「他人のせいにするな」「甘えるな」という自己言及ワードへの依存~幻想でしかなかった成長物語
この番組を見たが、典型的な他者啓発系プロパガンダ番組だった。今、これまでの概念では捉えきれない「うつ病」が増加している。不眠に悩む、職場で激しく落ち込むといった「うつ」の症状を示す一方で、自分を責めるのではなく上司のせいにする、休職中にも関わらず旅行には出かける…。いわゆる”現代型うつ”だ。20~30代の若者を中心に増え続けているとされ、従来の治療法が効きにくいことから医療現場は混乱している。さらに企業では休職者が増え、経営を圧迫。中には「怠け」と判断し、解雇したところ裁判で訴えられるケースも出ている。現代型うつに翻弄される医療現場と企業の実態に加え、最新の治療法も取材、対応策を考える。
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番組のあらましはこうだ。20~30代の若者を中心に、従来型とは違う“現代型うつ”が増えているとされる。発症の切欠の多くは職場での上司からの叱責だとされているが、実際に上司側に確かめてみると、それほど大した叱責はしていないということが多い。つまり、本当は自分の心の弱さに病気の原因があるのに、傷つくのが嫌で、他人のせいにして自己正当化していただけだったのだ。そしてそういった他罰的傾向を持つのが“現代型うつ”の特長なのだという。
番組に登場する医者はこのような状況を受けて、今の若い世代は親に甘やかされて育てられてきたため、ちょっとした叱責や批判でも大きく傷ついてしまう弱い心を持つようになってしまったのではないか、と言う。大人は何か問題があると、先ずは自分に原因があるのではないか、と内省してみるもの。一方、子供はまず他人を責めようとする傾向がある。つまり、すぐに他人のせいにしてしまうのは、精神が子供のまま体だけ大人になってしまったが故のものなのではないかと。
そして実際に一人の“現代型うつ”の患者A(この人物だけモザイクなしで顔出し。実際には名前も紹介されていたが、もしかしたら仮名だったかもしれない)が、カウンセリングに通う様子が紹介される。カウンセリングでは、医者と患者との対面方式以外に、“現代型うつ”の患者が集まって行われるミーティング形式のものがある。仲間同士だと相手からの批判も受け入れ易くなるという。
そんなある日、患者Aが無断でミーティングを欠席する。医者がそれについて問い正して見ると、連絡はしたが上手く伝わっていなかったと言う。医者はそれを受けて、それが君に悪いところだと指摘する。それを切欠として、彼はミーティングで、自分がうつになったのは上司のせいではなく、自分自身の心の弱さに原因がある、と発言するようになった。時にはきつく叱ってやらねばならないとスタジオの医者は言う。そして彼は今復職に向けて動き出している。彼もまた、成長への階段を一歩上り始めたのだ。めでたしめでたし。――とまあこんあ感じだった。
▼(1)「他人のせいにするな」「甘えるな」という自己言及
しかし、この番組の内容は明らかにおかしい。
というのも、ここで問題視されていたのは、問題が起きたらまず他人を責めようとする内省の無さだったのではないか。ところがこの番組が暗に示していたのは、精神科医の治療が上手く行かないのは患者のせいだ、部下が上司の思い通りにならないのは部下が甘えているからだ、経営が上手く行かないのは社員の精神が未熟だからだ、うつになるような弱い心を持つ者が悪いのであり、その者を傷つけた側に責任はない、というような、問題の当事者の片方を一方的に責め立てるような内容だ。
そこで描かれていたのは、企業・上司、そして組織や集団の趨勢に上手く順応することが出来ている「成熟した強い心を持った者達」の自己正当化ストーリーでしかない。そしてそちら側には全く内省は求められない一方、それに相対する「弱い心を持つ」とされる側にはひたすら内省が求められる。
つまりこの番組は、「他人のせいにすること」を未熟な精神を持つ者の悪癖とし、“現代型うつ”なる枠組みをその癖の象徴として晒し上げておきながら、その実それ自体が正に「何の内省も無く他人のせいにすること」そのもので構成されている。即ち、彼らが定義するところの未熟な精神を持つ者の在り様を、自らがそのまま体現するに至ってしまっている。
――結局のところ、他人に向けて「他人のせいにするな」と言うことは、それ自体が他人のせいにする行為となるため、自己言及にしかならない。
そしてこのことは「甘えるな」にも言える。
例えばこのケースでは、部下は上司の思い通りになって当たり前、叱責に耐えて当たり前、という前提で話が進められている。だが、いくら同じ国で生まれ育っても、其々は感覚も動機も目的も異なり、さらには育ってきた文化も時代も異なる。それらが衝突し合ったり噛み合わなかったりするのは当前のことだろう。そういった必然的な衝突や利害の不一致から生じる支障に対し憤ってみても、それは自らの甘い見立てが裏切られたことへの怒りの表明でしかない。
確かに、まだ終身雇用制度が一般的であった時代にはそんなやり方でも通用したのかもしれない。しかしもはやそんなものは殆ど残っていない。今や下っ端の従業員は使い捨ての調整弁でしかないということは子供でも知っている。となればそちら側からしても、企業や上司はもはや単なる一時的な取引相手でしかないわけで、そのような立場にいる者達にそれ以上のことを期待するのは間違いだろう(当人がやりがいを感じている仕事では無理も通ったりするわけだが)。
取引相手に「甘えるな」と言うことが如何に的外れな主張であるかは説明するまでもない。そしてそういった流れを積極的に推し進めてきたのは当の企業側だったはずだ。御恩を無くしておきながら奉公だけを受け取ろうとしているのなら、それほど甘い考えはない。
さらに言えば、そもそも駄目だ駄目だと言っているその者は、圧倒的な買い手市場である労働市場において、自分達が選び抜いた者なのではないのか。どんなに工夫してみても関係が上手く築けないのなら、その時はそのような人材を選んでしまった自分達の目が節穴であったことを責めるのが筋だろう。そして成果主義的に言えば、そのような状況を作り上げてしまった以上、それはその上司や経営者が無能だったということになる。
要するに、「甘えるな」は、思い通りに動いて当然であるはずの者が思い通りに動かない、そんなのおかしい、というような、自らの見立ての甘さへの憤りを他者に向けて発する単なる「逆ギレ」でしかなく、やはりこれもまた自己言及にしかならない。そもそも、ただ自分が上司・経営者という立場にいるというだけで、何故他人が自分の思い通りに動いてくれるなどと思ってしまうのか。まずその認識が甘すぎる。
これもまたそうだ。裁判に訴えるという行為は、社会システム上認められた当然の権利だろう。尚且つ、組織に対して個人が裁判を起こすということは、組織に属する側の者よりも遥かに多くの気力・体力を必要とする。財力と言う面でも大きなハンデを背負って戦わねばならない。とてもじゃないが、怠け者に出来る行為ではない。一方、組織に属する側はそれらの面で有利に戦えると同時に、それもまた業務の一環でもある。自らに非が無いのであれば、粛々とその仕事をこなせばよいだけだろう。その業務のわずらわしさ故にルール上認められた他人の行為にまでケチをつけようとするなら、それこそ怠け心の極みなのではないか。中には「怠け」と判断し、解雇したところ裁判で訴えられるケースも出ている。
▼(2)為すべきは他罰的であることを克服することではない
この番組のもう一つの誤りは、他罰的であることを克服することが復職への第一歩であるかのように説いていたことだ。
だが、他罰的でない人間なんて一体どこにいるのか。学校でもネットでも会社でも地域社会でもコミューンでも、どこに行っても他罰的な人間で溢れ返っているのではないか。そしてその大半は問題なく生活を送っている。事実、多くの社会的成功者が、この「他罰的な未熟さ」を体現している番組内容に溜飲を下げたのではないか。それに乗っかって見も知らない他者を非難していたのではないか。
松本サリン冤罪の河野義行さん「死刑は反対。サリンカーを作った元信者と友人になり温泉旅行に行く」 : 【2ch】コピペ情報局
河野氏のような人物は、数百万、或いは数千万に一人しかいないだろう。普通の人間はどんなに頑張っても彼のように他罰的であることを克服できない。つまり、他罰的であることは別に珍しいことでもなんでもなく、むしろそれは多くの者が持っている一般的傾向なのだ。
では、番組で紹介されていたタイプの人達とそうでない人達は何が違うのか。一言で言えばそれは社会的なポジションの違いであり、処世術の上手さの違いだろう。
例えば番組に出ていた患者が上司というポジションを獲得していて、そこで他罰的な資質を発揮し、無茶な命令や叱責によって部下の体調を壊したとしても、それは未熟な行為だとは言われなかっただろう。要は誰もが持つその他罰性をどこに向けるか、ということでしかない。社会的に自分より優位なポジションにいる者に他罰性を向ければ、それは未熟な者の振る舞いとして非難されるが、逆に自分より不利な位置にいる者にそれを向ければ、それは厳格さを湛えた大人の振る舞いということになる。
よって、彼が復職に向けてなさなければならないのは処世術を身に付けることであり、他罰的傾向を克服することなどではない。現に、社会的に優位なポジションを獲得した者はそれを克服するどころか、より安全にそれを発揮することが可能になるため、益々その性質を強めてゆく傾向があるのは疑いようのない事実だろう。
▼(3)他人を見下して生き残ろう
そもそも、言葉や態度で本当に深刻なダメージを与えるためには、その対象自身の協力が必須となる。何故なら、その対象がそれをまともに受け止めてくれなければ幾らそのような攻撃を加えようとも、それは表層に留まってそれ以上深い部分にまで届かないからだ。
よって、その者がその攻撃によって生活の維持に支障をきたす程のダメージを受けているということは、その者がその攻撃を真に受けているということを意味する。つまり、うつになるような人間は基本的に、幾ら口では他人のせいにしていても、内面的には他人の批判や叱責をまともに受け止めすぎてしまう傾向を持っている。
逆に言えば、周りからの批判を真に受けないからこそ多くの者は病まずにいられる。そしてそれは即ち相手を見下しているということでもある。――見下しているのではなく、行為への批判と人格批判の切り分けができているだけ、と思う人もいるかもしれない。だが、それができている者から叱責は生じない。叱責は結局のところ人格批判であり、故に見下しでしかそれによるダメージを回避できない。
処世術の上手い人達は、自分より優位な立場にいる者から他罰性を向けられた時、表面では申し訳なさそうにしながら、内面ではそれを真に受けず、見下している。そしてそこで溜まった鬱憤を立場の弱い者に向けて晴らすことでバランスを取る。それを意識で認識しているか否かはまた別として。現代社会で生き残るためにはそのような技術が必要なのだ(ex.相手の親身になって物事を考えていたら電話でのセールなどできない。ある種の見下しがないと自分自身が病んでしまう)。
▼(4)二分間憎悪の革を被った「成熟した大人」のための癒し系番組
にしても、時折現れるこの手の番組は一体何なのか。一つの見方としては二分間憎悪的なものとして解釈することができるだろう。
二分間憎悪 - Wikipedia
『1984年』とは違い、強制ではなく一人一人が自発的に党の幹部であるかのように振舞うことでそれが成り立っている、という違いはあれど。事実、番組放送中に「うつ」でYahoo!リアルタイム検索を行うと、見事なまでに上記のような光景が繰り広げられていた。二分間憎悪(にふんかんぞうお、Two Minutes Hate)とは、ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』に登場する架空の行事。作中の専制国家オセアニアの党員たちは毎日仕事を中断してホールに集まり、大きなテレスクリーンの前で、党と人民の敵(特にエマニュエル・ゴールドスタインとその一味ら)が登場する映像を見せられ、画面上の敵の姿や敵の思想に対してありったけの憎悪を見せなければならない。この「日課」が二分間憎悪である。
だが、そういった攻撃性は副次的に生じているだけであって、実はこの手の番組の正体が何なのかと言えば、それは「成熟した大人」を自認する人々をターゲットとした癒し系番組なのだと思う。
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多くの精神論がそうであるように、この番組でもまた、傷つくのを避けることが悪いことであるかのような前提でもって話が進められていた。しかも例によって、それが求められるのは問題の当事者の片方にだけだ。
しかしながら、傷つくことを避けてきたが故に生活に支障をきたすようなダメージを受けてしまった、だからこれからは生活に支障をきたさないためにそれを避けるべきではない、というのは全く意味不明だ。もし本当に傷つくことを最大限回避してきたのにもかかわらず大きなダメージを受けてしまったのなら、それを全くしなければ今度はそれ以上に大きなダメージを受けることになるだけだろう。
では、この馬鹿げた論理は一体どこから生まれ出てきたのか。そして何故一方にだけ傷つくことが求められ、もう一方には求められないのか。
それらの正しさの一端を支えているのは、傷つけば傷つくほど強くなれる、というある種の信仰なのではないか。つまり、自分が会社での生活を問題なく送ることができ、人の上に立つようなポジションを獲得することができたのは自分が強いからであり、そしてその強さはそれだけ自分が沢山傷ついたことを証明している。そして自分は既に責任分傷ついたから、もうそれ以上傷つく必要はない。他方、心が弱い者達はまだ責任分傷ついていないが故に弱いのであって、だからもっと沢山傷つかなければならない。――このような平等主義がそういった主張の正しさを支えているのではないか。
だがそこで実際に証明されているのは、一方は生活に支障をきたすほどの大きなダメージを受けたが、もう一方はそれほど大きなダメージを受けることはなかった、という事実だけだ。そして仮に「心の強い者」が傷つくことによって強くなったのが事実だと仮定しても、人間は平等に出来ていない以上、他の者もまたそのような資質を持っているとは限らない。また、仮に誰かが多く傷ついたとしても、その者が自分はこれだけ傷ついたのだからお前らももっと傷つけ、というならそれもまた間違いだろう。それは単なる悪平等でしかない。そもそも、社会的競合から生じる強弱の問題は常に相対的なものであるから、絶対的な尺度で強さを測ろうとすること自体が誤りだ。
さて、ここで問題。原因はともかく、一方に精神的に傷つき易い者達がいて(番組では彼らの心の弱さを認めている)、もう一方には傷つくことを避けなかったが故に強くなったと言う者達がいる。そして後者は前者との関係に負担を感じている。この条件を踏まえた上で、上手くその問題は解決するためにはどうしたらよいか。答えは簡単。後者をもっと沢山傷つけ、傷つき易い者達との関係がもたらす負担にも耐えられるほど強くしてやればよい。
そう、もし彼らの言うことが真であるなら、むしろ傷つけば傷つくほど強くなる「心の強い者達」をもっと沢山傷つけることが最も合理的な問題の解決方法なのだ(FF2のセルフ・アタックを思い出そう。しかし自分達が強くなればなるほど敵も強くなるという相対性の罠が…)。
ところが実際にはそれは行われない。それどころか、何故か全く逆のことが推奨されている。つまりそれは、傷ついたからこそ強くなった、という表向きの主張を自ら暗に否定していることになる。自らの主張するそれが事実だと信じるなら、自分自身をもっと沢山傷つけてやればよいわけだから。つまりそこで主張されていたことは、偽の論理による偽の主張であったということだ。
ではこの番組が本当に言いたいことは何なのか。それは、自分達はもう沢山傷ついたのだからこれ以上傷つきたくない、ということなのではないか。そしてその正しさを担保するために、まだ傷つき方が足りない者達こそもっと傷つくべきだ、というような苦痛の平等主義が生まれる。
要するに、傷つくことを避けることが問題であるかのように言っている人間も結局傷つきたくはないのだ。そして「成熟した大人」を自認する者達、或いは「成熟見習い」に、「あなたはもう十分傷ついたはず。だからもう今以上に傷つかなくてもいいのよ」というメッセージを送るのがこの手の番組に託された本当の役割なのではないか。
つまり、スタジオの医者は「心の弱い者達」は優しい母親に過保護に育てられたことと社会の厳しさとのギャップに苦しんでいる、などと言っていたが、実はこの番組自体が、優しい母親代わりとなって「成熟した大人達」を慰めてくれる癒し系番組としての性質を持っている。
強い心を持つと自認する者達は、「僕だって傷ついているんだ。もうこれ以上傷つきたくない」ということを口にすることが出来ない。だからこそ、このような優しい母親代わりとなる癒し系番組が必要になる。そしてその母親の「あなたはもうこれ以上傷つかなくてもいいのよ」から「奴らこそ傷つくべき」という他罰性が生まれ、それが二分間憎悪の体を為すというわけだ。
▼(5)幻想でしかなかった成長物語
それはともかく、「成熟した大人」を称する者が他者を批判する時に、「他人のせいにするな」「甘えるな」という自己言及まるだしの出来損ないテンプレに頼らざるを得ないというのは、幾らなんでもふがいなさ過ぎるのではないか。他罰的であることを克服することが復職への第一歩、もそう。処世術上の振る舞いではなく、本当に自罰的になってしまえば直ぐにダウンしてしまうだけだろう。確かにそれだと相手を傷つけることはできるかもしれないが、益々「企業では休職者が増え、経営を圧迫」するだけだろう。
要するに、「成熟した大人」を自称する者達が繰り広げる主張がいちいち稚拙なのだ。それが何を示すかと言えば、結局人々が頭に思い描く「成熟した大人」やそれに至る成長物語というのは幻想でしかなかったということだろう。
そのことは、「他人のせいにするな」「甘えるな」という自己言及型テンプレがいつまでもいっぱしの批判の論拠として一般で通用し続けていることでも証明されている。何故なら、子供がやがて「思慮深い大人」になるのが普通で、そうならないのは少数派だとしたら、このような出来損ないのテンプレはとうの昔に淘汰されているはずだからだ。そうならないのは、年齢的な大人に含まれる「思慮深い大人」の割合が少数派であることを意味する。
以前、労働はマクガフィンであると言ったことがあったが、「成熟した大人」もまたマクガフィンの一つなのではないか。重要なのはあくまで成長物語とそれを牽引する「成熟した大人」という入れ物であり、その中身(内容)はどうでもよいという。むしろその中身が判明してしまうと、その魔法は失われてしまう。そしてその箱の中に入っていたものの一つがこの番組だったのだろう。