類似点
↑所謂トリさん。●鶏肉について
高たんぱくで部位によっては低脂肪の鶏肉は、栄養価にもすぐれたお肉です。もし、皮の部分の脂が気になる方やカロリーをさらに落としたいという方は、皮をとったり、ささ身の部分を使うようにするだけで、グンとカロリーダウンする事も。もまた、お肉が柔らかいので、高齢者や子供達にも食べやすいのも嬉しいですね。
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よろずフォトログ : "曹家包子館のブタ"
↑所謂ブタさん。椎茸の旨味をたっぷり含んだ自信作の新しい豚まんです。
麹 ( こうじ ) で発酵させた皮は体内での消化が早く、体にとっても優しい食べ物です。ぜひ一度ご賞味ください。――曹家包子館 ソウケパオツーカン : 椎茸小籠包より
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高卒求人ドットコム | 「高校生の新卒者を採用!」低コストで、素直で元気な若者を採用する方法です。
↑所謂ニンゲンさん。【企業様の高校新卒者採用メリット実例】
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◆「学力もあり優秀であるのに経済理由で大学進学できない学生を獲得できた!」 など
<追記:12/13> その後、不適切な表現があったとして内容が少し変更されたようです。以前はこんな感じ(魚拓)でした。
「恥知らず」というスキル
再びこの記事から。
「こうみると企業の対外向けスローガンって厨二的だな」というコメントがあるが、自分でそれを作ろうとしてみると分かる通り、この手のキャッチフレーズというのは内向きであろうと外向きであろうと、どう頑張っても何かしら気恥ずかしさを伴ったものにしかならない。その気恥ずかしさを押し隠そうとしたら、キャッチフレーズ自体の存在感も失せてしまうだろう。もしくはそれを生み出すことすら出来なくなってしまうかもしれない。だからそれを避けようとするよりも、むしろ「厨二的」な枠組みの中でどれだけのことが出来るのか、ということを追求した方が良い結果が得られると思うし、実際こういったものはそういう前提(割り切り)の下で作られているようにも思う。
つまり、如何に恥という感覚に囚われないでいられるかというのは、実は実社会に於いて最も重要なスキルのうちの一つなんじゃないか、という。恥という感覚が強すぎるが故にひきこもりになった(抜け出せなくなった)者も多いことだろうし、そうでなくとも、その感覚があるが故に人と円滑なコミュニケーションや関わり合いを持つことが出来ない、という人もいるだろう。
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道徳の一種である恥という概念は、それを持つ者の思考や行動を縛り付け、その方向性を限定化する機能を持つ。つまりその感覚を上手く植えつけて刺激すれば、それで他人を制御することが出来る可能性がある。だから人々は躍起になってそれを試みる。そしてそれが上手くいかなければ憤ることだろう。「この恥知らず」などと言って。
だが制御と言っても、この恥という感覚は基本的に縛り付けるものでしかない。それ故、その縛りを受けてしまった者の動きは鈍り、思考は偏りを帯びることになる。それが引き金となってひきこもる者もいれば、優柔不断になったりコミュニケーション不全に陥る者もいるだろう。ところが、そうやって動きが鈍り柔軟性が無くなる者が出てくれば、今度はそのことがまた問題化されることになる。当然、恥を他人を制御するための手段として用いることが風習となっている社会では、さらにその道具を使ってその者達を思惑通りに動かそうとすることだろう。だが、それは既に鎖で縛られている者を再度縛り付けることにしかならない。
仮にその締め付けに絞られて動き出す人間がいても、恥という概念の拡張としての文化やシステムは、すねに傷(=恥「ex.履歴書の空白期間」)を持つ者達を出来るだけ弾き飛ばそうとするだろう。やがてその除け者扱いは内面化され、さらなる呪縛となってその者を内側から縛り付けることになる。そしてそれを見た者は、またそれを恥で制御しようとする…以下ループ。
この連鎖に巻き込まれると、行き着く先には自殺という出口しか待っていない。ところが生き残った者達はその自殺という行為を見て、「自殺をするなんてけしからん」と言ったりするのだ。恥知らずにも。恥の文化を土台とする社会の内実とはこんなものだ。恥を知らない人間ほど生存率が高まる。逆に恥という概念に囚われている以上、いつこの連鎖に巻き込まれてもおかしくない。
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勿論、恥の感覚が社会的に無難な振る舞いを指南してくれて、それが助けになる場合もあるだろう。だがそんなものが無くとも、必要とされる時に上手いこと恥じらいがあるかのように振舞ってさえいればそれでいい。それさえ出来れば、恥の感覚を持つ必要なんて全く無い。
何にせよ一つ確かなのは、この社会に於いて恥という感覚はその者を死に至らしめるのに十分なだけの力を持っているということ。これはある種の呪いと言ってもいいかもしれない。銃やミサイルやナイフで殺し合う、なんてのはもはや時代遅れ。現代的な社会空間に於いては、こういった呪術や文化、思想(宗教)、そしてそれらの拡張としてのシステムを使うことによって、それを意識化に隠蔽した形で殺し合いが行われるわけです。生存競争という名の殺し合いが。
まあそんなわけで、意思の力で感覚をコントロールすることは困難であるにしても、其々は極力恥という感覚を拭い去る努力をすべきなのです。少なくとも生き残りたいと思う人間はね。
一般市民「これが真の廃人という奴か…」
TDK「ぜんぶ聴かせろ!『Sound Nonfiction』!!」
…ってな感じのカセットテープのポスターが未だに部屋に貼ってある。何故こんなものを貼ろうと思ったのかは全く覚えていないが、剥がすのが面倒なので、中学の頃にこれを貼ったきりそのままにしてある。
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寒いから中々文章を書く気にもならない。どうせ何か書いたとしてもこれ以上につまらないただの嫌ごとにしかならないだろうと思うと尚更モチベーションが下がる。とはいえ、何も書かないでいるとそれはそれでまたストレスが溜まってきたりして。
で、何をしているかと言えば、何の目的もなくただひたすら寒さに耐えているだけという。コタツに入って音楽でも聴こうかと思っても、人が来るんじゃないかと思うと少し離れた位置にあるラジカセの音量を満足いく程度にまで上げるのも憚られる。まあ、所詮怒りと恨みだけを原動力とする廃人の生活なんてこんなもんです。自分からすればネトゲ廃人ですら活き活きして見える。
「現実物語」への収容という問題
扇情的なタイトルも伴って、この写真だけを見ると朝青龍が稽古をつけるという名目で子供を虐待しているようにしか見えない。
朝青龍頭突き!塩攻撃!子供相手に“やりたい放題”(別バージョン)
しかし後者の方を見ると、実際にはちゃんと向かいに子供を受け止める役の者がいたことが分かる。これはその一連の流れの一部分を切り取ったものだったのだ。実際この「人間キャッチボール」なるものをニュースで見たが、この写真ほどのインパクトは無かった。要するにこの写真が持つインパクトは、枠の外が隠されているが故のものだということ。そしてこれは同時に、これを見た者がその限定された情報から勝手に意味を拡張し、その妄想で枠の外を埋め合わせるが故により大きなインパクトを獲得している、とも言えるだろう。…とはいえ、その埋め合わせは妄想であっても、そこで獲得された驚きの感情自体は嘘とは言えない。「土俵下の付け人に子供をキャッチさせる「人間キャッチボール」などの荒技を披露し観客を沸かせた。」
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結局、人間の人生もまたこの写真のようなものなんじゃないか。
巷では何か事件が起こるたびにその当事者達にまつわる様々な情報が掻き集められ、それによって多くの者達が納得し易いような何らかの分かり易い設定や背景が作り出される。その上で精神分析の専門家とやらがその当時者達の内面を勝手に言い当て、この人間はこういう意識を持っているからこうなったのだ、というような物語化や人物のキャラクター化が行われていく。或いは其々が対象者と自分の些細な共通項を見つけ出し、同じような状況に於いて自分はこういう心持ちをして失敗/成功した――だからあの状況で失敗/成功したあいつはこのような心持ちをしていたに違いない、というように、自身の個人的経験や感覚から導き出された物語の文脈に勝手に他人を当て嵌め、それで恰もその者達の内面が理解出来たかのように錯覚してしまう。
しかしながら人間は、決して他人の経験や意識、感覚を知ることは出来ない。また、幾ら情報を掻き集めようと、ある結果が生み出されるまでに至る因果の糸を解きほぐし、その内容を見極めるようなことも決して出来ない(ましてや、その因果の糸を一個人の意思が操って結果をコントロールしているなんてことはまず考えられない)。つまり人間は――原因と結果が一対一で繋がっているような状況だけを限定して見るならともかく――「人生」というより大きな括りに於いては、幾ら頑張ってもこの写真のような断片的情報しか入手することは出来ない。だからこそ、その枠の外を知りようがないからこそ、人は現実に驚き、恐れおののく。
…ところが。にもかかわらず、まるで現実に於ける因果のあらましが詳しく把握されているかのような前提を持った物語が生み出され、それが「現実」として取り扱われてしまう。そしてその物語の中では、決して知ることが出来ないはずの他人の内面が易々と言い当てられる。
これは冒頭の写真の例に置き換えてみると、枠の外が勝手に妄想で埋め合わされ、恰もそれを事実であるかのように錯誤してしまっている状態と言っていいだろう。
――例えばドットの集合で作られた何らかの絵から幾つかのドットを抜き出し、そのドットだけを見て元の絵を知ることが出来るか?いや、それは無理な話だろう。我々が現実から入手することが出来る情報もまたそういうものだ。だから誰も元の絵を知ることは出来ない。ところが問題なのは、その抜き出したドットを使えば、其々が勝手に自分の都合のいいような絵を再構築することが出来てしまうということだ。そしてそうやって作り出された絵をまるで現実であるかのように錯誤してしまう――その抜き出されたドットが現実の断片であるが故に。その錯誤に実感が伴っているが故に。ちょうど、あの写真自体は現実とまでは言えなくとも、あそこから獲得された驚きの感情自体は事実であったように。その実感があるからこそ、それを真実であると信じてしまう。
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だが、現実から切り取られた断片はもはや現実でもなんでもない。絵から抜き出されたドットがただの点でしかないように。自前で用意したドットで作った物語(漫画や小説、映画など)と、現実から抜き出したドットで作った物語(ワイドショー的精神分析や精神論的・自己啓発的成長物語)。元となる材料は違っていても、どちらも虚構であることには変わりない。
巷ではよく「虚構と現実の区別が付かない」などと言われるが、その錯誤性に於いてより大きな問題を内包しているのはむしろ後者の方なのではないか。ところが、前者の「虚構としての虚構」が持つ危険性が広く喧伝される一方、後者の「現実という名の虚構」は全くその危険性が唱えられることはない。それどころか、むしろ人々はその社会で人気を博す「現実物語」の良き住人として振舞うことが強く要請される。そして其々の個人が置かれた状況は、全てその物語の文脈の上で解釈されてしまう。
こういった風潮は本当にどうにかならないものだろうか。いやもちろん、こういった妄想が社会生活を営む上で重要な役割を果たしているということも分かってはいるが…(例えば文化は妄想の共有。そういった妄想の共有が無い者同士でコミュニケーションを取り合うのは難しい。というのも、コミュニケーション上の情報は大抵その共有を前提として、内容が著しく省かれていることが多い。その省きによってよりスムーズに意思疎通を図ることが出来る。だがそれを共有していない者は、そうであるが故に周りから奇異の目で見られたり、病気扱いされたりすることになる)。
自作自演の副産物としての「生」×義務教育人生×私が常識を憎む訳
メジャーのワールドシリーズや日本シリーズを見ていてふと思った。結局のところ、ありとあらゆるイベント(祭り、社会活動)とそれに付随する盛り上がりは、全て自作自演によるものだよなあ、と。つまり、自ら動機を生む舞台装置を作り出し、自らそれで盛り上がっている。しかし自作自演であることを意識してしまえばそれはわざとらしさとなり、盛り上がりは一気に失われてしまうだろう。だから盛り上がりを得るためには、いかに上手くその自演性を意識下に隠匿した形で自演出来るか、ということが鍵となる。
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人間は常に動機に飢えている。当たり前だ。その者が全く何の動機も獲得できないとしたら、その者が持つ「生」は苦痛や恐怖、恥といったネガティブな感情や感覚を生み出すだけのただの拷問機でしかなくなってしまう。だから人々は動機(希望)を下支えするための物語や宗教、精神論、或いは憧れの肩書きや生活スタイルなどを生み出し、盛り上がりを得るための舞台装置を整える。管理した上で偶発性を際立たせようとする。或いは無理矢理にでも祭りを起こし、心を揺り動かそうとする。そしてその流れに上手く乗ることによって初めて己の「生」を価値あるものとして実感することが出来る。要するに自作自演だ(一応念のために言っておくと、それによって具体的な社会情勢自体が思惑通りに制御されているとかそういうことを言っているのではありません)。
何一つ動機を獲得することが出来なかった人間でも、「死にたくない」という動機くらいは獲得できるかもしれない。が、やはりそれだけではその者の「生」は無価値なものにならざるを得ないだろう。初めから生まれてこなければその拷問機に掛けられる必要も、そこから逃げる必要もないのだから。それは「生まれてこなければよかった」という「生」の否定にしか辿り着かない。
そういった「生」を獲得した者は、こう思うだろう。好きで生まれてきたわけでもなければ、好きで生きているわけでもない、と。この場合、その者の人生は「他作自演」の人生と言える。その人生は所詮、他者の自作自演(ここで言う自作自演とは自由意志によるものではなく、自分の意志で子供を生み、自分の意志で希望を獲得し、自分の意志による努力で何かを獲得することが出来たのだ、と“認識することが出来ている”状態を指す)を彩るための人生でしかないのだ。もっと言えば、それは自作自演の人生が生まれてくるための副産物として生み出された「生」でしかない。物語でいえば、主役達を際立たせるために副次的に生み出される雑魚キャラや悪役のような存在。
▼(2)義務教育としての子育て
勝間和代の『誰でも出来る』日本支配計画
そういう意味からしても、こういうタイプの自作(舞台装置の製造)はちょっと許せないなあ。ヤンキーが無計画にごろごろ子供を生むことを肯定できたとしても、これは無理。
というのもヤンキーの子供の場合、幼少期に道徳という毒花の種を植え付けられ、それに雁字搦めにされて養分を吸い取られる(つまり存在の主体が他人が生み出した道徳に乗っ取られる)ようこともないだろうし、それによって獲得した状態を自己責任という道徳で叩かれるという道徳の矛盾(そもそも道徳は基本的に生存と競合する)に苦しむ必要もないだろう。つまりそこでは「生」は副産物化し難い。
道徳なんて意に介さない人間だけが生まれてくればいい。そういう者達だけがこの世に生まれて来て、そういう者達同士だけで勝手に争い合い、盛り上がっていればいい。
だが勝間氏の主張はそれ自体が道徳的だ。よってそれに流されて子供を生んだ人間は、またその子供に道徳という毒花の種を植えつけることになるだろう。そして尚且つ、その出産と子育ては義務感を出自としているが故に、義務教育を受ける生徒のような立場で行われることになるのは避けられない(もちろん、後に義務から抜け出す者もいるだろうが)。
(↓ここからは自分語りが入ります)
微妙に嫌な感じ
自分は「FF」派だけど、初代開発者が「FF」と呼んでいるからといって「FF」という呼び方が「正しい」ってのは疑問に思うな。例えば日本にはニホンとニッポンという呼び方があるが、これを天皇がそのうちのどちらかの方が正しいと言ったら、それまで広く一般的に用いられていたもう一方の呼び方は間違いだったということになるのか?それ以降その呼び方を用いてはいけないことになるのか?そんなわけはないだろう。
そもそも言語は一個人のものとしては成立しない。例え国を作ろうがゲームを作ろうが、その者は言語の創造主にはなり得ない。それが広まらなければ言語として機能し得ないからだ。そしてそれは常に変容していくもの。故に、本来言語に正誤はない。あるのはただ意味が伝わるか伝わらないか、それだけだ。勿論、実際には正誤を判断するための基準とされるものがあるにはあるが、それはあくまで便宜から生じたものであり、その「正誤」はそのシステムの上に限定される「正誤」でしかない。国語のテストで正解とされる言葉だけが「正しい」わけではないし、それ以外は使うべきでないという考えがあるとしたら、それが如何に偏狭で独裁的なものであるかというのは言うまでもないだろう。
もしどこかで「FF」と「ファイファン」という呼び方の非統一性によって何か不都合が生じることがあるとするならば、その問題が生じる集団内で話し合って便宜上の正しさを設定し、その場所ではそれを用いればいいだけだ。初代開発者が特定の呼び方を正しいと言っているからといって、いきなり全般に於いてその呼び方で統一する必要なんてどこにもない。その社会が極端な権威主義や画一主義を志向していでもしない限り。
ピアノ・ソロ曲『素直さを求めて』
『素直さを求めて』(2分53秒)
※最後の部分をちょっとだけ変更(11/3)
今回のテーマは、このよじれた感覚と理性を解きほぐし、「出来るだけ素直で耳障りの良い曲を作る」ということ。しかし結局その目論見は外れ、どうも所々微妙に歪さが残るようなものになってしまった。まあ一度失ったものはそう簡単には取り戻すことは出来ない、ということだろう。
とはいえ、今回は右手パート/メロディ、左手パート/アルペジオという一般的スタイルを重んじたので、当社比で言えばかなり素直な出来上がりにはなっていると思う。
音源として使用したのはこの前にフォント化した「SONART YAMAHA C7」。この曲を作った動機の一つとして、せっかく良い道具が手に入ったので試しにそれを使ってみたかった、ということがある。最初はこれで人の作ったmidiを色々と鳴らして満足していたのだが、段々それだけでは物足りなくなってきたという。
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それにしても、音との距離感を保ちつつそこに質感を与えるにはどうしたらよいのだろう。というのも、この音源に限ったことではないが、多くのものはそれをそのまま鳴らすと、特にヘッドホンなどで聴いた時、耳に音が張り付くような感じになってどうも気持ちが悪い。
だから音との距離感を作るためにEQで帯域を削ったり、リヴァーブを掛けてドライ成分を削ってみたりするのだが、この方法だと距離感は作れるが、どうしても音自体がボヤけてしまう。一体どうしたら音との距離感を保ち、尚且つ質感もある音、というのを作ることが出来るのだろう。
人間の資質をゼロサムゲームに見立てるのは誤り
何だろう、この奇妙な「選択と集中」は。幾ら得意分野だ(と思われている)からといって、猥雑さといやらしさ全て引き受けます、というのはどうなのか。いよいよもって現実が星新一の世界に追いついてきた(←いや、ちゃんと読んだことないけど)。大阪府の橋下徹知事は29日、大阪市内で企業経営者ら約750人を前に講演し、関西の活性化には都市ごとの役割分担が必要との考えを示したうえで、大阪について「こんな猥雑(わいざつ)な街、いやらしい街はない。ここにカジノを持ってきてどんどんバクチ打ちを集めたらいい。風俗街やホテル街、全部引き受ける」と述べた。
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しかしながら、――「財政再建を放棄するかいやらしさを全て引き受けて金儲けするか、お前は一体どちらを選ぶんだ」という典型的な詭弁(誤った二分法)は論外として――カジノや風俗を行政が管理することで、それらに闇社会が介入することを絶ち、そこから収入源を奪う、ということを期待してそれに賛同するという意見もあるようだ。
だが、この考えには大きな欠点がある。というのも、ギャンブルや風俗という分野は、それを表舞台に出したからといって危うさ自体が消えて無くなるわけではない(――麻薬が出回ることは防げないから、それを合法化して国が管理すれば問題がなくなる、というようにはいかないのと同じ)。つまり行政や一般企業自体が(その資質を引き出されて)ヤクザ化する可能性がある。そもそも、世評によると「公務員は信用できない」はずだ。しかも民間にはブラック企業がそこらじゅうに蔓延っているというのが現状。危うさを上手くコントロールするどころか、むしろ深淵に取り込まれてしまう可能性の方が高そうだ。行政や企業に余程大きな性善説的信頼を置いているわけでもなければ、中々この主張を支持するのは難しい。
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他府県に住む賛同者には、汚いものを大阪が引き受けてくれることで自分達の住む街は綺麗になる、という期待を抱いてそれに賛成している人もいるようだ。だが、行政や企業と暴力団が結びつけば(或いはそれらがヤクザ化すれば)それはそれで周りにも影響を及ぼすことになる。かといって仮に暴力団をカジノや風俗から完全に追い出すことが出来たとしても、その暴力団は他で活動するようになるだけだろう。或いはまた別のシノギに力を入れ始めるかもしれない。物事はそんなに簡単ではない。
例えば、誰かが「私があなたの代わりに性欲や金銭欲、下品さや雑さを全て引き受けます」として精一杯それに励んだとしても、それによって他の誰かのそれらが無くなるわけではない(近くに風俗やホテルや賭博場がないと困る人達だっているだろう。自分の好き勝手で自由に移り住むことが出来る人間も余りいないだろうし)。或いは、「世の中から殺人事件がなくなることはない。だから俺がお前らの代わりにその役割を引き受けてやる」と言って誰かが大勢の人を殺したからといって、それによって他の人間が殺人事件を犯す割合が減るわけではない。
これは集団という単位でみても同じことだ。イスラエルがえげつなさを精一杯引き受けたからといって、世界からえげつなさが消えて無くなるわけでもない。戸塚ヨットスクールがリンチを引き受けたからといって、他でのリンチが無くなるわけでもない。つまり、ある場所に於ける何らかの性質を増長させたからといって、その周辺に於けるその性質が減退するとは限らない。元々それはゼロサム的な交換ゲームではないからだ。それどこか、むしろとある場所に於ける何らかの性質の増長は、他の地域へと波及する可能性すらある。
猥雑さやいやらしさの文化・商売にしても同じこと。それらは元々人間が持っている資質の拡張。大阪にそれらを集めてきたところで、他の場所に於けるその資質が減退するとは限らないし、むしろそれが引き出される結果になるかもしれない。
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要するにこれは、金に困った自治体の長が町ぐるみでギャンブルや風俗に手を出すことを提案した、ということでしかないだろう。それをよしとするか否かだ。それ以外の効用は期待しない方がよい。…まあ、わざわざ言うまでもないことかもしれないが。