私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

メルヴィルのビリー・バッド(2)

2021-07-26 19:51:36 | æ—¥è¨˜ãƒ»ã‚¨ãƒƒã‚»ã‚¤ãƒ»ã‚³ãƒ©ãƒ 

 NHKテレビで人間の「泣く」という行為を取り上げた番組がありました。その中で、「人はどのような時に涙を流すか」を調べたところ、第一位は「ペットが死んだ時」で「近親者が亡くなった時」は第二位だったと報じていました。意外な結果でしたが、考えているうちに、順位よりも、人間の「心」そのものの性質の方が興味深いと思うようになって行きました。「心」とか「魂」とかいう言葉は曖昧そのものですが、私たちはこうした言葉を、日常、実によく使います。「ペット・ロス」という精神医学の言葉があります。愛するペット動物を持った経験のある人はペットにも「魂」があると、無意識にしても、固く思い込んでいると思います。だから、ペットの死に直面して涙するのです。「心」、「魂」、心と心の触れ合い、魂と魂との結びつき、これらが空語でないことを、私も妻を失って痛烈に実感している毎日です。そして、それは一方通行であっても良いのです、片思いでも構いません。人間とはそういう性格を具有した動物であるという事実こそが重要です。

 『ビリー・バッド』の話に戻ります。急ぎ開廷された軍艦上の軍法法廷で死刑の判決が下され、翌朝、絞首刑の実施が決まります。法廷の判決をビリーに自ら伝えようと艦長ヴィアは申し出て、二人だけで個室に入ります。密室内で何が行われたか、どのような会話が交わされたのか? 作者(ナレーター)は推測をするだけで、はっきりしたことは何も読者に語ってくれません。ヴィアから翌朝絞首刑の判決を聞いた罪人ビリーは、個室から出た後、足枷をされて甲板に転がされていましたが、不思議なことにその表情はまるで穏やかで、時折は微笑みのエクボらしいものも浮かんでは消えるといった有様でした。従軍牧師が、通例に従って、最後の懺悔を訊くためにビリーのそばに跪いても、牧師の存在など意識する気配がないのを見てとって、牧師はビリーのから身を引いてしまいます。朝が来て、絞首刑執行の直前、ビリーは朗々たる声で「神よ、ヴィア艦長に祝福を与え給え」と叫びました。飯野友幸訳には「はっきりとした言葉と自然に発した谺とが渦巻くように跳ね返ってきたが、ヴィア艦長はストイックな自己抑制のせいか、それとも感情を揺さぶられて瞬間的に麻痺したせいか、兵器係用の棚にならんだマスケット銃のように直立不動で立っていた。」とあります。

 ヴィアを艦長とする軍艦は、やがて敵艦に遭遇し、敵艦から発射されたマスケット銃の銃弾を浴びてヴィアは甲板上に倒れて戦死します。彼の最後の言葉は「ビリー・バッド、ビリー・バッド」というものでした。

 前回のブログ記事の末尾に引いた福岡和子さんの論文にも大塚寿郎さんの解説にも、また、Spanos の本にもある通り、ビリー・バッドとヴィアとは同性愛の関係にあったという解釈が広く行われているようです。それならばそれでよろしい。二つの魂が美しく触れ合ったということだけが私にとって大切なのです。同性愛であったか、なかったかなど、どうでもよいことです。

 密室の中でビリー・バッドとヴィアの間にどのような会話が交わされたのか、想像するしかありません。同じことは、歌舞伎菅原伝授手習鑑「寺子屋の段」の小太郎と源蔵の関係についても言えます。家屋の奥で、源蔵が小太郎の首をはねる前に二人の間で交わされた会話を私たちは知ることができません。しかし、斬首の後にやって来た小太郎の父親の松王丸は、源蔵から事の次第を聞いて、「何、にっこりと笑いましたか。にっこりと、こりゃ女房、にっこりと笑うたというやい。・・・・」という名台詞を吐きます。

 「勧進帳」は、歌舞伎通でない私のような者にも、数多ある見せ場の面白味がよくわかる名作ですが、私にとってのクライマックスは、何と言っても、安宅の関の関守、冨樫左衛門が、弁慶一行の正体をはっきりと見抜きながらも、弁慶という男の見事な魂に触れて感動し、一行を通せば源頼朝が自分を殺しにかかるのを承知の上で、弁慶と義経の命を救う決意をする瞬間の一場面です。

冨樫左衛門には実在のモデルがあったようで、その名、冨樫泰家(やすいえ)、ウィキペディアによると、関守の職を剥奪された後、故郷の地に潜んで死を免れ、やがて出家して「成澄」を名乗り、奥州平泉まで出かけて弁慶との再会を果たしました。弁慶はやがて平泉で「弁慶の立ち往生」で知られる壮烈な戦死を遂げますが、冨樫(成澄)は故郷で天寿を全うしたそうです。

 源蔵が匿っていた主君の子息の身代わりとして、笑顔で死んでいった美少年小太郎と源蔵の関係は、ビリーとヴィアの関係に似ています。外的な exceptionalな状況の重圧のもとで、何の罪もない子供が犠牲となって殺されました。「テロとの戦い」という錦の御旗、大国の身勝手な口実によって、世界中の無辜の人間たちが、数知れず、殺害されている現実は、Spanosの新しい『ビリー・バッド』解釈を生み出しました。

 今の世界を支配している権力構造に蹂躙されるままになっている無数の無名の人間たちはお互いにあらゆる形態の「魂と魂の絆」で結ばれて暮らしています。ペットとの間柄も含まれます。あまりにも使い古された言葉ですが、私は、ここで、「愛」について語っているつもりです。

 「ビリーが反乱を企てている」と艦長ヴィアに讒訴するクラガートは人間の心に潜む邪悪のシンボルです。個人の内心に潜む悪の存在は、我が身の内側を覗き込めば、おそらく誰もが認めざるを得ないことでしょう。しかし、今の世界に君臨する巨大な悪は権力が造った構造的なものであり、必然的なものではありません。この社会構造的な悪は、根絶は望めないにしても、大多数の人間たちの日々の平和な生活を蹂躙しないレベルに押し鎮める事は可能であろうと、私は考えます。そう、希望します。このオプティミズムの根拠は、人が人を愛する能力がある、人は万物を愛することが出来る、という不動の事実の存在です。「愛」は存在します。ビリー・バッドとヴィアとの魂のふれ合いは、極限的なケースではありましょうが、「愛」の存在の鮮烈な象徴です。

 もう一つだけ、よく知られた「愛」の例を挙げましょう。名作映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のアルフレードとサルバトーレ(トト)との間の美しい「愛」、これさえあれば、人間、他には大して何もいらないのです。この映画に出てくる全くありきたりの「愛」の数々、心と心の触れ合い、親と子、大人と子供、夫婦、姉妹、兄弟、男と男、男と女、女と女、・・・、どんな人間の間にも、「愛」は成立し、存在します。人間と動物の間にも「愛」は見事に成り立ちます。私たちはこの世に無償の「愛」が存在することを否定することはできません。この事実に“じゃなかしゃば”(今の世の中でない世の中)の実現可能性を見て悪い理由は何もありません。

 さき頃、RICHARD GILMAN-OPALSKY という人の書いた『The Communism of Love』(2020年出版)という本を読みました。些か胡散臭いタイトルだと思う人もいるでしょうが、著者は、私と同じく、大真面目です。交換価値を求めない無償の「愛」についての考え方において、私と共通するところがあります。この本の中に、昔のドイツで活躍し、47歳で惨殺される悲運に見舞われた共産主義革命家ローザ・リュクセンブルクの話が出て来ます。この女性はミミという猫をこよなく愛し、まるで一人の人間のように扱いました。彼女は「愛」に満ちた人間でした。

 

藤永茂(2021年7月26日)