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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

ウシさん、ニワトリさん、ニンゲンさん

前々から違和感を感じていたんだけど、
アルバイト情報誌なんかのコマーシャルを見ていたら、
その中に登場する、彼ら彼女らは、
やたらと楽しそうに働いていたりするんだよね。
そんで「はたらくを楽しもう」
なんてキャッチフレーズが流されたりする。

そりゃまあ楽しくバイトしている人もいるだろうし、
学生が小遣い稼ぎでやっているのならいいんだけど、
バイト先で虐められたり、
それで生計を立てている人達にとっては、
すごく辛いことの筈なんだよね。

そういう状態から抜け出したくても抜け出せない人。
将来の生活の見通しが立たない人。
いつ奈落の底に落ちてもおかしくない、
体力と精神のチキンレースを続けている人。
実際そういう人達がどんどん増えてきている。

だけど、コマーシャルの中でアルバイトをしている彼らは、
まるで楽園にでもいるかの様に清々しい顔をしている。
この上ない充実感を得ているかの様に見える。

それを見てふと思った。
ああ、彼らは「ウシさん」「ニワトリさん」なんだと。

 ***

「ウシさん」「ニワトリさん」が何を指すかと言えば、よく牛肉や玉子等の商品にキャラクターとして用いられている、自分達が殺害され人間の餌にされているのにも拘らず、何故か微笑んでいたり、舌なめずりして人間に愛想を振りまいているアレです。

例えば、正社員として働いている人は、決して一方的な関係ではなく、お互いが利害を分け合い、持続可能な道筋を探したり、それを維持したり、蓄えたりして、未来の生活に備えている。
しかし、アルバイトの場合、お互いの利害のバランスは偏っていて相互性は乏しく、一方的に資本家から搾取され、使い捨てにされているだけに過ぎない。
お先真っ暗である(ひきこもりよりましだけど…)。

当然、本当なら牛や鶏が自ら望んで人間に殺されている筈がないのと同じで、多くのアルバイト従業員も、本当に望んでそこで働いている訳ではない。
何か特殊な理由がある人意外は、出来ることなら、企業と利害を分け合うような状態を手に入れ、先が見えない現状からオサラバしたいと思っているに違いない。
しかしながら、一旦そこに落ち込むと抜け出すのは容易ではない。
そんな現状を楽しんでいる人間が一体どれ位居るだろう。
あんまり居ないと思う。

ところが、そんな現実に反して、コマーシャルに登場する彼らは、「ニワトリさん」のように微笑み、「ウシさん」の様に舌なめずりする。キャッチフレーズにしてみても、もう少し現実に即したものにしようとすれば、

「搾取されるのを楽しもう」 とか、
「使い捨てにされるのを嫌がってはいけない(by小泉純一郎)」

とかにするべきなんだけど、それがキャッチフレーズであるが故に、そうはならない。

つまり、キャッチフレーズが現実を表すものではないのと同じ様に、「ウシさん」や「ニワトリさん」が牛や鶏ではないのと同じく、あの手のアルバイト情報誌のコマーシャルに出てくる彼らは、人間ではなく、あくまで「ニンゲンさん」なのだ。

なんて、どうでもいいことが思い浮かんだりした。

人類の存続は常に邪悪である

<善良なる人の傲慢>

殺人、強盗、傷害、欺き、強姦、脅迫、汚職、嫌がらせ、無理強い、復讐…etc.
人類の歴史から、これら「罪」とされるものが消え去った事は一度たりとも無い。この事実は、人類存続のコストとして、誰かが罪を犯さざるを得ないという事を表している。そして誰かがその役割を引き受けてくれる(勿論、個人の意思としてそうしている訳ではないが)お陰で、その他の者達が(あくまで体裁上のだが)善良な人間として生活を送ることが出来る。

にも拘らず、その「善良な人間達」は、自らの生活や秩序を保つ為に、誰かにその「悪人」という役割を引き受けさせているという己の罪に対して、恐ろしく鈍感だ。それだけでなく、その己の罪を省みず「悪人」を痛めつけて快楽を貪ろうとする。

「悪人」は、自らの意思でそうなったのだから、そういう拷問を受けて当然だという人がいるかもしれない。しかし、そうで無いことは人類の歴史が証明している。
仮に、自らの意思でそうなったのだと仮定しても、人類の歴史上「悪」が途絶えたことが無いという事実からして、人類が存続する以上、「自分の意思で悪人になる人間」を排出し続けなければならないという事になる。つまり、それは誰かが生まれつきの悪人として生まれてこなければならないという事になるが、その出生自体は不可抗力によるものなので、やはり同じことだ。

結局、ある一つの行為を「悪」と定義するとして、それが出現するのは、元々人類が持っている資質が、何処かに分かり易い形で現れただけに過ぎず、個人はその「何処か」でしかない。
人類の資質と、その社会の在り方に相応しい結果として、相応しい形で相応しい数だけ、「悪」が何処かに現れているだけでしかない。

それを個人の意思だけに悪人になった原因を求めようとするのは、一個人の意思で、人類という種を違う生物へと変容させる事がが出来る、と言っているのと同じことだ。そんなことあり得る筈もない。それがあり得るのは、セカイ系な物語の中だけだ。

 ***

そりゃ自分の気に入らないものを消し去りたい、いたぶってやりたいという欲望の存在は否定できない。自分を苦しめた人間に復讐してやりたいという感情は捨てられないだろう。それは仕方が無いことだ。
だけど、その欲望が存在する為には、その欲望の生みの親である個人が存在しなければいけない。そして、個人が存在する為には人類が存続していなければならない。だが、その人類の存続には「悪」の存在がそのコストとして必要となってくる。つまり、「悪」なくしては、欲望の主体である自身も存在しないことになるのだが、一方的に「悪人」を責め立てる人間は、その「悪」のお陰で「善良な人間」としての自分が存在しているという矛盾には何の疑問も感じないのだろうか。

それが分かっていたら、悪事に直接遭遇した本人は兎も角、少なくとも、普段「他人が苦しもうが死のうが知ったこっちゃ無い」という態度の人間が、何か余所で悪事が起こった時、突然、普段なんとも思っていない筈の他人事にしゃしゃり出て来て、悪事に便乗して、「悪人」を痛めつけることに熱狂する事の愚かさや欺瞞に気付くだろう。

ただただ、人間が持つ資質が、その環境に相応しい形で、相応しい数だけ「悪」として現れている。それが変わらない限り、「出現場所」である個人を幾ら攻撃しても、次にまた何処かに、それに相応しい「悪」が出現することにはなんら変わりない。
その数や形を変えるには、個人だけに注目しても何の効果もない。

にも拘らず、人々はその「出現場所」を攻撃するのに躍起になる。直接その「悪」に出遭った人が、復讐心で理性を失うのは仕方がないとして、そうでもないのに悪人という個人叩きに熱狂するというその行為には、何の正当性もなく、ただ純粋な快楽欲が唸りを上げているだけに過ぎないのに。


<何故、人間は「悪」無しには存在出来ないか>

そもそも、何故「悪」が生まれるのか。
それは、人間が道徳や法律、宗教といった「規範」を作るからである。
そして、その規範からはみ出たものが悪となる。
だから、何も規範を設けなければ悪が生まれることも無い。

しかし、規範を設けない世界は混沌とした世界。その混沌を恐れるが故に、人間は、何らかの規範を設ける事で他者を縛り、コントロールし、各々が望む世界(秩序)を手に入れようとする。各々が望む生活を手に入れようとする。
つまり、個々人の欲望が規範を生み、それによって悪が生まれている。

ところが、その規範の出自は、「各々が望む世界を具現化したい」という個々人の欲望である為、その規範のあり方もまた無数に存在することになる。それが何を意味するかと言えば、何らかの規範に収まることは、他の規範からはみ出すことになる、といったように、それぞれの規範同士が競合するということだ。そして、人類が全体で一つの意思を持つ様な存在にでもならない限り、その規範がひとつに統一されることは無い。

そもそも、人間は自らが設けた規範でさえ、自身の欲望の為に都合よく「例外」を設けて、規範からはみ出た行為を正当化しようとする性質があるので、自らが作った規範にすら収まることが出来ない。規範の目的が、個々人の欲望を満たす事なので、その目的を達成する為には、時によって、自らが設けた規範ですら邪魔になるのである。

常に人間は自分達が作った規範を破らざるを得ないし、その枠に収まることは出来ない。
結局、競合する規範を作ってしまう人間というものが、そして、全ての人間が収まり切る事が出来ない規範を作ってしまうという性質、自らが作った規範にさえ収まり切る事が出来ないという性質を持っている人間という存在そのものが、既に悪なのである。

人間がこういった性質を帯びた存在である以上、人類が滅ぶ以外にこの世から悪を払拭する方法は無い。


<欲望のメルトダウンを止める為に>

「だから道徳や法律や宗教なんて要らない」とは言わない。
「だから人類なんて滅んでしまえ」なんて言わない。

そうは言わないが、もし人類の存続を認めるのならば、自らが邪悪な存在であるという事も認めるべきだ。人間は、自らが望む世界の為に「悪」を製造し続けているという自覚を持つべきだ。それらの事実と人類の存続とは切り離せないのだから、その事実を隠してなお人類の存続を試みるということは、自身と他者に対する「欺き」に他ならない。
しかも、人類の存続に手を貸すことは、悪の製造に手を貸すことなのである。

それらの罪は許されるのだろうか。
また都合よく「例外」を設けるのだろうか。
それに、自らの邪悪さを認めるべきだという理由はそれだけではない。

人間は「正義」に取り憑かれた時に、最も遺憾なくその残虐性を発揮する。
一旦それに取り憑かれると、本当は善悪が普遍的なものでも何でもなく、各々の欲望から生まれ出た、常に競合する価値観でしかないという事実を認識することが出来なくなる。そして、己の行為がもたらす矛盾やデメリットに対して盲目になり、それと同時に、罪悪感というタガが外れ、普段押し隠されていた人間の野蛮な欲望が、具体的行為として止めどなく溢れ出てくる。そうなってしまうと、制御棒を失った原子炉の様に、欲望のメルトダウンを起こし、収集が尽かなくなる。

その惨禍を避ける為にも、人類は自らの存続自体が邪悪であるという事実を自覚しなければならない。
自らが「悪」を製造しながら、それを無き物にしようとする矛盾。自らの打ち出した規範や方針が、本当は己の欲望を満たすことを目的として生まれ出たものなのにも拘らず、それが恰も他者やある集合体にとっての利益を目的として生まれたかの様に、自身と他者を欺こうとする、自らの欺瞞を自覚しなければならないのだ。

そして、その自らの矛盾や欺瞞の自覚こそが、欲望をコントロールする為の制御棒となり、その働きがあって初めて、人間は理性的であることが可能となるのである。

 ***
 
これを読んでも、まだどうしても悪を殲滅したいという欲求が抑え切れない人は、思い立ったが吉日。人生は短いのだから、今すぐにでも人類を滅ぼす計画を立て始めよう!
悪を完全に滅ぼすには、その方法しか存在しないのだから。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

働けど無職。
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※コメントは記事の内容(主題)に関するもののみ受け付けています。また、明らかに政治活動的な性質を持つ内容のコメントはお控え下さい(そういった性質を持つ発言は、それを許容するような姿勢を持つ一部のブログを除いて、自分のブログで行うものだというのが私の基本的な考え方です)。

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