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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

「musicXart studio」のハイクオリティ・コンプ、OneKnobCompressor

「OneKnobCompressor」musicXart studio

OneKnobComp1.png

KVRのユーザー・レヴューでこのプラグインの「サウンド」に満点を付けている人がいたので、そういばそういうものもあったなあ、なんかやたら重かったことしか覚えてないけど…と思いながら試してみたところ、確かにその評価も誇張とは言いきれない非常に高いクオリティを備えたものだった。以前にも少し触ってみたことがあるはずだけど、その時にこのコンプの良さに気付かなかったのは、まだ自分の中にコンプに対する評価基準が確立していなかったからだろう。
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このコンプの特長を一言で言えば、音がぼやけ難く、抜けがよいこと。この点では、自分の知っているフリー・コンプの中では一番優れている。そして誰が使っても失敗することのない簡単さも、長所の一つと言ってよいだろう。

音の変わり方はコンプというよりも、どちらかといえばクリアに音圧を上げることが出来るタイプのリミッターをイメージした方が分かり易い。実際、リミッターとしても十分使えるだろう。すこし高音が強調される傾向がある――後で書くが、それも修正が効く――が、それ以外には特段どこかの帯域が出っ張ったような感じになるクセもなく、非常にフラットな印象で、汎用性という点でも高く評価できる。フリーでクセのないコンプは余りないので、その意味でもかなり貴重。

これはフリーだから、ということだけでなく、絶対評価としてもかなりいい線いっているコンプだと思う。実際、試しにT-RackSと比べてみると、ぼやけ難さという点ではOneKnobの圧勝。重さという点でもT-RackSに圧勝してしまっているけど。しかし、そういった重さという大きな弱点は抱えているものの、このクリアさとフラットさなら、ヴォーカルなんかに使っても十分威力を発揮してくれるのではないか。

<追記:6/30>「フラット」と書いてはみたものの、後でもう一度聞きなおしてみると、そのままの設定の場合、低音がかなりへこむことに気付いた。そのため、例えばキックなんかに使用する場合は、「Low/High」によるパラメータの調節が必須になる。しかしやっぱり品定めする時は、ちゃんと色々なソースで試してみないといけないなあ。今回は記事はいつもと違って、一つのソースで鳴らしてみた印象だけで書いてしまったので。あとこのコンプは、音が少し細くなり勝ちな弱点を持っていたり、スピーカーに張り付いた感じになり難い代わりに、少し距離ができたりするところもあるので、そこら辺にも注意が必要。<了>

そしてこのコンプ、見かけ上はワンノブ――と言いながらツーノブじゃないか、ということはさておき――だが、実際には内部にちゃんと様々なパラメータが用意されている。DAWによってそのパラメータの出し方は異なっているだろうが、例えばREAPERでは、「UI」ボタンをクリックすると以下のような画面が表示される。

↓「ワンノブ」と「Sat」をマックスにしているが、それ以外はこれがデフォルトのパラメータ設定。
OneKnobComp2.png

・EQ-Compressor-Attack→アタック。

・EQ-Compressor-Cutoff→ハイカット(ローパス)。左にスライダーを動かすほど高音が削られていく。

・EQ-Compressor-LookAhead→先読み機能(擬似的なものじゃないかと思うけど)。ピークの尖りを和らげたい時に使う。

・EQ-Compressor-Low/High→スライダーを真ん中より左よりにすればするほど、高音がより強く抑えられる。真ん中より右よりにすればするほど、低音がより強く抑えられる。

・EQ-Compressor-Mode→オンにするとコンプの掛かりが強くなる。

・EQ-Compressor-Out→アウトプット・ゲイン。

・EQ-Compressor-Ratio→レシオ。

・EQ-Compressor-Release→リリース。

・EQ-Compressor-Softclip→ソフト・クリップ。

・EQ-Compressor-Threshold→スレッショルド。

・EQ-Compressor-UpDown→よく分からない。インプットゲインかな?オンにすると一気に音量がでかくなるので注意。

・EQ-Compressor-Wet/Dry→プラグインのドライ/ウェット。表示とは逆で、スライダーを左にするほどドライになり、右にするほどウェットになる。

・EQ-Gain→高音用EQのゲイン。

・EQ-On→プラグインのオン・オフ(GUIのon/offスイッチに該当)。

・EQ-wet-dry-Knob(1)→?

・EQ-wet-dry-Knob(2)→コンプレッション(GUIのワン・ノブに該当)。

・EQ-wet-dry-Knob(3)→?

・EQ-wet-dry-Knob(4)→サチュレーション(GUIのSatに該当)。

・EQ-wet-dry-Wet/Dry(1)→?

・EQ-wet-dry-Wet/Dry(2)→?

-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-

「高音が強調される傾向がある」と言ったが、それが気になる場合は、デフォルトでマックスになっている「EQ-Gain」を少し下げてやればよい。自分が重さ以外でこのコンプに抱いた唯一の不満は、リミッターのような平べったい音の変わり方をしてしまうことだったが、ここでアタックとリリースを調整すればそれも回避することができる。

「世の中にはもっと恵まれない人達がいるのだから…」について

何かに不満を述べる者達を黙らせるための常套句として、「世の中にはもっと恵まれない人達がいるのだから、それくらい我慢しろ」というものがある。このセリフは、多くの者にある程度の説得力があるものとして認識されているのではないか。しかし、このセリフを述べる人間がそれを実践することができているかと言えば、それはかなり怪しい。
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この論理に従うなら、例えば金銭的により恵まれている者は、少々の金銭問題の不満には目をつぶらなければならないことになる。折衝能力に優れている人間は、そうでない人間に多少のエコヒイキがあったとしても、それを我慢しなければならないだろう。より立場的に恵まれた位置にいる人間は、そうでない人間に不満を感じても、「彼らは自分のように恵まれていないのだから」と口をつぐんでいなければならないだろう。そして現状にある程度の満足を感じている人間は、そうでない人間が有利に扱われたとしても、色々と我慢していなければならないだろう。

だが実際はどうか。大抵の場合は逆の使われ方をしているのではないか。より金銭的に恵まれている人間がそうでない人間に我慢を強いたり、立場的により恵まれた人間がそうでない人間に対してさらなる我慢を強いるために用いられていることが多いのがこのセリフなのではないか。

確かに、下を見れば幾らでも下があるわけで、多くの恵まれない者達もまた、最下層の者達よりは恵まれていると言える。しかしながら、そのようにしてもし仮にこのセリフの論理を優先させていくなら、相対的に恵まれているとされる全ての人間は、その最下層の人間達よりもちょっとだけ恵まれている状態にまでどんどん下方修正されていく可能性を否定できないことになる。もちろん、実際にはこの論理を用いる側の恣意的な線引きによってそれは回避されたりされなかったりすることになるのだが。つまり、このセリフの裏にはそのような恣意性の問題が隠されている。さらには、このセリフを大儀として下方修正や満足のいかない現状の維持が誰かに求められ、それが実行力を持つ時、それを求める側の人間は大抵、それらの人間より相対的に恵まれていることが多い、という大きな矛盾もまたこのセリフは抱えている。

そもそも、現状に対して大きな不満を抱えている者がただそれに対して不満を述べることさえ我慢できない人間がこのようなセリフを吐くこと自体がおかしい。不満をもらさずにいられる程度の現状への満足を獲得している人間は、それが気に入らなくても、より恵まれている者として我慢していなければならないはずだからだ。

人によっては、自分の方が恵まれていないぞ、そんな自分だって我慢しているのだから…ということをそのセリフを通して言っているのかもしれない。だが、自分が我慢しているから他人もまた我慢しなければならない、というのは少し自分本位すぎるだろう。自分が我慢するのは勝手だが、それは他人が口をつぐまねばならない理由にはならない。不公平だと思うなら、自らもその者達と同じように現状への不満を述べればよいだけのことだろう。

自虐と他虐、「自虐史観」と自己責任、戦争と内戦

橋下維新「自虐史観でない教科書を」 大阪市会で決議提案へ - MSN産経

今現在、多くの日本人がこの国の政府や世間的風潮を批判し、また、自国民同士で批判し合っていることだろう。それを自虐と言う人間はどこにもいない。だが何故か、戦前・戦中の政府や軍隊、世間的風潮への批判だけを特別視し、それにのみ自虐というレッテルを貼り付ける人間がいる。
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ここで言う自虐の「自」とは、恐らく「日本」のことをさしているのだろう。しかし、「日本」というのは日本政府や社会的趨勢、橋下維新だけを指しているわけではない。この集合体を形成している、それら以外の者もまた「日本」だ。よって、其々が己の持っている世界観は他人のそれよりも劣っていて、それ故自らのそれを否定しなければならない、というような自虐的発想に溺れていない限り、自ずとそれらの「自」同士はお互い衝突し合うことになる。これはその衝突の一つであり、それ故「自虐」はその対抗相手への批判の根拠にはならない。

ここで何故「自虐史観」などという言葉が出てくるのかと言えば、それはその者が大日本帝国時代の世間的風潮や軍隊と自らを同一化しているからだろう。そしてそれに唯一絶対の「日本」であるかのような前提を与えるが故に、このような表現が出てくる。だが、当時の風潮や軍隊と自らを同一化していない人間からすれば、その「自虐史観」とやらは、今多くの人間が行っている、自国内における何らかの思想や風潮への批判と同じことでしかない。

むしろ全てを「日本」と一まとめにしてしまうなら、多くの自国民に不幸をもたらした戦前・戦中の思想や風潮、動きこそ(結果論ではあるが)自虐的だったと言えるのではないか。実際、ここで批判的に扱われている「自虐史観」には、単に外国への侵略行為だけでなく、そのような自国民に対する虐への批判や反省もまた同時に込められていることは疑う余地がないだろう。例えば、勝ち目の無い戦いを強いるということは、無理に自殺を強いるのと同じことだ。当時の多くの人間は戦争を行うことをはやし立てたかもしれないが、全ての人間がそうだったわけではないし、そのせいで嫌々何かを強いられ、苦しめられた人間も大勢いたはずだ。他ならぬ日本人から。無計画な作戦を元に戦地に送られ、戦う前に餓死した人間だって大勢いる。つまりそれは単に外国との戦争というだけでなく、自国民同士の殺し合いでもあったわけだ。そのような自虐行為への批判や反省を「自虐史観」であるとして斬り捨てるということは、「日本」であっても自らの認める「自」以外の者には、或いはその「自」による大儀のためなら虐をもやむを得ず、と言っているのと同じことなのではないか。

そもそも、他虐を真に受けてしまうと自虐になるわけで、気に食わないことがあると直ぐに他虐に走ったり、それを頼りにして人気を獲得してきたような人間が自虐を問題にするとしたら、それは全く筋が通らない。自虐を問題視する人達は果たして他虐が持つそのような問題に対して気を配ってきただろうか。

 ***

「自虐史観」批判には、他にもまだ大きな問題がある。それは現在の潮流であり、多くの「自虐史観」批判者もまた賛同しているであろう自己責任理論との相性の悪さだ。

「弱い人間は好きで弱くなったのだからもっと強く踏みつけてやればいいのよ」というのは、「自虐史観」批判の急先鋒である金美齢の言葉だ。要するにこれは、人が窮地に陥るのは努力不足と精神的未熟さが原因であり、それ故、そのような人間が苦しむ/苦しめられるのは自業自得である、という考え方だ。こういった考え方は、今現在――どこからどこまでが努力不足や未熟さのせいなのか、という線引きは其々で異なっているだろうが――多くの日本人に支持されている。そして金美齢や橋下知事など、「自虐史観」批判者の多くはとりわけこういったことを強く主張してきたはずだ。

しかしこの考え方からいくと、当時の日本が窮地に陥ったのは努力不足や未熟さ故であり、それを反省しなければならないということになる。それどころか、それは「もっと強く踏みつけて」やるべき対象ですらある。そしてその対象は、その踏み付けを甘んじて受けねばならず、それに対して不満を漏らすのは「甘え」ということになるはずだ。つまり、自己責任論はこういったマゾヒズム的趣向を強要するものであり、「自虐史観」批判とは本来相容れないもののはずなのだ。

「自虐史観」を問題とする者達がよく行う、日本は石油を止められ、追い詰められて仕方なく戦争に…という主張も、自己責任論からすれば自業自得の一言で済ませてしまうことができる。実際、それは中国や仏印への侵攻がその引き金になっていて、落ち度がありまくるわけだし。政治下手だったが故に…という主張も、コミュニケーション能力――実質的には折衝能力――は努力で補える。よってその能力の無さ故に痛い目にあってもそれは自業自得であり、不平不満を漏らすのは甘え、というような一般的主張からすれば、断罪されるものでしかない。他の列強がやってたから(みんなやってるから)、という理由に関しては、いちいち言うまでもないだろう。

また――自国民の命を大切にしない人達がこんなことを言うのはおかしな話だが――仮にそれらを生き残るために、人々の生活を守るためにはやむを得ない侵攻だったとしても、それをよしとするなら、資源不足や財政難に悩まされる多くの国々(「自」)は、それを理由として侵攻を行ってよいということになってしまう。果たしてそのような理屈を仕方がないこととして受け入れることができるだろうか。

さらに言えば、生活のために仕方なく…を擁護すべき理由とするなら、生活のために強盗や窃盗をしている人間もまた擁護すべきだろう。実際、どのようなシステムを作ってもそこに上手く収まらない者が出てくるわけで、そういった世渡り下手な人間は、正規のシステムの外で非合法の生存活動を行うか、飢え死にするか自殺するかしか選択肢がない。こういった問題は古今東西、どの国も抱えている問題であり、その前提こそが社会問題における出発点だ。つまりそこには、ただ断罪すればよい、というだけでは済まない難解な問題が存在している。しかしながら、それを擁護するでもなく、幾ら同情の余地はあっても法は法、でもなく、ただ「努力不足」や「未熟さ」という言葉で斬り捨ててきたのが「自虐史観」批判者の一般的態度だったのではないか。そうである以上、生活のために仕方なく…を理由としてそれを擁護することもできないはずだ。

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社会に身を置いていない人間が己を卑下するなどあり得ない。自虐と言うのは常に社会の中における他者との関わり合いの中で生まれてくるものだ。取り分け、他虐を受けることはその者に自虐の芽を芽生え易くする。他虐が自虐を生み、自虐が(「苦痛の平等」により)他虐を生む。よって自虐が問題であるとするなら、まずその大きな元となっている他虐をこそ問題にすべきだろう。

しかし「自虐史観」批判者の多く――少なくとも金美齢(ウィキペディアによると日本国籍)や橋下知事――は他の日本人に対し、むしろ積極的に他虐を行ってきたのではないか。本来「自虐史観」批判とは相容れないはずの自己責任理論を用いたりしながら。もちろん、こういった矛盾はその者達が他虐を行った人間は彼らの思う「日本」ではなかった、とすれば全て氷解してしまうわけだが。――まあ要するにそういうことなのだろう。自己責任を自分ではない他人に向けているうちは、それは自虐にはならないのだし。

しかしだとしたらそれは、(自らの想起する)お国のために尽くさない者は非国民、という考え方となんら変わらないだろう。というか、先の戦争が自国民同士の殺し合いという側面を持っていたように、今の状況もまた、文化・社会システムを介した内戦の最中なのかもしれないが(足の引っ張り合いとしての競争しかできない体質。まあどこの国も似たような問題は抱えているだろうが)。だから自虐や他虐が絶えない。

そんな、何の理念も原理も共有しない烏合の衆であるところの日本人同士による内戦がより本格化するのを避けるため、結果的に生み出されたのが先の戦争であり、終身雇用制度であったりしたのだろう。しかし前者はより大規模な自国民同士の殺し合いを生み、後者は世代間抗争を生み出した。まあそういう国なので、他虐によって他人の自虐を引き出し、それによって足を引っ張る※1というのは個体間の生存競争においては合理的と言えば合理的な判断なのかもしれない。但し、その集合体たる国家として見て、或いはより長いスパンで見てどうなのかは分からないが。



※1 本当に自虐的な人間は、欠陥品としての自分を上手く社会に売り込むことができないので、まともな社会的ポジションを獲得するのが難しい。その分ポジションが空くことになる。足の引っ張り合いであるゼロサムゲームにおいては。

T-RackSのEQP-1Aについて少し調べてみた

T-RackSのEQP-1Aは増幅と減衰を同時に行うことができるのだが、これは一体どのように機能しているのか。ちょっと調べてみた。

EQP-1A.png

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負の連鎖

相馬の酪農家自殺、「原発なければ」と書き残し (読売新聞)

「生まれなければ」誰も苦しまず誰も自殺せずに済んだのに。この負の連鎖をどうすれば肯定することができるのだろうか。

「現実を見ろ/現実逃避するな」の不可解さについての考察

前々から、どうしても釈然としないものを感じてならないセリフがある。それは「現実を見ろ(――これは“受け入れろ”という意味もまた内包していると見てよいだろう」というもの。このセリフは全く妙だ。

というのも、全ての人間が自分の思い通りになり、全てが自分の見たいもので埋め尽くされているような都合の良い現実など存在しないだろう。よって、もしその者が現実を直視し、それを受け入れることをポリシーとしているのならば、いくら目の前に自分の思い通りにならない人間がいても、或いはいくら自分の気に入らない状況が目の前に繰り広げられていても、その現実を不平不満を言わずただ粛々と受け止めていかなければならないはずだ。態度の気に入らない者がいる程度のことで憤っているようでは、お話にならない。

ところが「現実を見ろ」というセリフは、決まって自分にとって都合の悪い態度を持つ他者としての現実に投げつけられる。つまりその行為は、セリフの意に反し、常に現実に対する拒否反応として表出されるという奇妙な特質を持っている。
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 ▼(1)「現実を見ろ」を背後で支えるルサンチマン

何故人は、自分の気に入らない他人――即ち現実――を目の前にした時、「現実を見ろ」と叫び、憤るのか。

まず一つハッキリしておかなければならないのは、前述したように、そこでの≪現実≫とは全ての人間が共有する条件としての現実とは全く異なったものであるということだ。それはあくまでその者が、「現実とはこのようなものだ/こうであるべきだ」と想起する状態の言い換えでしかない。

しかし、自分の思う≪現実≫と目の前の状況が異なっているから憤る、というのは正に現実への拒否反応そのものであり、そのような人間が「現実を見ろ」などと言っても全く様にならないはずだろう…本来ならば。ところが、実際にはその手の拒否反応は大勢の者に受け入れられ、支持されている。では何故そのような拒否反応が支持されるのか。それは、そこでは≪現実≫が個人には抗いようのないものの象徴として捉えられているからだろう。そして同時に、それは社会的趨勢(世間)のことを指して用いられていることが多い(――実際にはその者がそれを趨勢と認識しているだけで、一般的にはむしろマイナーな趣向や思想だったりすることも多いのだが、それもまたその者にとっての≪現実≫であることには違いない)。

つまり、「現実を見よう(受け入れよう)としない」とは、(個人ではどうやっても太刀打ちできないはずの)社会的趨勢に従おうとしないことを意味し、それ故それは愚かな行為ということになる。そしてそれはさらに、趨勢に従おうとしないということは自分が趨勢と張り合えるだけの力を持っていると思っているからに違いない、という推論――こういう言説を幾度となく見てきた――を経由することで、未熟さや傲慢さの表れであるということにもされる。こういった考え方が「現実を見ろ」という憤りのもっともらしさを支えている。

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だが実際は、全ての人間が一つのベクトルに収束することなどあり得ず、必ず趨勢とは異なったベクトルの動きが生じてくる、というのが全ての人間が共有する条件としての現実のはずだ。もちろん、現実への拒否反応が生じることもまた共有条件としての現実の一つではある。しかしその一つの現実で、他の共有条件としての現実を消し去ることはできない。

このことから分かるのは、その拒否反応にもっともらしさを見出す人間の中では、個人の力は趨勢にはかなわないという思いが、他の共有条件としての現実を覆い隠してしまうほど強力に作用しているということだ。

しかしそれだけでは、他人が趨勢に反する態度を取っているからといっていちいち憤ったりする理由にはならない。それが憤りに結びつくためにはもっと他にも何らかの要素が必要になる。ではその要素が何かと言えば、それは趨勢へのコンプレックスだと自分は思う。

――≪現実≫をまるで『水戸黄門』における印籠のように掲げ、趨勢に従え、と他者に迫る。しかし、だからといって別にその者達は≪現実≫を、社会的趨勢としての世間を崇拝しているわけではない。むしろそれを疎ましいものと思っていると捉えた方が妥当だろう。何故なら彼らは、≪現実≫を「嫌でも従わざるを得ないもの」や「従わなければ痛い目に遭わされるもの」であると唱えているわけだから。そもそも、もし好きで趨勢に従っているなら、いちいちそれをしようとしない/上手くできない人間に対して憤る必要はあるまい。

「現実を見ろ」という者達は、好き好んで≪現実≫に付き従っているわけではない。痛い目に遭わされるのが嫌だから仕方がなくそれに従っている。となれば当然、そこからは大きなストレスが生み出されることになるだろう。しかしその者達にとっての≪現実≫は、決して抗うことができない存在を意味しているから、それに直接その怒りをぶつけることはできない。その代わりに、溢れ出すストレスを趨勢的でない者に「厳しい現実」としてぶつけることで、復讐を果たす。恐らくは、自分だって好きで従ってきたわけじゃないのに、そのせいで沢山苦しんできたのに、それをしない人間がいるのは不公平だ、という僻みを入り混じらせながら。要するにルサンチマン。それこそが「現実を見ろ」という憤りを生み出す原因になっていると思われる。

これは、今現在において趨勢としての≪現実≫にストレスを感じていない者にも当て嵌まることだろう。というのも、立場的・腕力的に明らかに優位な者が周りの者を従わせようとするだけなら、「俺に従え」と言えばいいだけのことだからだ。それをわざわざ「現実に従え」と言い換えるのは、そこに復讐という性質――感覚上において、自らが受け取ったダメージと(原理的に常に過小評価される)他者が受け取ったダメージの均衡を取ろうとすること――が混じっていてこそのものだろう(もちろん、政治的にその方が格好がつくからということもあるだろうが)。

 ▼(2)現実認識の甘さが「厳しい現実」の魅力を引き立てる

≪現実≫の不可抗力的象徴性やルサンチマンは、「現実を見ろ」という拒否反応のもっともらしさや憤りの説明にはなるが、それだけでは多くの者にそれが正当性のあるものとして受け入れられていることの説明にはならない。そこには何の魅力もないからだ。苦味のある薬を欲する人間はいても、苦味のある毒を欲する人間はいまい。つまり、何かしらの旨みがなければ、それが多くの者に受け入れられることはない。

では、≪現実≫を受け入れること――趨勢に順ずること――のどこに旨みがあるのか。それは「現実逃避するな」という要求の背後にある考え方から読み取ることができる。

「現実逃避するな」というセリフは、「現実を見ろ(受け入れろ)」と同じような意味で用いられていることが多いのではないか。実際、現実を受け入れることを要求した同じ口から、「現実逃避するな」というセリフが出てくること、或いはその逆のケースを目にすることは珍しくない。だがこれもまた実に妙な話だ。というのも、この二つのセリフは本来全く逆のベクトルの意味を持っているからだ。

現実逃避というのは、今目の前にある現実――自らに苦痛をもたらすこの状況――を変えようのないものとして受け入れ、その逃れようのない現実の中で、如何にして苦痛を軽減させるか、という工夫として行われるものだ。もしその者が目の前の現実を受け入れていないなら、現実逃避などせず、どうにかしてそれを変えようとしてあがくことだろう。例えば、「現実を見ろ」と言って憤り、その目の前の現実を変えようとしたりするように。要するに、現実逃避は≪現実≫を受け入れることが前提になっている。よって、現実を受け入れることを要求した相手に「現実逃避するな」と言うなら、それは全く相反する二つの要求を突きつけていることになる。

その矛盾はさておき、現実の厳しさを突きつけられた者が、その苦痛を和らげようとして行っている工夫を止めさせようとするならば、そこにはそれなりの理由がなければならない。でなければそれは、単に相手により大きな苦痛を受け取らせようとしているだけ、ということになるからだ。それではただの卑劣漢でしかないだろう。

では何によってその正当性は担保されているのか。それは、「現実逃避するな」と言う者達が決まって困窮者達に対して投げつける、「そのような状況に追い詰められたのは、現実に立ち向かわずに逃げ続けてきたからだ」という類のセリフの裏にある考え方によってだろう。そこには、現実を直視し、一般的傾向としての趨勢に従いそれに適応しようとする努力を怠ってきたが“故に”人は窮地に陥る、という世界観がある。だからこそ苦しんでいるものは自業自得で、もっと苦しまねばならない、ということになる。しかしこれは逆に言えば、地道に趨勢に適応しようとする努力さえ続けていれば人は報われる、という希望がその裏に存在していることを意味する。そしてその希望故に、現実逃避を止めよと要求する者は卑劣漢であることから逃れることができている。

だが、≪現実≫に立ち向かえ続ければ――趨勢に収束するような努力を続ければ――なんとかなるという希望は、極めて甘い現実認識の上に成り立っていると言わざるを得ない。何故なら、実際は初めから≪現実≫に収束する能力を持っていない者もいれば、それに立ち向かい続けたが故にボロボロになり、つぶれていく者達も多数いるはず※1だからだ(趨勢の雛形に収まることが難しい資質を持った者がその努力を続けるということは、自己の存在自体を否定し続けることを意味する)。しかし、「現実逃避するな」から導き出される希望には、それらの条件が一切考慮されていない。

ただ、満足の行く現状を手に入れることができた者がさらにボーナスとして、私が≪現実≫に立ち向かい続けたが“故に”この現状を手に入れることが出来た(これは万能感そのものだ)、という自己肯定感をもさらに入手することができるという、趨勢への収束者に対する甘さを湛えているだけだ。

そしてその甘い現実認識が生み出す希望と自己肯定感、それを備えた「現実逃避するな」が「現実を見ろ(受け入れろ)」とイコールで結ばれることで、後者のセリフの正当性もまた保証されることになる。その甘さが、「嫌でも従わざるを得ない」や「従わなければ痛い目に遭わされる」といった厳しい現実を魅力あるものへと変貌せしめ、人々を惹きつける。

「現実を見ろ」の正当性は、このようにして支えられている。

 ▼(3)まとめ

ということで、最後に「現実を見ろ/現実逃避するな」というセリフ(或いはその使われ方)が持つおかしな点についてまとめてみる。

現実への拒否反応を起こしている者の口からそのセリフが発せられる。

己自身の認識としての一つの≪現実≫を絶対視し、あたかもそれが全ての者が共有すべき秩序であるかのような前提でもって話が進められる。

憤りの根本にはルサンチマンがある――他に説明が付くだろうか?――はずだが、日本では余り一般的でないキリスト教文化を背景にして形作られるタイプのルサンチマンはやたらと問題視される一方、何故かこの手の日本文化を背景にして形作られるルサンチマンだけは全く問題視されない。

本来正反対のベクトルを持つはずの「現実を見ろ」と「現実逃避するな」が同じものとして用いられている。

趨勢に従おうとすることが「現実に立ち向かう」などと言い換えられる。

甘い現状認識が希望を生み出し、それが「厳しい現実」の正当性を支えている。



※1 目の前にいる者が、そのような者ではないと断定することは誰にもできないだろう。こうすればこうなったはずだ、こうできたはずだ、という個々人の人生の可能性と結果を知ることができるというのなら、その者は私は神であると言っているのと同じことだからだ。

Focusrite「MIDNIGHT Plug-in Suite」のデモを試してみた感想

暇だからコンプとEQがセットで一万円という廉価商品、Focusrite「MIDNIGHT Plug-in Suite」のデモを試してみたが、このプラグイン、非常に出来が良い。

midnight_comp.png

こちらはコンプの方。とにかく透明でクリアな音の変わり方をするのが印象的。どちらかというと明るめのトーンになりやすいように思う。この価格帯でこのクリアさを持つコンプは余りないんじゃないだろうか。さらに特徴的なのは、比較的音が横に広がり難いこと。

音が横に広がるのは必ずしも悪いことばかりではない。ドラムのグループやマスタートラック、或いはパートとパートの隙間を埋めて馴染ませたい場合など、ある程度広がりが得られた方が良いこともある。しかし、全ての個別パートに横に広がりやすいコンプをかけまくると、どうしても音は平べったくなってしまう。分離のことを考えると、こういった余り横に広がらないタイプのコンプの方が役に立つ。

ただ、このコンプはミッド・ロー周辺が少し出っ張った感じになるクセがあるので、そこら辺はちょっと好き嫌いが分かれるかもしれない。特にマスタートラックで使う場合は、その後で低音をある程度補強してやらないと音の座りが悪くなる。基本はチャンネル向きといったところか。あと、アッタクの変化の仕方は結構地味。

midnight_eq.png

こちらのEQもコンプと同じく、やはり音は余り横に広がらない。IKのEQP-1AやAntressのEQなど、横に広がり易いタイプのEQと聞き比べてみるとその差は歴然。そして音もぼやけにくく非常にクリア。ぼやけ難さや輪郭の明瞭さという点ではIIEQProやEQP-1Aよりも明らかにワンランク上。流石にEpureIIと比べると少し明瞭さは劣るが、EQの場合、余り輪郭がハッキリしすぎると反って不自然に感じてしまう人もいるだろうから、場合によってはこちらの方が好きという人もいるかもしれない。Qは余り細くできないので、これだけで全てをまかなうのは無理だが、クオリティの高さは申し分ないし、それでいて(コンプもEQも)負荷が軽いというのが好印象(――と言っても、IIEQProの三倍くらいの重さはあるが)。インターフェイスも整然としていて分かりやすく、非常に使い易い。

ただし一つ注意しておかなければならないのは、このEQは挿すだけで勝手に上と下がバッサリとカットされてしまうということ。

▼挿す前
midEQ_span1.png

▼挿した後
midEQ_span2.png

超低音と高音は必ずカットするので、個人的には手間が一つ減って便利かなと思うが、人によっては勝手に削って欲しくないと思う人もいるだろう。

 ***

このプラグインの価格はコンプとEQがセットになって\10,500だが、一つ\5,000と考えると、セール時のT-RackS 3 Singlesの価格と千円程度しか違わないことになる。それでいてこのクリアさ。

コンプの方は、SonalksisのSV-315mk2やFluxのPureCompIIなどと比べると、音割れのしにくさや音量変化への対応のスムーズさ、突飛なピークへの対応能力といったクオリティ面、或いは音の変化の多彩さという点においてどうしても劣ってしまう。しかし、ピークへの対応能力に関しては少々気にはなるものの、その他の案件に関して差が気になるのはスレッショルドをかなり深めに下げた場合くらいだし、値段のことを考慮にいれるとやはりこの商品はかなりお買い得だと思う。なんせ、iLokを買うだけでも五千円以上かかる(midnightのオーソライズはチャレンジ&レスポンス方式)わけだし。SV-315mk2やPureCompIIを持っている人も、キャラが違うので持っていても損はないように思う。

というわけで、安価でクオリティの高いコンプやEQを探している人は一度このプラグインのデモを試してみるとよいのではないかと。

IIEQ PROがv2_2にアップデート

今回のアップデートでは、L/R、M/Sモード専用のTrueStereoバージョンがなくなり、一つのプラグインに統合された。L/R、M/Sモードには「2 chan」ボタンで切り替えることができる。尚且つ、この前ここで書いたバグもちゃんと改善されていた。これで安心してLPF12のフィルターを使うことが出来る。

尚、TrueStereoバージョンを使用したプロジェクトファイルがある場合は、それをVSTフォルダに残しておいて、これからは新しいバージョンを使うのがベスト、とのこと。

 ***

因みに、「Locked」をオンにすると、L/R(M/S)のどちらか一方を操作するともう一方も同じように操作されるということに今の今まで気づいていなかった…。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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