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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

菅野完氏のミソジニー原因説記事について

なぜメディアは日本会議を報道してこなかったのか - sugano.ne.jp

日本会議の名を一躍世間に知らしめ、それによって己の名も上げた菅野完氏によるこの記事は、掲載当初から大きな反響を集め、ほぼ無批判で受け入れられた。しかしこの記事で用いられた手法には問題のあるものが多い。以下、それについて一つ一つ述べていく。

【目次】
 ▼(1)免罪の可能性と憶測に基づく私刑の誘導
 ▼(2)自意識批判という中傷、属性批判という絨毯爆撃
 ▼(3)飴と鞭を背後に忍ばせた二分法
 ▼(4)基本的人権(個人の尊重)問題の対立化
 ▼(5)強さの理由
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 ▼(1)免罪の可能性と憶測に基づく私刑の誘導


「日本会議は、とりわけ細川内閣誕生以来、『壮大なる反対運動団体』になってるんです。曰く、『男女共同参画反対』『慰安婦報道反対』『夫婦別姓反対』『性教育反対』と。(中略)

「男女共同参画にしても、慰安婦報道にしても、夫婦別姓にしても、性教育にしても、全部、『女子供』の話です。これ、皆さん方、メディアの人々も、そしてその需要サイドである我々社会も、最もバカにする分野の話ですよね?」と念を押す。(中略)

ここまで話すると、女性記者と30代以下の記者と外国メディアの記者は本当に見事なまでに、「あああ!!目からうろこが落ちた!」という顔をされる。しかし、おっさん記者は全然気づかない。(中略)

最後まで理解しないのは、左派系メディアのおっさん記者だけでなく、週刊誌メディアの人の中にもたまにいる。前者の場合は、「いや、そんなことはない、自民党は国家神道の復活を目指しており。。。」とか明後日なことを言う。後者は、最後まで「それの何が悪いの?」って顔をしている。

週刊誌メディアの人が最後まで理解できないのは、職業柄だから仕方ないと思う。だってそういうメディアなんだから。「日本会議って『ニッポンのオッサン会議』なんすよ?」って話しても「いやー困ったな。うちはそのオッサンが客なので」って話なんでね。だから不思議なのは、左派系メディアの頑迷さ

いくら口すっぱく「右派運動って考えるのやめたらだろうでしょうね?あれは、壮大なるミソジニー運動だしマチズモ運動ですよ?」と伝えても、左の人は理解してくれない。そして最後には「だとして、だから何が問題なのか?」という。「そんなことよりも、9条ガー 国家神道がー」となる

しかし菅野氏が攻撃ターゲットとする左派系メディアとやらは、かねてから男女平等を訴えてきたため、日本会議に親和性のあるような人達から散々「フェミ」云々と言われ叩かれてきたのではないか。夫婦別姓という選択肢があることを菅野氏よりずっと早くから訴えてきたのが彼らではなかったか。そしてもしその記者が所属する出版社やその者自身がこれまで女性や子供の権利に関する記事を書いてきたとするなら、それこそこんな説に納得できるはずはないだろう。

「慰安婦報道でさえそうですよね?慰安婦報道は、どちらのサイドからのものであれ、『論争報道』になっている。『日本の言い分が正しい。いや韓国が正しい』と。しかしこれ、完全に『女性の人権』って観点抜けてますよね?そういう報道ないですよね?」と。

今話したようことを、資料も見せ、エビデンスを見せ、連中が書いた雑誌記事などを並べてみても、40代以上の左派系メディアの人々は、「そんなことはない!!!!戦争やりたがってるんだよ!!!!」と意固地になって聞く耳を持たない。(中略)

2年前の僕ならこの理屈に気づけなかった。自分がいかにクソか、自分がいかに人を傷つけるかを直視せざるをえなくなり、自分を変えようと、持ち金全部はたいて、カウンセリングに通い、病院に通い、専門家に助けを求めたから、自分のミソジニーを理解できた

結局これらは左派系メディアのものの見方でもオッサンのものの見方でもなく、全て菅野氏自身によるものの見方ではないのか。

慰安婦問題が女性の人権問題であるなんてのは大前提の話だろう。しかしそれを日韓の対立としてしか見ていなかった人間からは、その視点が恰も目新しいものであるかのように映る。

慰安婦は許されない、女性の人権侵害だとかいうけどさ ... - Yahoo!知恵袋

というか、「『女性の人権』って観点」が抜けた報道をしていたら、そのことで叩かれるはずもないだろう。エビデンス云々と言うなら、左派系メディアとやらがこれらを「最もバカにする分野」として扱ってきたことこそ立証してみせるべきだろう。

一方で、これが菅野氏自身のものの見方であるという説には「需要サイドである我々社会も、最もバカにする分野」「自分がいかに人を傷つけるかを直視せざるをえなくなり」といった、彼自身の発言によるエビデンスがある。重要なのは、これはあくまで菅野氏自身のメンタリティであって、「オッサンのメンタリティ」ではないということだ。菅野氏はオッサンだが、かといってオッサンが彼と同じようなものの見方をしているとは限らない。ごく当たり前のことだ。

とすれば話がかみ合わないのは当然だ。何故なら、こういった問題を以前から気にかけてきた側はこれらを「最もバカにする分野」などと見ているはずがないのだから。

「ここ10年ほど、日本会議が主要な行動フィールドとしているのは、学校現場です。性教育反対しかり、親学しかり、江戸しぐさしかり、そして日の丸君が代しかり。しかし『子供の話』として、これをどこか軽く扱ってるところありませんか?」と。(中略)もしあのまま行ってたら僕は、今頃日本会議のイベントで君が代歌ってるだろう。

これに関してもそうだ。散々バカにされながらも「日の丸君が代」や体罰の問題を取り上げ続けてきた側はそれをよく覚えているが、いじめを行った側が往々にしてそれを直ぐ忘れてしまうように、バカにしてきた側は直ぐに忘れてしまう。

つまりここには、菅野氏自身がそうだったように、散々女性や子供の権利を軽んじる見方をしてきた人達が、女性や子供の権利を軽んじる発言を殆どせず、尚且つそれらの権利向上を訴えるような記事を書いてきた人達にミソジニーとレッテルを貼り、攻撃を行っている、という可能性がある。

菅野氏の主張に同意し、彼と一緒になって記者やその者が持つ属性を攻撃している人達は、そういった免罪の可能性は鑑みなかったのだろうか。何しろこの主張の根拠は彼自身の個人的体験と感覚のみだ。そんな理由で罪をきせられ罰を与えられたのではたまったものではない。具体的な名称は出していないものの、これは憶測に基づく私刑の誘導であり、個人の権利の侵害ではないか。


 ▼(2)自意識批判という中傷、属性批判という絨毯爆撃


 
しかしなぜこんな雑な主張が出てきたのか。菅野氏ばりに憶測を働かせてみるなら、そもそも右翼と証する彼が本来なら必要のない左翼・右翼という対立をわざわざねじ込んでいることからして、実は彼の興味の中心は左翼退治であり、そのダシのために女性や子供が持ち出されただけだからではないか、という疑念が頭をもたげる。

「戦前回帰」とかさ、そういう陰謀論みたいな話

戦前において女性や子供の権利が大きく制限されていたということは、少なくとも義務教育を受けた人間なら誰でも知っている常識だろう。育鵬社の教科書が採択されている学校ではどうか知らないが。というより、戦前の日本の秩序の特徴としてまず持ち出されるのがそれだったはずだ。女性には選挙権がないとかね。つまり、「戦前回帰」は女性や子供の権利の制限を内包するわけで、それらを対立軸としておく事自体が誤りだ。

「と、考えると、彼らが今改憲議論で、『緊急事態条項』と『家族条項』にこだわる理由もわかるでしょ?緊急時には女子供はすっこんどれと。家族の言うことを聞けと。」と。

そもそも以下の記事にもあるように、『家族条項』を「女だけの問題」にするのは矮小化だろう。

憲法24条を「女だけの問題」にしてはいけない(深澤真紀)

「女だけの問題」として見ることはむしろ日本会議を利するだけだ。それは『緊急事態条項』でも同じことだろう。

要するに、「左派」と「陰謀論」という言葉を結び付けたいという欲を押さえられなかったからこそ、そちらをメインに置いているからこそ、こういった明確な瑕疵を持つ理屈を持ち出さざるを得なかったのではないか。

もちろんそれは下衆の勘ぐりである。ただ一つ確かなのは、属性偏重主義を取らなければこういった結論にはならなかったということだ。

 ***
 
もし本当に女性や子供の権利が軽んじられることを問題だと思うなら、実際に行われたそういう発言を一つ一つ拾い、それを根拠にその者を批判していけばいいだけだろう。その記者や左派系メディアを批判したければ、実際に彼らが行ったそれを論拠にして批判すればいいだけだ。

「日本会議は小さい。しかし、彼らがレペゼンしてるのは『ニッポンのオッサンのメンタリティ』。国粋主義でも宗教でもない。あなたにもそしてこんな偉そうなことを言ってる僕の中にもあるかもしれないドロドロとしたミソジニーをレペゼンしてるんだから、強いんです」

そこには妙な憶測など必要なければ、ミソジニー批判、メンタリティ批判などといったものも必要ない。何故なら重要なのはその者の内心ではなく、実際に行われた行為だからだ。幾ら女性を蔑んでいても、実際にそのような行為を表に出さない限りは何ら問題はない。これは内心の自由という基本中の基本だ。

それ以前に、そもそも他人の自意識なんて誰にも分からないはずだろう。当人ですらよく分からないのだから。それをこうであると決め付け、それを根拠として批判する行為は、端的に言って中傷である。結局のところ、この世に存在するありとあらゆる自意識批判は内容的に、私の魂はあの者達のそれよりも位が高い、というアピールのバリエーションでしかない。それに乗っかることで飴は手に入るかもしれないが、誰かの権利を守るためには全く不要なものだ。

同時に、オッサンとか左派とか、特定の属性でまとめて不特定多数をぶっ叩く必要性もどこにもない。それどころかこういった属性攻撃とは絨毯爆撃に他ならない。それが個人の権利を踏みにじるものでもあることは言うまでもないだろう。

そしてそういった属性偏重主義を貫くが故に個人の権利が軽視され侵害されていくというこういった成り行きは、正に日本会議がこれまでやってきたことと同じではないのか。

実際ここで行われているのは――以前キモオタであることを理由にこんな嫌がらせをされた。その人物は女性という属性を持っていた。別の場所である女性が言及して欲しい問題に言及してくれなかった。それを誰かは男性への差別的意識からだと言っている。やっぱり女性と言うのはそういうものなのか。酷い、オバサンは酷い――みたいなものと全く変わらない。

「自分がいかにクソか、自分がいかに人を傷つけるかを直視せざるをえなくなり、自分を変えようと、持ち金全部はたいて、カウンセリングに通い、病院に通い、専門家に助けを求めたから、自分のミソジニーを理解できた」らしいが、属性批判から脱することができず、叩く属性を変えただけではそれを克服できたとは言えないだろう。それでは「傷つける」対象を変更しただけだ。


 ▼(3)飴と鞭を背後に忍ばせた二分法



そもそも問題の根本は、全ての者に等しく与えられるはずの権利が特定の属性を備えていることを理由に制限されてしまう、或いはその権利自体が否定されてしまう、ということのはずだ。それはつまり基本的人権の否定であり、個人の尊重の否定である。

即ち本来ならそれを重んじるか否かの問題が、あたかも特定の属性と属性との対立であるかのように摩り替えられてしまう。それこそがこういった問題をさらに深刻なものにしているのではないか。

なのに何故そこでさらなる対立を再生産しようとするのだろうか。何故属性攻撃に対し、属性攻撃で応じなければならないのだろうか。それは基本的人権は守られるべきだ、という人達を分断してしまうことにもなりかねないのに。

「オッサンのメンタリティ」とここで表現される問題も、その本質は、権限を持った者が自身の趣味趣向に合わせて個々人の権利を制限してしまうことだろう。これは性別に関係なく生じる現象のはずだ。そう考えると、日本会議を支持する女性達は必ずしも自縄自縛でそれをしているとは断定できなくなる。単に自身の趣向に合ったライフスタイルを他人に強要しているだけ、という見方もできるからだ。

もちろん、何故女性支持者がいるのか?という問いに、彼らは名誉男性だから、という答えを見出している人がいるように、「名誉何々」的な枠組みが機能していることも否定はできない。しかしだとすれば、この説に乗っかって女性の側に立つ男性は正にその裏返しとしての名誉女性的性質を持つことによってその場での立場を確保していることになる。

実際オッサンはここで彼の持論に乗っかって名誉女性的振る舞いをしなければ、その者が普段女性や子供の権利問題にどのような態度を取っているかに関係なく叩かれそうな雰囲気だ。

僕の講演の最後2分間は、「女子供の話だとバカにした結果、女子供の話を真剣に弄る人らが改憲勢力の首魁になった。だから24条なんですよ!女子供の話だとこれ以上バカにするのをやめましょう」と絶叫して終わる。

菅野氏のこれなど正に名誉女性の振る舞いそのものではないか。一方、自説に同意しない記者はミソジニーのレッテルを貼られ、見せしめとして叩かれる。

そういった恐怖、或いは自身が嫌いな属性を叩くことができるという飴を後ろにチラつかせた二分法で反論を封じ、物事をある方向へと誘導しようとするような手法が効果を発揮するからこそ「名誉何々」問題が生じるわけであり、それを問題とするならこのような手法に乗っかるべきではないだろう。

そしてそれはくしくもあの手の人達が愛国者であるか反日・在日であるかを何らかの選択と紐付けして判定するやり方そのものでもある。

女性や子供の権利を守るにしても、それは女性や子供という属性の力を強めることではなく、属性に囚われない個人の権利を守ることだろう。だが個人の権利を抑圧するこういった手法を肯定し、一般化していくなら、当然別の場所で同じ手法を用いてその権利が抑圧される可能性も高まっていくことになるだろう。


 ▼(4)基本的人権(個人の尊重)問題の対立化



この説のもっともらしさは「オッサン」を権力を持った存在として捉えているからこそ成り立っているのではないか。だが菅野氏が己のメンタリティを「オッサンのメンタリティ」と摩り替えたように、属性闘争になればそれが底辺の何の権限も持たないオッサンのそれに摩り替えられることになるのは必定だろう。

――突然よく分からない場所に連れて行かれ、帰りは自分でバスで帰ってくださいと言われる。大した説明も受けないまま仕事が始まり、どう考えても一人では捌き切れない量の作業を押し付けられ、捌き切ろうとすると数量確認がおろそかなってバイトのオバちゃんからどやされ、確認作業を重視すると社員から文句を言われる。それがマラソンのように絶え間なく続く。もちろんほぼ最低賃金だ。

「○○君はウチのエースやからな!」と社員からおだてられていた人が、明日仕事があるかないかわからない、人の都合がついたら仕事は無いが、そうでなければ出勤になるので気が休まらない、と愚痴をこぼす。

派遣事務所の女性社員から、○○さん、次の一週間お休みです~。と告げられる。その結果夜勤にもかかわらず月給13万。もちろん、年金や社会保険料は未払いの状態でそれだ。それが一ヶ月おきに続く。そして6ヶ月未満で切られる。なぜならそれ以上勤めると有給が付いてしまうからだ。そしてそうやって辞めて行ったはずの人が、また二ヵ月後くらいに呼び戻されていたりする。

底辺では一ヶ月更新などザラだ。どんな理由があろうと、もし働けなくなったら男も女も平等に切られる。というか向こうの勝手な都合で一ヶ月経ってもいないのに辞めさせられたりもする。もちろん自己都合退職だ。嘘だけど。そして後からやってくる人やってくる人皆何らかの問題を抱えていて一週間ほどで入れ替わっていき、そもそも何故あの人を辞めさせたんだ?一番マシだったのに、ということになったり。

底辺では凄まじい轟音が鳴り響いている現場も多い。一度イヤーマフを付け忘れてしまったが故に、聴力を大幅に失ってしまった、なんてこともある。もちろんそういった現場でも特別な手当などつかない。そもそも底辺のオッサンは年収200万にさえ中々届かない。

――こういう状況に身を置いているオッサンは幾らでもいる。オッサンという属性が持つ神通力などこの程度のものだ。

ここで属性闘争に乗っかっている女性は、そういうオッサンと同じ権利を与えられ、同じような状況へ押し込まれて満足できるのだろうか。或いは今似たような状況であがいている女性の皆さんは、菅野運動によってもたらされる、「女性」或いは「オッサン」に対する「オバサン」という属性への魔法効果を武器にしてそこから這い上がることが出来る自信はあるだろうか。

もちろんそれに乗っかった以上、這い上がれなくてもオッサンと同じ権利が与えられていればそれは自己責任として処理されることになるだろう。

 ***

問題の属性闘争へのすり替えは、全く新しいものでもなんでもない。近年では貧困問題が世代間闘争へと摩り替えられたのが記憶に新しい。さらに言えば、そもそもこういったものは日本会議に親和性の高そうな人達が以前から重宝してきた手法だったのではないか。先に挙げた知恵袋のページなどはその典型だ。

慰安婦は許されない、女性の人権侵害だとかいうけどさ ... - Yahoo!知恵袋

よく考えてほしいわ。
行けば(ほぼ)必ず死ぬってわかってる戦場へ行かせられる。
なのに男は何一つ文句も言わずに黙ってた。
今でも死に物狂いで帰ってこれた元兵士も黙ってる。
そのことで

「無慈悲に戦争に行かされた!男の人権侵害だ!!」

なんていうやつが一人でもいたか?!
言ってないだろ?

きっと言いたいことは山ほどあるはずなのに、何一つ文句言わずに今でも我慢してる。

文句言うのは決まって女ばっかり。

そして結果行き着くのがこういう場所だ。基本的人権/個人の権利は属性にかかわらず設定される絶対的なものだが、属性と属性の権利の引っ張り合いは相対的なものとなる。そういうものに変質させてしまった以上、必然的に権利の底はなくなる。そしてもっと酷い人もいる、ということでお互いドンドン下へと引っ張り合いすることになる。これこそ属性闘争の醍醐味と言える。

またこういった摩り替えは、「権利には義務が伴う」「本当に助けが必要な人とそうでない人」という対立関係に置き換えられることも多い。杉田水脈氏が「保育園落ちた、日本死ね。」をそのような手法で批判しているのは正に象徴的だ。

【杉田水脈のなでしこリポート(8)】「保育園落ちた、日本 ... - 産経ニュース

「保育園落ちた」ということは「あなたよりも必要度の高い人がいた」というだけのこと。言い換えれば「あなたは必要度が低いので自分で何とかしなさい」ということなのです。(中略)この問題が起きた直後に山田宏前衆議院議員が「生んだのはあなたでしょう、親の責任でしょ、と言いたい」と発言しました。私はもっともな発言だと思った

本来どちらかが重んじられればどちらかが軽んじられるようなものではないはずの問題を属性や条件で分断し、対立化させてしまうとこういうことになるのは必然と言える。

『家族条項』に関しても、その本質は女性の権利がどうこうというより、個人の権利の制限や政府の責任放棄が目的だろう。

つまり重要なのは属性に伴う権利ではなく、全ての者に無条件に適用される、個々人に応じた権利であり、そのためには属性や条件による対立は極力避けねばならない。ところがあの記事ではひたすら対立が煽られている。

 ***

それに加え、普段ヘイトスピーチはいけない、と言っていた人達からこういった属性批判への批判が出てこないのも妙な話だ。対象とされている属性がマイノリティではないからだろうか。しかしならばそれはマイノリティでない人達と対立することを意味する。そしてそのような枠組みでマイノリティが何らかの権利を得たとしても、それは属性に左右されない共通ルールに基づいたものではなく、対立する多数派属性の温情によってもたらされたもの、という性質も漏れなく付いてくることになるが、それでいいのだろうか。


 ▼(5)強さの理由



基本的人権/個人の尊重の問題を対立化させて分断。自意識批判という中傷、属性批判という絨毯爆撃。それらによる恐怖と飴を後ろに備えた二分法を用い、憶測を根拠とした私刑へと誘導する。

あの記事はそういった多くの問題を抱えている。しかしそういった内容を持つ菅野氏の記事に寄せられたのは、絶え間ない賞賛と喝采の荒らしだった。属性偏重主義に個人の権利は飲み込まれ、免罪や私刑への懸念も消し飛んでしまった。普段はそれらを非常に重んじているはずのコミュニティでさえ。

既に述べたように、こういった手法は日本会議周辺においても重宝されてきたものだろう。そういったことから鑑みるに、日本会議の強さとはミソジニーなどではなく、むしろこういった仕組みにこそあるのではないか。

よく考えてみれば、日本に限らず近年大きな求心力を得た人達は皆こういう手法を巧みに用いていたのではないか。

つまり、同じような構造を持ったシステムが、別の文化圏では中身だけが入れ替わって首尾よく機能していた。そして今回菅野氏の記事に起こったのと同じような熱狂が別の場所でも起こり続けている。そういう話なのではないか。

そう考えると日本会議が急に身近な存在に感じられてくるのではないか。少なくともオッサンの自意識に潜むミソジニーによる陰謀、というパラサイト・イヴみたいな話よりもずっと明快だろう。何より実際にそれらの手法が用いられているか否か外部から確認可能なわけだから。

 ***

「基本的人権」や「個人の尊重」という言葉が鼻で笑われるような社会において、手っ取り早く世の中を変えることができそうなこの手の対立構造が変化を望む人達にウケるのは理解できなくはない。

とはいえ、それはこれまでもずっと行われてきたことであり、そういった対立構造における争いの上に現状があると考えるのが妥当だろう。そしてそれが機能すればするほど、その性質上、その分だけ個人の権利もまた抑圧されることになる。

結局、基本的人権や個人の尊重の問題において、こうすれば劇的に改善する、というような特効薬はない。しかしながら、それを抑圧している自意識批判や属性批判といった性質の悪い手法を真面目な議論から追い出すことは可能なはずだ。

そういったレッテル貼りに頼らずちゃんと論拠を挙げて何かを述べるということは、当たり前のようでいてわりと難しい。それ故それらはそういう技能を持たない者達にも発言権を確保するという、言論のバリアフリーとしての側面も持っている。とはいえそれは、こういった手法を今のように野放図にのさばらせておく理由にはならないだろう。

君はゴキブリに自分が何者かを説明しようとするか?

「異星人が地球に上陸すれば人類を大虐殺する」 ホーキング博士の“警告”に科学者騒然 (1/3) - ITmedia ニュース

これに対し、人間なら大虐殺するから他の知的生命体もそうするだろう、という考えはその知的生命体が人類と価値観を共にしていることが前提となっているので間違いだ、とか、そんなに優れた存在なら人類のような愚かなことをしないだろう、という反論があるようだ。

だがその知的生命体と人類との間にそれ程かけ離れた差があるとしたら、その場合――「そんなに優れた存在なら何故我々に自らのことを説明しないんです?」「君はゴキブリより優れているかもしれないが、ゴキブリに自分が何者かを説明しようとするか?」(映画『プロフェシー』より)――というような断絶を生むだけだろう。

何にせよ、もし地球に知的生命体がやってくるとしたら、それは力の差から言って人間からすれば神のような存在ということになる(元来日本人は人知の及ばない力を「神」と呼んでいた)。

しかしギリシャ神話の神がそうであるように、人格神とは結局のところ「絶大な力を持った人間」に他ならない。そして人格を持たない神の場合、それは単に「自然の驚異」になる。そのどちらであっても人間からすれば危険なことに変わりはないだろう。

まあしかしそれ故に来て欲しい気もするが(人間社会に対する復讐心)。

「その研究が人の役に立つんですか?」と質問してはならない?

https://twitter.com/dragoner_JP/status/437436802220040192

@dragoner_JP
「新婚さんいらっしゃい」に、名古屋の大学でカモメの生態研究している人が出ているんだが、司会の桂文枝が「その研究が人の役に立つんですか?」とか質問していて、ああこういう人間が科学を殺すのだなと思った

随分大勢の支持を得ているツイートのようだが、これは違うなあ。そもそもそんな疑問を述べることすら許されない社会ってどんだけ言論統制社会なんだよ、という話にもなるし、それ以前に、その質問を止めさせなければ死んでしまう科学ってどんだけ脆弱なんだよ、ということにもなる。そんな言論統制で科学の脆弱性を守る必要などないだろう。それにこんなこと言い出したら、役に立たないなら下らない、ではなく、純粋に何かの役に立つのではないか、と思ってその質問をすることさえできなくなってしまう。
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何故、具他的な必要性が見受けられないからという理由でそれを止めさせるべでないのか。そもそも何故人は、具体的に何かの役に立つわけでもないことに熱中するのか。

こういった問いには様々な説があるだろう。役に立つか立たないかというこの質問の範囲に限っても、例えば――初めから何がどのように発展して具体的に何の役に立つか立たないか、なんて誰にも分からない。予めこれはきっと役に立つだろうと思われることだけしていれば、それを行う者の想像の範囲内で研究が留まってしまい、意外な発見がなされる可能性を妨げてしまうことになる。手広く何かを研究していれば、それがやがて学際的な発展を遂げ、大きな成果の礎になるかもしれない。そして人間は、そういう一見下らなく見えるような事柄にさえ没頭してしまうような性質を持っていたからこそ、このような発展を遂げたとも言える。……とまあこんな答えが考えられる。

そもそも人間は何かの役に立つために生まれてきたわけではない、という切り口でものを考えることもできるし、誰かが何かをしたいと思った時にそれをすることは人間にとって重要なことであり、逆に傍から見て下らないと思える行為を全て禁止したら一体どんな社会になるか、ということを考えてみるのも面白いだろう。

何にせよ、「その研究が人の役に立つんですか?」という問いは、それそのものが壮大な研究の一部であるとも考えられる。よってこれを言わせないようにすることは、役に立たないからやめるべき、と言って研究を止めさせる行為そのものに相当する。そして其々がこのような問いに対する研究を怠ってきたからこそ、何かの役に立たないことはやるべきではないかのような風潮が出来上がってしまったのではないか。問題にすべきはむしろそちらの方だろう。

要するに、質問そのものを止めさせる方向より、「その研究が人の役に立つんですか?」と聞かれて、「いや、今のところ特にこれが何かの役に立つとかそういうことはありません」と胸を張って答えられる方向を目指した方がいいでしょう、と(――もちろんそれでも、研究のために投資を募ったり限られた予算の獲得競争で勝とうとするなら、さらなるプレゼンが必要になるのは避けられないが)。

直ぐに属性/経歴批判に走る自称普通の日本人は多いけど…

誰かがなんらかの主張を行った時、その主張が間違っていることを示すため、その主張を行った者の属性や経歴を指し示し、こういう属性や経歴を持っている者の言うことだから(間違っている)…みたいな反駁方法を取る者は多い。

これは逆に言えば、「立派な社会人/普通の日本人」である自分の意見は、属性的、経歴的に劣であるあの者の意見よりも正しい、というアピールでもあるだろう。だがもし、ある主張に納得がいかない時、その言説の内容を批判するのではなく、直ぐに属性批判や経歴批判に手を出し、相手の印象を貶めることで自説の正しさを証明しようとする者が「立派な社会人/普通の日本人」であるとするなら、日本の平均的言論レベルは極めて低劣なものであるということになる。つまり、こういった方法で行われる対抗言説は実質的に、日本の平均的言論レベルは低劣である、というアピールにもなっている。

社会的マウンティングと「大人」の関係

橋下知事「国歌斉唱で起立しない教員は免職」(読売新聞)

 大阪府の橋下徹知事は17日、入学式や卒業式の国歌斉唱時に起立しない府立学校や公立小中学校の教員を免職する処分基準を定めた条例を9月の定例府議会に提案する考えを示した。

 府によると、同様の条例は全国でも例がないという。

 知事は報道陣に、「府教育委員会が国歌は立って歌うと決めている以上、公務員に個人の自由はない。従わない教員は大阪府にはいらない」と指摘し、「繰り返し違反すれば、免職になるというルールを作り、9月議会をめどに成立を目指したい」と述べた。

この問題の焦点は、「権威の象徴を出汁にしてイエスマン以外を排除しようとする手法(風潮)」をよしとするか否か。多くの者に問題として認識されているのは君が代そのものというより、そういう手法や風潮、及びそれを積極利用しようとする「人間」、その露骨さの方だろう。
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そもそも、概念としての国家や国歌は起立して敬意を払ってくれなどと望んではいない(生物ではないのだからそういうベクトル自体を持ち得ない)。にもかかわらず、一部の人間が勝手にありもしないその意向の代弁をし始める。要するに、その意向とは国家でも国歌でもなく、代弁者の意向に他ならない※1

これが持つ儀式性や「神の代弁者」的側面をみれば、ここには宗教的な要素が関わっているようにも見える。しかし、宗教ならば敬意を払っている「素振り」自体に重きは置かないだろう。

では、こういった類のもの(社訓35秒暗唱など、本来そこで求められる業務には直接関係しないはずの趣向や思想、振る舞いの強要)は一体なんなのかと言えば、結局それは人間流のマウンティング行為の一種なんだと思う。そしてそのマウンティング行為は、(その者にとって)使える奴と使えねー奴を振り分けるための道具としても重宝される。

 ▼マウンティングのされ方が流麗な者ほど「大人」とみなされ易い

さらにこういった社会的マウンティングは、「大人」概念とも深く関わっているように思う。

何をもってして「大人」と認識するかは、其々によって異なるだろう。つまりそれは個人の感覚に依拠するもの。よって、個々人の感覚を横断する共有物としての「大人」定義は、より多くの人間に立派であると認識されるような状況がそこに形成されていること、くらいの曖昧なものとしてしか設定し得ない。それ故様々な大人観が乱立しているわけだが、その者が「大人」であるか否かを分け隔てる一つの大きな一般的基準として、社会的マウンティングの受け方の流麗さというものがあるように思う。

社会的マウンティングが行われる時、その儀式を滞らせることなく、何の違和感もなく速やかにマウンティングされる人間ほど大人とみなされ易い。一方、そのマウンティングをひっくり返すほどの社会的影響力を持ちもしないのに、それに抗ってみたり、或いはマウンティングされることは受け入れていても、その所作などがどうもぎこちなかったりしてスマートにマウンティングされることができない人間は「子供」とみなされ易い。

多くの動物は、ディスプレイの上手い下手によって集団内の社会的ポジションやモテ・非モテが決まる慣わしみたいなものを持っている。同じように、人間社会におけるマウンティングのされ方にもある種の美学のようなものが存在している。そしてマウンティングのされ方が下手だとみすぼらしく映り、社会的に不利な影響を生みやすい。逆に、そこでマウンティングをする側になるほどの力を持たない者も、マウンティングのされ方が上手ければ優位なポジションを獲得し易く、いずれマウンティングをする側になるチャンスも生まれてくる。例えば、社訓35秒暗唱の流麗さや、妙に馬鹿デカい店員の挨拶、北朝鮮のマスゲームにおける子供の笑顔などは、処世術であると同時に、マウンティング芸であるとも言えるだろう。

世に言う「大人/子供」という言葉は、こういったマウンティングの様相が言い換えられたものであることも多いのではないか。



※1 ここではルールに従うことの大切さもまた大儀の一つとされているようだが、ルールを教え込むためというなら、むしろ思想・良心の自由という基本原則こそ教え込むべきだし、単にその集団における権力者が決めたことだから無条件に何でも従うべしと言うのなら、それはアイヒマンと何ら変わらないだろう。もちろん、ジャイアンがリサイタルを始めたら嫌でも正座して聴く、というのが成熟した「大人」の振る舞いとされている社会だから、命令に従って起立すること自体は別に特異なこととは言えない。しかし、ジャイアンが正座して聴いていなかった者をリンチし始めた時、周りの者がそれに加担するか否かというのは、一線を越えるか否かの大きな分岐点になると思う。

科学者脳とジャーナリスト脳みたいな何か

Togetter - 「keigomi29さんの(普通の)科学者と(三流)ジャーナリストの違いに関するツイートとそれに関する反応。」

【0】地震以来、いわゆる「ジャーナリスト」の人のいうことが、どうしてこんなに違和感があるのだろうと、バスを降りてから自席につくまでに考えた。ジャーナリストにも色々な方がいらっしゃるので失礼のないよう(三流の)ジャーナリストと、(普通の)科学者の考え方の違いを揶揄的にまとめてみる。keigomi29

揶揄という逃げを打っているとは言え、なぜこういったただのレッテル貼りが絶賛されてしまうのだろう。「違和感がある」のなら、該当するその言説のどこに問題があるかを指摘すればいいだけなのではないか。ジャーナリストという属性で一括りにし、不特定多数の対象にレッテルを貼り付けるというのは、科学的に妥当な批判方法と言えるのだろうか。
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【1】 (普通の)科学者は自説を否定する事例を探す。 (三流の)ジャーナリストは自説を補強する事例を探す。

【2】 (普通の)科学者は反例が見つかると自説は否定されたと考える。 (三流の)ジャーナリストは反例を気にせず自説は証明されたと考える。

これらは「(三流の)ジャーナリスト」を「(三流の)科学者」に入れ替えても成り立つだろう。

【3】 (普通の)科学者はひとつの例では不安である。 (三流の)ジャーナリストはひとつ例が見つかれば大満足である。

知り得ないはずの他人の内面を知り得たという前提で、その内面を批判している。

【4】 (普通の)科学者は事実から論理を導き出す。 (三流の)ジャーナリストは論理にあう事実を見つけ出す。なければ創り出すこともある。

科学者にだってイデオロギーはあるだろう。事実、この風刺自体が後者の例になってしまっている(具体的な事実に基づいた批判になっていない)。

【5】 (普通の)科学者は相関関係が因果関係かどうかを考える。 (三流の)ジャーナリストは相関関係は因果関係だと考える。ただし因果の方向は任意である。

これは確かに、訓練を受けていない者が陥りがちな考え方だ。ただし、 それは「(三流の)ジャーナリスト」に限ったことではなく、「(普通の)社会人」に入れ替えても言えることだろう。

【6】 (普通の)科学者は抽出した標本が母集団を代表しているかどうかを考える。 (三流の)ジャーナリストは取材した対象が母集団を代表していると思いこむ。

【7】 (普通の)科学者はどの程度確かなのかを考える。 (三流の)ジャーナリストは絶対確実か絶対間違いだと考える。

自己言及になっている。前者の考え方によるならば、抽出した対象を明らかにし、それが母集団を代表していることを示さなければならないはず――この後、「普通のジャーナリストは三流だ、ということで(笑)」としている――なのだが、ここでは完全に後者の側に陥ってしまっている。と同時に、「確実(科学者)」と「間違い(ジャーナリスト)」という対立構造を作り上げてしまっている。

【8】 (普通の)科学者は見つからないものはないのかもしれないと考える。 (三流の)ジャーナリストは見つからないものは隠されていると考える。

いや、「見つからないものは隠されている“かもしれない”と考える」の間違いだろう。そしてそういう懐疑もある程度は必要だろう。というか、語尾を少し変えて対比するのはズルいと思うよ。「見つからないものはないと考える。」は不味いと思ったのだろうけど。

【9】 (普通の)科学者は誰の話を聞いても本当かどうか考える。 (三流の)ジャーナリストは話を聞く前に本当かどうかを決めている。

科学者であろうがジャーナリストであろうが、そういう人はいるだろうし、一流の人間であっても、そういうことをしてしまうことはあるだろう(多くの者は、富や名声を得たいと思っているし、また獲得したそれを守りたい、という心情を簡単には捨てられないだろう)。

【10】 (普通の)科学者は話を聞いて理解できないのは自分の知識が足りないからだと考える。 (三流の)ジャーナリストは話を聞いて理解できないのは相手の説明が下手だからだと考える。

これに限ったことではないが、基本的に内面批判は下らない。それこそ「人文的」と揶揄される批判の代表選手ではないか。

【11】 (普通の)科学者は分からなければ勉強する。 (三流の)ジャーナリストは分からなければ説明責任を追及する。

後者をすべきでない行為だとするならば、其々は各々各自で勝手に勉強すればいいわけで、報道自体必要なくなるだろう。だが、「説明責任を追及する」ことも必要なことなのではないか。「聞き出す」役割を誰かがやらなければならないのではないか。確かに、東電や保安員の会見などを見ていると、相手をつるし上げること自体が目的であるかのようになってしまっている記者もいる。しかしそこに問題があるのだとすれば、単にそれを問題として取り上げればよいだけであり、属性自体を非難する必要はない。

それに、勉強することと説明責任を求めることは対立しないし、勉強したからといってそれらを全て適切に理解できるとは限らない。多くの場合は勉強しないのではなく、勉強しても分からないだけなのではないか。また、報道によって情報を受け取る者の殆どは無知であり、勉強もしないし、しても分からない人が殆どなのだから、それを馬鹿にできる人もそうはいないはずだ。さらに言えば、全て勉強して分かってしまう人であっても、そうであるならば、「分からない人」が大半だということは既に学習できているはずだから、そういう人に責任を求めるより、ただその事実を受け入れた上で、それに相応しい対応を探ればよい、ということになる。前者の考え方を実践しようとするならば、だが。

【12(了)】 (普通の)科学者は量と反応の関係を考える。 (三流の)ジャーナリストはあるかないかだけが問題である。

「あるかないか」をハッキリさせることができるならば、それはそれでジャーナリストとしての重要な役割の一つを果たしていると言えるだろう。そもそも、三流であろうとなかろうと、大抵は基本的にそれらの内容を問題としているのだと思うが。

――結局のところ、ここで挙げられた「(三流の)ジャーナリスト」の考え方は、自戒とすれば良いが、他者に突きつけると自己言及になってしまうようなものばかりだ。つまり、そこに「(三流の)ジャーナリスト」は必要ないし、また「(普通の)科学者」を対比させる必要もない。

 ***

では普通のジャーナリストは三流だ、ということで(笑) @vivisuke 毒を減らすために「三流の」という形容詞句がついてるけど、「普通の」ジャーナリストとしてもいいと思う。
keigomi29

肩書きを根拠として不特定多数の人間を貶し、一方の陣営の優位性を明らかにしようとするのは、「(普通の)科学者」のすることなのだろうか。――実際は科学者、ジャーナリスト云々というより、人によりけり、場合によりけりだろう。ここでは科学者という肩書きを持つ人物が、科学者というよりむしろ人文系、あるいは政治家としての側面を前面的に押し出しているように、同じ肩書きを持つ者でも様々な人間がいるし、同じ人間でも様々な側面を持っている。よって、肩書き自体を批判しても仕方がない。それどころか、肩書きに石を投げつけることで、それを媒介とし、不特定多数の人間にダメージを与えようとする行為は、科学というよりむしろ呪いに近い…というか呪いそのものだ。

そもそも、ここで明らかにしようとしているのは何なのだろう。科学者とジャーナリストでは求められる役割が異なるはずだ。それらを同列に並べて優劣を測るというのは、果たして適切な比較と言えるのだろうか。対比するなら、(普通の)科学者と(三流)科学者、(普通の)ジャーナリストと(三流)ジャーナリストを比べるべきではないか。そうならないのは、肩書きの優劣が自体が主題となってしまっているからだろう。その結果、科学者脳とジャーナリスト脳、どちらが信頼できるか、どちらの陣営に付くか、みたいな話になってしまっている。

ここでこの言説に喝采を送っている人達の多くは、恐らく「ゲーム脳」には批判的な人が多いのではないか。しかし皮肉なことに、このまとめでは、なぜ「ゲーム脳」が多くの人々に歓待されたのか、ということが箱庭的に再現されてしまっている。そしてそれを可能としているのは、恐らく「科学」ブランドの魔力なのだと思う。

 ***

いずれにせよ、「科学者(正しい)>一般人(普通)>ジャーナリスト(間違い)」みたいな序列が一般化してしまうのは非常に不味い流れだと思う。何故なら、それはそれ自体が既に科学的思考でないということもあるが、そういった考え方が定着してしまえば、科学者の肩書きを持つ者が暴走した時、もはや誰もそれを止めることができない、ということを意味するのだから。

同じ原理を用いた逆の主張(批判)は、ある意味賛同でもある

「自分は嫌われている」という前提で行動すると嫌われない

これ、ポジティブ思考批判という体をなしているものの、実際にはこの考え方自体がとてつもないポジティブ思考だよなあ。「自分は嫌われている」という考えで行動するするだけで嫌われない(つまり世渡りが上手くできる)なんて。

この考えが(処世術として)正しいものであるためには、自身の「他人から好かれている/嫌われている」という感覚を己の意志によって自由にコントロールできるという前提と、そのコントロールによって自身の周辺の状況もまたコントロールできるという前提が成立していなければならない。つまりそこには、自分の自意識は周囲の状況を制御することができる、というポジティブな希望がある。

しかしこの説が正しいとすると、世渡りに失敗する(他人に嫌われる)のは、その者が「自分は好かれている」という前提で行動しているから、ということになる。つまり、社会で上手くやっていけないことの原因が自意識に求められることになる。となればそれはまたぞろ、世渡り上手な人間に「お前が社会で成功できないのは、強すぎる自己愛が、未熟な自意識が云々…」という類の下劣な内面批判という武器を与えることになり、ただでさえ世渡りが下手で窮地に陥っている者は、それによってさらに苦しめられることになるだろう。
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 ▼原理的賛同としての批判

ポジティブ思考は、結果として他人にネガティブな部分を押し付けることによって成り立っている面がある。だから、他人のそれを鬱陶しく思う人間から、その思想に対してこういうカウンターが出てくるのは当然と言えば当然だろう。しかし、批判対象となる主張が供え持つ論理をそのまま利用して逆ベクトルに打ち返すという批判は、その批判対象が生み出す問題の根本的な解決にはつながらない。何故なら、それはただ単にそのベクトル(ポジティブに考えろ/ネガティブに考えろ)がどちらを向いているかという違いだけで、その根っこにある原理的な部分――この場合におけるそれは、自意識原因論説――では双方の主張は一致しているからだ。つまり、その批判は批判であると同時に原理的賛同でもある。よって、その批判が成功しようがしまいが、批判対象となる思想・文化によって生み出される根本的な問題は、そのまま温存されることになる。

例えばこの場合は、物事が「上手くいく/いかない」のは基本的に自意識の「手柄/問題」ということになる。そしてそうであるが故に、本来環境的下支えとして求められる文化的・システム的最低ラインは、どんどん後退していくことになる。何故なら、この考え方によると、個人の意志がその状況をコントロールし、選んでいるわけだから、その状況に問題があるなら、其々の個々人が再び自意識を改変し、その状況を変更することによって問題に対処すればいいだけ、ということになるからだ。つまり自己責任。だから結局この考えは、窮地に陥っているような「弱い人間は好きで弱くなったんだから、もっと強く踏みつけてやればいいのよ(by金美齢)」というような主張へとつながっていかざるを得ないだろう。

レッテル貼りは思考の整理術であり、規定路線上のリソース確保でもある

心をザワつかせる何らかの事象に出会った時、取り敢えず頭の中にある適当な棚にそれらを次々と放り込んで収めてしまえば、思考の部屋が今以上の≪問題≫によって散らかることはない。それによって色々と悩まずに済むことになり、その分だけ思考のリソースを節約することができる。また、そこで行われる“片付け”行為は、解決のカタルシスをもたらす作用もあるだろう。

つまり、その整理術が身に付いていれば、新しいものの見方や発想を生み出すことは難しくなるものの、その一方で、節約したその分のリソースを予め定まった規定路線上において存分に利用することができる。この整理術にはそういうメリットがある。さらに、その“片付け”行為によって得たカタルシスは成功体験となり、新たな自信と活力の源にもなるだろう。レッテル貼りというのは、そういう思考の整理術やリソース確保として機能している側面があるんだと思う。

だからそう簡単にはなくならない。

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ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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