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ポジティブ・アレルギー

物事を顧みず、ひたすら自身にとって都合の良い部分だけを見て突き進まなければならない、ポジティブ社会への拒絶反応

資本主義を駆動させるための錯覚格差×怠惰な努力解釈

格差社会って - はてな匿名ダイアリー - はてラボ

よく言うけど、何も努力してない人と努力して自分のポジションを勝ち取った人が同じ地位になきゃいけないっておかしくないですかね。

結果を努力で計測するためには、まずその努力という共通項を導き出すために、全ての人間が同じ能力と同じ環境を持ち合わせて生まれくるという状況を作り出さなければならない。しかしそれだけではまだ努力解釈の妥当性が担保されるには不十分だ。それに加え、全ての者が同じ努力をした時、それらが全て同じ地位を獲得できる可能性が用意されていなければならない。つまり競合や制限という要素が完全に排除されていなければならない。即ちユートピアだ。

よく努力解釈と平等思想は相反するベクトルのものであるかのように考えられ勝ちだが、実際のところ努力解釈とはこのような究極の平等に依存しなければ成り立たないものなのだ。
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しかし当たり前だがそんなユートピアは存在しない。だからこそこの世の不公平を正し、少しでもより努力が結果に反映されるような、或いは皆に同じ努力をさせるようなユートピア社会を作ろうとしたのが共産主義だった。

一方自由市場が生み出す、工夫(努力)して上手くやりさえすれば誰でも地位を向上させるチャンスはあるはず、というようなユートピア的錯覚に牽引されて力を獲得してきたのが資本主義だ。そのような錯覚が人々に活動のための動機を与え、それによって経済が活性化することで自ずと生活もよくなっていくだろうと期待されたわけだ。

だが実際は金持ちの子は金持ち、貧乏人の子は貧乏人、医者の子は医者、政治家の子は政治家、芸能人の子は芸能人、サラリーマンの子はサラリーマン、非正規の子は非正規というように、まるで中世のような地位の固定化が顕著になってきている。そういう状況がある以上、努力すれば地位が向上するはずだなどという甘い考え(資本主義を駆動させるユートピア的錯覚)を抱くのは難しいだろう。

それだけではない。例えば非正規で車の部品の製造に携わっていたとする。しかしそこで幾ら努力して部品を早く上手く作ったところで、それによって給料が上がるわけではない。むしろ一個辺りの単価がどんどん下がっていくだけでしかない。それ以前に、そもそも車が売れなければ幾ら作っても無駄なだけだ。もちろんそんな技能を幾ら磨いたところで地位が向上することも一切ない。そこはただひたすら消耗していくだけの場所なのだ。つまり資本主義だと言いながら、そういう場所には資本主義的インセンティブが一切ない。

かといってそういう場所にいる人間が他でもっとましなポジションを獲得できるという希望を抱けるような状況でもないだろう。

つまり所得だけでなく、資本主義のメカニズムそのものにも格差が生じている。資本主義を駆動させるための――努力すれば地位も向上するはずというような――錯覚を多くの者が抱けなくなってきている。それが問題となって表われてきているわけだ。そしてそれは資本主義を回すエンジンの欠陥問題なのだから、資本主義的立場を取るならば尚更真摯に向き合わなければならない。

その問題を「個人の努力の問題」に矮小化してしまうのは余りにも無思慮だろう。そもそも結果を努力で測れないことは少しでも努力について考えれば直ぐに分かるはずのことだ。つまり努力解釈的観点から見ると、努力解釈が存在できるのは考える努力をしない者がいるおかげであると言える。

もちろん実際は、努力解釈の欠陥について考えをめぐらす必要が全くない人生を送って来た人間がある程度いるからこそそういう説が存在し続けているだけの話なのだが。

併合されたことを祝わないのは当然だし、「いつの間にか国になっていた」の方が日本的

建国の日「知っている」は2割未満、米国・中国は9割超 ... - 産経ニュース

日本が建国された日を知っている日本人は2割未満-。若手経営者らでつくる日本青年会議所(日本JC)が11日の建国記念の日を前に、建国に関する意識調査を行ったところ、そんな結果が出た。国内在住の外国人は中国で100%、米国やカナダで9割超が「自国の建国・独立の日」を正しく答えており、日本人の建国に対する意識の低さが鮮明に浮かび上がった。(中略)

日本JC国史会議議長の棟久裕文(むねひさ・ひろふみ)氏は「日本では自国を誇りに思いながら、建国は知らないという矛盾した状況になっている。グローバル社会に向け、義務教育段階から建国を含めた国史教育を充実させていく必要がある」と話している。

■日本建国の日

 明治新政府が天皇中心の近代国家建設を目指し、明治6年、日本書紀により初代天皇の神武天皇が即位したとされる2月11日を「紀元節」と定め「建国の日」とした。紀元節は先の大戦後に廃止させられたが、国民の強い要望を受け、昭和41年の祝日法改正で「建国記念の日」として復活。ほかの国では植民地からの独立や革命の記念日を建国の日としているケースが多い。

建国記念の日は建国した日ではないし、日本は具体的設立としての建国なんてないんだから知っていると言う方がおかしい。ここでは神話(というか日本書紀上における神武天皇の即位※1)を建国の根拠としているが、その神話は全ての日本人が共有しているものではない。

そもそも日本書紀上から搾り出した「建国」時、其々は単に地方の民でしかなく、自分が日本国民だなどと誰も思っていなかったはずだ。それに神話と言えば聞こえは良いが、史実の領域に事実として持ち込むとなるとそれは単なる虚妄になってしまう。また日本書紀は政治的性質が強すぎる書物のため、神話として見ても訴求力が落ちてしまうという問題もある。

さらに日本において建国を祝おうとする雰囲気が余り盛り上がりにくいもう一つの理由として、他国との建国の経緯の違いが挙げられる。「植民地からの独立や革命の記念日」ならまあ祝うのも分かるが、日本の場合は逆に其々の地方(国)が力ずくで権力の支配下に置かれ、いつのまにか一つの国にされていたわけだから、それを祝うのはむしろ(歴史的経緯から見ると)奴隷道徳的であるとさえ言える。

祝いたいから祝うのと脅されたり命令されたりして祝うのは全く意味が異なってくる。日本の場合建国を祝うのはその経緯からいって後者の意味合いが強くなる。「紀元節」にしても明治政府が国民統制という政治目的で制定したのは明らかだし、引用記事での押し付け提案も後者の意味合いを補強するものとなっている。

またツイッター上においてアンケートで「知らない」と答えた者を白痴と言って馬鹿にするようなコメントがRTを伸ばしていたが、これもまたそのよい例だろう。というのもそういったコメントは、馬鹿にされたくなかったらこの主張に同意せよ、というような脅しを用いずにそれが受け入れられることはないという前提あってこそのものだからだ。それは同胞への呼びかけというより、敵対勢力への要求に近い。つまりこれによって建国を祝うことがその勢力の脅し(テロ)に屈することになってしまうわけだ。

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「日本は極めて同質的な国」と言った政治家がいるが、実際のところ日本人は元々共有する国家観や原理原則、理念、宗教など端から持ち合わせておらず、ただ地方の雑多な民がいつの間にか国民となったにすぎない。だからまとまりを得るための軸がないし、「メシウマ」や「自己責任」に象徴されるように余り同胞意識もない。

他国では部族や人種、宗教、理念など何らかの軸を介してぶつかり合うことが多いが、そういった明確な軸がないからと言って衝突が起こらないわけではない。それはネットや学校、職場、地域社会などで日々起こっている諍いを見ても明らかだろう。そしてこれは歴史的経緯から見ると、日本になる前から其々が抱えていた敵対勢力としての性質が未だ失われていない、と見ることもできる(実際は「人間だから」争い合っているだけかもしれないが)。

思えばアメリカと戦争をする時も、為政者は自国内の勢力を統率することができずその場しのぎの内向き政策を採っていたらいつの間にかもう引き返せないところまでやって来ていて、もう仕方がないからということでなし崩し的にそれに突入していくことになった。同じように建国に関しても、何らかの理由を元にした具体的な設立があったわけではなく、いつの間にかそうなっていたというのが事実だろう。

要するに軸が無いが故の表層的画一性とは裏腹のこういった民のまとまりの無さ、共有する理念や原理原則の無さ、その結果としての、例えば「いつの間にか何となく国になっていた」みたいなものこそが日本を特徴づける大きな要因となっている(そしてこのように捉えると併合という意味合いも薄まる)。

即ち(「私にとっての日本」ではなく共有物としての)日本における愛国とはこういった事実を受け入れた上でそれを愛せるかどうかでもあるわけだ。その意味で言えば引用記事にあるような主張は全く非日本的・非愛国的であり、「日本を取り戻す(保守)」というよりは、むしろ今までなかった新たな歴史で古きを刷新しようとする動きと見た方が妥当だろう(自国の文化を否定し、中国やカナダやアメリカを見習え、と言っているわけだし)。



※1 ウィキペディア「紀元節」によると日本書紀による神武天皇(実在の人物とはみなさないのが一般的)の即位日は旧暦(太陰太陽暦:天保暦)の1月1日であり、それを明治政府が新暦の1月29日に置き換え紀元とした。しかし「旧正月を祝う祝日との誤解が国民のあいだに広まった」(誰も神話を共有していなかったということだろう)ことや孝明天皇の命日に近いなどの不都合があったため、日付を2月11日に定めなおした。尚且つその「2月11日という日付は、文部省天文局が算出し、暦学者の塚本明毅が審査して決定した。その具体的な計算方法は明らかにされていない」とのこと。

こんなこじつけ村おこしみたいな経緯で定められた「建国の日」で盛り上がれと言うこと自体に無理がある。それよりも「いつの間にか国になった珍しい国」ということを強調した上で「建国記念の日」として押した方がまだ盛り上がりの目があるのではないか。それなら少なくとも特定の神話を史実として扱うことを要求する勢力のテロに屈する必要はなくなるわけだし。

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Author:後正面
ひきこもりという役割を引き受け
ざるを得なかった一人として
人間について考えてみる。
でも、本当はただの断末魔ブログ。

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