2015-10-10
- 東大卒の旦那の歴代彼女らしき人をfacebookで漁ると揃ってすごい美人でビビる..
よく分からんが、この人が学歴が高くない美人と不動産社長と深夜アニメとワンピースとクロスワードパズルに何か恨みを持っているということだけは理解できた。
- 自称「ホワイトプロパガンダ漫画家」のファイスブックを見たら、敵を表すキャラクターに言ってもいないことを言わせまくる絵で一面埋め尽くされてた。
- 寓話はブラックプロパガンダ
- はすみとしこ氏には、例の件で仕事を干され生活保護の庇護を受けながらもっと争いのない温和な日々を送ってもらいたい。
- https://twitter.com/iwakamiyasumi/status/652575527358730240
まあ政治家は他人の金で生活する人だわな。しかしそのこと自体を悪であるとするなら、はすみ氏のあれと同じことを主張していることになるが、これを拡散している人達はちゃんとそのことは理解してるのかな。「他人の金/自分の金」という姿はあくまでかりそめのものでしかない。「金は天下の回り物」とはよくいったもので、財政にせよ経済にせよ、先ずはそれを理解した上でものを考えないと、その議論はどんどん現実離れしたものになっていってしまう。
- https://twitter.com/yuuraku/status/649739551066292224
dada@yuuraku
ゴミ収集を公務員が月給20万も貰ってやってるのはけしからん、民間に委託すれば15万でもやるやつはいる、って自分の町の雇用切り下げたっていいことなんかないのにね。
- 移民「こんにちはー、「厳しい現実」が参りましたー。受け入れの方お願いします!」
- そういえば一年前まで移民の人らと一緒に働いてたわ。
- https://twitter.com/no1hasgone/status/649878944666136576
no1hasgone@no1hasgone
.。oO(「年収300万円以下は返還猶予」をやめて、300万円以下でも(返還額を調整するものの)返還させる制度に切り替える、何故なら大学卒業者の三割が年収が300万円未満…と。何重にも絶望的としか)
- 一億総活躍社会とかお上の鶴の一声で携帯料金の引き下げとかL型大学(計画経済の成立が前提として必要)とか、発想がいちいち旧社会主義国的なんだよなあ。
- 「チーム力高めたかった」他の少年グループに傷害容疑、“綾瀬面子”メンバー10人逮捕
学校教育で言うところの、組み体操で団結力を学ばせたい、みたいなものか。綾瀬面子は最近メンバーの集まりが悪かったため暴行を理由に結束力を高めようとしたといい、リーダー格の少年は後に「きょうのお前らかっこよかった」とメンバーをねぎらったという。
- モルダーの、ボコられながら敵の油断や温情に助けられる率高すぎだろう。殆ど毎回そのパターンで生き残ってる。そもそも結局モルダーに関する「奴を甘く見るな」という評価や「利用価値」とは一体なんだったんだ。たまにしか本筋に結びつく話をしないから全容をつかみにくい。
- 『コールドケース』では何十年も迷宮入りだった事件を毎回解決していくわけだが、それは幾らなんでも無理がないか。
- 『サスペリア』とか『ファンハウス』とか『フェノミナ』とか、昔はよくテレビでやっていたのにいつの頃からか全く放送されなくなったのは、もしかして差別問題とかが絡んでいたりするのだろうか。
- 驚愕!陸上で捕食するウツボ - YouTube
ウツボはわざわざ陸に上がってまで捕食したりするのか。知らなかった。岩肌をするする移動してまるで蛇のよう。後はこれで羽さえ付いていたら…。
- カラス - Wikipedia - ウィキペディア
アオサギに嫌がらせ(モビング)しているのを何度か見かけたが、人間社会でよく見られる、虐めっ子ほどモテたり社会的に成功したりするあの現象はカラスの社会にもあるということか。モビングによって豪胆さを見せたカラスは序列を高め、伴侶を見つけやすくなる可能性が指摘されている。
2015-9-23
- 何時の頃からかナイトシャマラン系のオチを持つ映画が凄く増えたが、あの手の映画を評価する際には、オチが分かった後から見ても十分に楽しめるものであるか、を一つの判断基準にしたい。
- ネトウヨ絵師による「安保法案ちゃん」がキモすぎる… - Togetterまとめ
安保ちゃんが憲法君を踏みにじりながら「これが議会制民主主義の力だ、思い知ったか」とドヤ顔で言っている絵はまだか。
- フォルクスワーゲン 不正ソフトは約1100万台に
チャレンジさせたんだろうなあと思える事案。東芝の例もそうだが、上が下に求める無理なチャレンジは個人だけでなく企業にとってもリスキーであるという事実はもっと広く共有されてもよいように思う。下にチャレンジさせておけば自分にはリスクは生じないと思っている人は多いようだが、必ずしもそうとは限らない、と。
- 「このデマを流した人はこのデマも流しています」みたいなサジェスト機能はないのだろうか。
- 「夫と一緒にいるのもイヤ」「性欲の塊に見える」…産後豹変する妻たち
子供が出来たら用済み、の原因が母性(生物学的なもの)によるものなら、種付けが済んだら用済み、の原因もまた父性によるものということになりそう。
- 米国史上で危険な5大盟友・・なかでも日本は最も「残酷 ... - Yahoo!知恵袋
我ら5大盟友の中でも奴は最も残酷非道~というやつか。しかしあれを「中共メディアの飛ばし記事」と判断する人は例の記事が「 U.S. officials have been dismayed by Japanese premier Shinzo Abe's historical analysis and field trips to the Yasukuni Shrine.」の部分を敢えて載せていないことをどのように説明を付けるのだろう。まあ「Imperial Japan」だから「大日本帝国時の日本」と書くべきだろう、というならそれは分かるが。あと、例えばAが残酷ということはそれでもってBの残酷さを相殺するわけではないから、ここで幾らアメリカの残酷さを強調しても余り意味がないんだよなあ。
- FNN世論調査で分かった安保反対集会の実像 - 産経ニュース
自民党を支持しない者は一般市民に非ずとは、幾ら自民党のファンジンとはいえ言いすぎではないか…と思ったが「「一般市民による」というよりも「特定政党の支持層による」集会」ということは自民党支持者も一般市民には含まれないことになるではないか。この産経理論によると無党派層だけが一般市民ということになるが、その定義に何の意味があるのか。無党派層は無党派層と言えばよいだけだし。
- 15歳にたばこ販売 ローソン元店員に罰金、店は無罪:朝日新聞デジタル
これもそうだが、底辺にはハイリスク・ロー・リターンの仕事しかない。そしてそういう仕事をしていると上に這い上がることも出来ない。要するに底辺には労働のための資本主義的インセンティブが全く無く、死にたくないから、或いは義務だから、という共産主義的インセンティブしかない。資本主義を重んじる者ほどこの事実を深刻に捉え改善を促そうとするはずなのだが、世にはばかる多くの自称「資本主義応援団」はむしろこの問題を解決すると共産主義になるぞ、と喧伝して周るような輩ばかりでうんざり。
- 匿名ダイアリーなんて8割9割創作なのに、
匿名ダイアリーでブコメしている人の殆どはそこで書かれていることが嘘か本当かなんてどうでもよくて、単に記事をダシにして言いたいことを言っているだけだろう。そもそも個人の体験談なんて嘘か本当か見分けようがないわけで、であればそれを見分けようとするよりも、そこに提示された振る舞い自体を見てどう思うか、を書くしかないだろう。
- 「日本人はアリのように勤勉」というのは、職業適性判断で向いている職業がない人に対して「芸術家タイプ」と言うのと同じで、お前ら全体主義だろ?ということを角が立たないようにやんわり伝えているだけ、ということくらいは一端の大人として知っておきたい。
- hhttps://twitter.com/dragoner_JP/status/633858875733610496
武藤議員の名誉のために言っておくと、公安ですらLINEで連絡取り合っていたくらいだから…。
- いわゆる電波ソングの一つの大きな特長として変な合いの手が入るというものがあるが、あれが祭囃子から来ているものだと考えると、それは必ずしも非伝統的なものとは言いきれない、ということになる。
- 他人をバカだの無能だの言って蔑むコメントはよく目にするが、相手がそうであると認識させるのに最も有効なのはコメントの内容で知性の差を見せ付け、それで相手を圧倒してみせること。しかし他人をバカ呼ばわりするコメントの殆どはその拙いコメント故にむしろ相手に自信を持たせる結果に終わっている。
- 属性批判や印象批判は、相手の主張の非を見つけることが出来ないけどなんとかして反対したい、或いはそれらで印象補填しないと心もとない反論理由しか見つけられない、というような場合に用いられるものだと見るのが妥当だろう。
- 育鵬社の公民教科書が話題に… - Togetterまとめ
アメリカ人の30%以上が進化論に否定的であることを笑う人は多いが、それは日本も他人事ではないぞ、という記事を何年か前に書いたような気がするが、ついに教科書までもがインテリジェント・デザイン説で汚染され始めた。
2015-1-20
- 実際は草食動物の方が肉食動物より交尾に積極的な傾向があるのに人間界では逆に交尾に積極的な者を肉食系、そうでない者を草食系と言う現象、人間の実態よりイメージを重んじ勝ちである特性をよく表している。
- はてなブックマーク - 運転し続けたい - NHK クローズアップ現代
都市部に住める金持ちだけが他人事として叩けるこの状況って、金持ちだけが環境に配慮できる(配慮しないものは罰せよ)、みたいなのに似てる。
- つまようじ少年と同じくらい熱心に違法企業についても報道すればいいのにと思う。実際どうでもいいだろう、つまようじ少年なんか。
- これこれこういう理由でルールを変えた方がいいと言うなら分かるが、ガラパゴスは駄目。これからはグローバルスタンダードに合わせていかなければならない、みたいな理念でそれを変えようとするのは、生態系的な観点から見ると、これから我々島の生き物が生き残っていくためには大陸に合わせて生態系をどんどんぶっ壊して行かなければならないってことなので、革新派というよりむしろ過激派と言った方が妥当な気がする。
- 「~な奴の特長」みたいな記事よくあるけど、アレってこういう特長を持つ奴を差別しましょうぜ、以外に何か意義はあるのだろうか。
- 鬱病の治療などで認知行動療法なるものがあるが、鬱病になるような人間は日常生活で実質的な負の認知行動療法を受け続けてきた結果そうなったわけで、それをこれからも受け続けなければならない環境におかれているなら、そんなことではどうにもならないような気がするのだが、どうなんだろう。
ちゃんと論拠を挙げて批判しているのなら何の問題も無い。むしろ気にいらない言説に反論ではなく「脊髄反射」などといった中傷で応じることの方がはるかに問題。というか、なぜ「視野が広がるなあ。なるほど一理あるなあ。」と予め正しい受け取り方が規定されているんだ。ちきりんさんとか、猪子さんとか、堀江さんとか、高城剛さんとか岡田斗司夫さんといった人の発言に、完全に同意する必要は全くないんだけど、「へえ、そういう考え方もあるのか!視野が広がるなあ。なるほど一理あるなあ。」くらいの受け取れずに躍起になって脊髄反射の反論する奴って何なの?だろう。
— 田端 信太郎 (@tabbata) 2015, 1月 11
- HELIXの第一話。ウイルス学者らしき女性が防護服もなしに凶悪なウイルスを媒介している可能性のあるサルを探しに行き、それを見つけて「おいでー」と近づいて行ったら顔面に飛びつかれ、同行している男性に「傷はあるか!」と騒いでいたが、「おいでー」の失敗が顔面に飛びつかれることだとしたら、成功は一体何なんだ。
平等は憎しみの母、正義はメシウマの父
・まあヒキに限って言うと、ブログが更新されなくなると先ずその人の死亡が疑われたりもするのだが。
・ネトゲ廃人とかいうけど、本当に何もしない自分よりはずっとましだな。そもそもネトゲというのはコミュニティへの参加を意味するわけで、自分にはまず無理。
・EU、独伊など9カ国に「財政協定」違反を通告<財政赤字が増えるとユーロの信用が落ちるから、財政を健全に保てない貧乏な国には制裁として課徴金を課します、ってなんか無理があるような。大体「安定成長」なんてしようと思って出来るものではないわけで。
***
・橋下知事、批判メールの女性職員に厳重注意<意見を言えというからそれに従って意見した結果こうなりましたとさ。彼のことだから、全く意見をあげない職員がいたとしたらそれはそれでやる気がないとして非難しそうだし。ある種の“巣作り”なんだろうな、これは。相変わらず「民間なら」を連呼しているようだが、“民間なら”こんなことをする者は単なる駄目(ブラック)社長だろう。
・今朝のワイドショーで「職員が知事と同じ方向を向いていない」ことを批判していたが、皆が同じ方向を向くのはただの全体主義。
・それ以前に、彼は今まで自分がどれだけ「非常識」な言葉で他人を口汚く罵って来たのか忘れてしまったのだろうか。上司じゃなけりゃ何を言ってもいいってことか。強きには媚び、弱きにはとことん強く出る。相変わらず今は亡きヤッサンみたいな人だな。
・自ら積極的な意見交換を求めていながら、自身の求める主張だけを歓待し、気に入らないものは断罪する。そうやって自身の主張を他者に言わせることで、その主張の正しさを演出する。故に問題が本当の意味で議題化されることはなく、本来話し合いや論考の場となり得るはず場所も予め“お上”が用意した正解・不正解を言い当てるだけの処世の場へとなり果てる。ガッコーの読書感想文みたいなもんだね。やがて“下々”は“お上”の顔色を伺う主張しかしなくなり、その風潮と結託するのが上手な者ばかりが登用されることでそれは風土としてより堅固なものになっていく。
・この“お上”というのは“世間の空気”だったりもする。
・「改革」という言葉もすっかり胡散臭くなってしまったが、それはともかく、人々の改革への大きな期待を担ってやって来た彼は、こういった硬直化が生み出す弊害をぶち壊すどころか、それをさらに揺るぎなきものにしようとするだけだったという。まあよくある話だけど。基本的に何かを倒しに来る(行く)者は、あくまで何かを倒すこと自体を目的としている。その者は、何かを倒すという目的に依存することによって生きる活力を得ているのだ。だからその者が権力者を打倒し権力の座に着いたら、今度はその権力の座から何かを打倒しようとし始める。
・しかしあらかた周りを打倒し尽くしたら、その後には何も残っていなかったりする。あれだけ節約節約といって福祉や教育に関わる予算にまで手をつけていながら、またぞろ辺境地開発という関空やフェスティバル・ゲート創設時を思い起こさせるようなバブリーな大型公共事業計画に色目を使い始めているのは、多分その空虚さを埋めるため。まあ中身の空っぽさでは自分も彼には負けてはいないが。道徳や常識、精神論への怒りや恨みを失ったら自分にはもう何も残らない。
・というか、不正や業務に対する姿勢の在り方に問題があるということで処分するなら分かるが、自分が気に入らないから処分するってのは公私混同もいいところじゃないか。
・彼の以前の発言>【橋下維新】メール公開請求に「のぞき見趣味」と不適切発言、 市民団体が反発“橋下知事は「申し訳ないが税金でメシは食わせてもらっているが、府民の皆様の奴隷でもなんでもないんで、出来ることと出来ないことがある」とした上で、メールの中には非公開を前提に職員とやりとりしたメールがあり、すべてが公開の対象とは想定していなかったと説明した。”<奴隷じゃないのは職員も同じのはずだが。
・“「表現内容については、公開されるとまずい表現とかいろいろある。具体的に個人名を出していたり、自分の思いつきの意見もある」とし、職員からのメールには忌憚のない意見や内部告発のようなものもあり、全てを公開することは出来ない、と述べた。”<でも自分に対する忌憚のない意見は容赦なく公開し、血祭りにあげると。
・まあ実際彼ほど「大阪の代表」に相応しい人間はいないと思うよ、ほんとに。この手の手法を使う人間がそこかしこで幅を利かせ、集団を牛耳っているのが大阪という場所の土地柄だから。で、そういう人間が一線を退いても、次にやって来るのもまた同じような人間だったりするんだよ。それが今の大阪のこの現状を形作ってきたのだと思う。
***
・こういった問題では、「俺だって腹の立つ上司に文句の一つも言わず我慢しているんだから、その我慢をせずに言いたいことを言った危機感の無い人間は痛い目に遭って当然」として“お上”の懲罰的行為を好意的に捉える者も多い。恐らくそのような反応は、自分の我慢やストレス(危機感)と他人のそれとを天秤にかけ、その釣り合いが取れなくなるような(不公平感を感じる)状態を回避したいという思いから来ているのだろう。だがそういった平等思想――恐らく当人はそれを平等思想だとは気づいていないだろうが――こそが、人々の憎悪に火をつけるのに最も重要な役割を担うことになる。
・そして元来自身の保身のために居座っているはずのその“我慢”や“ストレス(危機感)の維持”に代表される個人的枠組みが、いつの間にか感覚上で社会的な道徳規範であるかのように摩り替えられてしまう。何故なら、そこから抜け出すのは自由だけどそうすればほぼ間違いなく痛い目に遭うという状況は、そこに居座る人間からしたら感覚的には義務としてしか認識出来ないだろうから。そして“義務”を守るのは道徳、ということになる。だって、“義務”を遵守していた人間とそうでない人間で差が付かないなんて不公平じゃない。だからその不公平を是正するために、そこからはみ出た人間は道徳的な観点から叩かれなければならない。
・本当に怖いのは傲慢上司の理不尽な鉄槌よりも、道徳や不平等を改善するものとしてその行為に溜飲を下げ、まだ足りないとばかりにさらに罰を下そうとする「普通の人々」の素朴なメシウマ(他人の不幸で飯が上手い)感情だったりする。そしてそれがさらに枠組みの締め付けをより強固なものとし、その締め付けによって人々はさらなるメシウマを求めるようになるというこのメシウマ無間地獄。
・要するにメシウマの生みの親は痛みやストレスに対する不公平感だったりするということ。俺がこれだけストレス(危機感)を感じ、“義務”にも従ってるのに、あいつらときたら…。こんな状況は不平等だ、カイゼンしてやる、と。
・痛みを知らないから、自分がメシウマのネタにされる想像力が無いからメシウマするんじゃない。メシウマの痛みと恐怖を知っているからこそ、そしてその渦から抜け出すことが出来ない閉塞感を感じているからこそ、それを祭りで誤魔化そうとして、或いは自分の痛みと他者の痛みのバランスを取ろうとしてメシウマするのだ。しかし、他人の痛みは決して感じえないから、他者に求める痛みに際限がなくなってしまう、と。
・自分の痛みを誤魔化すために他人を叩くというのは、『バタリアン』に通じるところもあるな。バタリアンというのは要するにゾンビなわけだが、彼らは体が腐ってボロボロになりながらも生き続けているが故に、四六時中激しい苦痛に苛まれることになる。だが、人間の脳みそを食うと少しだけその苦痛が和らぐという、そういう設定。だからバタリアンは人を襲う。そして襲われた人間はバタリアンになる。
・とすれば、実際にそういう状況に陥って抜け出せなくなっている者に「人間の脳みそを食うな!」ということにどれほどの意味があるのだろう、とも思ってしまう。また、メシウマの恐怖に怯えている人間の全てがメシウマ祭りに参加しているわけではないが、そういう人間もまたゾンビ狩りという他の祭りでその恐怖を紛らわしていたりする。「ゾンビだから幾らいたぶってもいいんだぜ、ヒャッホー」というシチュエーションもまたゾンビ映画の定番。
・京都府警はなぜサイバー犯罪に強いのか“ある捜査幹部は「著作権侵害に警鐘を鳴らせないかという捜査員の気概と、それを可能にした当時の府警幹部の人事配置が背景にあった」と解説する。独学でネット知識を高めた捜査員と、日常的に情報通信技術を取り扱う技官の間で、緊密な連携が可能だったからこその摘発だったのだ。”<これにしても、「独学でネット知識を高めた」とか「著作権侵害に警鐘を鳴らせないかという捜査員の気概」とか言うと聞こえはいいけど、実のところ、「わて、メシウマ・ライセンス持ってますねん」みたいなのが本当の動機なんじゃないかと思う。
・骨の髄までメシウマ文化が染み付いたこんな国がジリ貧になるのは当たり前だろう。メシウマはある種内戦みたいなものだから。
・よく教育や福祉が充実していて犯罪者の更正にも力を入れている国としてフィンランドが紹介されたりするけど、あれは国民が一致団結して周りの敵に立ち向かうという文化的合意があるからこそ可能なのであって、メシウマ文化を持つ日本にああいうシステムだけを持ってきても文化的裏づけがないから先ず成功しないだろう。むしろ人々の不公平感を煽るだけの結果に終わりそうだ。
・日本はデフレ・スパイラルの心配だけをするんじゃなくて、メシウマ・スパイラルの危険性にももっと注意を払った方がいいのではないか。
***
・roadside diaries: 渋谷駅前ホームレス排除彫刻・その後<芸術の正体。或いは芸術に抗う者達。まあ芸術なんてのは結局体制側のものなんですよ。例えそれを生み出した個人が反体制であっても。何故なら、現代の最高権力者(お上)は「普通の市民」という名を持つ群集であり、その群集のお墨付きを戴かないとその作品は芸術として認識されないから。橋下府知事もまた、その権力者の庇護を失えばただのわがままなオッサンへと降格する。
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・Visual C++ RedistributableによりDドライブに一時ファイルが撒き散らされる問題について<急にわけの分からないファイルが沢山Dドライブに出来て何かと思ったよ。
・かわいいうり坊<いずれ凶暴になる運命。というか猪って飼えるものなのか。そういえば、幼少期を一緒に仲良く暮らした熊と人間の子供が、やがて大人になって殺し合うという映画が昔あったような。
「ピンク・パンファー」のささやかなる希望、他
・自分にとっての未来はもう既に終わっている。終わっていないのは過去だけだ。この現在は、終わってしまった過去の残り火でしかない。単に死ぬ勇気がないから生きているだけ。だから自分が未来について話す時、実は過去についての話をしている。
・希望を失った者は、それをまだ失っていなかった、或いはまだそれを獲得出来たかもしれない過去にしか目を向けることが出来ない。前を向くことが出来るのは、希望を獲得する可能性が残されている者だけだ。
・未来について考えることが残っているとすれば、後は死に方について考えることくらいか。逆に言えば、自分にとっての未来とはそのことでしかない。
・殆どの者にとって選挙なんてものは数多ある希望のうちの一つでしかないだろう。だから他に依存する希望の当てがあれば、選挙なんかに希望を抱く必要がない人もいる。しかし逆に、選挙にしか希望を抱けない人もいるみたいだ。自分はこれを「努力は報われない」という話として読んだ>ネトウヨ大憤死の巻
・“俺があれだけポスティング頑張ったのに”<多分アレのことなんだろうな。なんか選挙前に「知ってドッキリ民主党 これが本性だ!!民主党には秘密の計画がある!!民主党にだまされるな!」と題されたピンク色の怪しげな小冊子がポストに入っていて、ページを開いて見てみたら書いてある内容は殆ど怪文書。「何事?」と思いつつ冊子の裏を見たら、自民党発行のパンフレットだったという…。まさに断末魔という感じだった。
・“あんな売国は親でもなんでもない もうぐちゃぐちゃ”<「家族の絆」を破綻させ殺伐とさせるのには民主党の力を借りるまでもなかったようだ>“民主党の言う「取り組み」を実現すると、日本の歴史や伝統・文化、調和のとれた地域社会や家族の絆は次々と破綻し、殺伐とした社会を誕生させることになります(ピンクパンフより)”
・で、挙句の果てに応援する自民候補の陣営からも「調和」を乱す“名前質し危険人物扱い”される、と。
・一般常識からすれば、彼の行動自体を肯定する余地はないだろう。しかし、どのような感覚や認識を獲得するのかは、自分の意思で選ぶことは出来ない。そして、人間はそうやって獲得された情報によってしか意思を働かすことが出来ない。それを前提にしてしか努力することは出来ない。つまり、彼にとってこの時点で可能な努力とはこれしかなかったんじゃないかと。
・大抵の者は幾つもの希望(足場)を見出すことで、其々の足場に掛ける体重(努力)を分散している。あるいは一つの足場を失っても、また他の足場を見つければいい。そうやって安定を保っている。
・しかしそれがもし、希望に恵まれることのない者がようやく手に入れることが出来たたった一つの希望だとしたら?何をやっても駄目な自分にも出来ることがあるかもしれない何かをそこに見出したとしたら?そうであれば、その者はそこに全体重を掛けて乗っかるしかないだろう。その者の存在意義をも投入して。それが惨劇を生み出すきっかけとなる。
・要するに、努力とは常にそれだけ大きな危険性を伴ったものでもあるということ。その者自身にとっても、その周りの者にとっても。そういう危険性を加味しない安易な努力信仰は不幸の増幅器。だが、努力信仰は希望製造機でもある。だからそれを捨てられないのであれば、せめてそれを他人に押し付けるのを止めて、自分の胸だけにソッとしまっておいて欲しいものだ。
・なんか「ピンク・パンファー」というフレーズが浮かんだ。それは報われもしない努力に精一杯の力を注ぎ込んでしまうことで、ますますドツボに嵌っていく状態のこと。
・そしてその者が「ピンク・パンファー」にならずに済んでいるのは単に運がいいだけだろう。何故なら、どのような資質と環境を持って生まれ、どのような人物や状況と出会うかということでその者の人生は殆ど決まってしまうからだ。
・ただ、人間は何かが上手くいった時に、それを自分の意思による成果だと認識する傾向がある。だから多くの人間は、己の意思が賢明であるが故に自分は彼のようにならずに済んでいると思うことだろう。だが、それは所詮与えられた認識の問題なんじゃないか、と。
・日曜の深夜に、BSでコンセルトヘボウ管弦楽団ブラス・クインテットの演奏会の模様が放送されていた。凄かった。金管楽器というのは、あんなに繊細であんなに細やかな音を出せるものなんだ。
・オーケストラでの金管は、ブバッ、ブホゥ~、パッパラパーみたいな景気付けばかりが目立ち、そのせいでデリカシーのない楽器というイメージがあったけど、完全に誤解していたようだ。まああの人達が特別上手かったということもあるかもしれないが。
・今時ユリゲラーと援交って馬鹿じゃないの、フジテレビ。
・他人や文化やシステムに対して甘え上手だからこそあんたの生活は成り立っているんじゃないのか>「保釈」押尾学に「甘え」指摘 テリー「ずーとこう」“テリー伊藤は、「押尾はね、ずーっと人に頼って甘ったれてましたよ。保釈金だって払えるわけない。きのうだって、誰かのところへいったんでしょう。ずーっとこうですよ、彼の人生。突っ張ってるんなら、金のある人に頼らない生き方しないと」 ”
・金のある人に頼らないなら、テレビ局の商売なんてなりたたないだろう。
・というか、他人(押尾ら)からのネタ提供ばかりで、尚且つ落ち度のある人間をバッシング対象として視聴者に提供することで注目を集めようとする安易な番組作りばかりしているワイドショーは甘えの権化。
・自分に甘くない奴は三十にもならないうちにサッサと自殺してるだろう(道徳と生存は競合する)。自分に甘い奴だけが生き残ることが出来るのが現代社会。それでも甘えが悪いことだと思うのなら、せめてそういう社会で成功を収めていながら甘えを悪いことであるかのように主張するその欺瞞くらいは捨てて欲しいものだ。
・政権交代と言っても、民主党が自民党になっただけのような気もするな。
・自動販売機みたいなので(外国の)ソフトウェアの権利が買えるようになればいいのにねえ。
・投票に行ったついでに、わざわざ百円払って駅の自転車置き場に自転車を置いて出かけたら、帰って来た時に後輪がパンクしていた。一体なんなんだ。
・しばらく間を置くと、なんか投稿すること自体が億劫になる。
面倒くさいけどもう一度
・で、「統一性が欠けるようにも読めそう」というのはどういうことかと言えば、アレだけ読むとどもう規範的過ぎるような嫌いがあるようにも見えてしまうということだ。いや勿論、社会規範に対する怒りをぶつけながらながらそれに対する期待を抱いたり、それを破壊したいという衝動を抱くと同時にそれの存在とは不可分の恩恵を受け取らねば生きてはいけないというようなジレンマは常に抱えている。だがアレを書くにあたっては、必ずしもそういったジレンマに当て嵌まるものだけではない他の理由があった。以下、あの記事を書こうと思った動機について書いていこうと思う。
・まず一つ目の動機。初音ミク「白いクスリ」ニコ動に一時復活 「削除依頼に法的根拠なし」とニワンゴ<これは要するに、この問題はあくまでクリプトンとソフト使用者間の問題であって、ニワンゴ側としてはそれは関係ないという態度なのだろう(…多分)。しかしこういったことが繰り返されるというのは結局のところ、特に何の理念も持ち合わせていないのに「出来るからする」という行為と「面白ければ許される」というような人気取り手法に支えられた数的圧力によって、実質的なルールが何の審議も経ずに形成されていくという因習をより強固なものにすることにも繋がりかねない。つまり既成事実を作ったもん勝ちという。自分はそういう流れを決して良いものだとは思えない。
・既成事実的開き直りの典型例>2ちゃんねる賠償金「死刑なら払う」…管理人・西村氏“西村氏は閉廷後、報道陣に対し、過去の訴訟で確定した賠償金などについて、「支払わなければ死刑になるのなら支払うが、支払わなくてもどうということはないので支払わない」などと、支払いの意思がないことを明らかにした。”
・だがこういった開き直りをする者がどんどん増えていくと人々の不公平感が募り、それが規制や罰則を強化させる種子にもなりかねない。しかも上記のような主張が示すように、後からそういったものを設けてももう遅いので、それならば先回りしてそれに対する対処法を作っておき、それによって公平性を保とう、というような主張も当然出てくることだろう。
・現にこの国では、一部の者達の開き直りがメディアによって大々的に取り上げられ、その煽りによって規制や罰則が強化されるというような動きを何度も何度も繰り返している。自分はこの件に関して、そういった「既成事実を作ったもん勝ち」という風潮とそのゆり戻しとしての「規制・罰則の強化の可能性」を見た。だからそれに対して良しと言うことは出来なかった。
・二つ目の動機――これに関しては前述したジレンマに該当するものでもある。個人的な思想として、貶め系の動画が何の違和感も無く人々に受けいられ、それが人気を博すような状況は良いものだとは思えない。勿論、貶めをしたことのない者など存在しないし、自分だってそういう要素を持つ表現を何度も用いてきた。そしてこれからも用いるかもしれない。そういうジレンマはある。だが、貶め系コンテンツの増長と減衰という二つベクトルが見えた時、どちらを選ぶのか――まあ「選ぶ」と言ってもそう認識しているだけろうけど――といえば自分としては後者を選びたいという思いがあった。
・そして三つ目の動機。これがそもそもこの話題に興味を持った最初の切欠でもある。それは何かと言えば、クリプトンへの批判に対して妙な違和感(気持ち悪さ)を感じたということだ。
・結局クリプトン側は自社の利益とイメージを守ろうとしただけに過ぎない――それが実際に目的にとって正しい選択だったかどうかはともかく。それに自社の利益と言っても、別に残業代を支払うよう主張した従業員を嫌がらせで訴えるというような非道なことをしたわけでもなんでもない。そもそもこういったことに関してクリプトン側からクレームが付くという可能性は誰もが十分認識していた事柄のはずだ(使用許諾契約の内容はミクの発表時にかなり話題になった)。そして問題になっている動画がそれに抵触する可能性があることもまた十分予測出来たはずだ。
・行為(発表)と結果(クレームの可能性)が直接一対一で結ばれている。情報が明らかにされている。行為の在り方に対して圧力が掛かっていない。しかも結果によってその者の命や生活が危機にさらされることもない。つまりこれはジコセキンンではなく真の意味での自己責任に当たる。
・別に自主規制をしろとかそういう話ではない。好きにすればいいのだ。だが、好きにすればいいという考えがあれば尚更、クリプトン側の動きが批判されるいわれもなくなる。何故なら、クリプトン側もまた好きにするだけだろうからだ。
・別に不平等条約的なものでもない相互的関係に於いて、一方が信頼を裏切るような行為をした(クリプトン側にとって件の動画は厄介ごとの種でしかないだろう)。ならば相手側もまた、それ相応の動きを取ろうとすることはやむを得ないだろう。にも拘わらず、その行為を無条件に受容してくれるよう望むのは、余りに虫が良すぎやしないか?
・クリプトンは別にボランティア活動をしているわけでもなけりゃ、増してやソフトウェア使用者にとっての母親的存在でもない。そして母親的な無条件受容を期待していなければ、この件に関するクリプトン側の動きに不満が生まれてくるはずもないのだ。だが実際には批判は生まれてきた。つまりそれは、多くの者がクリプトンにそれだけ過度な期待を抱いていたということだ。そこらへんにどうも自分は気持ち悪さを感じてしまった。
・で、そんな折にレスポールがどうたらとかいう無茶な理屈をつむぎ出す記事なんかを見てしまい、ついイラっときてあの記事を書いてしまったという。
・要するに、自分は別に社会規範的な主張をしたかったのではない(いや、これはこれでまた一つの規範になってしまったりもするのだが)。そうではなく、「好きにすればいい。但し向こうもまた同じように好きにするだろう。だからクリプトンに母親的な過度な配慮なんか期待すべきでない」と言いたかったわけだ。
・しかしまあ、また無駄にエネルギーを使ってしまったなあ。大した関心事でもないことに触れる場合には、迂闊に足を深くまで突っ込み過ぎず、幾つか軽い感想を書いてサラっと流すべきだな、ほんと。因みに、ニコニコのアカウントすら持っていません。
「悲劇」化が原罪への意識を遠ざける、他
・長い間攻撃に晒され続けると、周りの者全てが敵に思えてくる。そしてついつい何かと闘わずにはいられなくなる。闘うことでしか他者と関係を持つことが出来なくなる。「闘う」という言葉のイメージが美化されている日本では、何となくそれがカッコいいもののように思えてしまったりするかもしれないが、実際のそれは決してそんなよいものではない。
・批判はするが闘わない。これを今後の一つの課題にしたい。まあ実際には中々難しいだろうけど。闘うにしても、せめてもう少し軽妙さというものを身につけたいところだ。
・映画『宇宙戦争』でのワンシーン。大人気ない親父(トム・クルーズ)が長男とコミュニケーションを図ろうとして無理やりキャッチボールに誘ったものの、段々と腹が立ってきて悪意を込めた剛速球を長男に投げつける。
・長男はそれを華麗にスルーして家の窓ガラスが大破。あのスルー力は見習いたいものだ。自分だったらガラスを割らないような配慮をしてそれを受け取り、悪意のキャッチボールを続けてしまうだろう。というか、今社会(を名乗る者達)を相手にそれを続けてしまっているわけだが。
・しかし、あれだけ絶望的状況に追い詰められて周りの者がどんどん無残な死を遂げていく中、自分の家族だけはちゃっかり全員無事というのはあり得ないだろう。あの潔いまでの主人公家族中心主義は流石アメリカ、流石スピルバーグといったところ。幾ら残虐描写が増えてもそこだけは変わらなかったようだ。逆に日本は、どんな物語でも強引に悲劇に変えてしまうとなんかで揶揄されたりしていたけど。
・鑑賞側が心情的に同一化すべくする対象にハッピーエンドという外形的達成を形作らせることでカタルシスを得るための物語と、それに「悲劇」の一部を担わせることでナルシズム的カタルシスを得るための物語。視線が外を向いているか内を向いているかの違い。
・物事(或いは物語化された現実)を「悲劇」として捉えてしまいがちであるということが、原罪というものに目を向ける機会を奪ってしまっているような気がする。というのも、「悲劇」というのは結局、善なるものがやむを得ない状況に陥って悪を獲得しているという捉え方をする。だがそれでは善であるとされるものが既に悪を含有しているということが隠蔽されてしまう。
・まあそうでなくとも原罪なんてものに目を向ける者なんてそうはいないだろうけど。というか、それはむしろ病に近いものなのかもしれない。といってもそれは個人としての病ではなく、人間がもつ持病としてのそれだが。
レスポール関係ないし、他
・幾らクリプトンを批判しようと、これは「みんなやってるのになんで俺(コレ)だけ」という理屈にしかなり得ない。要はその理屈を肯定するか否かの問題。公平性を問えば墓穴を掘る結果になるだろう(他のものに対する規約の扱いがより厳格化するだけ)。>ニコニコ動画における動画削除について
・まあ「ソフトウェアの使用許諾契約なんて糞食え」みたいなアナーキーな主張をする人にはもう「頑張って革命を成し遂げてください」くらいしか言うことが無いけど。
・クリプトンが自身の損害を覚悟してまで一つの貶め動画の存在を守らなければならない理由が見つからない。
・するとなんだ、初音ミクは楽器じゃないわけだ<「王シュレット」だって問題視された。つまりこれは必ずしもミク固有の問題とは言い切れないはずだ(――対象に落ち度があるからこれは「王シュレット」とは違うと思う人もいるかもしれないが、幾ら対象に落ち度があろうと、それを理由に不必要な暴力(嫌がらせ)を振るうことは許されない。何故なら、罪は相殺されずただ双方に積み重なっていくだけだからだ。まあ罪という概念を認めるならばの話だが)。
・そもそも、ミクを「言葉を扱う言論装置としては不完全」と言っておきながらレスポールを引き合いに出すところに姑息さを感じる。ギターそのものは「言論装置」じゃないだろう。何故それを同列に扱おうとするのか。それはウォシュレットを作った人が「自分の作った便器がどう使われようと文句は言わなかった」というのと同じ。というか、実際には作った人はともかく社会的には問題視され、それ(「王シュレット」)を放送したテレビ局は謝罪を余儀なくされたけどね。
・レスポール氏は本当にこういった貶め系動画に対して(或いは契約違反について)それを問題視しないタイプの思想の持ち主だったのか?その確認も取らずに勝手に彼を後ろ盾にしようとするのはどうなのか。大体、無理やり関連付けて偉人を引っ張り出し、その威光に頼ることで自説の正しさを印象補填しようとするその手法自体がいやらしい。
・別に「やるな」とは言わんが、それが削除されたら「やっぱり削除されちゃったね」で済ますべき話なんじゃないか、これは。表現したければ他に幾らでもその手段があるわけだし。ミクを介在させる以外に表現手段が存在しない世界ならばまた話も変わってくるが。
・「表現の自由」を理由に貶めを良しとするなら、例えば『アッコにおまかせ』の例のVTRみたいなものに対する批判の根拠を失ってしまうわけだが、それでもいいのだろうか。まあどのみち「表現の自由」は契約違反の言い訳にはならないけど。別に無茶な内容の契約でもないし。
※↑この話題については後で続きを書いた
・今年の世界陸上に於ける織田雄二がずいぶん大人し目なのは、きっと山本高広のアレが関係しているに違いない。山本高広は当人から煙たがられながらもモノマネという表現の自由を実行中。まあ彼もそれがウケなくなればそのうち芸能界から消されるかもしれないけどね。
・モノマネと言えば、稲川淳二のモノマネをしているBBゴローという人のソレが面白い。
・モノマネといっても、この人は話の内容ではなく形式だけを真似する。実際に話をしている内容はといえば、ただ店に入って親子丼を食べたとか、単によくある日常の一コマでしかない。しかしその普通の出来事を稲川淳二の作り上げた形式に当てはめて語ることで俄然それっぽくなり、それを「稲川淳二」として認識しそうになる。
・つまり彼のモノマネは、稲川淳二のあの芸が如何に形式ばっているか、そして実は内容以上にあの形式こそが彼の芸の根幹であったということを明らかにしてしまう。もし彼の話の内容をそっくりコピーしたところで、形式を真似なければ誰もそこに「稲川淳二」を見ないだろう。また、稲川淳二があの形式を完成させていなければ、彼は今ほど人を惹きつけることはなかっただろう。
・形式が話の内容を上回る求心力を持つ。ある種の本末転倒。しかし現に多くの人々がその本末転倒に惹きつけられてきたという現実がある。あのモノマネは、人間の持つそういった滑稽さを炙り出してしまう、そういう面白さを持っている。
・この手の話は都市伝説とか陰謀論というより、「民話」と言った方がしっくりくるような気がするな。>nikaidou.com: 本当に悪い奴がいる
「家族の絆(ゲンナリ)」、他
・『時をかける少女』のサブタイトルは「~いじめられっ子の屍を超えてゆけ」にするべき。それで、テーマ曲も『ゴルトベルク』じゃなくて『フーガの技法』か『音楽の捧げもの』に変更すべき。
・あのいじめられ男子の描写は、どんなグロシーンよりもエグいよ。『エルフェンリート』なんか目じゃない←いや、第一話しか見てないけど。
・つうか前にあれ(『時かけ』)を見た時、どう考えても設定に無理があるよね、と思ったの覚えている。SFとしては致命的な。でも何に無理があったのかは覚えていない。まあそんなことはどうでもいいんだろうけど、アレは。
・昔は学校が舞台になっているものを見るだけで辛かった。それが大丈夫になったのは、完全に「社会復帰(本当は社会的失敗も社会の一部なんだけどね)」を諦めて自分の死と対峙しなければならないようになってから。要するに、そっち側の世界の方がより身近になり、学校のある世界を「向こう側の世界」としてしか認識出来ないようになってからようやくその呪縛から解き放たれた。逆に言えば、そうでもないとそこからは逃れられなかった。
・つまり「時をかける少年少女達(或いはピーターパン的なそれ)」の裏には、そこ(学校生活)で一生癒えることのないダメージを背負わされた者達が多数存在しているということ。
・そしてそういう者達は、「ほろ苦い青春」というものを手に入れる一生に一度のチャンスを逃し、その代わりに「暗黒時代」を獲得する。その後幾ら人生が好転しようと、もう二度それ(青春時代)は手に入らない。
・だからあれを「鬱アニメ」として受け取る人が結構いるのね。獲得してしまったそれを思い起こさせるから。或いは二度と取り返しが付かないことを再確認させられるから。自分があれを見たのはもうそれを「向こう側の世界」としてしか感じられなくなっていた後なので、特にそれが「鬱アニメ」として機能することはなかったけど。
・自分は何度生まれ直しても同じ結果になる自信がある。なんせ、物心ついた時から既に色々とつまずいていたし。つまずきながら生まれて来たみたいなもんだ。そして周りに合わせようとすればするほど駄目になっていった。でもその時はそれが唯一の選択肢だと思っていた。だから「もしあの時ああしていれば…」とか、そういう夢すら見ることが出来ない。
・最近アニメを見ること自体がすごくしんどくなって来た。
・そういやこれって、『サマーウォーズ』の番宣の意味も兼ねて放送されてるんだよな。なんかあの予告を見ただけで反吐が出そうなんだが。いや、内容はよく知らないけど「家族の絆」とか聞いただけで吐きそうになる。マジで。
・家族ってのはさあ、もっと殺るか殺られるかの関係だったり、幾ら切り離したくても切り離せない呪いみたいなものだったり、或いは、お互いがお互いを道具として利用し合っているということを無理にでも意識することによって、それで初めてお互いを許し合えるようになるような、そういう抜き差しならない関係のことなんだよ。
・「家族の絆」とかに夢見ることが出来る人間は、それを包むオブラートを獲得していたお陰でその苦味を知らずに済んだんだろうけど、そのオブラートまでスイーツ加工するのはどうかと。いや、別にそうしてもいいんだけどさ。少なくともそのオブラートすら獲得出来なかった人間が他に沢山いるという認識くらいは持っていてくれよと。「家族の絆」とか「家族愛」とか言ってる連中は本当にそういうことに無自覚で無神経だから。
・それで「それを獲得出来なかったのはその人間の精神が未熟だったことに起因する」みたいなエハラー的世界観を押し付けてきたりするんだよな。
・まあ「家族の絆」とか「家族愛」に心酔することが出来る人間は、(その一部を形作っている)自分自身に心酔することが出来る人間だけだということです。いや、それはそれでいいんだけど、勝手に自己完結してね、と。
・もしノリピーが単騎であの逃亡劇を繰り広げたのだとすれば、幻滅よりもむしろ関心の方が上回る。ただ、実際には何らかの組織的配慮やアドバイスを受けてのものなんだろうな。
・それにしても相変わらずなんて常識的な悪魔なんだ。>デーモン小暮閣下の地獄のWEB ROCK: Aug.10.DC11:これまで余りどこでも
・というか、規範的であるからこそ「悪魔」でいることを許されているというのはあるな。
・一応書いておくと、別に自分は特別『時かけ』が嫌いというわけではない。自分が本当に腹が立つのは精神論プロパガンダ的なアニメ。って、それって日本のアニメ全般に言えることじゃないか。だからもう少し限定すると、よりそれを現実と地続きであるかのように描いているアニメと言った方がいいかな。
道徳について、他
・何故なら、道徳を気に掛ける人間は他人にそれを要求する時、その要求を自分自身が貫徹出来るかどうかをどうしても気に掛けてしまうからだ。勿論、本当に道徳を遵守してしまうような人間は生き残ることが出来ないから、人はそれを誤魔化して生きていく。しかしその気兼ねが他人に対する要求のブレーキになる。道徳から自由な人間はそのブレーキが弱いから、他人により強い縛りを要求することが出来る。
・いやむしろ、人は他人に強い道徳的規律を要求する時、より道徳から自由(非道徳的)になっていると言った方が適切かもしれないな。
・浜崎あゆみ『Rule』より~「だって全ては偶然じゃなく必然なんだってことをあの日の君に教えられたから」/あの日とは『オーラの泉』収録日のことで、君とは江原啓之のことですね。
・底辺の人間が「生きさせろ」とか言っているうちはまだいい。それは他人のことを自分の生死以上に配慮してしまうようなやわな人間が底辺に落ちているだけでしかないからだ。それが「俺は生きる」と言い切ることが出来るような人間が底辺に落ち始めてから、或いは底辺に落ちた人間が『もののけ姫』のキャッチフレーズ――生きろ――的な覚醒をしてからが本当の地獄だ。
・軽々しく「生きろ」とか言ってる奴は、その恐ろしさ、それが意味する本当のところを知らないからこそそれを口に出来る。これは「死ね」に関しても同じなのだが。何故なら、それが彼らを目覚めさせてしまうかもしれないからだ。
・そこではもはや道徳的呪縛を利用した自殺という間引きシステムは機能しない。これまで自殺していた奴らが一斉に生き延びることを第一義的に考えて行動するようになる。さて、日本でそれが実現した時、果たしてどのような状況が形成されるかな。
・生きるのに権利なんか必要ないだろう。何故そんな根源的なことにいちいち権利があるかないかのお伺いを立てなきゃならないんだ?生き残りたきゃ何をしてでも生き残ればいい。インかアウトかというのは要するに、「殺しても(自由を)奪い取る」をシステムに代行してもらうか自分の手で直接それを行うかだけの違いでしかないわけだし。そしてそれはシステムに上手く媚びて取り入るか、真っ向からそれに戦いを挑むかの違いでもある。
・いや勿論、本当に真っ向から勝負を挑んだらまず勝ち目はないが。だからそれは必然的にゲリラ的なものとなる。あと、アウトといっても暴力団とかは結局傍系システムに媚びて取り入っているわけで。
・しかし不思議なことに、日本ではそれらに媚びて取り入ることを「戦う」と言い、逆にそれらに対して距離を取ったり、真っ向から戦いを挑むことを「逃げる」と言う。まあそれは実質的状況を言い表しているのではなく、宗教的階級を言い表したものだということは知ってるけどさ。それにしても全く妙に思える。
・その「他者」とはもしかしてあなた自身のことなのではないでしょうか?>「他者を尊重しなさい」
・イングヴェイがうちの居候になった夢を見た。因みに、その夢では大災害(もしくは戦争?)が起きて知り合いが家族の心配をしていたので、軽々しく「きっとみんな無事だよ」と言ったら、後でその地域が完全に壊滅していたことが分かり、すごく罪悪感を覚えた。
一人ツイッター
・そもそもまともな文章なんて書けもしないのに、無理に文章として仕上げようとすること自体に無理があったんだな。普通の記事でも使えそうだ、この形式は。
・Orbの『Orbvs Terrarvm』が¥250で売ってた。1枚組みの方だけど。
・俺も「ちょっと優しくされただけで誰にでもなびいちゃう惚れっぽいメンヘル処女」に目を付けられてみたいもんだよ。いや、みたかったと言った方がいいか。今じゃなく若い頃にね。正直今はもうそれどころじゃない。というか、そもそも人に優しくしたことなんてなかったわ。
・しかし迂闊にこういうことを言うと「処女厨乙!」とか言われそうだ。一応言っておくと、上のはとあるアニメに出てきたセリフです。
・おまわりがそこらじゅうをウロウロしていて非常にウザい。この前も職質されちまったよ。「お仕事のお帰りですか」だって。「いいえ違います」と正直に言っておいた。
・自分の場合、高校生の時、嘘みたいに踏ん反り返った昔の西部劇に出てきそうな悪徳保安官さながらの態度の悪さを持つ警官に職質されて以来、警察に対するイメージが一気に悪くなった。
・そうか、笑点って今は歌丸さんが司会をやってるのね。そういえば、『ドラえもん』も声優が変わってから一度も見てないや。
・『リミット』の最終回を見逃してしまった。これは痛い。
・日本人がオシャレをする主な理由→みんながしてるから。オシャレしないと差別されるから。或いは誰かを蔑み、嫌がらせをするための口実を手に入れることが出来るから。
・『天地人』の「愛の兜」は、小泉改革の時にホリエモンが着ていた「改革Tシャツ」にある意味似ている。
・『N響アワー』での西村朗の語りが中々軽妙でいい感じ。因みに、『スピリチュアル名曲論』発売記念として、全11回のレクチャー映像が配信されている。なんと太っ腹な。
一人ツイッター
・「孤高の一人ツイッター」/取り敢えずハミってる奴は頭に「孤高の」とか付けとけば何となくそれっぽい雰囲気をかもし出せる。
・性的行為や欲求を嫌悪するのは、人間はただの動物じゃないと思いたいからなんだろうな。人間には理性によって感覚を律する能力がある、みたいに。もう少し言えば、そういった幻想を抱く理性勝ちな意識が内面でよりはっきりとした形で分化された状態になっている。
・「ええい、控えい、控えい!ここにいらっしゃるこの私をどなたと心得る!恐れ多くも“庶民感覚”の代弁者様であらせられるぞ」/結局“民”とか“庶民感覚”って、多数派である自分自身のことなんだよな。共有イメージとして神聖化されたそれらを一旦経由することで自己愛をロンダリングし、自意識的に無垢なまま自己を肯定をしようとする卑怯なナルシズム手法に辟易。
・そろそろ『Let It Be』をラリピーに置き換えたものが出回りそうな予感。というか、出てくる情報出てくる情報がいちいち今まで作られていたイメージと間逆のものばかりで呆れ果てるわけだが。しかし芸能リポーターとか絶対知ってたでしょ、こういった情報。今までそれをひた隠しにしながら虚構のイメージを作り続けてきたわけか。まあイメージ偽装はどの個人、企業でもやってるけどね。ただ余りに極端というか。