はてなキーワード: サンドバッグとは
うちの旦那、最近やたら「家事育児に協力的(笑)」な理想のパパ気取ってて、マジでストレス溜まるわ。
世の中的には「神旦那」とか言われるんだろうけど、こっちからしたら迷惑以外の何物でもない。
正直、適度でいいんだよ、適度で。ちょっと抜けてて、「もう、パパは本当に何にもできないんだからw」ってママ友とのランチで笑いのネタにできるくらいの、ほどよい無能さ。それが欲しかった。
今まではさ、ママ友が「うちの旦那、マジでゴミ出しすら忘れるんだけど」とか愚痴ってる時に、「わかるー!うちもだよ、本当男って使えないよねーw」って同調して盛り上がれたわけ。それが女同士の連帯感じゃん?
なのに、今の私はなんて言えばいいの?
そんなんただの自慢にしか聞こえないし、周りからは「贅沢な悩みw」って白い目で見られる。結果、私はコミュニティの中で孤立。これ、旦那によるソフトな社会的抹殺でしょ。
そこを土足でズカズカ踏み荒らして、「やっておいたよ(ドヤ顔)」って。
は? 私の仕事を奪って楽しい? 私の存在価値を否定して気持ちよくなってる?
私が「疲れた」って言った時に欲しいのは、代わりの労働じゃなくて愚痴を聞いてくれるサンドバッグなの。
「大変だね、いつもありがとう、俺は不甲斐ないけど応援してるよ」っていう、圧倒的敗北宣言が欲しいの。
完璧にこなされると、私が今まで必死にやってきたことが誰でも片手間でできることに格下げされた気分。
簡単な資料整理、議事録作成、パワポエクセル職人ぜーんぶAIの方が上手いからなぁ
実際に大手は新規採用を絞り始めてるし、今年の新入社員の多くはパワハラし放題のサンドバッグ確定してしまってるのがかわいそう
有名人とかインフルエンサーとかの「モテ男」が不倫したり、二股かけたり、女を雑に扱って炎上したりするたびに、なぜか「非モテの弱者男性が〜」みたいな結論に着地する現象、あれ何なの?
いやいや、悪いことしたのはその「モテてる男」だろ。
俺たち非モテの弱者男性は、その間ずっと家でアニメ見てるか、スマホでソシャゲのログボ回収してるだけなんだわ。トラブルを起こすチャンスすら与えられてない。打席にすら立たせてもらえないベンチ外の人間に対して、「お前らのマインドがこの社会の歪みを作ってる」とか言われても、「は?」としか言いようがない。
結局、これって女側の「認めたくない」っていう防衛本能だろ。
自分が選んだ、あるいは憧れた「強者男性」がクズだったって認めるのはプライドが許さない。だから、「あいつは非モテの弱者男性だったんだ」ってことにしたいわけ。
モテ男が起こした不祥事の尻拭いとして「弱者男性のせい」とか言われて、謎の連帯責任を負わされる。
これ、控えめに言って地獄だろ。
ただそれだけのことが、なんで通じないわけ?
いや?負けてるよ
アメリカが勝てない(イランの抵抗勢力を全て殺して落ち着かせる)ができないだけでイランはただのサンドバッグ状態なのは何も変わらない
しかも全滅されられないが故にあの地域の紛争はずっと続くからそれはネタニヤフが望んでいる状態なわけ
そういう反イスラエル的な主張は置いておくとしてもお前の「イランは負けることはない」なんて主張は無理筋もいいとこだよ
インフラ破壊されて、残ってるインフラもいつでも壊せる状況にあって、子供爆殺されて、首脳は既にほとんど殺されて残りもイスラエルの胸三寸でいくらでも殺せる状況にあって、あとはテロ組織のようなゲリラ戦しか展開できない現状は負けてないとは言わない
『みいちゃんと山田さん』における主人公・みいちゃんは、作品内外で極めて対照的な解釈を突きつけられている。作中では「大家族のママになることが夢」と明言し、二つの瞳にそれぞれ新生児を映すほどの出生主義の象徴として描かれる一方、ネット上では「反出生主義のフェミニスト」という真逆のレッテルを貼られ、ミーム化の対象になっている。この乖離はなぜ生じるのか? ここには、作品解釈の三つの層が重なり合っている。
みいちゃんは「子供を産みたい」と繰り返し発言し、その願望はキャラクターの核を成す。にもかかわらず、「反出生主義者」という解釈が生まれるのはなぜか?
作中の明確な描写(例:瞳の新生児、多産願望の台詞)を意図的に切り捨て、都合の良い断片だけを拾い上げる。「読んでいない」または「読みたくない」という態度が透けて見える。
解釈者自身の反出生主義やフェミニズムへの嫌悪が、みいちゃんというキャラクターに向けられている。『みいちゃんと山田さん』は、読まれないまま語られ利用されている。
一部の議論では、「みいちゃんは近々死ぬことが確定しているが、もし現代まで生きてたら反出生主義になっていただろう」という話が持ち出されている。しかし、これは根拠のない空想に過ぎない。
作中の時間設定(2012年)から14年後を想定しても、みいちゃんの出生主義が反転することを匂わせるような描写は一切ない。この「もしも」は、「何でもあり」の妄想である。
「大家族のママになりたい」という核心的な願望を持つ人物を、「反出生主義に転向する可能性がゼロではない」という論理的飛躍で覆い隠すことは、キャラクターのアイデンティティを消し去る行為だ。これは、「男女カップルが作中で成立して結婚したとしても、別れてゲイになる可能性がゼロではないので、私の推しのBLカップルはほぼ公式みたいなものである」と言い出すのと同レベルで、情報の重みづけを無視した狂気的な解釈である。
「みいちゃん=バカな女」という認識が定着すると、作品の文脈は関係なくなる。これは、進撃の巨人においてはっきりと反出生主義的な思想を口にして行動にまで移した「ジーク・イェーガー」ではなく、不自然にもみいちゃんが反出生のアイコンとして選ばれる理由でもある——「バカな女」というイメージを利用したいからだ。
ここでは、みいちゃんはもはや『みいちゃんと山田さん』のキャラクターではない。彼女は、ネット上の「バカな女」を象徴する記号と化している。
読者が作品をどう受け取るかは、その人の経験や価値観に左右される。しかし、テキストを無視した解釈は、「自由」ではなく「暴力」に近い。
一度記号が独り歩きすると、元の作品は関係なくなる。これは、文化的な消費の在り方を問う問題でもある。
ここで問うべきは、
「私たちはいつ、なぜ、作品を『読む』のをやめて『利用する』ようになるのか?」
「キャラクターは、『サンドバッグにするための記号』であってよいのか?」
「『考察』と『妄想』の境界線は、どこにあるのか?」 である。
「自由な解釈」とは、テキストと向き合う責任を伴う。みいちゃんを「反出生フェミニスト」と呼ぶとき、私たちは何を無視し、何を強調しているのかを自覚すべきだ。
その理屈だと、
「死体遺棄は『メールと電話で死産だと言ったら死産なんだから逮捕は不当ですぅぅぅ』する人らが
レイプは『女が不同意だったと言ったら不同意なので有罪なんですぅぅぅ』する集団。
性交の事実があれば男をサンドバッグにして有罪にし放題でいたいという人々。 」
とも言えるんだが?
ていうか、レイプと乳児遺棄ってどっちも性欲を抑えられない身勝手な男女の行いだろ。
両者は対立してるんじゃなくて仲間なんだよ。
zyzy レイプは「わざとやったとしょうめいできないならふきそですぅぅぅ」する人らが「適切な行動してないから逮捕するんですぅぅぅ」する国。女を妊娠させればサンドバッグにして有罪にし放題でいたいという人々。
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