過ぐる時代の誤りは
我々に教訓を与えるために
我々がそれを繰り返さないために
記録されている
(元イギリス首相・グラッドストン)
過去の歴史に盲目な者は
現在においても盲目である
(元西ドイツ首相・ワイツゼッカ―)
過去を広く見渡すことができれば
未来も広く見渡すことができるだろう
(元イギリス首相・チャーチル)
平和を望まない人はいないでしょう。
平和を願わない人はいないでしょう。
ではお聞きします。
「平和」って何?
「へ、平和・・・。 平和 ?!」
ボーっと生きてんじゃねぇよ!
(by チコちゃん)
「平和」って何?
そう問われてあらためてじっくり考えてみると
「平和」に対して
漠然とした認識しかなかったことに
ハッとなりませんか?
「平和とはこういうものだ」
という確固たるものがない。
仮に「争いが無いこと」だけに注視して
それを「平和」な状態だと定義するのならば、
私はこれだけの「平和」の在り様を
思い付くんですよねぇ。
例えば
いかなる場合でも絶対に争わない。
非暴力を貫くことで
まったく争わない、争いを起こさない
という考えに基づく「平和」。
絶対平和主義とでもいうのでしょうか。
例えば
非暴力手段による問題解決が何より最優先だが
それでも解決せず状況が改善しない場合においては
例外的に必要最小限の武力を行使して争いを無くす
という考えに基づく「平和」。
平和優先主義かな。
例えば
人が自分の欲求に従って争うのは動物としての本能。
お互いの権利を主張しあえば衝突するのは当たり前。
ゆえにパワーバランス、力の均衡を積極的に図り
お互いをけん制しあうことで
小競り合いはあっても全面衝突はない、
そういう争いが起きない(起きにくい)状況を作り出すという、
「力の均衡・バランス」の考えに基づく「平和」。
冷戦時代の米ソなんかがこれにあたるかな。
例えば
他を凌駕する圧倒的絶対的力を獲得し
それを背景に他を完全に屈服させ
争う気をまったく起こさせないようにして
争いが無い状況を作り出すという
「絶対的力の安定的支配」の考えに基づく「平和」。
ジャイアン。(笑)
もちろん「争いが無いこと」だけが
「平和」の定義ではないわけだから
そのほかの異なる定義の「平和」にも
様々な「平和」の在り様があるんですよ。
しかも、10人いれば10人
100人いれば100人
つまり人の数だけ
「平和」の定義があり
「平和」に対する考え方がある。
一口に「平和」といっても
この世界には様々な「平和」の概念や形が
存在しているんですよねぇ。
では今度はちょっと角度を変えて
「平和」ではない「非平和」・・・
「争いがあった」際に
その争いを正当化する根拠として
よく用いられる考え方を
いくつか挙げてみましょう。
これは正しい戦いなんだ
大切な人・愛する人の危機を
黙って見ていろと言うのか?
それを守るために戦うことの何が
いったい悪いというのか。
(正当防衛)
他国からの侵略行為に抗して
自国を防衛することは当然じゃないか!
(個別的自衛権)
道義的・人道的な対応
直接的かかわりは無いものの
武力により不当に
弾圧・迫害されている人々を無視できない。
武力を伴う著しい人権侵害に対して
人道的見地から
その不当な武力行使に対して
その状況からその人々を救い出すための
必要最小限の武力行使は当然認められ
許されるべきではないか。
(人道的介入)
戦争の正・不正を問うことは意味がない
権利の範疇で当然できると考えてとったB君の行動は
実はA君にとって権利を侵害される行動だった。
A君が、B君の行動に抗することは当然の権利だと考えて
A君はB君に対して自分の権利を守るべく行動を起こした。
そもそもA君のことなど頭の片隅にもなかったB君にとっては
そのA君の行動は、突然B君の権利を侵害してきた行動に映った。
ゆえにB君は権利を侵害してきたA君に対して
権利を守るべく行動を起こした。
人が生来当たり前に保持している
基本的な人権を100%実現しようとすれば
必ず周囲にいる他の人々との間に
摩擦や衝突が起こるもの。
争う当事者同士には、
それぞれにとっての
争うべき正当な理由がある。
どちらの立場に立つかによって
正・不正は容易に入れ替わる。
ゆえに争いの正・不正を問うことに
意味などない。
こうしてみてみると
「平和」と「非平和」の境界線は
驚くほど不明瞭ではありませんか?
あらためて問いますね。
「平和」って何?
「平和」の在り様が様々で
「平和」と「非平和」の線引きは
思っている以上にあいまいで不明瞭。
ある人にとっての「平和」は
違うある人にとっては
「平和」じゃないかもしれない。
いま、平和主義を掲げた
憲法第9条の改憲論議が
一部の政治家主導でさかんに
呼びかけられていますよね。
国民の「平和」に対する考え方が多様のままで、
どこまでが「平和」、どこから先が「非平和」
その基準があいまいのままで、
そんな状態で「平和」に関する条文を
改憲しちゃってもいいんでしょうか。
どっかの誰かの偏った主観に基づいて
勝手に作られた条文や、
適当な辻妻の合わない条項を書き加える、
それを数の力で強引に決議した改憲案を
現行憲法に採用しますか、しませんか?
そんないい加減でいいんでしょうかね。
いきなりの憲法改正云々なんかよりも
先んじてまずは必ずやらねばならないのは
日本国民がそれぞれ持っている
様々な「平和」への考えを
忌憚なく俎上に出し合い、
十分な議論を経てその考えを集約し、
日本国民の共通認識と理解の上に成り立つ
日本国の目指すべき「平和」の理想像を形作り
それを目標に定めることだと思うんですよ。
これから未来にむけて
日本国民が望む
日本国民が願う
日本国民が求める
日本国としての「平和」が
どういうものなのかをね。
何をもって「平和」とし、
そしてどのような形・方法で
その「平和」を実現させるかをね。
だって、その目標が定まらないと
その実現に向けての方法や手段も
定まらないでしょ?
それが無きゃ
何を持ち、何を捨て
何をすべきで、何を排すか
どこをどう直し、どこをどう残す
そんな議論などできるわけがないでしょ?
日本国民誰もが
「平和って○○ってこと。それを日本国は目指してるんだよ。」
と答えられるようにすることが最優先・最重要であって
それに基づいて、現行憲法9条の条文と照らしあわせてみて
国民の答えと条文が嚙み合ってなければ改憲するし
問題なければそのまま条文を保持するし
ってことなんだと思うんですよねぇ。
だから皆さん
議論をする前段階として
まずはあなたにとっての
「平和」とは何かを
考えてみませんか?
あなたの中で漠然としていた「平和」を
具体的で明確で現実的にしましょうよ。
どのような形を「平和」とし
その「平和」をどのように実現するか。
あなたが思う
あなたが考える
あなたが願う
あなたが理想とする
「平和」とは?
8月15日は
それを考えるためにある日。
私は、そう思いますねぇ。
※ この記事は予約投稿です。