「成熟」に見る階級区分内在思想
ある規格を設け、その規格との関係性を調べることで対象となるものの規格上の成熟度を測定することは出来る。しかし、そういった人工的規格の範囲を超えたより広範的な観点から見て、その対象が本質的にどの程度成熟しているのかということを測定することは出来ない。何故なら、それを測定するには成熟/未成熟(優劣)の度合いを測定する為の(人工的な規格を超えた)真理としての物差し※1が必要になるからだ。だがそんなものは存在しないだろう。
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よって、もし広範的観点からも成熟/未成熟の度合いを測定することが可能であるかのように言うならば、或いは広範的観点の文脈上でそれの存在を前提として物事を語るとするならば、その者は必然的にその真理としての物差しの存在を信じていることになる。つまりそれは、成熟/未成熟という線引きを人工的なものではなく、自然に根ざした(優劣の区別がある)一種の階級区分として捉えているということでもある。そしてその語り口が人々に受け入れられることによって、本来人工的であるはずの区分は「自然(神)の成せる業」に置き換えられ、権威化される。
こういった成り行きはまさに宗教に於ける布教と帰依そのものだ。しかし、それが宗教的なものであるということに無自覚なまま物事が語られたり(布教)、それを受け入れて思想や思考の拠り所や足場としたりすること(帰依)は案外多いように思う。
要するに何が言いたいかと言うと、宗教というのは決して一部の特殊な人間達だけのものではないということ。またそれは何か特別なハードルを乗り越えた向こう側の世界にだけ存在するものでもない。それはごくありふれた日常生活の一部として誰の周りにもちゃんと存在していて、多くの者は普段特別意識することもなく、「無神論者(無宗教)」としてそれを信仰したり布教したり、或いは改宗したりしている。
「無神論者」というのはあくまで形式上の話。「無神論者」だからといってその者が「神(真理)」を信じていないということにはならないし、宗教性を持っていないということにもならない。例えば日本では、「社会・世間・みんな・普通・常識」といった概念が「神」としての役割を果たしているように。そしてそこから(例えば「成熟/未成熟」、「甘えている/甘えていない」といったような)様々な宗教的階級が生み出され、それを我々は特に違和感を感じることもなく受け入れている。
日本における階級区分(あるいは人種区分)の成り立ちというのは、システムというよりも、どちらかと言えばこういった宗教方面から来ているものが多いのではないか。
【対馬が危ない!】日本に帰化韓国人男性 海自施設で不可解行動 (産経新聞)
そう考えれば、「帰化韓国人」みたいなシステム的には全く意味不明な言葉が生まれて来たりするのも決しておかしなことではない。そして勿論、こういった宗教的区分は何も帰化した者達にだけ当て嵌められるわけではない。日本生まれの日本育ちであってもそういった区分からは逃れられない※2。例えば、オタク、イケメン、不細工、根暗、社会人、ニート、ひきこもり、公務員、高学歴、低学歴、、ウヨク、サヨク、アスペルガー、ゆとり、メンヘル、金持ち、貧乏人、などなど、日本の文化では属性をそのまま(内在的な)階級・人種区分として認識しているようなところがある。そしてそういった区分は日々新しく生み出され、それがこともなげに人々に受け入れられていく。あたかもそれが「自然」に根ざした区分でもあるかのように。真理としての規格が存在するかのように。つまりそれは、日本の文化もまたそれだけ強い宗教性を持っているということだろう。
「宗教」という形式からは逃れることが出来る。しかし、宗教そのものからは何人たりとも逃れることは出来ない。少なくともその者が人間であり続ける限りは。
※1 そもそも、仮に真なる成熟の形が存在するとしても、その成熟は未成熟と共にしか存在し得ないだろう。であるならば、その真なる成熟は未成熟な対象に依存した形でしか成熟を保てない未熟な存在とも言える。
※2 逆に言えば、こういった区分に当て嵌められるのが嫌だからこそ、多くの者が「普通」や「中立(無垢)」を自称したりするのだろう。
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よって、もし広範的観点からも成熟/未成熟の度合いを測定することが可能であるかのように言うならば、或いは広範的観点の文脈上でそれの存在を前提として物事を語るとするならば、その者は必然的にその真理としての物差しの存在を信じていることになる。つまりそれは、成熟/未成熟という線引きを人工的なものではなく、自然に根ざした(優劣の区別がある)一種の階級区分として捉えているということでもある。そしてその語り口が人々に受け入れられることによって、本来人工的であるはずの区分は「自然(神)の成せる業」に置き換えられ、権威化される。
こういった成り行きはまさに宗教に於ける布教と帰依そのものだ。しかし、それが宗教的なものであるということに無自覚なまま物事が語られたり(布教)、それを受け入れて思想や思考の拠り所や足場としたりすること(帰依)は案外多いように思う。
要するに何が言いたいかと言うと、宗教というのは決して一部の特殊な人間達だけのものではないということ。またそれは何か特別なハードルを乗り越えた向こう側の世界にだけ存在するものでもない。それはごくありふれた日常生活の一部として誰の周りにもちゃんと存在していて、多くの者は普段特別意識することもなく、「無神論者(無宗教)」としてそれを信仰したり布教したり、或いは改宗したりしている。
「無神論者」というのはあくまで形式上の話。「無神論者」だからといってその者が「神(真理)」を信じていないということにはならないし、宗教性を持っていないということにもならない。例えば日本では、「社会・世間・みんな・普通・常識」といった概念が「神」としての役割を果たしているように。そしてそこから(例えば「成熟/未成熟」、「甘えている/甘えていない」といったような)様々な宗教的階級が生み出され、それを我々は特に違和感を感じることもなく受け入れている。
日本における階級区分(あるいは人種区分)の成り立ちというのは、システムというよりも、どちらかと言えばこういった宗教方面から来ているものが多いのではないか。
【対馬が危ない!】日本に帰化韓国人男性 海自施設で不可解行動 (産経新聞)
そう考えれば、「帰化韓国人」みたいなシステム的には全く意味不明な言葉が生まれて来たりするのも決しておかしなことではない。そして勿論、こういった宗教的区分は何も帰化した者達にだけ当て嵌められるわけではない。日本生まれの日本育ちであってもそういった区分からは逃れられない※2。例えば、オタク、イケメン、不細工、根暗、社会人、ニート、ひきこもり、公務員、高学歴、低学歴、、ウヨク、サヨク、アスペルガー、ゆとり、メンヘル、金持ち、貧乏人、などなど、日本の文化では属性をそのまま(内在的な)階級・人種区分として認識しているようなところがある。そしてそういった区分は日々新しく生み出され、それがこともなげに人々に受け入れられていく。あたかもそれが「自然」に根ざした区分でもあるかのように。真理としての規格が存在するかのように。つまりそれは、日本の文化もまたそれだけ強い宗教性を持っているということだろう。
「宗教」という形式からは逃れることが出来る。しかし、宗教そのものからは何人たりとも逃れることは出来ない。少なくともその者が人間であり続ける限りは。
※1 そもそも、仮に真なる成熟の形が存在するとしても、その成熟は未成熟と共にしか存在し得ないだろう。であるならば、その真なる成熟は未成熟な対象に依存した形でしか成熟を保てない未熟な存在とも言える。
※2 逆に言えば、こういった区分に当て嵌められるのが嫌だからこそ、多くの者が「普通」や「中立(無垢)」を自称したりするのだろう。
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