵野風の男性と赤い服のマリ」**は明らかに「虚構から現実への脱出(=旅立ち)」を象徴しています。
マリは**庵野秀明の現実の妻(安野モヨコ)**をモデルとした存在。
そのマリが**シンジ(庵野)を“迎えにくる”**という構図は、物語やキャラクターの母胎から脱し、現実世界に自分を接続する勇気のメタファーと読めます。
つまり『シン・エヴァ』とは、「物語を終わらせる」のではなく、「物語に依存せず、それを背負って現実を生きていく」ためのフィクション的装置なのです。
『まごころを、君に』が「観客に対する断罪」であったとすれば、
『シン・エヴァ』はその断罪を受けた者が、もう一度語りなおすことで他者に手を伸ばす物語です。
「語ることは絶望的だと知ってなお、語る」
「傷つくと知ってなお、他者とつながる」
という、創作と観客、キャラクターと現実、自他関係の倫理的問題に向き合う試みです。
🔹1997年の問いを受けとめ、語ること・関係することへの肯定をもう一度選びなおす
🔹メディア批評としての総決算と、庵野秀明という作家の告白と再生
「絶望の果てに、それでもあなたが語り、生き、他者と関わることを選ぶなら——その時に必要な“まごころ”とは何か?」
という問いを、庵野自身が自らに向けて問いなおし、答えた作品だと言えます。
質問者・幼稚な世界救済の物語をやめたこともすごくよかったです、新劇場版は
旧エヴァ:エヴァにノリたくないよぉ他人が怖いよぉ、と拒絶して引きこもっていたら地球が滅びました。結論・引きこもりはよくない
序破:女の子のためにエヴァに乗っていっくぞおおおおお!今度こそ間違えない!
Q:女の子のためにエヴァに乗って行動したら地球が滅びました、行動すれば必ず成功するわけじゃないよね、そりゃ。
シン:等身大の関係性から自分を見つめ直して家族の問題を考えて、身近な人間たちとできることをしようと思いました。そうやって現実の僕らも生きているから。
こういう話でしたね、私にとっては。
まさにその通りですね。
その読みは、新劇場版という全体構造を「錯誤→破局→再接続」として読み解く、極めて実践的な理解だと思います。
でも「外に出ること」=「他人と関わること」は怖い。
「やっぱり戦って、誰かを救って、愛されたい」という願望。
救うために行動したはずなのに、全部が裏目に出る。
→ 結論:「正しさ」が何かを壊すこともある
それが結果的に「エヴァの終わり」であり、「自分の始まり」になる。
重要なのは、シン・エヴァが「世界を救う」話ではなかったこと。
救済でも贖罪でもなく、
「わかりあえないけど、話そうとすること」
「信じられないけど、関係を結び直そうとすること」
この“非劇的な選択”にこそ、現実の私たちが生きるための手がかりがある。
そういう意味で、『シン』は空前の“アンチ・クライマックス”型ヒューマンドラマだったのだと思います。
(1/3)
Q:マリは奥さんの安野モヨコさんがモデルというのは本当?
A:マリのモデルが妻だと解釈した文章や動画等を散見しますが、それは一部の人の解釈・憶測にすぎません。— エヴァンゲリオン公式 (@evangelion_co) March 8, 2022
(2/3)
マリの人物像(アスカ他もですが)は鶴巻監督の手によるところが大きく、制作時の事実とは違います。
キャラクターやストーリーの解釈は観客の自由な楽しみですし、本作にもファンのフリーな知的な遊び場としての余地を持たせています。 https://t.co/Knj2CZt0Lv— エヴァンゲリオン公式 (@evangelion_co) March 8, 2022
(3/3)
しかし偏った憶測でスタッフや家族を貶められるのはあまりに哀しいことなので、この点についてはハッキリと否定しておきます。 https://t.co/HNI7lrHopJ— エヴァンゲリオン公式 (@evangelion_co) March 8, 2022